あるいは 露骨な我田引水
この解説文のβ版については、細々と続いている「ロージナ茶会」のメンバーの学生諸君および数人の友人・知人にチェックをお願いし、有益な指摘を多数いただきました。とても感謝感激です。ありがとうございました。もちろん、この文章中にある間違いや誤解は、私が責任を負うべきところです。
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0 はじめに11月の末のある日、職場のロッカーの中に分厚い書籍小包がはいってた。 山形浩生さんからの贈本でした。「ああ、 すこしまえから翻訳されてた The Future of Ideas が出たんだな」 と感謝しつつ梱包を解き、少しずつ読みはじめました。 大学で「現代社会と法律学」とか「情報法」とか教えている私は、 一年間の講義計画にそって講義を進めています。ちょうど11月末ころは、 不法行為法における損害賠償関連の話や、 刑事法分野におけるプライバシー関連の話をしているところで、『コモンズ』 が取り扱っている知的財産分野の話とはちがうことをやっていました。そのうえ、 今度は「訳者あとがき」の方を先に読んだために、「こりゃ、 先にプライバシー関連のちゃんとした文章を書いて、 Webで公開しないといけないなぁ」とか思っておりました。 そういう状況でしたから、私は『コモンズ』 を空き時間をみつけて細切れに少しずつ読んでいたわけです。ところが読んでいて 「なんか読みすすめづらいなぁ」と気がつきました。めまぐるしく話の 「層 (レイヤー)」が切り替わります。そしてそれらの話を理解するためには、 インターネット関連の知識、工学分野の知識、法律の知識、英米法の知識、 そして実に奇妙奇天烈不可解な知的財産権法の知識、 業界の裏話の知識が要求されていたからです。おまけに
「なげーよ。」『コモンズ』を読んでいて、「ああ、してやられた」と思う一方で、 「レッシグ先生にこうした本を書いてもらってよかったなぁ」と思いました。 レッシグ先生が指摘している知的財産権の暴走については、 私もおなじ問題意識で批判していたわけですが、私のようなドキュソ教員には、 正面攻撃を仕掛けるだけの力がありません。筆名で『コモンズ』 と類似した内容のエッセイを昨年の正月くらいに発表してたりするんですけど。 そういう意味で、クヤシイ作品でありながらアリガタイ作品とも言えるでしょう。 さて、インターネットの掲示板など見ていますと、 私なんかよりも先に読破した人たちからのコメントが出てます。 信じられませんでした。私は、 大学の先生を何年もやっているうちに自分の頭が悪くなったのではないか、 とマジで心配したりしていました。で、一応、なんとか最後まで読んだのですが、
「よくわからんなぁ。」と思ったわけです。さて、 大学の講義もほぼ終わった12月の末になってもう一度通して読み直すことにしました。 で、ようやく理解しました。『コモンズ』は、アメリカの憲法、 アメリカの知的財産権法、アメリカのインターネット状況、 アメリカのメディア産業の状況に依存して語られているわけで、 レッシグ先生が一生懸命いろんな事例を挙げながら説明しようとしていても、 日本の読者にはそれらの事例がかえって目眩ましになってしまっていることに気がつ きました。 さらに、これはもう仕方がないのですが、 翻訳者の山形さんがいかにスーパー知識人であったとしても、 先に掲げた各分野の知識を備えて正確に訳すことは不可能なわけで、 法律分野の訳語にヘンテコなところがあるのも事実。ですから、 おそらくインターネットの専門家や、 工学の専門家からみてもヘンテコな訳があるだろうと推測するわけです。もちろん、 これだけ目眩くような広範囲な知識を要求する本を、 これだけ短期間に訳すことのできる彼の天才に感服すべきですが。先の『CODE』 にしてもそうなんですけど、もし私が原著『The Future of Ideas』 を読んでたとしたら、途中で投げ出して、14章くらいをチャッチャと読んで、 読んだことにしてしまうこと請け合いです。
大学院生レベルでも『コモンズ』で語られている内容をちゃんと理解できない。アメリカ人にも、ほんとに分かっているのかは謎。日本では、出版社(翔泳社) の関係からか、『コモンズ』はコンピュータ関連書の棚に置かれたりして、おそらく、 この本を手に取るのは、(1)社会的な問題にも関心のあるコンピュータ工学系の人、 あるいは(2)コンピュータのことがある程度わかってる法学・社会学系の人、 だと思う。でも、そうした人たちの少なさと、 そうした人たちにさえ不可避な専門外の知識の不足は、 私の経験からして絶望的なものがある。そこで、情報時代の 「幕府に楯突かない吉田松陰」を狙う私にできることといえば、 ある程度の根性があれば、『コモンズ』 で語られている内容をよりよく理解できるようになるためのお手伝いをすることくら い。 幸い、私がこれまでWebで公開してきた文章がその解説につながってたりするんで、 そこへのリンクを示すことを中心とすれば私もそれほど負担にならないでしょう。 あと、この『コメント』への批判罵倒を募集しています。 shirata1992@mercury.ne.jpへどうぞ。
1 日本語版への序文
p. 8 「日本は私が本書で論じた問題の多くを扱うにあたり、賢明にも即断を下さなかった。 アメリカよりも、高速で安いブロードバンドアクセスを普及させるのに成功してきた。 日本が今後数年で直面する多くの知的財産の問題について、 私としては本書がもっとバランスのとれた議論を行う一助となることを祈るばかりだ」 当然、皮肉なんだろうと思っているんだけど。まず、レッシグ先生のいう 「ブロードバンドアクセス」が xDSLのことなのは、『コモンズ』 後半においてxDSL技術が中立なアクセスラインの代表例として賞賛されていることか らも明らか。で、日本においてxDSLが普及した理由は、 ケーブルTV事業についてアメリカ以上に厳しい法的規制や経済的規制があって、 ケーブルTV事業が成長しなかったため。日本政府が賢明だったわけじゃない。 さらに、知的財産や電波帯域の解放など『コモンズ』 で取り扱われている諸問題にしても、 単に関係者の利害が錯綜していて日本政府の意思決定が遅かっただけのことで、 これまた賢明さの結果じゃない。 そして日本の利害関係者たちの描いている理想のネットワークが、 レッシグ先生の懸念する以上の「完璧なコントロールの夢」を描いていることは、 日本人なら誰でも知っているはず。一般新聞記事でも読んでればすぐにわかる。 だから、 日本が知的財産権の問題について レッシグ先生が期待するような結果に貢献できる とはとても思えない。もし、レッシグ先生が『コモンズ』の代表例としてコミケ (w を想定しているのなら、それは脱法領域・遊戯領域(祝祭としての「ハレ」) の話であって、日本の法運用の曖昧さから生じる「隙間」の話でしかない。
2 構成部品: 「コモンズ」と「層」
p. 39 レッシグ先生は「コモンズ」という概念と「層」の概念を『コモンズ』 のなかで基本としている。で、レッシグ先生は、私の定義する「ハッカー」 だといえましょう。これについては、『「グリゴリの捕縛」に関する公開往復書簡』を参照してほしい。 ここで私は、「思考の枠組みにコンピュータ・システム的ものの考え方、 コンピュータ運用上の概念の援用」が採用されるというシナリオが、 ハッカー的であることだと私は考えています。」と指摘している。 レッシグ先生の「思考の枠組み」はコンピュータ工学的で、それがゆえに、 ピュア法律家[*]の発想とは馴染みにくい。でも、ハッカー的な人であれば、 とてもスッキリと納得できる議論になっているはず。また、 法律家の発想と馴染みにくいもう一つの理由として、 経済学的考察を法的考察に取り入れる「法と経済学」が、 日本においてはいまだに日陰の存在扱いされていることにもある。 哲学と解釈学を基礎に据えた法学が馴染む分野と、 馴染まない分野があることに早く気がついてもらいたいものだと思う。 「層」を基本にすえた情報流通システムについては、私も書いている。 『 「包括メディア産業法」への私案 』 のPart 1でも読んでみてほしい。私の主張と、 レッシグ先生の主張の要点はほとんど同じことに気がつかれると思う。
[*] アメリカの法律家は、大学学部時代にそれぞれ経済学、心理学、 工学などさまざまな専門教育を受けた上で、さらに大学院レベルであるロー・ スクールで法学教育を受ける。ところが日本の法律家は、高校を卒業すると、 右も左も分からないうちから法解釈学を仕込まれ、 さらには司法試験でテクニカルな法の運用に集中して勉強する。 視野を広げた勉強ができるのは、大学院に入ってからというのが現状。 もうすぐ日本版ロー・スクールなるものができるらしいんだけど、 それが結局 大学院の司法試験予備校化であるなら、 さらに状況が悪化すること請け合い。 『法と法則』 でも読んでみてください。 p. 41 「公共圏 (パブリックドメイン)」 アメリカでは法律用語として定義されるもので、概念は明確。 1989年までのアメリカでは、 著作権法による保護を主張しない作品についてはパブリック・ ドメインにあるものと考えてOKだった。一方、日本の著作権法には、そもそもこの 「パブリック・ドメイン(公的領域)」の概念がない。単に、 著作権法の保護が及ばないと判断される作品と保護が満了した作品がそこにあるだけ。 では、それらはアメリカでいうパブリック・ ドメインにある作品だといえるのかについては、 否定的な見解が日本の著作権学界では主流。『ハッカー倫理と情報公開・プライバシー 』 にもごく簡単に記述あり。
3 電線上のコモンズKatie Hafner、Matthew Lyon 著、加地 永都子、 道田 豪 訳 『インターネットの起源』 (ASCII, 2000年) を読むとこの章で語られている内容がよく理解できる。あと、私の書いた 『 「包括メディア産業法」への私案 』の Part 2 「メディア小史」を読んでもらうと、AT&Tという会社の様子がなんとなくわかると思う。できれば、山口 一臣 『アメリカ電気通信産業発展史』(同文舘出版, 1994) を読んでもらうとなおいい。
p. 62
「ネットワーク設計の原理が、公共政策の問題にそんなに影響があるとは、
なかなか思えないかもしれない」
「システムがどう設計されるかは、
そのシステムが可能にする自由やコントロールに影響する。
そしてインターネットがどう設計されたかは、
それが可能にした自由やコントロールに密接に影響した」
これは、レッシグ先生の『CODE』を読めば言わんとするところがよくわかるはず。 これにつづいて p. 62 「インターネット上で花開くイノベーションの源泉を理解するには、 インターネットのもともとの設計についてある程度理解が必要だということだ。 そしてさらに重要なこととして、このもとのアーキテクチャに対する変更が、 ここでのイノベーションの範囲にも影響を与えかねないということを理解しなければ ならない」 という部分が『コモンズ』の中核を予告するものとなる。 これを感覚的に理解するためには、 初期のインターネットや初期のパソコン通信のコミュニティに参加していたことが必 要なんじゃないかなぁ、と私は思う。ネットワーク・コミュニティのなかで、 ソフトウェアがものすごい勢いで磨かれて完成していく。 そうした状況にリアルタイムで参加していた、 私のようなヲタクならすぐに納得できる。でも、そういう経験がなければ、 レッシグ先生のいうイノベーションの力を実感できないんじゃないだろうか。 ケータイがネットワーク端末として普及している現在の日本では、 ネットワーク利用者の大多数が単なる「消費者」にすぎないわけで (これについては 『消費者という断絶 』 でも読んでみて)、そういう人たちには、 上記のようなイノベーションを実感する場面はありえない。所詮、 彼らはケータイ会社によって選択的に提供されるサービスを受け入れるだけだから。 それゆえ、ケータイ世代の大学生たちには『コモンズ』は理解されないかもしれない。
p. 66
「技術的には、もし何か中央集権化したコントロール地点を持っていたら、
それはすぐにボトルネックになってウェブの成長を制約し、
ウェブがスケールアップすることはないだろう」
p. 67
「賢い、インテリジェントなネットワークは、
ある種の利用者には最適化されるけれど、でもそれが高度化されているが故に、
最初は想定していなかった別のまたは新しい利用者を拒んでしまう」
p. 69
「特に未来がよくわからないとき...不確実性の世界においては可塑性...
が最適なのだ」
「ケータイとセキュアな[*]インターネットで、 日本の次世代ネットワークは世界一ィィィィィィィィ!」と叫んでいるオジさんたちは、 それがイノベーションを生み出したフリーなインターネットとはまったく別物である ことを理解しているのかしら? 競争力のある日本を作るためには、日本人を「消費者」の立場から「創造者」 の立場にすすめることが必要だと思うのだけど。 『従属者としての幸福について』、 『きれいな舞台と汚い現実』でも読んでもらうと私の「歯がゆさ」がわかっていただけるかと。
[*] この「セキュアな」「安全な」という言葉。 「コードが公開された暗号システムによって通信の安全性を向上させた」 という意味なら結構だが、それが「監視機能や機能制限つき」 という言葉の言い換えの場合が多いということに注意。少し前に流行った 「著作権保護機能付き」のセキュアなデジタル・オーディオ・ プレイヤーや専用メモリ。あたかも「高度な付加機能」 みたいにメーカーのカタログに記載されていたけど、利用者にとっては単なる「制限」 でしかない。さすがに日本の「わかってる」消費者は騙されなかったみたいで、 韓国製や台湾製の「フリー」 なプレイヤーが日本市場で一般に認知されるきっかけを作った。
4 ワイアードされた者たちのコモンズ
p. 86 「これらのコモンズのそれぞれが可能になったのは、... ある特定の文化のおかげもある。つまり、まずこの世界を定義づけた規範と、 コードの持つ性質との利用法がある。本性での私のねらいは... コンテンツ層で自由の層を作り出したかをみることだ」 これを理解するのはやっぱり Steven Levy 著、古橋 芳恵、 松田 信子 訳 『ハッカーズ』 (工学社, 1987) を読まなければダメでしょう。 ここで掲げられている「特定の文化」および「この世界を定義づけた規範」 はわたしが「ハッカー倫理」として捕らえているもの。ハッカー倫理については、 『ハッカー倫理と情報公開・プライバシー 』 をとりあえず読んでみてほしい。 この「ハッカー倫理」が一般化することについては、相当な疑問が寄せられている。 たとえば『「グリゴリの捕縛」にかんする公開往復書簡』 でも読んでみてください。むしろ、私の主張は「ハッカー倫理」 を一般化するような教育政策が望まれる、というもの。 『グリゴリの捕縛』の「4. 情報時代の基本権について考えてみましょう」あたりを読んでほしい。 「公開往復書簡」では、「ハッカー倫理」がアメリカン・ ナショナリズムではないのか、という疑問が提示されている。でも、この『コモンズ』 を読むとわかってもらえると思うけど、アメリカの「伝統的な論理≒ナショナリズム」 というものは一枚板ではない。「ハッカー倫理」は、 基本的に政府をあてにしておらず、さらに言えば疑っていた「大草原の小さな家」 的時代の「古きよきアメリカ」、イギリスから独立するときの大義を奉じていた 「古きよきアメリカ」に根ざしているんだと思う。 『コモンズ』翻訳にも協力していたらしい katoktさんの訳した「独立宣言」でも読んでみて。 レッシグ先生が自らの主張を補強するときに、ジェファーソンを持ち出すのも、この 「大義」を基礎に据えようとしているからだ。そしてその「大義」 がまだ単なるお題目になっていないところが、 アメリカの健全性の最後のよりどころなんだと思う。
p. 88 このあたりで記述されているAT&TとUNIXとの関係について、 私は大学生時代に一橋大学地学研究室に置かれていたUNIXマガジンかなんかの記事で 読んだと記憶している。なにか良い文献があれば教えてください。 記憶が確かなら、 AT&TがUNIXを自社製品として囲い込もうとする動きに対抗して、 バークレイあたりが動いていた時期の後期に、UNIX (正確には NEWS OS) に触れていたような... このときのUNIXとの出会いが、 私の研究の基本的な方向付けとなったように、今にしてみれば思う。 当時 admin だった川越君、ありがとう。
[山根さん]: それらしいUNIX Magazineの記事は,目次検索では見つかりませんでした. [pigeon さん]: 「AT&TとUNIXとの関係」については、前にネットで見たことがあったので探してみました。Web上で見れる、すずきひろのぶさんの「OS誕生からLinuxまでの歴史」よりも詳しく書いてあったので、一応送ってみることにしました。他は探してないのでもっと良いモノがあるかもしれません^^; p. 100 GPLはOSDに比較して「自由を制約」する「ウィルス的な感染力をもつライセンスだ」 という批判があるようだ。でも『コモンズ』の内容が理解できるひとなら、 GPLがまさに自由の領域である『コモンズ』 を拡大するように設計されていることが理解できると思う。したがってGPLが 「自由を制約」するという批判は的外れだといえることにも同意してくれると思う。 GPLが「コードを囲い込む自由」を制約しているのは事実だけれど、 「コードを囲い込む自由」が果たして根拠のある自由なのかどうかは、まあ、 これから論争してみましょうよ。
pp. 113, 114
「オープンソースプロジェクトは競合システムをつぶしたりできない。
競合システムは、自由にそのオープンソースシステムを持っていって反撃できる。
つまりオープンソースプロジェクトのソースコードは、
プロジェクトの権力にチェックを入れることになる。
そのプラットホーム用に書かれる何かを排除する形で戦略的に振舞うというプロジェ
クトの力を制限するものだ」
「これはコードにもたらされた民主主義だ。オープンコードのシステムは、
利用者の意思からあまり逸脱することができない。...そしてこれはつまり、
プラットホームは自分自身に対して戦略的に行動できないということだ」
これについては、山形さんが訳した、Eric S. Raymond『伽藍とバザール』を読んでみてほしい。
p. 115 「リチャード・ストールマンが述べたように、 「われわれは実際にフリーソフトをたくさん開発している。 もし理論がそんなことはありえないと述べているなら、 その理論のほうに間違いを探すべきだ」。 こうしたコード書きが行われているという事実は、 コード作者たちがまったく別の理由でオープンコードプロジェクトに参加しているに ちがいないということだ。この現実はつまり、 個人がコードを書くインセンティブとして、 コードをコントロールする力は必要ないということだ」 やっぱり山形さんが訳した、Eric S. Raymond 『ノウアスフィアの開墾』 でも読んでみてください。同様に、私たちが小説を書いたり、 自分の曲を作曲したりするところにも作品をコントロールする力はインセンティヴに なっていない。どちらかといえば、 自分の作品がひろくみんなに読まれたり歌われたりしたほうが嬉しくないですか? p. 119 「初期のイギリス王室は、 数々の普通の投資を国が支援する独占を通じて保護していた」 これについては「イギリス初期独占」にかんする研究を読まないと話が通じない。 私もいずれはそこについてちゃんとやろうと思っているのだけど、 その時間がないので 『コピーライトの史的展開』 を書くときに研究した内容の記憶で解説。ウソがあったら指摘してください。 『コピーライトの史的展開(1)』 『コピーライトの史的展開(2)』 も参照してくれると嬉しい。 12-14世紀頃のイングランドは、輸出品といえば羊毛・ 毛織物くらいしかない遅れた貧しい国だった。 このころの世界最大の文明国はイタリアあたり。そこで、 優れたものや良いものはたいていイタリアあたりからの輸入品だった。 そうした優れたものを輸入するにあたって、今みたいにDHLで 「サッと翌日に配達完了!」というようなことはない。まあ、 イタリアからイングランドだと、海路は基本的に穏やかな地中海航路を使えるし、 陸路だって使えた。 ノルマンディあたりにはまだプランタジネット王家の領土が確か残ってたはずだし、 ドーヴァー海峡は向こう側が見えてるくらい狭い。それでも、 物品を輸入してくることは、 今の私たちの感覚では理解できないほど大変な仕事だった。 この頃のイングランド最大の輸入品って、 確か大陸産のワインだったように記憶してる。 で、もう一つ。中世の社会観では、人の身分や職業(というか身分≒職業なんだけど) は、神の定めた摂理によって割り当てられたものだった。であるから職業は、 その人の自然的既得権だった。この発想からギルド制が正当化される。 各種の生産物やサービスは、 それぞれの職業団体によって独占的に供給されるのが当然視されていた。とはいえ、 この独占は緩やかなものだったし、 どちらかと言えば業界秩序や品質の維持が主たる目的だった。さらにいえば、 庶民が必要とする日用品は、自給自足に近かったわけで、 この独占が直接に庶民の生活に影響することは少なかった。 さて、輸入品は基本的に贅沢品であり、かつ国内で生産できない品であるわけだから、 これを扱う独占権を輸入業者に付与しても既存の国内産業には差し支えない。 だからイングランド王室は開封勅許状 (letter patent)を用いて、輸入独占 (importation franchise)を業者に与えた。 独占利益は輸入業務に付随するリスクを補うものになっていたわけ。そもそも、 関税権・貿易許可権は国家の基本的な権能だったし。 この「letter patent」という言葉は、通常の勅許状(letter) が国王から誰かに宛てられる文書を意味していたのに対して、特権の付与など 「公に影響する事柄」について書かれた文書であり、 そうした公への周知が必要だったため「公開・開封 (patent)」だったわけ。 この開封勅許状による特権の付与は、ほかに、たとえば「テムズ川に橋をかけよう」 とか、「エジンバラまでの道路を整備しよう」など、 国王が公共事業として行うべき仕事を誰かに任せてしまう場合にも使われた。もし、 公共事業としてやろうとすると、国庫(国王のポケットマネー) や貴族の私費でやることになるけど、そんな金は貧乏なイングランド王室にはない。 ノルマンディあたりの領土維持・回復やら、 スペインとの貿易からみの戦争やらで戦費にも困ってたわけだから。 そこで、たとえば「おお! ロンドンの商工組合たちはテムズ川に橋をかけたいとな。 それはなんと良いことよ。それでは、その建設費をまかなうために、 20年間通行料を取る特権を与えよう。皆の者、 かれらが徴収する通行料は国王が認めたものぞ!」とやったわけ。 そうすれば王様はポケットが痛まないし、 橋をかけたいと思った人たちにもインセンティヴができる。 費用は広くその橋を利用する利用者が負担することになる。この手は広く使われた。 さて、15世紀頃になるとイギリスも海賊業や羊さんたちに依存していてはダメだ、 ということで進んだ大陸諸国から職人を誘致して国内産業を起こそうとした。 このときにも開封勅許状が使われた。 王室が誘致費用を支払って職人に来てもらうとポケットが痛む。そこで、 「イングランドに移住してガラス工芸をやってくれるなら、 21年間営業独占権をあたえるよ」とか 「イングランドに移住して印刷業をやってくれるなら、 30年間営業独占権をあたえるよ」と呼びかけて、応じて移住してきた職人に対して、 開封勅許状で営業独占をあたえたわけ。ちなみに、 7の倍数がよく特権の付与に用いられる理由は、 ギルドの徒弟期間が7年と定められていたからだという説がある。 ところが16世紀末から17世紀始め頃になると、 開封勅許状による特権付与が乱発されるようになる。だって、 王様は一筆書くだけでいいのに対して、 独占利益は特権を与えられた人の莫大な富となるから。費用負担者は一般の庶民だし。 そこで貴族に対する単なる恩寵として特権が付与されるようになった。 そしてついに、 パンだのエールだのといった日常品にまでどこかの貴族が特権を主張し、 伝統的なギルドの営業権を犯すようになってきた。 やがて高騰する日常品の価格にムカついたイングランド臣民は1600年ころから 「反独占 (anti-monopoly)」運動を開始し、暴動を起こしたりするようになった。 そこで、ジェイムズ 1世は、1623年に「独占法 (Statute of Monopoly)」を発布して、 それまで乱発されていた特権を(嫌々)停止することにした。ただし、 特権付与による産業育成効果は無視できなかったので、(1) 国内に存在しない産業を新たに誘致する場合、あるいは (2) 国内に存在しなかった新産業のネタとなるような発明を実施する場合、については、 letter patentによる独占付与を14年間あるいは21年間に限って認めましょう、 とした。これなら、いずれも既存の市場が存在しないわけだから、 この特権付与によって被害をこうむる人はいない。 そして新産業立ち上げのリスクを取って事業化に成功した人には14年間あるいは21年 間の独占利益が保証されることになるわけだ。この「独占法」 が実は世界最初の成文特許法と言われている。 独占法では「王国内での発明」(外国で他の人が発明したものでも、 国内に最初に持ち込めば、持ち込んだ人が inventor) が独占権付与の条件とされたから、ある技術や産物が「発明」 かどうかが問題にされるようになったというわけ。ここで大事なことは仮に「発明」 だったとしても、国内産業に貢献しないようなものや、単に発明しただけで 「実施しなかった」人には特権は付与されなかったということ。 あくまでも産業振興策なんだから。 このように、実は世界最初の特許法は「むやみやたらな独占付与の禁止法」 としてスタートしたことを皆さんに知っておいてもらいたい。もちろん、 copyright というのもこの営業独占からスタートしたことは言うまでもない。 『コピーライトの史的展開(3)』 の冒頭あたりを参照してほしい。 もう一つ付言しておけば「特許(patent)」はもともと独占付与に関する「国家の権利」 であり、発明者に与えられる「私的な財産権」ではないことに注意。しかも、 最初は発明それ自体ではなく、 あくまでも新産業立ち上げのインセンティヴとして容認されたものであることに注意。 このような歴史を知れば、レッシグ先生が「著作権」や「特許」の保護について、 産業政策的な検討、経済研究をすべきであると主張する理由がわかるだろう。
5 無線なしのコモンズ
p. 124 「現代民主主義の鉄則として、規制者をつくったら、 その規制者は影響を及ぼすべき標的となって、影響をおよぼすべき標的ができたら、 影響力を一番与えやすい立場にいるものは、その標的に圧力を集中する」 言わずとしれたロビイストのことについて言及している。 規制から便益を受けている人たちを既得権者と呼べば、既得権者は、 その規制から発生している現在の利益および将来の予想利益の総額まで費やして規制 を維持・強化しようとする。費用が投入される先である規制者の数が少なければ、 その莫大な額が少数者に投入されることになる。 これが汚職だのなんだのを生み出す経済学的な仕組み。 私だって目の前に1億円くらい積まれれば、たいていのことはOKしちゃう。だから、 汚職防止は公務員の倫理の問題じゃないんだ。 レッシグ先生はこのような観点から、 そもそもロビイストたちの標的になるような人たちが存在しないか、 あるいはあまりにも多人数であるため、 ロビイ活動のコストが禁止的に莫大になるような仕組みを提案しているわけだ。 これぞ本質的解決法。
p. 125 「その物理的な特性のため、無線はほかの情報伝達手段とはちがって、 政府によって規制し割り当てられなくてはならない。さもなければ混乱が生じて、 無線の有用性の相当部分が失われてしまうからだ」 『情報時代における言論・ 表現の自由』 の第4章あたりを読んでほしい。私は、 そこでは規制の根拠となっている考え方や法理について説明するに留めている。 だから、「ああ、 こういうちゃんとした理由があって通信や放送は規制されているんだなぁ」 と単純に感心しないでほしい。私が敢えて書かなかったことは、 「それらの規制の根拠が新技術によって失われているのだから、 規制そのものについて見直す必要がある」ということ。 レッシグ先生は『コモンズ』では、 新しい通信技術によって電波帯域が伝達しうる情報量がほぼ無限に拡大することを繰 り返し強調している。ゆえに、 電波帯域における規制根拠が失われていると彼は主張してるわけだ。
6 コモンズの教訓
pp. 142--143 「わたしたちの法的ドクトリンは、 ある種の財産は排他的な形で個人の手に握られるべきではなく、 公共に解放されるべきだと強く示唆はしているけれど、 いまわれわれが生きている時代の支配的な見方は、 「全世界は民間所有者に分割されたときに最高の管理が行われる」というものだ。」 「全世界は...最高の管理が行われる」というのは古典派経済学の典型的なモデル。 私のいいかげんな記憶が確かなら、アダム・スミスが元祖。で、 このモデルが提唱されたときのことを考えないといけない。アダム・ スミスがこういうことを言い出したとき、 イギリスにおける所有権はすごいことになっていた。 ちなみに、イングランド法(common law)では、所有権 (property あるいは hold) とは基本的に土地所有権のことを指す。とはいえ、 私たちが言うような意味での所有権(ownership)では全然なく、 ある土地やモノに対する法的地位・権原(title)あるいは正当性(legitimacy) の妥当性(proper)のことを意味しているに過ぎない。だから、 私たちが言う所有権に比べれば排他性が圧倒的に弱い。 さて、その所有の様式は、封建的土地所有というんだけど、 法律的には全国土は王様のもの。 その王様の土地にさまざまな権原が重層的に設定される。これが「封 (feu)」。 だから、 ある土地を売買するなんていうのはとても困難だった。 その土地に設定されている各種の権利を整理して、 さまざまな権利設定をやり直さなければならなかったからだ。 イングランドの法曹は20世紀初めまで、 この複雑な土地所有システムでメシを食っていたとまでいわれている。まさに、 レッシグ先生のいう 反コモンズ (anti-commons) の典型。まあ、 逆にいえばそのおかげで古い建築物や景観が守られたという副次的効果が出たわけだ けど。 だから、市場主義者のアダム・スミスにしてみれば、 資源の最適配分を実現する市場が機能的に動作するためには、 封建的所有を打破して近代的所有にしなければならなかったわけ。 そういう文脈において、上記の文章の意味を考えないと 「だから市場主義者はだめなんだ」という議論になりかねない。 ちなみに、私は市場主義者。人間が適当に按配するよりも、 市場に任せたほうがはるかにマシだと思ってる。ただし、現在の市場は「金、カネ、 かね」という金銭欲のみに駆動されているために、 いろいろな問題が生じているんだと思っている。ある財の価値を貨幣価値ではない 「総合的な指標」で評価し、市場取引をすれば「市場の失敗」 とされるような現象はずいぶん緩和されると信じている。 そのために情報システムは貢献できるんだと思ってる。 『消費者という断絶』 でも読んでみてほしい。
p. 146 「リソースにはっきりした用途があるなら、... そのリソースが確実にその最高最良の使われ方に供されるようにすることだ。 この目的を達成するには財産システムを使える。... でもリソースの使い方にはっきりしたオプションがなければ... それをコモンズに残しておく理由が大きくなる。そうすれば... それをコモンズに残しておく理由が大きくなる。... リソースの使われ方がわからないというのは、 それを多くの人に提供する理由として優れている。」 古典派経済学のモデルは「静的モデル」。資源の配分が終了すると、 最適化された配分は固定化され永続する。新しいものは入ってこない世界。 言い換えれば、ある財がどのように配分されれば最適なのかが「わかっている」 世界だ。ところが、ある財の最適な配分が不明な場合、 古典派経済学の市場は配分を行えない。 すくなくとも配分の時点でわかっている価値でしか評価できない。あたりまえだ。 まして、将来現れるだろう価値については配分時に考慮できるはずもない。 『「包括メディア産業法」への私案 』の 「4 制度設計の要点」の前半で、私が書いた「第二の発明」が、ここでいう 「あるリソース」について「はっきりした用途」 が判明した時点と対比し得るんじゃないかと思う。
p. 149
「プラットホームが中立的なままなら、
合理的な企業は自分の選んだ道から利益を絞りつづけるけど、
競合他社はそのプラットホームを使ってまったくちがったビジネスモデルに賭ける機
会が確実に得られる。」
p. 150
「つまりなにか独占権限をもっている企業や個人 --- は、
新技術が社会的価値を増やすかもしれないことを十分に理解している。
でも巨人はまた、
自分がこの社会的価値の増加を自分が手にする方法がないことも認識している。
増加分を入手できないし、また自分のレントを失うことがわかっているので、
悪意ある巨人は自分の力を温存する手段として、
この技術的変化に抵抗するように動く。」
このあたりが『「包括メディア産業法」への私案』の 「4 制度設計の要点」の後半とからむ。
p. 152 「抗議が行われる場所 --- 市の公会堂や市の市場、 あるいはアメリカ憲法修正第一条項のことばを借りれば、公開フォーラム --- へのアクセスは一人に公開されるのであれば万人に公開され、 あるいは平等な条件で公開される。ここでは、 市場によるコントロールは許されていない。」 「公開フォーラム」というのは、public forumの訳だね。 これについては、『情報時代における言論・表現の自由』の 「3.1.1 憲法の適用範囲について」 を読んでほしい。
p. 154
「[1]
もし自然がその他すべてのものに比べて排他的財産権の対象となりにくいものを作っ
たとすれば、それはアイデアと呼ばれる思考力の行いである。これは、
その人が自分一人で黙っている限り、独占的に保持できる。
でもそれが明かされた瞬間に、それはどうしても万人の所有へと向かってしまう。
そして受け手はそれを所有しなくなることはできない。[2]
またその特異な性格として、他のみんながその全体を持っているからといって、
誰一人その保有分が少なくなるわけではないということだ。
私からアイデアを受け取ったものは、その考え方を受け取るけれど、
それで私の考え方が少なくなったりしない。
それは私のろうそくから自分のろうそくに火をつけた者が、
私の明かりを減らすことなく明かりを受け取ることができるようなものだ。[3]
人類の道徳と相互の叡智のために、そして人間の条件の改善のために、
アイデアが人から人へと世界中に自由に伝わるということは、
自然によって特に善意を持って設計されたようで、それは火と同じく、
あらゆる空間に広がることができて、しかもどの点でもその密度は衰えることがない。
またわれわれが呼吸し、その中を動き回り、
物理的存在をその中に置いている空気と同じく、
閉ざすことも排他的な占有も不可能になっている。[4]
つまり発明は自然のなかにおいては、財産権の対象とはなりえない。」
pp. 155, 156
「ジェファソンは特許による保護に反対していたわけではない。かれはむしろ、
特許保護がなにやら自然権だという発想に対して反対して議論を展開していたのだ。」
私が見る限り、山形さんも言うように、アメリカ建国の父(the Founding Fathers) たちは、実に洞察力に富んだ真の叡智を備えた人たちだったと思う。 宗主国イギリスとの間の緊張した関係を深く憂慮する中で、 彼らの叡智は養われたのだろう。 ひるがえって今のふぬけた日本の政治家たちの極楽トンボぶりはどうだ。 日本が直面している問題は山積みだというのに。 ジェファソンに関連して、 『コピーライトの史的展開』で掲げている、 ジェームズ・マディソンが著作権や特許について言及している部分を引用しよう。
「独占について考えてみますに、それらは、 まさに政府における最も厄介な問題に列せられるでしょう。しかしながら、 文芸作品および天才的発見への奨励として用いられる場合、それらは、 賛えるに値しないほど価値がないものと言いきれるでしょうか? 特権の付与によって生じる代償を理由に、公共のためのなんらかの利益が、 その特権を無効にしてしまうようなあらゆる場合にも、 それは擁護するに十分ではないのでしょうか?他のほとんどの政府よりも、 我々の政府において、この濫用の危険は極めて少ないのではないでしょうか? 独占とは、少数者のために多数の人々を犠牲にすることです。 少数者に権力が帰属しているところでは、 自らのえこひいきと腐敗のために多くの人々を犠牲にすることなど、 彼らにとってはあたりまえのことでしょう。一方、我々のように、 権力が少数ではなく多数の人々に帰属しているところでは、その危険は、 少数者が権力を握るところで生じるような極めて大きなものにはなりえません。 むしろ、 少数者が多数の人々のために犠牲にされることを怖れなければならないのです。」詳しくは、上記の拙著で。初版が多分まだ売れ残っているし、絶版になってないので、 全文公開できない「Part III アメリカ編」部分に掲載されている。
pp. 155, 156 「だから法体系、あるいは社会一般は、 リソースの種類ごとにコントロールの種類も調整するように注意する必要がある。 なんでもかんでもいっしょくたではすまない。」 御意。
pp. 169--170 「最初の著作権法は、「地図、海図、書籍」の作者に、 そうした作品の出版と販売をコントロールする独占権を与えたけど、 でもそれはその作品が「公刊」されて、著作権登録に登記され、 そしてその著者がアメリカ人の場合だけだった (いまアメリカは中国の著作権無視に えらい剣幕だけれど、 1891年以前には外国人の著作権はアメリカでは保護されていなかったことを忘れちゃ いけない。アメリカは生まれながらの海賊国だったのだ)。」 これまた、 『コピーライトの史的展開』の 「Part III アメリカ編」で詳しく取り扱っている。アメリカという国は、 19世紀末まで、世界最大の海賊出版国だった。中国や東南アジアに「知的財産権守れ」 とゴリ押しするその厚顔無恥さはどうしたものだろう。 ついでにアメリカ最初の著作権法の概要を掲げておこう。
(書式の例)
この手続の費用として、著作者あるいは権利者から60セントを受け取るものとし、
著作者あるいは権利者に発行する捺印証書(copy under seal)
の費用として一枚60セントを受け取るものとする。そして、著作者あるいは権利者は、
登記の日から2ヵ月以内に、
上記の記録の捺印証書を1紙以上の合衆国内の新聞紙に4週間公告しなければならない。
7 現実空間での創造性
p. 174 「こうした「妥協」は著作権保持者に、補償をうけられる保証を与える一方で、 著作権保持者に作品について完全なコントロールは与えない。 現代の法と経済学の用語で言えば、こうしたルールは作者を「財産ルール」ではなく 「損害賠償ルール」で保護しようとする。」 「財産ルール」は property rules、「損害賠償ルール」 は liability rules の訳だけど、これって経済学分野での定訳なのかなぁ。 所有権(≒財産権)は、法律の世界では物権と呼ばれる。物(リソース) を直接的に支配する権利であり、すべての人に対して主張し得る(対世効)。 時間の経過にともなって権利が消滅することがない(消滅時効がない)。一般に、 ある人のある物に対する所有権の存在は、 その人がその物を物理的に支配している状態(占有)によって示されるが、 常に占有することのできない物、たとえば不動産のようなものについては、 公的な登記制度によって、ある物に存在する所有権を明らかにすることになっている。 もちろん、 登記制度によってすべての人が所有権の存在を認識できるというのは擬制だけど。 ともかく所有権は強力な支配権だから、 他者からの侵害を強力に排除することができる。 しかも誰に対してもその支配権を主張し得る。しかし、 その強力さゆえに占有あるいは登記によって、 すべての人に対して自分に所有権があることを示すことが要求されるわけだ。 ということは、所有権は「守る」に堅い制度であるわけ。 あるリソースを保全するのに向いている。または、 事前にリソースの配分を決定するルールともいえる。 絶対的な支配権を認めて守るに堅い権利を創設した背景には、 「所有者はリソースを合理的に利用・処分するであろう」 という合理的人間観があるし、共有地の悲劇として知られるように 「リソースが共有された場合には荒廃する」という洞察があったのだろう。 一方、liability rulesは、 利益の競合が起きた場合、 誰にどのような責任が存在するのかを決定する事後的なルールだ。 まず問題となる利益は、誰かに帰属することが法的に承認されている必要がある。 それが所有権であるなら絶対的に強力だが、 所有権まで強力でない法的利益であってもかまわない。場合によっては、 その利益が誰に帰属しているのかが問題の発生時点で曖昧であっても構わない。 誰の利益だったのかを事後的に判断することもできるからだ。誰か(A) の行為によって不利益をこうむった人(B)は、Aの行為が不法行為であると主張し得る。 これが不法行為だと判断されれば、BにはAに対する債権 (不法行為の場合は原則として金銭債権)が発生する。 債権は物権と異なり、ある人が特定の人に対して定められた行為を要求し、 あるいは利益の給付を要求する権利だ。だから支配権ではなくあくまで請求権。 もちろん、その請求が法的な裏付けを得たならば、 裁判所の命令により強制的にこれを実現することができる(強制執行)。 ここで物権との対比で重要なのが、 物権はあるリソースについてすべての人を拘束するに対して、 債権は当事者同士しか拘束しない。不法行為を原因とする債権を考えれば、 そもそも利益の競合が生じていても、当事者同士が納得しているのであれば、 損害賠償ルールはスタートしない。そういう意味で、 不法行為の法理の保護能力は所有権に比較すると「弱い」。逆にいえば、 たくさんの人があるリソースをさまざまな方法で活用する試みを行う余地を残してい る。損害賠償ルールは、 責任を負うというリスクのもとに活動の自由を保障しているということもできる。 損害賠償ルールにはいくつかのハードルがある。所有権は強力な絶対的支配権なので、 有無を言わさず法がその権利を実現する。ところが、不法行為の考え方では、 法が発動するほどの利益の競合と判断されるには、(1) ある人の利益に害をなしたとされる人(加害者)に故意または過失があること、(2) 加害行為に違法性があること、(3) 加害行為と損害の間に因果関係があること、(4) 加害者に責任能力があることを、被害を主張する側が証明しなければならない (挙証責任 / もちろん場合によっては被害者側の挙証責任がなくなったり、 加害者側に「責任がないこと」を証明する義務が転換することもある)。これは 「利益をうける立場にある」と主張する人間には大変な負担だ。逆にいえば、 明々白々な加害行為でない瑣末な権利侵害や潜在的な加害行為について、 法は自由の余地を与えているとみることができる。たとえば、 私には生命や身体の安全という強力な権利が当然にある。でも、 だからといって私の身の回り半径10m以内での他人の一切の車の運行を禁止すること はできない。 以上のことを頭に入れて、 レッシグ先生の主張をみるとスジが通っているのがわかるだろう。 所有権の原則をみればわかるように、 もし著作権に所有権と同じ程度の対世効を認めるなら、公示方法がないのはおかしい。 1989年までアメリカがやっていたように著作権登記制度がないとスジが通らない。 だから彼は、14章で登記制度を復活しろと言ってる。しかも、 これは公への登録なんだから、 権利を偽って主張している人について刑事罰を与えることは合理的だ。 また、彼は知的な財については「過剰利用から生じるリソースの荒廃がない[*]」 と主張している。確かにそうだ。すると、 所有権ほどの強力な対世効を認める必然に乏しい。 独占利益をエサにして創作のインセンティヴを作り出すにしても、 短期間の排他的独占権で十分。 すくなくとも所有権と同じように永久の権利とする必要なんてない。そして、 不法行為責任の考え方は、 明々白々な加害行為でないさまざまなリソースの利用について自由の余地を残す。 だから、さまざまな発展的利用の可能性が存在する知的な財については、 損害賠償ルールで問題が起きたときに事後的に救済すればよい、 と彼は主張しているわけだ。 ちなみに、別にヨイショするつもりもないけど、『ソフトウェアの法的保護 (新版)』 (有斐閣, 1988)という本を著したことで、 日本におけるこの分野の先駆者にして第一人者である中山信弘先生も、 『マルチメディアと著作権』(岩波新書, 1996) という本で、 著作権を所有権に近い権利ではなく対価請求権として組み立てたらどうだろう、 と提案している。さすが。 中山先生は、 まだソフトウェアを著作権によって保護するということが確定していなかった1980年 代初め、プログラムの特質に合わせた新規立法 (プログラム権法) による保護をすすめようとした立場にあった。今、『ソフトウェアの法的保護』 の巻末に収められている「プログラム権法」の骨子を読み直すと、 さすがに古臭さというか、官の不要な介入の根拠になりそうなところがみられる。 まあ、レッシグ先生あたりを委員に据えて、再検討する必要がありそうだ。 しかし、外圧で著作権によるソフトウェア保護をすすめておいて、 今ごろになって「著作権ではマズい、特許によって保護だ、いや特許でもマズい、 それなら著作権法の原則から変えてしまえ」 などと著作権法を引っ掻き回すようなことをするのは、いかがなものだろうか。 どの程度 著作権法の原則が引っ掻き回されているのかについては、 桜小路 馨 「IT化がもたらす「著作物」性の拡張とゆらぎ」in 『「IT」の死角』 (別冊宝島, 2001) がよくまとまってる。
[*] この点について、ある作品(A)が二次的創作(B, B', B''...) に対するオリジナルとして利用される場合、Bの作られ方によっては、 Aに対するAの著作者の思惑であるとか、意向がゆがめられ、 荒廃状態に入るかもしれない、という指摘があった。具体的には、「北斗の拳」や 「ヒカルの碁」のヤオイ物のパロディ本とかをイメージしてほしい。この場合でも、 確かにBはAを「利用」しているといえるかもしれないが、ここでは、 AがあくまでもAとして複製・流布される場合を「使用 / 利用」 として理解することになる。
8 インターネットからのイノベーション
p. 218 「ソ連東欧の失敗の教訓は、 国家コントロールによるイノベーションは失敗するということだ。 クリステンセンらの教えてくれる教訓は、 市場でもっとも成功した企業のコントロールするイノベーションは、 新しい形の創造性に対しては体系的に目を背けるということだ。これはまた、 インターネットの教えてくれる教訓でもある。」
9 新 vs 旧
p. 224 「完全な市場信奉者であれば、 こうしたアクターたちはソヴェトたちとはちがった振る舞いをすると想定する。 かれらは、巨大企業の指導者たちは企業全体で賭けに出て、 まったくちがった企業になろうとする、と想定する。」 計画経済なんていうものは、(1) リソースの利用価値がすでにわかっている、(2) あるリソースをどこに投入すれば最適かという問いの答えがわかってる、 という前提が必要だ。ということは、ソヴィエトでは、(1) イノベーションは起きない (2) 計画者が、 あの広い国土全域にわたるリソースの現在の配分状況と最適な将来の配分に関する情 報をもっている、ということを前提にしていたことになる。無茶な。 で、私はどっちかというと「完全な市場信奉者」。市場では、(1) リソースの利用価値の変動に応じて配分が動的に変動するし、(2) 自分自身にとってどのようなリソースが必要かを消費者自身以上に知る者はいない故 に、需要により駆動される市場は、 分散処理的なリソース配分を行っていると見ることができるから。市場は、(1) イノベーションに対応し得るし、(2) 消費者一人一人が自分自身の欲求について 「正確」に知っていれば「見えざる手」がうまくやってくれる。 資源の配分において、一人の人間(計画者 / 消費者) が処理しなければならない情報量は、市場を使った分散処理のほうが圧倒的に少ない。 ソヴィエトが、汎用機とダム端末による中央集権処理モデルだとすると、市場は、 SETI@Home的な処理モデルといってもいいかな? でも、いま「市場」 というネットワークは、「価格」 というえらく情報量の少ないプロトコルで動作しているため、 価格プロトコルに乗らない「価値」がうまく処理できていない。 前にも書いたと思うけど、リソースに関する情報がより増加すれば、 市場はもう少し理想的に動作すると考えてる。 そしていま私たちが経験しつつある情報革命は、 リソースに関する情報をより円滑かつ豊富に伝達し、 処理することを可能にしつつある。仮に、 清浄な大気や清浄な水からわれわれが受けている恩恵について、 大企業の指導者や消費者がキチンと評価して行動するならば、 市場における自由な財の取引の結果として、 自然環境を保全することも十分にできると思ってる。 私ってやっぱり経済ド素人にしてナイーブ野郎ですか?
10 電線 -- ひいてはコード層 -- をコントロール
p. 227 「差別できないということを、わたしはもとのネット設計の特徴だと呼んだ。 でも多くの人にとって --- 特にインターネットと呼ばれるネットワークの未来を作っている人々にとっては --- この「機能」はバグだ。差別する力こそがますます常態となりはじめている。目標は、 差別のできるネットを構築することだ。」 discrimiate に「差別」という訳語をあてるのはちょっと強いかもしれない。 「差別するネットを作ろう」としているというよりは、利用者やサービスを「識別」 しうるネットワークを今、技術者たちは作ろうとしている。それは、もちろん 「最適なネット環境を整備するため」 という善意に基づいてすすめられているのだろうけれど、 レッシグ先生はその善意にこそ落とし穴があるんだということを『CODE』 以来繰り返し主張している。
p. 229
「つまり、インターネットサービスに対する需要に応えて電話会社ができることは、
いくらでもあったのだ。でも電話会社はこの手のことをやらなかった。
それが許可されていなかったからだ。なぜかといえば、
規制当局がそれを止めていたからだ。... 重要なポイントは、
中立性を保存して守ることだった。」
p. 239
「DSLには閉じたネットワークを作るオプションはない。
DSLは電話会社が導入するものだ。電話会社(ここでは地域の電話会社のこと)は、
オープンになるよう規制されている。つまり電話会社はISPたちに、
電話会社の回線上でDSLネットワークを動かす権利を与えなくてはならないというこ
とだ。ということは、電話会社のネットワークは、
自分で回線上で提供されているインターネットサービスについて、
特に力を行使できないということになる。」
電話線の所有者である電話会社に対して、政府が電話線への支配権を禁止したことで、 インターネットでのイノベーションが花開いたとレッシグ先生は強調する。 政府規制によって、電話会社の自由は制限されたが、 電話線上の利用者の自由は確保された。 この二つの自由は対立的な自由あるいは権利なんだけど、それを「バランス」 させる必要があるとレッシグ先生は言っている。GPLも同じ。 コードを書いた人間のもつ「コードを秘匿する」自由は制限されているけど、 コードを参照し利用する利用者の自由は確保される。問題は、 いずれの自由を優先させるべきかという「政策」だ。
p. 247 「破壊的な技術が登場したら、 既得権益者の力をその技術に対する権限に拡張しないほうがいいかもしれない、 ということだ。だからといって、新技術が旧技術をつぶしていい、 少なくとも無料でつぶしていいということにはならない。」 このあたり、レッシグ先生は「既得権者たちにもそれなりの配慮をしてますよ」 とアピールしている。けれど、歴史上、 新技術は遠慮なく旧技術を無料でつぶしてきた。 旧技術上で利益を得てきた人たちは自己努力で新技術に対応して生き残った。 対応できなかった人たちは没落していった。そうして技術や産業は発展してきた。 いやまルールは変わったんだろうか? pp. 249--250 「閉じたネットワークは、イノベーション全般に対して外部性を作り出す。 それはあらゆる新しいイノベーションにライセンスを供与しなくてはならない参加者 の数を増やすことで、イノベーションのコストを増やしてしまう。そのコストは、 消費者が直接負担するものではない。長期的にはもちろん、それがコストなら、 消費者が負担することにはなるだろう。でも短期的には、 消費者はクローズドなモデルがつぶしてしまっているイノベーションには気がつかな い。」 最後の 「クローズドなモデルがつぶしてしまっているイノベーションには気がつかない」 という部分が大事。市場が基本的に需要側の変化に応じて変化するのであれば、 変化のスタートポイントにいる消費者が「もっとよい他のもの」 があることを知らなければ、「もっとよい他のもの」へ移行することはできない。 だから、あらゆる情報はできるだけオープンにされるべきだし、 消費者はそのオープンにされた情報を正しく評価する必要がある。
「情報はオープンに。私たちはできるだけ賢く。」情報公開。オープン・ソース。そしてマシな教育システム。 これが私たちが進むべき道の基本的方向なんだろうと思う。でも、 日本では逆になってないか? p. 250 「電気通信史上、 クローズドになったネットワークが自発的にオープンに変わった例は一つもないとい う観察も、疑問を抱くべき理由の一つだ。」 これは、私は確認してない。 もしかすると自発的にオープンに変わった例があるかもしれない。たとえば、 ネットワークの維持管理コストが膨大になった結果、 「あとはみんなでなんとかやってよ」って匙を投げる場合が考えられる。
p. 255
「ここにある危険は、経済学者なら垂直統合の危険と呼ぶものだ ---
つまり一つのプロバイダが、私の説明した層 --- コンテンツ、論理、物理 ---
の全てのサービスをコントロールする、という危険性だ。」
p. 258
「つまりエンドの選択の自由を残しておくと、かれらにとっては、
インターネットの規範が自由だったところでコントロールを選ぶ機会を作り出すこと
になる。そしてコントロールは、
コントロールすることがエンドの利益になる場合に実行される。
エンドとしてアクセス制限が有効なら、エンドとして差別化が有用なら、
エンドは他の人々への影響はおかまいなしに、制限して差別化するだろう。」
ここでいう「エンド」って、エンドなんだろうか? 誰か他の人のインターネットへのゲートウェイになっているネットワークを保有して いる人は、エンドとはいえないんじゃないだろうか。
p. 265 「インターネットの名前空間(IPv4)は現在アップグレードの過程にある(IPv6へ)。 これだとほとんど無限のアドレス数が持てるし、NATの必要もなくなる。 無限のアドレス空間があれば、アドレスを「温存」する技術はよくても不要になる。 だから、 ネットの技術を開発している技術者たちにこの高い調整コストを負わせるよりも、 名前空間を増したほうが妥協のそもそもの理由を排除できることになる。」 私は、IPv6の技術詳細についてまだ知らない(←「自分で調べろよ」 というツッコミが来そうだな。)。 現在のフリーなネットワークを維持できるような透明性のあるプロトコルであること を祈ってる。
[山根さん]: これ,ちょっと乱暴です. 現在のネットワークはすでにNATによって end-to-endの透明性が損なわれはじめている,というのがレッシグたちの現状認識です. p. 266 「大事なのは利用者の自立性を維持することだ。 危険なのはその自立性をつぶすかもしれない技術だ。」 それより先に、 消費者の座に甘んじて良しとする自立性の欠けた人たちをまずどうやって自立させる かが先の問題かも... 『消費者という断絶』 でも読んでみてほしい。あと、福澤 諭吉 『学問のすゝめ』 を読みなおしてほしい。とくに「一身独立して一国独立する事」の章を。
11 ワイアードされた者 --- ひいてはコンテンツ層 --- をコントロール
p. 274
「創造性というものがそれ以前の創造性にいかに依存しているかを明らかにしてくれ
る。つまりどちらも、
イノベーションというのが他人の仕事に何かを追加することだと示してくれる。」
「新世代とは、インターネットというプラットホームを、
コンテンツの制作配信の新しい機会として考え、
ネット上のコンテンツをもっとも優れた新しいコンテンツづくりのリソースとしてみ
る人々のことだ。」
これについては、個人的に何年か前からやっている「プロメテウス・キャンペーン」 の宣言文でも読んでみてほしい。
p. 275 「1996年に、議会は通信品位法(CDA)を可決することで実際に対応した。 そのねらいはサイバー空間での「不適切なコンテンツ」 から子供たちを守ることだった。」 CDAをめぐる事件については、最後までフォローできなかったけど、 『誰をどのように護るのか --CDAの目的と効果について』 という文書を書いてる。参考にしてみて。
p. 277
「本当の危険は、
著作権つき材料があまりに完璧にコントロールされてしまうということだ。
技術的に可能で開発されつつある技術は、
コンテンツ所有者に著作権法がまったく意図していないほどのコントロール能力を与
えてしまうということだ。」
p. 282
「著作権益の持ち主は、コンテンツが「盗まれる」
ことを目の色を変えて心配するけれど、でももう一つ、
利用可能性がもっと完全にコントロールされるという点も見失ってはいけない。...
現実空間では認められていた活動(法がそれを保護しているからか、
あるいはそれを追跡するコストが高すぎるために認められていた)
がサイバー空間にますます移行するにつれて、
その活動に対するコントロールは増してきた。」
「これは著作権保護が不完全だという図式ではない。
これは著作権コントロールの暴走だ。
何百万人もが生活をサイバー空間に移すにつれて、著作権保持者が「自分の」
コンテンツをモニタして取り締まる能力は高まる一方だ。これは結果として、
著作権保持者の利益にはなるけれど、でも社会にはどんな利益がもたらされて、
一般ユーザーにはどんなコストが課せられるんだろうか?
全ての利用にライセンスが要るようになったら進歩なのか?
コントロールを増大するのが進歩なのか?」
いろいろな人がいろんなコンテンツ・コントロール技術を実装中だと思うけど、 身近に聞くのが「コンテンツID 」 というもの。別に、コンテンツIDに恨みがあるわけじゃない。単に、 ここの関係者に会ったことが一番多いだけ。みんな真面目ないい人ですよ。 とくに技術者の方は「法律は神聖なんだから何が何でも遵守しなきゃ、 法律に書いてあるとおりに実行できるように実装しなきゃ」 と真剣に取り組んでいる人ばかり[*]。 で、私はこのコンテンツIDシステムを設計・実装している人たちに 「ある個人のコンテンツへのアクセス履歴を秘匿状態においたままコンテンツIDによ る流通管理ができるの?」と何度もたずねているけど、 はっきりとした返事はもらったことがない。私の考えではたぶん無理。 たとえば、コンテンツIDを導入すると「(1) 不正利用監視の効率化」「(2) マーケット情報収集の効率化」などができるらしい。 まず(1)について。「不正利用コンテンツの検出方法が標準化することで、 ネットワーク上で不正利用コンテンツの流通監視を行うネットポリスサービス業が、 地域レベルや機能レベル(電子透かしを入れる人と検出する人の分担など) で分担可能となる」さらに「個別にサービス提供を行っている現状に比較して、 ネットポリスサービス業全体として生産性が高まる」。 おいおい、ネットポリスサービス業って、 民間警察組織あるいは民間検閲団体の創設を狙ってるんでしょうか? 昔々、 イギリスでは、 Stationers' Company という印刷出版業の組合が政府の言論統制の片棒を担いでいた。 でもね、彼らは自分たちの利益になる範囲でしか取り締まりを行わなかった。 政府の方は異端思想の取締りが思うように進まないため、 ますます強力な権限を Stationers' Companyに与えた。 これが蛇蠍のように知識人たちに嫌われていたことについては、 『コピーライトの史的展開 (4)』の「4.1 検閲制度批判」 でも読んでほしい。「民間がやるから、憲法が禁止している検閲にあたらない」 なんていう理屈を言うのは止めてね。いまや、 国家よりも民間企業のほうが危険かもしれないよ。なぜなら企業は 「経済的利益のためなら何でも行う組織体」なんだから。 次に(2)について。「流通業者の立場からは、 共通のコンテンツIDコードによる統計処理を行うことにより、コンテンツの流通・ 販売履歴がとれるようになり、コンテンツの売れ筋情報(いつ、だれが、 どんなコンテンツを、どの単位で)が把握できるようになる。」 「著作権者の立場からは、自分のコンテンツにあった、 コンテンツIDに基づく統計情報により、 仲介者やディストリビュータを探すことができる」。 これって、個人を対象としたマーケティングでやるつもりはないよね? 「著作権保護システム」をうたい文句に、 利用者の思想傾向や嗜好傾向をデータ化するようなスパイウェアをコンテンツにバン ドルするのは止めてほしいものだ。
[*] 理系の人に、法律と実際の社会の微妙なブレの感覚を理解してもらうためには、 次のように書くとよいかも。 p. 286 「マテルのいう「契約」というのは、今日のソフトのほとんどについてくる、 シュリンクラップ式のライセンスだ。サイバーパトロールをインストールすると、 あなたはそのライセンスに書いてあることすべてに同意したことになる。 こうしたライセンスが一般的に強制可能かはむずしかしい問題だ。」 シュリンクラップ契約、クリックオン契約と呼ばれるものについては、 私はちゃんとフォローできてない。だから 山岸さんのWebページにある、 「シュリンクラップライセンスの有効性」と 「シュリンクラップライセンスの有効性2」 をみなさん読んでみてください。 ただ、私の理解では、契約は当事者双方の意思の一致をもって拘束力が生じるので、 これを単純に契約と呼ぶのは相当無理があると思う。通常、法律家は これを「約款」 とみるだろう。ちなみに日本法においてシュリンクラップ契約、 クリックオン契約は有効だとされていたんだっけ? 誰か教えてください[*]。
[*] こちら に弁護士の解説が出ているという連絡をいただきました。 今のところ玉虫色の判断しかないみたいですね。 約款については「設定における一方的性格から、約款設定者の責任を制限・ 免除する条項(免責条項) や顧客に義務を負担させる条項については限定的に解すべきこと(制限的解釈)、 多義的な条項については顧客に有利な解釈を採用すべきこと(不明確準則・ 作成者不利の原則)などが解釈準則とされる。」この考え方を反映したのが、 「消費者契約法」。 これに関連して、「オープンソースの法解釈と政府のオープンソース化」という記事の 「日本の法律とGPLとの微妙な関係」の部分を読んでみて。 ぐったりしたのは私だけではないはず。もう、商取引というものは、 大資本を備えた人たちにしか許されない、贅沢な仕事になったんだろうなぁ。 われわれは、 すべからく被用者として生きていくように社会は設計されているのだろうなぁ。 別に弁護士の小松氏が悪いとかそういう話ではなく、 善意で作られたはずの法律が組み合わさると、 どうしてこういうメンドクサイ状況が生じるのだろうか。「合成の誤謬」 というやつの一種だろうか。なんだか、荒野とか、草原とか、 森林とかそういうところに行きたくなった。
あ、もしかしてこの感覚が、 サイバー空間の冒険に少年たちを駆り立ててるんだろうか。p. 287 「著作権の歴史のうち、最初の二世紀は検閲の二世紀だった。 著作権は検閲者のツールだった。印刷できるものは、 認可を受けた印刷所の印刷したものだけだった。そして認可を受けられる印刷所は、 王室に協力的なところだけだった。」 『コピーライトの史的展開 (1), (2), (3)』 を読んでみてほしい。
p. 290 「コードが言論を検閲していることを実証するためにコードをクラックするのがフェ アユースでないなら、この世の何がフェアユースだというのだ。」
おお、レッシグ先生 勇ましい!!私もこういうセリフを吐いてみたいものだ。ところが、日本の著作権法には「フェアユース」という概念はない。 導入すべきだという議論もあるんだけど、どうもだめぽ[*]。藤本 英介 『ネット環境下の著作権と公正利用(フェアユース)』をぜひご一読。日本においては、 「コードが言論を検閲していることを実証するためにコードをクラックすると犯罪者」 ということになりますです。おお『すばらしき新世界』は近いですよ。
[*]「もうだめぽ」の起源については、 ここを参照のこと。 p. 294 「ある国の誰かが、 どこまで別の国の法律によって負担を強いられなければならないのか?」 「サイバー犯罪条約」 を見る限り、犯罪捜査の国際協調のために、 われわれは外国の法律によって容疑をうけたり、 捜査されたりすることになりそうです。これに関する記事として、 水谷 雅彦 『サイバー犯罪条約』 を読んでもらいたい。 そうそう、どこの国の人であっても、インターネットにソフトウェアを提供すると、 アメリカの国内でアクセスできるわけだから、 そのソフトウェアがアメリカの国内法に触れるならば、 アメリカ法によって処罰することができるんだそうだ。 インターネットで活動する全世界の人々には、 アメリカの司法権が及ぶということになる。 日本政府の国民保護の義務とか主権とかはどうなってるんだろうか?まあ、 某国に国民が拉致されてることに気がついてても、 ずーっと見てみぬふりをしてきた政府だから、あまり気にしてないか。 断固として見てみぬふりせず、いきなり国民救出のために出兵するようなのも困るが。
p. 303
「エルドレッドの主張は単純だった。憲法は、議会が著者に独占権を「限られた期間」
与えることを許している。ということは起草者たちは、
明らかにその独占権がいつか終わることを意図していたわけだ。
議会が永続的に著作権を延長する力を認めることは、
その明示された制限のねらいを反故にするものだ。」
「かれはまた、修正第一条に基づく議論も提起している。憲法修正第一条は、議会は
「言論や出版の自由を損なうような(中略)法を作ってはならない」と述べている。
著作権は、エリック・エルドレッドのHTML出版を明らかに制限している。」
「最高裁判所は、両者がどう共存するかを説明した。...
著作権法の提供するインセンティブのために、
著作権法なしでは作られなかったような作品も作られる。つまり著作権法は、
言論を増やすとともに制限する。そしてうまくバランスのとれた著作権法は、
少なくとも原理的には、制限するよりも増やす。」
これまた悲しいことに、日本には、アメリカ合衆国憲法修正第一条ほどに強力に言論・ 表現の自由を保護する規定がない。というか、憲法の規定には、 わりとはっきりと言論・表現の自由を保障すると書いてあるんだけど、 言論表現の自由をなによりも上位にある重要な自由であると考える法的伝統がない、 というべきか。『情報時代における言論・表現の自由』の 「3.3 どのように規制されるのか」 あたりを読んでみてください。あと、言論の自由と著作権の対立については、 ずいぶん昔に書いた記事だけど、 『言論の自由と著作権の衝突について』でも読んでみてほしい。
p. 307
「インターネットが著作権法に対して提示するショックへの対応として、
もちろん盗難の危険増大について考慮するのは重要だ。でも法は、
この盗難リスク増大への適切な対応が、
著作権法のもとで伝統的に保護されてきた各種のアクセス権や利用権を消したりしな
いよう、バランスを確立する必要がある。」
「アーティストには報酬があるべきだ。でもかれらが報酬を得る権利は、
新産業におけるイノベーションの発達をコントロールする業界の権利にすり替えられ
てはならない。」
これについては、前にも掲げたけど、桜小路 馨 「IT化がもたらす「著作物」 性の拡張とゆらぎ」in 『「IT」の死角』(別冊宝島, 2001) がよくまとまってる。
pp. 308--309 「つまりこの業界は、新しいイノベーションの拒否権を要求していて、 そしてその拒否権の後ろ盾として法を持ち出そうとしている。」 これについては、前にも掲げたけど、『「包括メディア産業法」への私案』の「4. 制度設計の要点」を参照してほしい。
pp. 308--309 「議会は、 古い力が新しいもののイノベーションを踏みにじらないようにする役割を果たせる。」 そうなんだけど、それは「優れた議会」の話であって、「老人会」「敬老会」では、 どっちかというと「新しい人たちの犠牲のもとに、古い人たちを助けよう」 という議論のほうが先に進みがちだ。もしかして、「弱者保護」って言葉は、 そういう趣旨でつかわれてたりします? p. 314 「特許は政府規制の一種だ。それは国のみとめた独占で、「発明家」に対して便利で、 新規性があり、自明でない発明に対する排他的な権利を与える。」 これは先に説明した通り。
pp. 317--318 「最高裁は、特許法の解釈の当初から特許が自然権ではないことを確認してきた。 だから特許権の範囲は、議会が認めた期間しか続かない。そして議会は、 独占を延長することで何か便益が得られると考える理由があるときにのみその期間を 延長すべきである。」 ところが、アメリカ最高裁判所と一般の人では考え方がちがう。とくに日本では 「特許」はふつう特許「権」として把握されている。 発明に付随して当然に付与される*べき* 財産権だと考えるのが一般的。 著作権と同じように、発明者の私権として考えられている。 ページの並びが前後するけど、『コモンズ』でも、 p. 324 「われわれのほとんどは、特許が規制の一種だとは考えない。ほとんどの人は、 特許というのがわたしの車と同じ意味での財産だと考える。」 と記されているから、状況はアメリカでも同じなんだろう。 ついでに言えば、WTOで締結されたTRIPS協定では、加盟国は 「知的財産権は私権である」と認めることになっている。すなわち、 公共の利益を過度に重視した運用や政策的な運用はダメですよ、ということだ。 当然日本も加盟している。こりゃ、うまくやったなぁ。 細かいことを言えば、法律学事典では日本の法律用語としての「特許」は 「国民に特定の権利を付与したり、又は包括的な法律関係を設定する行政行為。 設権行為ともいう」と説明されている。そういう意味ではアメリカ最高裁判所の 「patent」の用語法と同一だ。ところが、別項目として法律学事典に「特許権」 がある。 特許権は「特許を受けた発明を業として独占的に実施しうる排他的な権利」 「無体財産権の一種で、工業所有権の1つ。主として特許法によって規制されている」 と説明している。「無体財産権」については「知的財産権ともいい、 主なものに人間の知的創作活動の所産である創作物に対する権利である特許権、 実用新案権、意匠権、著作権や、 営業に関する識別標識に対する権利である商標権がある」とする。 これらの説明のどこにも「特許権」が「所有権」であるとは書いてないけど「所有権」 を「有体物(形のある物)」への所有権と、「無体物」 への所有権とに大分類して説明すると、 無体財産権が所有権と類似の支配形態だと考えがちなのは当然。 その無体財産権の一種として特許権や著作権があると説明されれば、 それが所有権の一種として考えるのも止むを得ないと思う。 実際、特許法の専門家に、「特許はもともと国家の産業振興策だったのだから、 国家の権利なんですよ」「国家の産業上の利益に資するように、 国家はいかなるものに特許を付与するのか、 しないのか決定する権能があるはずなんですよ」 「どういうものに特許を付与すべきか、 特許庁や経済産業省は調査研究をしているのでしょうか」 「アメリカのソフトウェア特許やビジネス・モデル特許は巧妙な産業政策なんですよ」 と言っても、軽く笑われて「それは、恩恵主義といって昔々の特許観です。 現在の特許は権利主義ですから、 発明であれば当然に特許が付与されることになります」と相手にされない。まあ、 仕方ないよね。そうなってるんだから。 で、日本の特許法では「発明」 であれば 特許権がほぼ自動的に付与されることになっている。だって「発明」 した以上は特許を受けるのは発明者の「権利」なんだから。そこで「発明」 とは何かが最大の問題となる。日本の特許法では世界でも珍しく「発明」 とはどのようなものなのかの定義がある。アメリカなんかだと、「発明」 はどのようなものが現われるか分からないので定義不能と考えているみたいだ。で、 日本の「発明」とは、 「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のものをいう」ということになる。 だから法律解釈上、 この定義に合わないものはどんなに産業政策上有用なものであっても特許が付与され ない。 で、近年アメリカでソフトウェア特許やビジネス・ モデル特許が導入されたのを受けて、日本でもソフトウェアやビジネス・ モデルに特許を付与すべきかどうかが問題とされている。 いまだに大真面目に議論している。そりゃ、 数百億円の利益がかかわる問題だから大真面目だ。 そこで交わされている議論というのは、ソフトウェアやビジネス・モデルは 「自然法則を利用した」ものかどうか、という哲学的なもの。 私は数年前からこの手の研究会や学会発表を聞いている。私は、ついこの間も、 ある大学の研究会で、ソフトウェアやビジネス・モデルが「自然法則を利用している」 といえるのか否かに関する2時間にわたる発表および討議を聞いた。 そこでずーっと思ってた。これだけ優秀な人たちが集まって、 これだけ長い時間をかけて、何を議論しているんだろうって。『コモンズ』 p. 362 で語られている(この解説でも引用している)、 一種の思い込みにみんなが嵌っているように思えてならなかった。 ちなみに、現行の特許庁の運用では、ソフトウェアやビジネス・ モデルが具体的な機械や装置と一体として特許出願された場合には、それらの機械が 「自然法則を利用している」という要件に合うということで特許を付与している。 だから、装置なんかぜんぜん必要のないオペレーションに関する発明であっても、 無理やり何らかの装置と一体のものにしている。さらには、 どうしても機械や装置と一緒にできないものについては、 「媒体特許」 ということまでやっている。すなわちソフトウェアを収めたCD-ROMなんかを「装置」 とみなして特許付与するわけだ。ほんとだよ。さらには、 特許を受けたソフトウェアをネットワーク上で保護する必要が出てきてるので、この 「媒体特許」のアナロジーで、ケーブルや搬送波(信号を送る電気の波)を「媒体」 とみなして媒体特許で処理できないか、なんて議論までしている。 まさに、 p. 321 「これらの事例すべてで、独占を認める機関が尋ねた質問はたった一つ : この種の 「発明」は、特許の対象となるほかのものと十分に似ているだろうか? もしそうなら、特許はこの分野のイノベーションにも与えられる。 でも経済学者なら、たぶんかなりちがった質問をするだろう。 特許がイノベーションを喚起することははっきりしているけれど、 イノベーションの一部の分野では、 特許は益よりも害をなすかもしれないというのも明らかだ。 イノベーションのインセンティブを高める一方で、 特許はイノベーションのコストも引き上げる。そしてコストが便益を上回るなら、 特許は意味がない。」 ここでいう、「発明は特許の対象となるほかのものと十分に似ているものだろうか」 という問いのみが哲学的に深遠に積み重ねられているわけだ。 その結果がどんなに通常の感覚からして奇妙なものであっても、 積み上げられた学問的解釈と思考の結果はそれらを正当化する。 で、以前 まだ通商産業省があったころ、若手の官僚に、 p. 323 「で、このすさまじい規制方針の変化を正当化するような政策分析は、 いったいどこにあるんでしょうか?」 と同じようなことを尋ねたことがある。そのとき「やってますよ」 という返事をもらったかどうかは覚えてない。でも、 覚えてないということはやってなかったんだろう。いま、 経済産業省において優秀な官僚や有識者を集めて、「知的財産戦略」「特許戦略」 に関するマキァベッリ的な議論が進められていることを心から祈るばかりだ。 でなければ我々は、レッシグ先生が指摘する「イノベーションの窒息状態」 に突入すること避けられない。
p. 325 「[特許と著作権の分野では]、 物質的なモノに対して発展してきたような形での財産概念を盲目的に適用することが、 独占の成長を後押しするのに大きな役割を果たしたのは間違いなく、 そして競争がうまく働くようにするためには、 この分野で大幅な改革が必要なのはまちがいないと思われる。」 というわけで、「御意」としか言いようがない。
p. 326 「そしてアメリカ特許制度の拡大の害は、 アメリカ人よりも外国人発明家にとって大きい(アメリカの法律事務所を雇うなら、 外国からやるより現地にいたほうが簡単だ)。 だから特許保護の拡大は競争の場を小規模非アメリカ発明家から、 大規模なアメリカ発明家に有利なように動かしてしまう。」 そう。特許のグローバル・ハーモナイゼーション (国際的協調)。この間(2002/12) 新聞で報道されたように、WIPOという国際機関に国際特許を一通申請すれば、 加盟国すべてで特許出願したことにしようとか、 国際的に特許付与の条件や審査基準を統一しましょう、という動きは、そもそも 「国家の産業政策」であった特許を、 完全に国家のコントロールから独立した制度にしようとする傾向だ。もちろん、 ハーモナイゼーションはいいことなんだろう。たぶん。でも、 産業上の独占権の付与という国内経済に重大な影響を与える事柄について、 国家が関与できなくなるということは、産業政策の手を縛られたのにも等しい。 それでいいんだろうか? こういう事を書く私は、 アナクロニズムに囚われた国家主義者、右翼野郎なんだろうか? 著作権拡張万歳な人からは左翼(共産主義者)扱いされ、 国際協調特許万歳の人からは右翼(国家主義者)扱いされる私はどっちなんだろう。 ちなみに、アメリカが世界に先駆けてプロパテント政策を取った理由、 ソフトウェア特許、ビジネス・モデル特許を認めた理由についても、 ちゃんと国際的な産業競争上の戦略がある。この辺に関する政策分析って、たぶん、 石黒 一憲 先生あたりがやってるんだろうと思う。残念ながら、 フォローするだけの力が私にないんではっきりと言えないんだけど。
p. 329
「数々の拒否権保持者たちによる戦略的振る舞いの可能性のため、
イノベータとしてはあるアイデアを発展させるのは不合理となる。
ちょうど多くの官僚による拒否の可能性が、
ある不動産の開発を止めてしまうように。」
p. 331
「政府支援の独占が役に立つと考えるべきまともな理由がなければ、
政府支援の独占を作るべきまともな理由もない。」
レッシグ先生って経済産業省でも講演したんでしたっけ? [山根さん]: wiki によれば,独立行政法人 経済産業研究所(RIETI.go.jp)で講演してます.
12 ワイヤレス --- ひいては物理層 --- をコントロール
p. 338 「政府が言論リソースを周波数帯のように割り当てるとき、 その決定はきちんと定義された基準に照らされる ... もし法廷がいまその質問を検討したら、 周波数帯割り当てのFCC方式はまったく問題がないという結論になるのはまちがいな い、と思う。でもそう判断されるのは、 その代替案がまだ開発されていないか理解されていないからだ。」 この部分については、『情報時代における言論・表現の自由』の 「3.3 どのように規制されるのか」 の部分を読んで、最後に説明している、 「最も制限の少ない他の選びうる手段 (least restribtive alternatives)基準」 という部分に注意してもらうと、趣旨が理解できると思う。
13 何が起きているんだろうか
p. 362 「知的財産の文脈では、全般的な問題がもう一つの盲目性によって拡大している。 それは、知的財産を財産として考えることからくるまちがいだ。 知的財産法が保護する権利の性質を単純化することで、 それを車や住宅のようなふつうの財産と同じ財産として語ることで、 われわれの思考はあるきわめて特定の方向へと導かれる。財産として見ると、 知的財産を強化する議論は果てしなく増え、その増大に抵抗する議論はますます減る。 これは陰謀じゃない。これは文化的な盲目性だ。われわれは、 知的財産の性質についてアメリカ憲法起草者たちが知っていたことを忘れてしまい、 そしてそのために、 起草者たちが知的財産保護に対して持っていたバランス感覚を失ってしまった。」 この点については、すでに説明したとおり。
14 alt.commons (代替案としてコモンズ)以下の部分については、レッシグ先生が政府に要求する案を抜粋したもの。 ここまでの部分を読んでれば理由はわかるはず。
p. 372
「国が果たす役割はボトルネックが市場支配力行使のための機会とならないようにす
ることだ。国は競争者として振舞うインセンティブのある、競争的な環境を作る。」
p. 374
「政府はオープンコードの開発を奨励すべきだ」
p. 375
「政府はインターネット空間の大プレーヤーがだれも、
戦略的な振る舞いを強化する形でインターネット空間を造りあげないようにするべき
だ。」
p. 376
「政府がこの役割を実現できる一番いい方法は?
歴史的には一番有効な戦略は参入禁止だった。たとえば政府が、
電話会社がコンピュータサービスを提供するゲームへの参入を禁止すると、
電話会社はコンピュータサービスの各種提供者の間でゲームを演じることにまるで関
心を持たなかった。」
p. 377
「規制当局は中立性とエンド・ツー・
エンドの面からネットワークへの変化を評価し始めるべきだ。われわれは、
コントロールと中立性のトレードオフについてはっきりと考察を始めるべきだ。」
そして、私たちが認識しなければならないのは次の点。
p. 378
「われわれが文化として捉え直すべき中核的発想は、
コンテンツに対するコントロールは完全であってはならないということだ。
アイデアと表現は、ある程度はフリーでなければならない。
それがそもそもの著作権法のねらいだった ... 技術は法と結びついて、
いまやコンテンツとその配信に対してほぼ完璧なコントロールを約束している。
そしてこの完全なコントロールこそがインターネットの約束するイノベーションの可
能性をつぶそうと脅かすものだ。」
p. 381
「この著作権ブラックホールへの解決策は、著作権から便益を得る人々が、
国の支援する便益を保護するために自分で何か手段を講じるようにさせることだ。
そしてインターネットの時代には、このステップはきわめて簡単になる。」
「非公開作品はちがう。... だから私的で非公開のやりとりの場合には、
現在の保護がまったく理にかなっていると思う。
作者の一生プラス70年が自動的に認められ、登録や更新要件はない。」
実は、ここで提案されているのは、きわめて伝統的な英米法系コピーライト理論だ。 『コピーライトの史的展開 (7)』の 「29 コピーライト理論」を読んでみてほしい。レッシグ先生は、 この英米法系コピーライト理論を踏まえて「最初の登録で5年間保護、以降、 15回の更新をみとめる」という新提案をしている。 このレッシグ先生の著作権保護に関する提案について、おそらくアメリカでなら、 「あり得る」提案と見られるはずだ。というのは、1988年まで、 基本的にこの考え方でアメリカの著作権法は運用されていたわけだから。ところが、 山田 奨治 『日本文化の模倣と創造』(角川選書, 2002) の p. 115以降の 「コピーの国のかたち」を読めばわかるように、日本の著作権法は、 初めからベルヌ条約への加盟を目的として導入された。だから、 レッシグ先生の提案は「なにをバカな」でお終いにされるはずだ。もう、 だめぽ... で、1989年にベルヌ条約に加盟してしまったアメリカ。 国内法でレッシグ先生の提案を実践すると条約違反ということになってしまう。 そこでレッシグ先生にその点について尋ねたら、
「ベルヌ条約を改正すればよい」だって。すごいよ。さすがアメリカのトップ法律家だ。 あと、もう一つ、アメリカで使える手がある。アメリカの法システムでは、 文章に書かれた制定法と、 裁判の実務が作り上げる判例法には一定のズレがあるのが当然になってる。 どっちがエラいかといえば判例法のほうが偉い。そこで、対外的には、 強力な排他権として著作権を設定しておきながら、 実際の国内の運用ではイノベーションを殺さないような柔軟な運用をとることができ なくはない。 実は、国際収支を考えると、これが一番オイシイやり方。国外の侵害者については、 保護の厳格なベルヌ条約にもとづいた国際協調の名のもと、 その国の捜査機関や民間警察を使ってビシバシ摘発を行わせ、一方、 国内の研究者やクリエイターについては、判例法上寛大な運用を行うというもの。 そんな二枚舌がつかえるなんて信じられないかもしれないけど、 これを理論的に正当化して、 あたかもごく自然なことであるかのように見せるのが優秀な法律家の仕事なんだよ。
p. 384 「もし社会が、技術で得られる以上の保護をソフトウェア製作者に与えるのであれば、 その見返りがあるべきだ。そしてその一つは、 著作権執行後にソースコードにアクセスできるということだろう。 つまりソフトウェアは5年著作権を保護して、一回だけ更新できることにする。 でもその保護を提供するには、作者がそのソースコードを提出するのが条件だ。 それは著作権が保護されている間はエスクロウで保持される (つもり第三者機関が保存して政府も作者も勝手にいじれない)。 著作権が執行したらそのエスクロウコピーがアメリカ著作権オフィスのサーバで公開 され、入手可能になる。」 この「ソースコードの公開を権利保護の条件とする」というアイデアは、 実は先に紹介した日本の独自立法案「プログラム権法」に同じものがある。 中山 信弘 『ソフトウェアの法的保護 (新版)』(有斐閣, 1988) p. 226, 227 「プログラム権法の骨子」をみてほしい。そこには、「(6) 登録及び寄託」 という項目があり、「(2) 登録時にプログラムの寄託を受理し、非公開にて保管する」 とする。で、「(7) ユーザー保護」の項目で、「(3) プログラム作成者が保守義務を果たせなくなった場合に備え、 登録機関がソースプログラムを受理する特別寄託制度を設ける」としている。また、 「(8) 裁定制度」の項目で、「(2) 公共の利益のために必要な場合 (3) プログラム不実施の場合 等について、 適正な対価と一定の条件のもとで裁定により当該プログラムの使用・ 複製等ができる制度を設ける」としている。
p. 384 「議会はこの著作権法の反動的な性質を制限すべきだ。通常の場合は、 著作権保持者は著作権の強制にあたり被害を証明する必要はないけれど、 大幅な技術変化という状況では原告側は、 著作権保持者が特に被害にあわないということを示す機会を与えられるべきだ。」 これは、先に説明した、「所有権ルール」から「損害賠償ルール」 への転換を意味している。で、ここは訳が間違ってると思う。 「大幅な技術変化という状況では被告側は、 著作権保持者がこれといった被害にあわないだろうということを示す機会を与えられ るべき」でないと、文意が通じない。
p. 386 「議会は同じような強制ライセンス方式を認めることで、 ファイル共有を推進すべきだ。」 これは「強制使用許諾制度」とふつう呼ばれているけど、 これは日本の著作権法にはない。著作権法で認められているのは 「著作権者が不明の場合」に裁定によって著作物が利用できるという制度だけ (著作権法67条)。その他の裁定は、放送事業者やレコード事業者しか援用できない (著作権法68, 69条)。特許法にも、特許発明が3年以上不実施の場合(特許法83条)、 特許発明が利用発明等である場合(特許法92条)、 特許発明の実施が公共の利益のため特に必要な場合(特許法93条) に認められる裁定実施権という制度があるだけ。いずれも、 まず権利者と利用希望者で協議してもらって、 うまく合意できないときに所轄官庁が裁定を行うというもの。 でね、私的な財産である著作権について強制使用許諾制度を設けることは、 政府による私人の財産権の侵害と考えられることになる。これを法令用語としては 「公用収用」と呼ぶ。憲法29条には、「財産権は、これを侵してはならない」 「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める」 「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」 と書いてある。そこで、著作権法 71条以下に「補償金」 に関する規定がおかれている。 ここでレッシグ先生が上記のように言っているということは 「ファイル共有サービスを放送事業者やレコード事業者と競争させよう」 と言うことと等しい。くどいようだけど、『「包括メディア産業法」への私案』をよろしく。 実現するとはまったく思ってないけど、こういう方法もあるよ、ってことで。
p. 387 「ある作品に著作権がなくなっているのに、著作権があると書いてあることだ。 たとえば楽譜出版社はパブリックドメイン入りした作品にも著作権表示をする。 この慣行は既存著作権法に違反している。著作権のないものに、 著作権があるというのは犯罪だ。」 これについてはすでにコメントしてある。 ちなみに、暴力団の皆さんが収益源としているミカジメ料というものがある。
「暴力団は縄張りという自己の勢力範囲で資金活動などをしているわけですが、 この縄張り内で風俗営業等の営業を行いあるいは行おうとしている者に対して、 その営業を認める対価として、あるいはまた、その用心棒代的な意味をもたせて、 挨拶料、ショバ代、守料(もりりょう)など様々な名目で金品を要求し、 この要求に応じた者にこれを月々支払わせていますが、こういった金品のことを 「みかじめ料」といい、暴力団にとっては、 伝統的でしかも重要な資金源の一つとなっています。 出典」「ミカジメ料」と「権利もないのに著作権を主張すること」 がとてもよく似ているように思うのは私だけではないはず。
p. 388 「議会は、著作権保護システムを保護する法律はすべて、 そうしたシステムを著作権法の範囲を越えて保護してはならないとはっきり規定すべ きだ。つまり適切なフェアユースの余地を残したコード保護システムだけが、 議会の法の保護対象となる。」 これは画期的な提案だな。しかし、 著作権保護とフェアユースを両立させるシステムは、 コンピュータ的なロジックでは実現不能だと思う。著作権保護システムに対して、 一定の様態のクラックを権利として認める、ってことだろうか。うーむ。 すくなくとも、現在の立法傾向とはまったく逆だな。
p. 389 「著作権法が設定するはずだったバランス以上の力を著作権保持者に与える州法は、 定めてはならない。こうしたものの中で、いちばん困ったものは 「統一コンピュータ情報交換法」またはUCITAと呼ばれるもので、 これがいま各州にひろがりつつある。...UCITAが売り手と消費者の間に確立するバラ ンスは、 法が著作権とコモンズとの間で確立しようとするバランスを保証するには適切ではな い。」 これについては、「シュリンクラップ契約」「クリックオン契約」 のところでリンク先を読んでくれればわかるはず。商事法分野は守備範囲外なんで、 だれかうまく解説してくれるとうれしい。
p. 391 「作品がいったん公開されたら、 著作権保持者がそれを商業的に提供しつづけない限り、 他の人たちはその作品を活用する権利を得られるべきだ。」 大学で研究していて、絶版になっている本が必要だったとき、激しくそう思った。 売ってないなら、コピーさせろよ。最近はプリント・オン・ デマンドなんていう技術がでてきているので、 必要に応じて生産することも可能になってきてる。 あとさ、私は本版の広辞苑とCD-ROMの広辞苑をもってる。 本版のリーダーズ英和辞書とCD-ROMのリーダーズを持ってる。これ、 どっちか一方買ったら、片方を割り引いてくれないものだろうか。 同じ内容に二度支払いするのはどういうことなんだろう。 CD-ROMのメディア代金は100円くらい。残りの値段は内容に対するものでしょ? 私が本版のリーダーズ英和辞書を持っていたら、 内容に関する支払いのほとんどは済んでることになる。「メディア・コンバート」 ということで、500円くらいでCD-ROM版を売ってくれないものだろうか。
p. 392 「特にそれは、目下の特許権の拡張としてもっとも問題の多いもの --- ビジネスモデル特許とソフトウェア特許 --- を正当化するための経済研究を行うように要求されるべきだ。」 経済産業省のみなさん。ぜひぜひ真剣に取り組んでくださいませませ。
15 オイラはわかってる?というわけでようやくおしまい。ああ、疲れた。
Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |