本稿では、まず特定の作品の印刷特権を保有するものと保有しないものの間で生じた、
コピーライトから生じる利益をめぐる闘争をみる。この利益闘争の直接の結果として、
「英語版株」と呼ばれる国王大権によって保護されたコピーライトを、
カンパニーの内部で共同保有する機構が生じた。つづいて、
「書籍業者のコピーライト」(Stationers' Copyright)と呼ばれる、
特定の作品のコピーライトが処理される仕組みについて検討する。
これは現代の英米法系コピーライトの原形となったもので、
登記を権利の成立要件とするものである。
1 反独占運動
1.1 独占者1533年の「印刷業者および製本業者に関する法律」 [1]をきっかけとして、 印刷業者の書籍業ギルドへの集中がはじまり、 1540年以降書籍業ギルド内部でのコピーライト管理が効力を発揮するようになった。 これを受けて、国王から個人への出版特権の付与についてはその数が減少したものの、 特権の規模はむしろ広範なものとなっていた。これは出版業界に限ったことではなく、 当時の一般的な傾向だった。各地方都市に中世以来~存在するギルドの営業独占を承認するという地域営業独占の 形態は、16世紀なかばを境に変化を見せるようになった。すなわち、 エリザベス1世からチャールズ1世に至る、 産業の国家的規模による統制が明確なものとなってきたのである。その一方で、 産業振興という当初の意義は失われ、 単なる国王の恩寵としての独占が広く付与されるようになっていた。 これらの勅許は1580年代以降には日用品、生活必需品にまでひろがり、また、 期間が限定されていたはずの勅許が繰り返し更新されるということが始まった [2]。これによって、独占者 (monopolist)と呼ばれる特権商人たちが生じてくることになった。 これらの独占者による害悪は、 書籍業カンパニー内部において1570年代にはすでに顕著になっていた。 これはカンパニー内部で印刷業者の勢力が衰退し、 代わって書籍販売業者の勢力が強まるという傾向と軌を一にする。 独占による害悪とは、 小規模な印刷所を経営する印刷業者たちの仕事が減少することによる経営困難と、 これに起因する失業者であると記録には繰り返し謳われる [3]。そして、 1578年の終わり頃からしだいに批判の矛先は勅許獲得者の印刷独占に向かうようにな るのである。 出版業独占の状況について概観する。 1冊あたりの単価が安価で読みやすく一般的な出版物(例えば、祈祷書、歌集、詩篇、 低学年向け教科書)、あるいは継続的に収益が見込まれる出版物(例えば聖書、 判例集、法律書、暦)は、印刷術が複製術であることから、 最も収益の高い商品であることは説明を要しないだろう。 これらの収益の高い商品のほとんどすべての印刷特権が書籍業カンパニーの幹部に集 中するようになっていたのである [4]。 これらの特権の存続期間は生涯(for his lifetime)、 あるいは複数の人物に与えられた場合はより長生きした方の人物の死亡まで (for their joint lives)であることが多い。 これらの他に特定の書籍について勅許状が付与されることもあった [5]。 独占に対する小規模な印刷業者の対抗手段は、なかば公然たる海賊出版だった。また、 多数の失業者たちの存在が秘密印刷工房の増加を促したことも想像できる。 1583年にロンドン司教が秘密印刷工房の摘発に乗りだしているが、このこと自体、 1580年前後の秘密印刷工房の増加を示すものである [6]。そして1580年代には、 すでにかなりの数の印刷業者が、 勅許状に認められた特権を侵害したとしてカンパニーから罰金を科されるという異常 事態が生じていたのである。この時期、 最も確信犯的で大規模に海賊版の出版を行っていたのはウルフ(John Wolf) とその同調者たちだった [7]。 1582年2月7日にはウルフの同調者の一人を被告に、 海賊出版の差止を求めて外部の裁判所に訴え出た記録が現れる。
1.2 ジョン・デイ事件それは独占者デイ(John Day)が海賊印刷業者ワード(Roger Ward) および違法出版物を取り扱った書籍販売業者ホームズ(William Holmes) を星室庁に訴え出たジョン・デイ 対 ロジャー・ワードおよびウィリアム・ ホームズ事件 [8]である。訴状の中で、 デイは1566年星室庁布令(decree) [9] の条文に基づいて、 1577年に彼に付与された勅許 [10] を保護するように求めている。勅許でデイに与えられた「信仰問答書付きABC本」 (初学年用の文法書)の独占印刷特権を侵して、ワードが“John Day”の名を掲げて、 この書籍に不当な改竄を加え安価かつ大量に印刷し、 さらにこれらの違法な出版物600冊をホームズが製本し販売したことを訴えている。これに対するワードの訴答 [11] がこの当時の反独占運動の世情をよく表している。まず、 彼は訴状で述べられている布令も開封勅許状も知らないと述べ、 つづけて独占への批判を堂々と展開するのである。
また、特権にあずかれないそれらの印刷業者は多数であり、 世帯主である彼らの多くは非常な困窮に陥っているのである。 そして偽りの特権と幸福の制限のため、彼らの生活のための商売から、 辛うじて飲食を維持しているだけなのである。 事態は貧しい印刷業者にとってまことに苦しく惨めなものになっている。 したがってそのような公共の福祉等に対する不法さもまたこの栄光ある 裁判所、あるいは女王陛下に申し上げられるべきなのである。 また、ワードは星室庁の審問(Interrogatory)に答えて、 ABC本を5000冊程度印刷したことを証言している [12]。さらに、 同時に被告となっているホームズは、 審問に答えて彼自身が500冊を購入したことを認め、 残りの大量の印刷物については他の書籍販売業者に売却されたことをほのめかしてい るが、 彼は他の売却先について知らないとしている [13]。デイ側の証人として (おそらくは共犯の容疑者として)審問に応じた他の書籍販売業者たちは、 いずれもが具体的な売却先および数量について答えていない [14]。 一版あたりの印刷数量が1200冊程度だった当時のロンドンの出版状況を考えれば、 5000冊もの出版物が売却されたとすれば、多数の販売業者の手を経なければならない。 これらの証人が売却先について全く知らないということはありえないだろう。 したがって、仮にこれらの証人がデイのための証人として証言しているとすれば、 ワードの主張するような反独占的信念が支持を集めていた証拠であり、 逆に彼らがいずれもワードの海賊版を取り扱っており、 保身のために偽証しているとしても、 海賊版の取り扱いが流通業者の間では一般的になっていた証拠となる。 この事件の判決については収録されていないが、1582年11月の「クリストファー・ バーカー(Christopher Barker) 報告書 [15]」には、 ワードが投獄されている旨の記述が見られる。
1.3 反独占運動への対応これらの出版における反独占運動の盛り上がりは、 とくに大量の海賊版出版という闘争手段において、 書籍業カンパニーの幹部たちにとって深刻な事態だった。 紛争の増加による訴訟事務の増大は言うに及ばず、 書籍業カンパニーの発する命令が公然と破られることによるカンパニーの権威の低下、 書籍流通制度の中心点である独占印刷権の動揺、それに、 なによりも書籍流通の秩序維持を大義名分として設立された書籍業カンパニーが、 自己の内部紛争について十分な処理ができず外部の裁判所の権威に頼るという、 存在意義の根本をも揺るがす事態になっていたからである。この事態を乗り切るために書籍業カンパニーの幹部たちは二つの異なった戦略を用 いた。一つは特権を付与された独占印刷者たちが譲歩し、 自己の保有する独占印刷権を複数の人物、 とくに最も強硬な海賊業者との共同保有に切り替えて彼らを懐柔しようとする戦略で あり、他方は、 新しい星室庁布令で書籍業カンパニー幹部の権限を一層強化しようとする戦略である。
1.3.1 海賊出版業者の懐柔策反独占運動を書籍業カンパニーの内部で制御しきれなくなった1582年には、 書籍業カンパニーの幹部が保有する独占印刷勅許を他の複数の人物と共同保有にする ことが始まる。特権から生みだされる経済的利益を多数の人間に広げることで、 特権を擁護する動機を持つ者を広げようとする苦肉の策だった。1582年10月の日付のあるセレス(William Seres) から彼の勅許の後援者であるバーグレー卿(Lord Burghley) に宛てた書簡 [16] の最初の段落の末尾で、彼が父親から相続した特権をデンハム(Henry Denham)に貸与 (rent)しているのだが、 デンハムはそれを三人の若い書籍業カンパニーの構成員と共同保有にしていると述べ ている部分がある。 また、同じ1582年10月、 被告となっている反独占運動の頭目ウルフへの寛大な処分を求めるウルフの親方ゴリ ング(Geoge Goringe)の嘆願書を同封したノートン(Thomas Norton) の書簡が大蔵大臣宛に出された。これに対する返書に、 その当時の勅許の保有状況の一覧が掲げられている [17]。 そこでは8件の勅許が挙げられ、そのうち、5件については、すでにその権利が分散 (dispers)しているとされている。分散という言葉の意味が、 勅許保持者の合意のもとで行われた共同保有であるのか、 あるいは彼が自己の特権を護りきれなかった結果の“実質的” 共同保有なのかは明らかでないが、これらの一覧のとおりであるとすれば、 独占が議会で問題となりはじめた 1601年以前には、 すでに主要な出版物の特権は実質的に共同保有形態に変容していたということになる。 これは明らかに反独占側の勝利であるのだが、 独占から生じる甘い蜜にあずかれる人物が増えたことによって勅許それ自体はむしろ 広く擁護されるようになったのである。1583年の 「書籍業カンパニーの紛争に関する枢密院によって設立された委員会の最終報告」 の要旨 [18]を見てみると、 最大の抵抗者ウルフは、すでに懐柔され、 勅許に反対する印刷業者は四つを越えないと報告されており、 書籍業カンパニーの反独占運動は終息に向かっていることがうかがわれる。 またここで、勅許保持者が死亡するか、 あるいは勅許の期限が満了することによって無効となった勅許を、 カンパニーを通じて印刷業者たちの利用に付すことが反独占者たちから要求されてい る。この要求は翌年1584年にやや形を変えて実行に移された。 貧しい印刷者たちの用のために大量の版が勅許保有者からカンパニーに贈与されたの である [19]。 これらの版は勅許保有者でもある書籍業カンパニーの幹部たちの処分に任されている。 これによってカンパニー内部の貧困層の不平を抑えることができ、 勅許を行使する権限を自分たちに留保したまま、 すでに収拾がつかないまでに広まった海賊出版を追認し、 書籍業カンパニーの規約が公然と無視されるという状態を正常化することができたわ けである。 しかし、これらの一見円満な解決策には法的な問題があった。 女王から特定の個人に付与された勅許を勝手に処分することは、 女王の大権を侵害する行為だからである。 ノートンの書簡への返書に掲げられている勅許の保有状況の一覧に続いて、 大蔵大臣は次のように述べている [20]。
1.3.2 1586年星室庁布令書籍業カンパニー内部の反独占運動に起因する紛争を、 書籍業カンパニー幹部が効果的に抑制できなかったこと、 とくに特権に関する紛争をカンパニー外部の法廷で争わなければならなかったことで、 政府の側では書籍業カンパニーの統制力についての不安を増大させ、 一方書籍業カンパニーは一層強力な権限の必要性を感じることになった。政府側の出版業界の混乱に対する対応としては、 1577年には印刷の制限に関する法案が準備され、 これを修正した法案が1580年にランバード(William Lambard) 議員によって提出されている。その 「不法な出版と無益で有害な英文書籍の販売と配布を制限する法案」 [21]では、(1) “Govrenours of the Inglish prynte”と呼ばれる検閲機関の創設、 (2)3人の検閲官の連名の署名による許可を要求する出版事前許可制度、(3) 本の第1頁あるいは第2頁に、 出版に関与した人物の名前と出版の日付を記載することの要求がなされ、 違反者に (4)20ポンドの罰金の徴収、(5)特権に由来する利益の没収、(6) 特権の剥奪 (7)出版事業からの追放が準備されている。 この法案は制定法にはならなかったが、 法案に盛りこまれた内容は後の出版許可法に繰り返し現れることになる。また、 1583年には、枢密院委員会報告が提出されているが、 それは 1586年星室庁布令の基礎となったものである [22]。一方、 書籍業カンパニーの対応としては、1584年10月に、 1557年の法人化勅許状の内容を再確認するか、 書籍の取引に関する一層の取締権限を認める議会の制定法(Act of pliamt) の獲得のために書籍業カンパニーの貯えの中から出費することを認める決定がなされ た。この出費は1586年まで継続しており、 それは主に星室庁への活動に充てられていた [23]。 このような政府側と書籍業カンパニー側の思惑の一致を背景として、 1586年星室庁布令は発布された [24]。 その内容は9条から成っており、内容は次のとおりである。(1) 既存の印刷所の届け出と今後の印刷所設立にあたっての届け出の義務化。(2) 印刷所を設立できる都市をロンドンとオックスフォードとケンブリッジに限定、 また違法印刷所の査察の妨害の禁止。(3) 既存の印刷所の数を減少させる方針が示され、宗教的権威 (カンタベリー大司教およびロンドン司教)による印刷所および親方数の制限、 印刷所の設立および親方選出に関する書籍業カンパニーでの手続の様式化、 監督権限の強化を定める。(4,5)検閲制度の導入と宗教的権威による検閲の義務化。 (6,7)書籍業カンパニーの査察権の強化、違法な印刷機器および印刷物の没収と破壊。 (8,9)印刷業者数の過剰を避けるための徒弟数を制限。ただし、 ロンドンの慣習を尊重して、ロンドンの自由職人(freeman) を使用することを認めている。 1586年星室庁布令と1580年のランバード法案とを比較すると、 1580年法案に見られた“Govrenours of the Inglish prynte” が法曹を含む幅広い層から検閲官を集めているのに対して、 星室庁布令の方は主として宗教的権威が検閲を行うことになっている。また、 1580年法案の方では検閲官の署名、出版に関与した人物の名前、 出版の日付を明示することを義務づけているのに対して、星室庁布令では言及がない。 一方、1586年星室庁布令で顕著なのは、印刷所と印刷職人の数の制限であり、また、 それらを直接に書籍業カンパニーが監督し、 宗教的権威が上位機関としてカンパニーを支配することになっていることである。 これに対応して書籍業カンパニーの統制権は大幅に強化されることになっている。 コピーライトに与えた影響として重要なのは4条と5条の検閲制度の導入である。 条文では、出版許可(allow)を獲得するには、 「女王陛下の差止令状で指定された様式に従って (to thorder appoynted by the Queenes maiesties Iniunctyons)」とされており、 具体的な手続に関しては触れられていないが、 「ロンドン市の書籍業カンパニーによる、 よき監督のために与えられたあらゆる認証された規約に反することなく」 出版を行うべしとされていることから一度はないがしろにされていた書籍業カンパニ ーの規約が再び重要視されはじめたことが考えられる。しかも、 今後は出版に際して外部の権威から許可を受けることが必要になった。 それまでカンパニーという共同体の内部で曖昧に行われていた出版許可制度がより厳 密な手続を必要としはじめたのである。
2 英語版株1580年代の反独占運動が生みだした独占出版権の形態として、「株」(stock) と呼ばれるものがある。これは、 継続的に収益が見込まれる一つの領域の出版特権を特定多数の人間で共同保有するも のである。 書籍業カンパニーが関係した「株」には3種類、「英語版株」(English Stock)、 「ラテン語版株」(Latin Stock)、「アイルランド株」(Irish Stock)があった。 後二者はいずれも経営に失敗して早期に消滅しており、 本論文ではふれない [25]。
2.1 英語版株の成立過程一つの領域の特権を幅広い人々で共有しようとする試みは、 1575年にはすでに行われていた。1575年6月8日に王室印刷人だったジャッジ (Richard Jugge) が四折版聖書および新約聖書の独占印刷の勅許を獲得したのだが、 同時に残りの全ての無綴版聖書および新約聖書を他の書籍業者たちの自由な使用のた めに公開している。「良き規律と静謐のために保有され使用されるために、 前述の聖書および新約聖書について皆で印刷するべく与えられた [26]。」 しかし、このあまりにも寛大な処置は翌日には変更を見ることになる。 権利放棄とも理解されうるこれらの処置は、 出版統制に責任をもつ書籍業カンパニーの監事たちの不安を喚起したのだろう。 9日には無綴版聖書および新約聖書に関する前述の権利が書籍業カンパニーの監事お よび補佐役に譲渡されて、彼らの監督のもとに出版が行われることになった。 それでも「前述のように皆で印刷するべく [27]」 とされていたから排他的なものではなかった。 これに応じて10人の印刷業者が参加している。権利放棄という形態ではなく、 書籍業カンパニーへの譲渡という形態をとることで、 カンパニーの出版統制力と出版物の品質を維持する目的だった。 具体的には出版物を書籍業カンパニーの会堂(hall)に提出して品質検査を受け、 許可をとることが要求されたのである [28]。これらの、特定人に属さない一群の版が存在するという事態は、 それまで暗黙に存在していた共有領域(common stock) が明示的に存在するようになったことを意味する。 この聖書に関する独占印刷特権の共同保有はジャッジの死亡によって終了したと考え られている [29]。 1580年以降の反独占運動の激化によって、このような“common”の形成は、 独占印刷権を反独占運動家の懐柔に用いる戦略に取って代わられ、 独占者と数人の印刷業者からなる閉鎖的な特権の共同保有へと後退した。しかし、 1584年には再び書籍業カンパニーへの特権の譲渡が行われ、 制度上は全ての書籍業カンパニーの構成員がその恩恵にあずかれるようになったわけ である。英語版株の原形となったこれら“common”の利用は1586年から始まっている。 印刷業者がこれらの版を利用する場合、条件が付された。それは 「他の誰でもないこの書籍業カンパニーの自由職人だけが関与すべきこと [30]」 「それが目的とされている命令に適う貧民の救済のために前述の版の1ポンドあたり 6ペンスを支払うべきこと [31]」 である。第一の条件は「カンパニーの用のため」(for thuse of the Company) と呼ばれ、権利主張のないコピーライト(unclaimed copyright) を特定の印刷業者のために許可する場合にもこの言葉が使われていたことから、 カンパニーの構成員の仕事のために版が使われることを指していると理解される。 第二の条件は、 1603年の英語版株の設立時に定款に組みこまれた年間200ポンドの救貧支出にそのま ま対応する [32]。 また、共同保有コピーライトを運用する機関の成立については、1588/9年に 「デイの特権の共同事業組織」(the partners in Day's privilege)に、出納役 (Treasurer) が存在したことをうかがわせる記録がある [33]。そして1591年10月には “partners”が会合を開いた記録がある。そこには書籍業カンパニーの監事長、 監事たち、6人の補佐役と4人の印刷業者が出席している。 この会合ではケンブリッジ大学の印刷業者がデイの特権の一部である「ダビデの詩篇」 を印刷していることに対する訴訟を提起することが決定され、 そのための費用が出納役を通じて“comon stock” によってまかなわれることが決定された。ついで1594年には、 やはり書籍業カンパニーの監事長、監事たち、6人の補佐役が参加する会合が開かれ、 その議事の中で出納役(Treasurer)と 4人の管理役(Stock-Keeper) が選出されている [34]。 そして1598/9年には出納役に、「株」から印刷業者に信用供与を行う場合「株」 の持分の価額を越えないことを定める規約が示されている。これらのことから、 1584年に書籍業カンパニーに譲渡された一群の出版特権の一部は、 カンパニーの幹部たちをそのまま役員に据えて、カンパニー内部の共同事業 (partnership)として運営されていたことが推測される。 1603年にはエリザベス1世からジェイムズ1世へと王位が移ったため、 この国王の交代で共同保有勅許は法的な基盤が危うくなった。 共同保有されていた版についてのいずれの勅許も、 本来~王室印刷人が印刷すべき版を民間の印刷業者に与えたものだったし、 国王が交代したときに既存の勅許を破棄し別の人間に与えることは頻繁に行われてき たからである。最も望ましい解決は、 既成事実となっていた1584年の書籍業カンパニーへの独占出版特権の譲渡を維持する ため、書籍業カンパニーがそれらの勅許を一括して直接国王から獲得することだった。 書籍業カンパニーは1601年に8人からなる委員会を設置して共同保有の勅許を継続さ せる工作を開始した [35]。 1603年5月には勅許の申請が行われている [36]。 このようにして1603年10月29日に国璽(Privy Seal)のもと、 開封勅許状で英語版株は誕生したのである。
2.2 英語版株2.2.1 英語版株の内容ジェイムズ1世から付与された英語版株に関する勅許状の内容を検討する。 勅許状は三つの内容からできている [37]。第一は小祈祷書、 詩篇および賛美歌集(Prymers, Psalters, and Psalems) に関するものであり、 第二は暦および予言書(Almanackes and pronosticacons)に関するものである。 そして第三はこの勅許を実施するのに必要な諸権限を与えるものとなっている。この勅許は上記の英語 [38](Englishe tonge) 出版物の印刷を行うための
第一部と第二部の内容は与えられた権限についてほとんど同一だが、 暦と予言書についてはカンタベリー大司教あるいはロンドン司教の許可を要求し、 検閲官の名前を表題に印刷することを要求している。
第三部で与えられた権限は捜査に関するもの、規約制定権に関するもの、 および刑罰の執行権に関するものである。 1557年の書籍業カンパニーの法人化勅許状で与えられた諸権限と比較して、 注意を引くのが規約の制定権に関する政府の介入の程度と、 徴収された罰金の帰属先である。 1557年の勅許状では、 書籍業カンパニーの規約に関して具体的な監督機関の記述はない [40]。ただ、「王国のコモン・ ローと制定法に矛盾したり反したりせず、朕の王国の利益を侵害しないよう」 [41] という一般的な規定があるのみである。一方、1603年の勅許状では、 規約の内容や刑罰については政府の監督が詳細に規定されている。
また、徴収された罰金の帰属先について見てみると、1557年の勅許状では、 没収される100シリングのうち「その二等分されたものを朕、 あるいは朕の相続者または継承者に、 そして他の半分を前述の監事長と監督者あるいは監事、および共同体に」 と折半するように規定されていたのに対して、 罰金および没収品の利益はすべて書籍業カンパニー側に帰属するように規定されてい る。実際の運用で折半という方法が非効率だったか、 あるいは政府側が罰金から得られる利益よりも罰金を全額書籍業カンパニーに帰属さ せることによる取り締まりへの誘引効果を重視したためだろう。 全体として、祈祷書類、暦、予言書に関して国王の持っていた権限を、 書籍業カンパニーが完全に引き継いでいることが理解されると思う。 反独占運動を利用して、 書籍業カンパニーは永久に外部の勅許保有者に脅かされることのない地位に昇りつめ たのである。1603年の勅許状は1616年には国王に返還され、 同年に一層権限を拡大したほぼ同一の構成の勅許状が再交付されている [42]。
2.2.2 コピーライトへの影響英語版株の保有する特権は、 勅許によって書籍業カンパニー全体に与えられ運営主体が書籍業カンパニーの幹部と 同一だったために、両者の運営上の区別は曖昧だった。しかも、 最も収益の高い出版特権を保有していたために流動資本が潤沢であり、 カンパニーが大きな出費にみまわれた場合にはその一部を負担している。 例えば1611年に書籍業カンパニーは “Abergavenny House”と呼ばれる会堂(Hall) を購入したが、 その費用は同年に行われた英語版株の増資による資本から支出されたし [43]、 1614年のロンドンデリー植民のための出資はカンパニーのために同年に行われた英語 版株の増資分から支出されている [44]。このように英語版株の資本は、 事実上、書籍業カンパニーの経済活動の中心だった。 その出版特権の処理の手法は同時期に形成されつつあった「書籍業者のコピーライト」 (Stationers' Copyright) に影響を与えていると考えられる。パターソンは英語版株が印刷業者に与えた権利を印刷者の権利(Printers' right) として把握し、 書籍販売業者が保有したコピーライトとは別のものであると考えている [45]。そして、 その両者が別々の権利だった証拠として、 印刷権と出版権が別々に譲渡されている事例を掲げている [46]。 コピーライトと印刷者の権利を分離するこの見解は、 英語版株が印刷業者に仕事を保障するという機能を果たしたことと、 17世紀初頭以降に進行する書籍販売業者と印刷業者の機能分化を念頭においたものだ と思われる。一方、書籍販売業者と印刷業者の共同事業の形態については、 出版物の奥付(imprint) と書籍業カンパニーの登記簿とをつき合わせて検討したシャーバー(M. A. Shaaber) の研究がある [47]。 奥付も登記簿も不正確であることが明らかになっているので、 この研究から結論することは困難だが、共同事業で問題となっている権利は、 事業から生じる収益への請求持分であり、 この権利が共同事業に参加している販売業者にあるときにはコピーライトに見え、 また、印刷業者にあるときは印刷者の権利に見えるというもので、 とくに両者を区別する必然はないように思われる。 むしろ重要なのは、一つの領域の版、例えば「法律書」 というような大きな枠組みで複数の版の出版特権が単独の人物に帰属していたという 状態が変化し、一つの版、例えばシェイクスピアの『ハムレット』 というような単独の作品の出版に多数の人物が共同でかかわり、 コピーライトの登記も複数の人物の連名で行われるようになったということなのであ る。シャーバーの研究を見れば、 明らかにコピーライトは持分に分割して共同で保有しうるものとして、また、 その持分としての権利はあたかも株式のように独立して売買可能なものとして、 17世紀の書籍業者たちに理解されていることがわかる。 そして英語版株の成立によって、 共同保有された一群の印刷特権についてその個々の版の個性を問わず、 全体としての収益について持分を保有するという権利処理機構があらわれることにな った。このため、 コピーライトが株式と同様のものであると理解されていたことは間違いない。 英語版株自体は明らかに特権を共同保有したもので、 現代的意味のコピーライトとは違うという反論もされるだろうが、 この後の論述で見られるように、 書籍業者たちは共同保有することができる経済上の権利と著作者から譲渡された作品 についての支配権を区別していない。一つの作品について、複数の権利者が連名で、 海賊版による被害からコピーライト(著作者の権利) を保護するように訴訟を起こしている例は後の時代に頻繁に見られる。
3 書籍業者のコピーライト1557年の書籍業カンパニーの法人化勅許状にも [48]、 1559年のエリザベス女王の差止令状にも [49]、 書籍業者のコピーライトに関する記述はない。 いずれも書籍業カンパニー外部の機関の起草によるものだから、 書籍業カンパニー内部の慣習に由来する書籍業者のコピーライトには無関心だったの だろう。ただ、出版許可制に関しては、法人化勅許状を、 1559年にエリザベス女王から再認証してもらう際に準備されたと考えられる覚え書き に、 「印刷前に全ての書籍やその他のものは書籍業カンパニーの許可を得るものとする」 と記されている [50]。 これを裏付ける記録として、印刷許可(licence) を獲得するためのカンパニーへの印刷物の提示が、 罰金とともに義務化されていたとうかがわせる 1557年の収入記録がある。
書籍業者のコピーライトついて明確に言及した最初の記録は、 「議会とロンドン市長の命令集」 [52]に収録されてる。
全てのそのような許可の記録と特権と利益の決定 および未販売の書物の確認は、 特権の登記がかつてそうしていたと同様に事務員に対する手数料の支払 いとともに、 その旨このカンパニーの登記簿に登記されるものとする.... [53] カンパニーの認証によるコピーライトは、1583年7月18日の 「書籍業カンパニーの紛争に関する枢密院によって設立された委員会の最終報告」 [55]にも現れており、当時、 すでに公的な認知を受けていたことがわかっている。
コピーライトが登記によって保護されたことは明らかとなった。 つづいてコピーライトの成立要件について、 つぎに登記の法的な効力について検討する必要がある。
3.1 バーンズ事件そこで、シション(C. J. Sisson)が{ The Laws of Elizabethan ry 8, 10─ (1960) の中でとり上げたバーンズ 対 マン事件 [57](以下、「バーンズ事件」) の証言記録書を参照する。そして、 ここで証言されているコピーライトの成立要件について検討する。コピーライト成立の要件について、一般的な見解は次の通りである。
しかし、より興味深いのはコピーライトの認証が“assignment” と表現されていたことである。 OEDでこの語を調べると数多くの項目が掲げられているが、大きく分けると、 「何かを割り当てる/譲渡する」というものと、「すでに存在する物の起源、 製作者を誰それであるとする」というものになる。したがって、“assign” されるものは認証によって発生するのではないことは明らかである。それでは “assign”されたものは何か。 それはどこから由来しているのかが書籍業者のコピーライトの理解の中心点となろう。 これについての考察は概観の後に行う。
3.1.1 認証具体的なコピーライト認証の手続の様子については不明である。しかし、 このバーンズ事件では、コピーライトの「移転」については、 より具体的な証言が述べられている。 以下は事件当時~監事長だった [61]、 ドーソン(Dawson) の証言である [62]。
コピーライト獲得の主張も、宣言を行う先が監事に変わるだけで、 移転の場合の手続と同様に処理されていたと考えられる [68]。 つぎに検討すべきことは、先のスウィンハウの証言によれば、 コピーライトの認証はただ一人の監事の署名でも足り、 さらに補佐役会以外の場所でなされてもかまわないと主張している点である。ここで、 書籍業カンパニーの組織図を掲げる [69]。
Table 1: 書籍業カンパニー組織図The MasterUpper or Elder Warden ────- Under Warden The Court of Ancients or Assistants; or Common Council of the Company Upper Renter [Warden] ────- Under or Assistant Renter [Warden] The Livery The Yeomanry or Freemen The Clerk The Beadle The Brethren The Apprentices
しかし、バーンズ事件での「権利移転」に関する証言を検討してみると、 この証言の「監事のいずれか一人による補佐役会外での認証でもよし」 という要件の意味が変わってくる。 当時、下監事だったローンズ(Lownes) [71]は、「譲渡者は、 公的には会堂で、また私的には彼らの自宅で監事たちに譲渡を表明し、 彼自身の口頭での言葉によって、 譲渡の認証がなされたことを譲受人に知らせなくてはならない」と主張し、 書面のみによる移転が行われた事例を知らないとした。一方、前出のスウィンハウは 「譲渡者が、開廷されている補佐役会の場で、 監事たちと補佐役たちの前で譲渡を宣言することは義務である」とし、 仮に書面によるとしても、 その書面を補佐役会に提出し認知されなければならないとした。そして、 慣習に基づいてコピーライトの移転を監事が単独でなしえたかどうかはわからないと した [72]。 このように、 書籍業カンパニーの幹部たちの間でコピーライトの移転に関する手続の証言が食い違 うのは、移転手続が慣習によって形成されつつある途上だったことを意味している。 したがって、コピーライトの認証手続に関するスウィンハウの証言もまた、「事実上、 単独の監事の署名によって補佐役会以外の場所でなされた認証も有効だった。」 という程度でしか理解してはならないだろう。これは言い換えれば、 コピーライトについて争いが生じなければ、有効であるという意味である。 そもそも、 版の占有および印刷の許可や免許を持っていることを証拠立てるのみならず、 補佐役会に権利を申請すること、 および事務員によって権利が登記されることを確認することまで申請者である書籍業 者の責任とされたから [73]、 監事による認証で厳密な審査が行われたかどうかは疑問なのである。「もし、 これらのいずれかが誰か他者に帰属していた場合、この登記は無効である」 [74]というような記録さえ存在する。 そしてそれゆえ、認証によって認められたコピーライトは、 絶対的な効力を持ちえなかったのである。
3.1.2 登記コピーライトの認証を与えられた書籍業者は、 その認証を証明する文書を事務員に提出し [75]、 手数料 [76] を支払って登記簿に記載されることになる。その登記簿の記載は、 その書籍業者がコピーライトを保有することの最も有力な証拠となり、 その権利が書籍業者たちの間で尊重される [77]、とされている。 ところが1585年頃の登記簿には、「これは以前の登記で他者に帰属していたので、 当事者の協議による合意の結果、以前の登記に従う」 旨の記録 [78]もあり、 前に述べたコピーライトの認証と同様に、 一応の証拠としての価値しかもちえなかったと考えられる。キーシュバウム(Leo Kirschbaum)によれば、1577年から1590年の間で、 未登記を理由として、 罰金を科された記録がないという [79]。その期間、 出版許可なしの出版への罰金の記録はいくつか見られ、 その罰金がそのまま登記の費用として記録されている例もあるという。一方、 罰金が科されたものの、登記されないままになっている例もあり、 この期間で登記が規約によって強制されていたと考える根拠に乏しいとしている。 そして、その理由として、 出版許可の獲得が登記と同じものであると考えられていたのではないかと推測してい る [80]。一方、 1637年から1640年の間の記録では出版許可とコピーライトの根拠となる登記が区別さ れて記述されているとする [81]。 グレッグ(W. W. Greg)によれば、 1602年には補佐役会で登記をするように促す内容の議事録があり、 すでに違反者に罰金を科していたということである [82]。さらに、 登記なしの出版に対して罰金を科した確実な記録が1599年と1602年に見られるとする [83]。加えて、 すでに1586年には星室庁布令で登録されていない書物の出版が禁止されていた [84]から、1600年頃までには、 登記簿に記載されない出版が違法なものであるという見方が生じていたとも考えられ る。1622年9月27日の補佐役会の記録では、
その裏付けとしては、 1603年のジェイムズ1世の即位から 1640年の清教徒革命直前までの期間で、 登記簿に記載される内容が最も完全で正確なものになり、版の表題、 出版者名のみならず、二人の保証人、出版許可を与えた聖職者名、 書籍業カンパニーの監事名までが通常記載されるようになっている [86]ことが挙げられる。 シションは登記が書籍業者の意思と選択に任されていたとしている。 登記をしない事は通常のことであり、 登記をしない事によるコピーライト紛争の場面での不利は私たちが想像するよりも小 さいものだった [87]。例えば、 当時の書籍の市場は十分に小さかったので、ひとたび出版されてしまえば、 出版業者が海賊版を出すための市場はほとんど残っていなかったのである。また、 共同体としてのカンパニーの規模が十分に小さかったので、 他人に権利の侵害をされた書籍業者は補佐役会の席でたやすく権利の帰属を争う事が できたのである。また、 他の論者もコピーライトは監事の許可によって与えられるのであり、 登記は本質的にはカンパニー内部で認知されている版に対する所有権の慣習的な証拠 に過ぎないと考えている [88]。 以上をまとめると、登記の意義とは、 書籍業者については自己のコピーライトを維持する根拠であり、 書籍業カンパニーにとっては出版に対する書籍業カンパニーの権威を維持する手段で あり、政府にとっては検閲・ 出版統制を確実なものとする手段だったということになる。ただし、 いずれもが徹底されず、結局は書籍業カンパニー内部で慣習的に 「必要なものに限って」登記が行われていたに過ぎなかったのである。
3.2 “assignment”についての考察先に述べたように、コピーライトの付与は “assignment”と呼ばれていた。 このことから、コピーライトは書籍業カンパニーの認証によって生じるのではなく、 何らかの他の権利の源泉から生じ、 それがカンパニーによって割り当てられていると書籍業者たちが考えていたのではな いかという仮説が立てられる。コピーライトの源泉として考えられうるものには二つある。一つは国王大権であり、 もう一つは著作者の権利である。
3.2.1 国王大権国王大権を権利の源泉としてみるならば、“assignment”は、 国王大権に基づいて観念的に書籍業カンパニーが保有している包括的な出版特権を、 一部だけ特定の個人に「割り当てる」という意味で理解できる。 書籍業カンパニーはイギリスにおける出版業を独占しており、 出版にあたっては必ずカンパニーの認証を必要としたのであるから、 現在存在している作品のみならず、 将来創作されるであろう作品についてもコピーライトは包括的にカンパニーに帰属し ているということができる。しかし、 法人であるカンパニーが現実に出版をすることができないので、 それを現実に印刷機を動かして出版することができる印刷業者にコピーライトを分配 するのである。 この考え方はおそらくイギリスの土地所有権制度と同様の発想に基づいていると思わ れる。イギリスでは全ての土地は国王の所有物であり、その他の人は土地を所有しえず、 国王から直接・間接に土地保有条件(tenure)を与えられて受封者(tenant) となることでのみ、土地を保有することができた。 そして直接国王から受封したものが直属受封者(tenant in chief)となり、 彼もまた役務との交換契約をもとに、 与えられた土地を下位の人物に与えることができた。 このように土地については重層的な権利関係が存在した [89]。 書籍業カンパニーの“assignment”も同様で、 法人であるカンパニー自体がイギリス全ての出版特権を国王から直接与えられており、 カンパニーの幹部は、その特権の上に、カンパニーの構成員のより「小さな権利」 を設定する権限をもっていたと考えるのである。 土地保有制度との類似性は次の点で見られる。まず、(1)英語版株で述べたように、 一つの版のコピーライトは必ずしも一人の人物に一括して帰属する必要はなく、 自由に分割可能であり、複数の人物で共同保有することが通常だった。この点で、 重層的に設定可能である英国の土地保有制度との類似が見られる。また、(2) 書籍業者たちが、 コピーライトを土地保有権と同様のものと理解していたことを示す直接的な証拠とし ては次のようなことが挙げられる。第一に、前出1620年のビルの証言で、 自分たちが保有している財産権のことを“estate”と表現している。 書籍業者が自らの権利を指して“estate” と表現することはしばしば見られる [90]。イギリスで“estate” が指す財産権は、通常の場合、土地所有権(real property)に限られており、 人的財産(personal property)には用いなかった。したがって、 彼の念頭にあったのは土地保有制度だと思われるのである。第二に、 セレスが生涯勅許として保有していた出版特権を、共同保有していた権利者たちが、 セレスの死亡に伴って印刷特権を剥奪されている記録がある。 これについてブラグデンは、自由土地保有権(freehold)との類似を指摘している。 例えるならば、セレスの生涯勅許は生涯不動産権(life estate)であり、 この生涯勅許の上に設定されたそれぞれの共同保有者たちの権利は復帰権(reversion) の効果で消滅するというのである [91]。 書籍業者たちがコピーライトを自由土地保有権と同様のものであると理解していた とすると、コピーライトの源泉が国王大権であるとしても、 それが必ずしも特権であることを意味しなくなる。というのは、 イギリスでは土地こそが最も本質的な財産(property) を意味していたからであり、 その意味でコピーライトは書籍業者たちの意識のなかでは「財産」 として把握されていたに違いないからである。
3.2.2 著作者一方、 創作者としての著作者の地位がコピーライトの源泉となると考えられる例も存在する。 著作者が原稿を売却することも譲渡(assignment)であるのだが、 著作者が書籍業者にコピーライトを与える権限はなかった。 それが可能なのは書籍業カンパニーの監事だけだったからである。しかし、著作者の承諾を得た正版と、 承諾を得ない偽版の双方がコピーライトの帰属を争った場合、 仮に偽版の方が先に登記されていたとしても、正版のほうが優先された例が存在する。 演劇作品については、出版に先立ち上演されるために、 しばしば観客に紛れて売文作者が劇の内容を筆写し、 作者の承諾を得ないまま出版されている例がある。これらの偽版についても認証・ 登記による正式な手続を経たならばコピーライトが成立した。しかしながら、 より正確な版にコピーライトが登記しなおされた記録が複数存在するのである [92]。 また、 書籍業カンパニーの構成員以外の人物がコピーライトを獲得することが原則としてで きなかったので [93]、 コピーライトを維持しておきたい著作者は印刷業者の名前で登記することを依頼した という。さらに、通常ならば出版者に譲渡されてしまう権利、例えば、 出版物の販売権(自宅で自著を販売する) あるいは将来の改訂を行う権利などを留保して原稿の譲渡が行われている例も存在す る [94]。 著作者の自己の作品に対する優先権の主張が認められることを見ると、 そのコピーライトは著作者とは無関係に与えられる国王大権の一部ではなく、 著作者の労働に由来する原始取得も暗黙に尊重されていたとも考えられる。 コピーライトを与えることができたのは書籍業カンパニーの幹部だけだったから、 著作者が自己の創作物を出版業者に売却する場合の法律行為は、「物」 としての原稿の「売却」(sale) あるいは出版業者の出版を妨げないという 「捺印契約」(covenant) という位置づけにとどまらざるえない。しかし、 少なくとも出版に際して、 著作者からも出版許可を獲得することが必要だという認識は16世紀末から存在してい たようである [95]。 一方、著作者から権利を獲得しているのだと認識していたことを示す記録もある。 時代はやや後になるが、1643年の「議会に申し上げる書籍業カンパニーの忠告」 [96]で、 彼らは知的財産について次のように述べている。「頭脳の生産物 (production of the Brain) が譲渡不可能であるべき明確な理由はない。 そしてそれら生産物の利益と占有は、(最も至高な奨励目的のために、 非常にわずかなものだけが公有とされているのだが)あらゆる物品(goods) あるいは動産(chattells)と同じものとして法によって考慮されているのである」 [97] ここでは、「原稿」ではなく、 頭脳が生産したもの、すなわち著作物の内容自体が、「物」あるいは「動産」 として明確に認識されている。この認識に基づいて“assignment” を解釈するとすれば、 書籍業カンパニーの幹部が著作者からの権利譲渡を認証しているのだということがで きる。 以上の考察から書籍業者のコピーライトの権利としての性格は、 次のようにまとめられるだろう。知的労働の成果として獲得された創作物は、 原始取得として暗黙に著作者に帰属していた。ただし、その創作物の利用 (すなわち複製・配布)権が書籍業カンパニーに専属していたので、 これを行使するためには、書籍業者に所有権を譲渡しなけばならなかった。 この意味で、 書籍業者のコピーライトは原始取得に由来する所有権的性格をもっていたといえる。 しかし、上記の強制的な所有権の移転の根拠は、国王大権に由来しており、また、 書籍業者のコピーライトを生み出した書籍業カンパニーの内部規約の有効性も国王に 与えられた法人化勅許に由来していた。この意味で、書籍業者のコピーライトは、 国王大権に由来する特権的性格をもっていたといえる。ところが、 書籍業者のコピーライトが自由土地保有権との類推で書籍業者たちに把握されていた という限りで、それは財産権であったともいえるのである。 (つづく) Note
|
白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |