英米法系のコピーライト制度では、登記が権利の成立要件だった。
登記制度では特定の機関が創作物を把握するために、
しばしば検閲制度との結合を危惧する意見が聞かれる。また、
英米法系のコピーライト制度がそもそも検閲を目的として始められたという誤解もあ
るようである。 本稿では、1620年代に成立していたコピーライト制度が、 イギリスにおける宗教上の対立という背景のもとに検閲のための道具として政府の仕 組みのなかに取り込まれていく様子を示す。すなわち、 公の制度としてのみコピーライト制度を把握するならば、 なるほど検閲と一体のものとして始められたように見えるかもしれないが、 実際にはすでに業界慣習として存在していた「書籍業者のコピーライト」 が検閲制度に取り込まれることによって、 国家の制度として公認されたという過程を辿っていたのである。
1 出版統制関連制定法
1.1 1623年独占法書籍業カンパニー内部の反独占運動は、 カンパニー内部でコピーライトを共同保有するという、妥協的な手法、 すなわち英語版株によって解決されるにいたった。しかしながら、 社会全体の独占の弊害はますます大きくなり、 16世紀末から17世紀前半はイギリス全体が独占との闘争に巻きこまれることになる。 この間の経緯については 堀部政男「イギリス革命と人権 ─ 『営業の自由』 の成立過程 ─」[1]に詳しいので、 繰り返さない。しかし、 その全国を巻きこんだ反独占運動の成果として現れた1623年の 「独占および刑法の適用免除ならびにその没収に関する法律」 (An act concerning monopolies and dispensations with penall Lawes and the forfeyture thereof. [2](以下、 「1623年独占法」)については検討を加えておく必要がある。この法律は、14条から成っており、1条から4条までで独占の廃止について規定し、 5条、6条で近代的特許法のモデルとなった新規の発明特許について規定し、 7条以下14条までに適用除外規定をおいている。適用除外規定のうち、12条以下は、 ニューカッスル(Newcastle)市および特定の貴族の特権を適用除外とするものである。 規定のうちでも重要な1条から11条までを掲げる。
まず、9条で都市の特権とカンパニーの特権が維持されている。仮に、 この法律でこれらの伝統的な特権を廃止しようとするならば、 強力な反対者を生み出すことになり、 この独占法自体が廃案においこまれる危険さえあるのだから、 これは当然の措置だろう。しかし、この規定でカンパニーを適用除外としたために、 17世紀初頭の独占問題の本質だったカンパニーによる独占を容認することになってし まった。このため、「同制定法の通過と長期会議との間に過ぎた15年間には、 それ以前のいかなる治世におけるよりも、多くのカンパニーが法人格を付与され、 そして、それらの大部分は、独占を確保するという公然の意図でもって設立され」 [3]ることになった。 つぎに、10条、11条を見ると、とくに印刷業、火薬業、官職、 鉱山業関する特権が維持されている。この一連の品目からうかがわれるのは、 印刷業が火薬業、鉱山業と同様に国防に直結するものであり、また、 官職と同様に政治的重要度をもっているという認識の現れである。 ヘンリー8世の宗教改革の時代から、メアリ女王のカソリック反動、 エリザベス1世の国教会体制、 ジェイムズ1世とチャールズ1世の清教徒迫害政策に至るまで、異端的・ 煽動的出版物は、 常に為政者にとって銃や剣と同じ程度に注意しなければならない危険なものだった。 逆に、出版業を政府の監督下に置くならば、 政府の政策と宗教を徹底するための最も効果的な武器となりえたのである。 また、新規発明に独占権を与える5条、6条で、 既存の特権について特権を与えられた時から21年間以内、 今後の特権について14年間の独占権が与えられたことに、 注意しておいていただきたい。この既存のものに21年間、 今後のものに14年間という保護期間は1709年制定法にも同様に見られるのである。 イギリスの法律で、7の倍数が好まれることについてその理由は定かではない。 バグビーは、知的財産権(特許と著作権)の保護が7の倍数年であるのは、 導入された新技術を習得するまでの徒弟期間が7年間だったからだとしている [4]。
1.2 1637年星室庁布令1625年にジェイムズ1世の後を継いだチャールズ1世は、30年戦争に関与しつづけた (-1628)。その間、彼は議会の慣習に反する課税、軍隊宿泊強制、独断的な投獄、 一般市民への軍法施行などを行い、 議会および議会を擁護する裁判所と激しい対立に陥る。 チャールズ1世の恣意的な課税は、1628年の「権利の請願」(Petition of Right) によって非合法とされたが、彼は以後1629年から1640年に至るまで全く議会を開かず、 専制的な統治を行うことになるのである。法律の面では、チャールズ1世は自分の意に沿わないコモン・ ロー裁判所の裁判官全員を罷免し、星室庁裁判所、 高等宗務官裁判所などの国王大権裁判所を用いて、恐怖政治をしいた。 とくに文書誹謗や言論に対する管轄権をもち、言論統制を行ったのは星室庁だった。 かつてエリザベス1世治世時代には評判のよかった星室庁も、 暴虐な君主の意をうけて残酷な刑罰を科すようになっていた。例えば、 1634年には王と王妃を中傷したため、清教徒の小冊子作家プリン(William Prynne) [5] は耳削ぎの刑のうえ投獄された。 1637年にはさらに残った耳を削がれた。また、 1637年に急進派清教徒だったリルバーン(John Lilburne) [6] は不法文書流布の罪で、 荷車の後ろに縛られ鞭打たれながら引きまわされるという屈辱的な刑を与えられた [7]。 このため星室庁はロンドン市民の憎悪するところとなっていたのである。 このような言論抑圧のための暴虐な仕打ちが行われていた 1637年に再び星室庁布令 が発布された [8]。 メアリ女王の書籍業カンパニー法人化勅許の時とおなじく、 その動機は王室側にあったのではなく、カンパニーの側にあった。 先に発布された1586年星室庁布令の結果、 カンパニーの規約と慣習は政府の公認を受け、カンパニーの権威は大幅に伸長した。 そこで彼らはチャールズ1世が異端文書の抑圧に手を焼いているとみるや、 直ちに工作を開始し、さらに強大な権限を獲得しようとはかったのである。 1637年星室庁布令は国璽尚書(Lord Keeper) や大司教の助言のもと法務総裁の手によって起草された。 この時の草案では18条しかなかったが、 最終的に発布された布令は33条に増加していた。 追加された部分は書籍業カンパニーが望んだものだとされている [9]。また、 起草の謝礼として法務総裁に20ポンドを支払った記録があり、また「特別な任務」 の成功の報酬としてカンパニーの事務員に15ポンドが支払われている [10]。 1637年星室庁布令の内容を概観する。条文番号の後に[*]が付けられているものは、 草案には存在せず後から付加された条項である [11]。
一方、書籍業カンパニーの規約では規定することが不可能な内容も見られる。 例えば14条に見られるような、指物師、大工、金属細工職人、 鋳造職人への書籍業カンパニーの統制力の拡大は特異なものだといえる。 確定的なことは言えないが、ロンドンの慣習では、 あるカンパニーが他のカンパニーの構成員を営業内容について統制することは不可能 だったと思われる。仮にそのようなことが可能だったなら、 それぞれの職業別カンパニーの存在意義が失われるからである。 カンパニーが依拠していた都市権力や都市の商慣習の許容範囲を越えた権限が、 1637年星室庁布令によって書籍業カンパニーに与えられたのである。 また、1637年星室庁布令で、海賊版の禁止、 すなわちコピーライト保護について直接規定しているのは7条である。何人も「版、 書籍、書籍の一部についてそれが海外で印刷されていようと、 あるいはどこで印刷されていようと、 それを書籍業カンパニーあるいはその他の者が開封勅許状、命令、 あるいは書籍業カンパニーの登記簿への登記で、独占出版の権利、特権、権威、 許可を保有している場合、」[12] 印刷したり輸入したりしてはならないと定め、版の帰属について、 書籍業カンパニーの登記簿が政府に公の記録として認識されていることがわかる。 コピーライトの帰属に関して書籍業カンパニーの登記簿に法的効力が与えられたこと、 また、この布令で強化された出版統制権、営業統制権、 および検閲制度との結合をもって、 書籍業カンパニーは名実ともに政府の検閲執行機関として統制力を行使することが可 能になった。もはや書籍業カンパニーは単なる制服カンパニーではなくなり、 出版を統制するための政府機関となったということができるだろう。 では、このように強化された検閲制度のもとで、 社会はどのような状態に置かれたのだろうか。 この時代の検閲の様子について歴史家トレヴェリアン(G. M. Trevelyan) は次のように記している。
2 王位空白期の出版統制律令チャールズ1世の専制が崩壊し始めるきっかけは一冊の書籍によってもたらされた。 1637年にイギリス国教会高教会派の創始者で、宗教的不寛容で知られる大主教ロード (William Laud)が国教会の英語祈祷書をスコットランド教会に強制しようと試みた。 この出来事はイギリス、スコットランド両国民を刺激し、 スコットランドでチャールズ1世に対する反乱を招く結果となった [14]。 この反乱の鎮圧に必要な軍事費を集めるために「短期議会」「長期議会」 が 12年ぶりに開かれたが、 これらの議会はイギリス国民の国王に対する不信と不満を明確にしただけだった。 その長期議会で、ロードは庶民院の満場一致の弾劾でロンドン塔に幽閉され、 1641年7月5日に残虐で知られた国王大権裁判所が全て廃止され、 星室庁布令も無効となった。 追いつめられたチャールズ1世は 1642年1月4日に暴力で議会を蹂躙しようとして果た せず、北部に逃亡した。そしてそのときから、 4年間の王党派と議会派の内戦が開始されたのである [15]。
2.1 出版業界の混乱長期議会以降に政権を握った人々が、 宗教改革 以来の100年以上にわたって異端審問と検閲の被害者だったことは、 長期議会初期の議会派の態度を決定した。きわめて初期には、 長期議会はあらゆる検閲制度を廃止し、 出版の自由をもたらそうと考えた [16]。しかし、 書籍業カンパニーの上層階級には多数の王党派がいるのではないかと考えた議会は、 1641年2月13日に「印刷委員会」 (Committee Concerning Abuses in Licensing and Printing of Books)を組織して、 書籍業カンパニーの監督にあたらせることにした [17]。しかし、 この委員会は有効には機能しなかった [18]。そこで当座の対策として、 1642年1月29日の律令で、著者、 出版者の名前を登記することのみを義務づけることになったのである [19]。
2.1.1 書籍業カンパニーへの挑戦容易に想像がつくように、書籍業カンパニーの諸特権の法的根拠の喪失は、 カンパニー内外の統制力の低下となって現れ、 カンパニーが保有する特権への挑戦が数多く生じた。早くも1641年、 書籍業カンパニー内部から、 カンパニーの補佐役会の寡頭的体制と幹部たちの独占的利益への攻撃が始まった。 この攻撃は単に経済的理由のみによるものではなく、 カンパニーの幹部に王党派が多く存在し、一方、 経済的に恵まれていない出版業者に清教徒、 すなわち議会派の人々が多かったことも影響している。反対派の指導者はスパーク(Michael Sparke)という人物だった。彼は、 1620年代末から1630年代を通して清教徒派の宗教書出版者として有名で、 1637年に耳削ぎの刑に処せられたプリンと一緒に、晒しものにされたこともあった。 彼は、1641年に「火花、または暗黒の巨商たちを暴く一条の光明」(Scintilla, or a light broken into darke warehouses)という小冊子を出版し、王室印刷人、 法律印刷勅許権者、英語版株の特権を批判し、 それらの独占のため書籍の価格がつりあげられていると主張した。その証拠として、 彼自身が法律を無視してオランダから聖書を輸入し販売しており、 この輸入にかかる費用を算入しても輸入版の価格の方が安かったことを挙げている [20]。 しかし、彼の「火花」の中で主張されている提案は、 すでに印刷されなくなった版がカンパニーに帰属するという慣習を排除し、 古い版の自由印刷を主張したり、カンパニーの補佐役会の参加人数を増やし、 業界内部の広い層の意見がカンパニーに反映するように求めたり、 理事長の重任を禁止することを主張するなど、 カンパニーの体制の改善を目指すもので [21]、 特権を批判しながらも特権に依存していた印刷業者の立場がうかがわれる。結局、 彼の提案の一部は受け入れられ、また彼も1580年代のウルフと同じように、収入役 (Renter Warden) の地位を与えられることで懐柔されてしまった [22]。 このような挑戦はこの後も続いたが [23]、 書籍業カンパニーの幹部たちは英語版株から生じる莫大な収益を背景に、 主として懐柔策を用いながら、 1660年の王政復古までカンパニーの特権を維持することに成功したのである [24]。
2.1.2 印刷所の拡散しかし、一層厄介な問題は、 統制力の低下のために中小の違法印刷所が数多くイギリスに拡散してしまったことで あった。これまで、労働賃金を低く抑えるという目的で、 印刷職人は常に過剰気味に供給され続けてきた。1586年星室庁布令、 1637年星室庁布令の条項で徒弟数を厳しく制限した裏には失業問題があったのである。 このような多数の失業印刷職人が存在するという状況の下で、 王党派と議会派の内戦が開始された。当然に内戦の戦況は国民の関心事となり、 新聞や小冊子などの刊行物の莫大な需要が生じたのである。 そこでこうした失業印刷職人たちは書籍業カンパニーの統制を無視して、 新聞や小冊子を大量に印刷し街頭で販売することを始めた。 また海賊出版も横行をはじめた。 英語版株でも最も収益の高かった暦の海賊版が販売され、印刷業界は生産、 流通の両面で無統制状態に入ったのである [25]。 また、1642年から1648年の内戦の全期間を通じて、王党派、 議会派双方の大量の宣伝文書が出版された。王室印刷人バーカー (Christopher Barker)はチャールズ1世の陣営に参加し、 国王布令などの政府文書および王党派の宣伝文書を印刷した。 彼は王党派軍に従ってイギリス各地を移動しながら印刷を続けた [26]。おそらく、1533年以来、 100年ぶりに国王の認めた公然の印刷機がロンドン、オックスフォード、 ケンブリッジ以外の土地に据えられたのである。 内戦はまたイギリスにおける最初の言論戦でもあった。 内戦期間を通じて23,000点を上まわる種類の宣伝文書が印刷され流通した。 この言論戦は常に王党派に有利に展開したという [27]。 ロンドンの印刷機の独占が崩壊することは、 もはや書籍業カンパニーの統制力が二度と復活しえないことを意味した。 内戦期以前でも、 ロンドンの慣習に基づいて他のカンパニーの自由職人が書籍業を営むことで、 書籍業カンパニーの営業独占は侵食されていた。 そのロンドンの慣習から生じる営業独占のほつれを 1637年星室庁布令に具体化した 国王の大権で克服したそのときに、統制力を完全に失う結果となったのである。 今後の書籍業カンパニーの営業独占を脅かすのは地方の印刷業者ということになった。 摘発が困難になっただけ、問題の深刻さは増したのである。
2.2 長期議会の出版統制律令2.2.1 書籍業者の請願議会派が言論統制に踏み切った背景には、 やはり書籍業カンパニーの権益保護が動機として存在していた。 議会派が政治的に勝利を収めると新しい聖書の出版計画が立てられ、 11人の書籍業者が印刷人として指名された。すると直ちに、 書籍業カンパニーから請願が議会に提出された。1643年1月の請願 (The humble Petition of the Company of Stationers of the City of London) [28]によれば、それらの11人の 「独占者」に特権を与えてイギリス印刷業の崩壊を招くのではなく、“common stock” すなわち、英語版株にその聖書印刷の特権を組みいれることで、 カンパニーの全員がその恩恵を享受できるようにすることが望ましいというのである。 彼らはとくに英語版株からカンパニーの貧民層に支払われていた「年金」を挙げて、 英語版株の公共性を強調している。つぎに、直接的に検閲制度の復活を求める 「議会に申し上げる書籍業カンパニーの忠告」(To the High court of Parliament: The humble Remonstrance of the Company of Stationers, London) [29]が 1643年4月に提出された。 この請願は、この当時の書籍業カンパニー幹部が検閲制度と自分たちの財産、 すなわちコピーライトをどのように捉えていたのかを知るための最も好適な資料であ る。そこでやや詳細に検討する。 まず、書籍業カンパニー幹部は出版統制が公益と結び付くことを強調している。 彼らの主張は次のように整理することができる。まず、学問の振興と国内の治安 (宗教)のために重要な出版業を統制することは政府にとって重要な任務であり、 出版業が統制されなければ国家にとって危険を招くことになるとする。 とくに学問の振興という目的を強調して次のように述べる。 「学問は我らの印刷術の恩恵を必要とする。というのは、 印刷術は我々の学問を進歩させた偉大な手段だからである。」 [30] また、国家の治安に関しては、 次のように述べる。「一般に、印刷術が衰退したところ、 また政府が措置を怠ったために印刷業者が貧しくなったところでは、 虚偽と異端が蔓延する。」[31] したがって、印刷業界の秩序を維持することで印刷業の繁栄を導くことは、 印刷業界の私的な利益だけでなく、学問の振興と国家の治安に貢献する。 ところが近年、 出版業界の秩序が政府の無関心のために大きく乱れて危機に陥っているとする。 すなわち、出版を取り締まる法律が存在しないために、 書籍業カンパニーが違法行為を取り締まることができなくなり、(1) 無許可出版所の増加、(2)海賊版出版による出版業者の経営の悪化が生じており、 この(1)と(2)が悪循環を招いてますます状況は悪化していると主張している。 「近年カンパニーは違法出版物のため多量の在庫を抱えて貧しくなっており、 その貧しさ故に違法出版物が増えるという悪循環に陥っている。 家畜に例えていうならば、 餌となる牧草がすべて枯れ果てようとしているのである [32]。」言葉を換えていうならば、 「書籍業者たちの古くからの権利と関連している特権の享受が脅かされている。 この版についての財産(Property of Copies)は現在ほとんど失われ、 混乱の中に紛れてしまうとしている」 [33] ということになる。 そこで、書籍業カンパニーは(1)学問の振興(2)印刷業の繁栄(3) 特権と奨励の三点を目的として印刷業界の統制のための法律を求めるという。(1) の目的は粉飾であるが、(2)、(3)の目的は書籍業者の正直な目的を示している。 (1)学問の振興という目的のために出版統制が必要であるとし、 有益な出版物を免許し、危険な出版物を抑圧するための効果的な検閲制度 (severe Examiners for the licensing)が必要であるとする。それでは、 だれがその検閲を行うべきかということについて、彼らは次のように主張する。
彼らが求める権威とは、書籍業カンパニーによって指名され、 議会の任命による統制委員会(committee)である。彼らがいうには、 統制委員会はあまりに強い権限をもつべきでなく業界を監督するもので足りるとする [35]。すなわち、 これまで王権に基礎をおいていたカンパニーの業界に対する監督権限を復活させるた めに、 委員会という機関を介在させて議会の権威に基礎を置きなおそうというわけである。 (3)特権と奨励策(previledge or encouragement)という目的は、 まわりくどく説明されているが、結局のところ(2)の論法と同一であり、(2) で彼らが主張した「繁栄」を達成するための具体的な利益についてのべられている。 書籍業者たちの特権、すなわちコピーライト制度が失われることによって、 彼らは経済的困窮に陥り、家族を崩壊させ、仕事への熱意を失う。だから、 書籍業カンパニーの特権、 すなわち出版業への監督権を復活させる必要があるというのである。 コピーライト制度について、すでに「独占である」との批判が生じていたこと、また、 書籍業者たちも自分たちの保有している財産すなわちコピーライトが独占と同一のも のであることを理解していたことが次の記述からうかがわれる。「一見、 版についての財産権は、いくらかの人に理解されているように、 独占と同じものであるが、書籍業者にとって必要な権利であって、それほど勝手 (free)な特権というわけではない。それがなければ、 彼らは生活していくことすらできない。」 [36] 続けて彼らは、コピーライトと独占の関係について次のように説明する。 「版についての財産権はさまざまな面から国家にとって有益なものである。 というのは、 その本質が他の日用品を少数者の手に帰する独占とは異なっているからである。」 [37] その理由として次のように列挙する。
2.2.2 1643年条例書籍業者たちの長大な請願は、議会に受け入れられ、1643年6月14日に 「印刷の規制に関する条例」(An Ordinance for the Regulating of Printing) [39]が発布された。この結果、 かつての検閲制度の被害者が、 加害者側の印刷物を検閲制度によって抑制する皮肉を生むことになった。 しかしながら、この法律に規定されたとおりに印刷許可(imprimatur) を掲載した書籍は現れなかったという [40]。 要求された記載事項のいずれかが欠けていたり、 あるいは書籍業カンパニーへの登記がされていなかったのである。条例は、短いものであり、3段落と付加的な1段落から構成されている。 第1段落は趣意文である。検閲法規の趣意文の常套句である「誤謬に満ちた、 虚偽だらけの、中傷的、煽動的、反抗的、無免許の新聞、 小冊子および書籍が無認可の施設印刷所で大量に印刷されており、 出版秩序が多いに乱れている。 また書籍業カンパニーおよびその他の人物が保有している利益の多い印刷物の海賊版 が許可なく印刷、出版、販売されている。」といった語句に続いて、 「書籍業カンパニーと権利者(Agents)の権利を著しく侵害し、 彼らの社会への貢献意欲を著しく阻害するゆえに、 違法出版業者たちが行っている印刷における犯罪について、 報復として彼らを議会に告発する。」とされていることから、 1643年条例が書籍業者たちの請願に基づくものであることは間違いない。 第2段落で、(1)議会が指定する検閲官に印刷前に提出して印刷許可を得たのち、 古来の慣習に従って書籍業カンパニーの登記簿に登記されていないもの、(3) 印刷人の名前が記載されていないもの、(4)英語版株に含まれているもの、(5) 版の保有者(owner) の同意あるいは許可を得ずに印刷されたものの出版を禁止している。 第3段落で、議会が指定する検査官に加えて、書籍業カンパニーの幹部、 貴族院の廷吏(Gentleman Usher of the House of Peers)、庶民院の守衛官 (Sergeant of the Commons House)、および彼らの代理人(Deputies) などから編成される査察機関について規定し、違法出版所の捜査、印刷機の没収、 違法出版物の没収、身体罰、罰金、担保金の提出などの罰則が規定されている。 最後に出版物を内容の面から9つの領域 [41] に分類し、 12人の検閲官がそれぞれの領域に割り当てられている。 全体として1637年星室庁布令から、営業規制に関する条項を取り除き、 目的を検閲制度の復活と違法出版物の禁止に絞りこみ、 違法印刷所摘発のための査察権を認めたものとなっている。当然ながら、 かつて検閲制度の権威を支えていた、 カンタベリー大司教やロンドン司教などの宗教的権威はいっさい現れない。 それとは対照的に“ancient customs of the company”という語句が目立ち、 こまかな内容については書籍業カンパニーに一任するという態度がうかがわれる。 この時期のコピーライトについてみるならば、 印刷許可と一体ものと理解されていたことがわかる。まず、 はじめに著作者が庶民院に出頭して内容を検閲者に説明(first-day sermon)し、 著作者が印刷許可を獲得する。 このとき同時に著作者が作品の保有者としての地位を確認される。 すなわちコピーライトが認証されるわけである。つづいて、出版可能な作品について、 コピーライトと出版許可ごと、著作者から書籍業者に譲渡されたのである。しかし、 この手続がなされたときに書籍業カンパニーの登記簿への記載が行われた例はないと いう [42]。また、 庶民院あるいは印刷委員会から直接に書籍業者に出版許可が与えられている例もある という [43]。
2.2.3 アレオパギティカこうした議会側の反動的態度を嘆いたのが、 後にクロムウェルのラテン語書記官となるミルトンである。1644年11月24日、 イギリスにおける出版の自由の聖典ともいうべき『アレオパギティカ』 (Areopagitica) [44]が出版された。 ちなみにこの『アレオパギティカ』自体も許可を受けないまま、 秘密印刷所で出版された小冊子だった [45]。 もちろんミルトン自身は清教徒であり熱心な議会派ではあったが、彼がいうところの 「ローマ・カソリック的な卑怯で愚劣な手法」 [46] である検閲制度を、 彼が賞賛していた長期議会が採用したことに憤っての反政府出版だった [47]。この小冊子の中で、彼はいかに検閲制度が言論統制に効果がなく、 逆にいかに学問にとって有害であるかを主張した。その主張の最後の部分で、 この検閲制度が誰によってもたらされ、 維持されているのかについてのミルトン自身の見解が示されている。
こうした反政府文書に悩まされた議会は、自らの愚策のため、 出版に関する権限を軍に与えてしまうことになる。 チャールズ1世の降伏で内戦が終結した翌年の 1647年に、 議会の多数派が議会側の軍人を全て解雇しようとしたことで、 議会とクロムウェル率いる軍隊の分裂は決定的となり、1647年8月には、 軍隊が議会に威圧を加えるまでになった [50]。 そして1647年9月には検閲官に軍人が就任し、 軍による出版統制権力の接収は完全なものになった [51]。
2.3 共和制期の出版統制律令2.3.1 1647年律令1647年9月30日「無許可あるいは中傷的小冊子を抑制し、 よりよい印刷業の統制を行うための律令」 (An Ordinance against unlicensed or scandalous Pamphlets, and and [sic] for the better Regulating of Printing.) [52] という短い律令が発布された。 全体の構成は3段落からなるものである。この律令は、 印刷業者と同程度に著作者を規制することに目的をおいた最初の検閲法規だった。 その理由は、この時期の反政府出版物がほとんど新聞、小冊子、ニュース本 (News-Book)であり、著作者と出版者は発行の度に取引相手をかえたから、 両者の結び付きは強固でなく、 印刷業者だけを取り締まっても効果が薄かったからである。また、最後の段落で、 煽動的、反逆的、冒涜的出版物については「そのような罪に応じた、この国の法、 あるいは議会が適当だと判断する一層の罰に服させる」 [53] と上限のない罰を与える可能性をとりいれるなど、恣意的性格を増している。
2.3.2 1649年律令チャールズ1世が処刑された1649年になると、当然考えられる反動として、 クロムウェル批判が高まった。すると、 かつて自分たちが憎悪して止まなかった1637年星室庁布令に比較しても見劣りのしな い出版統制律令が発布され、反政府文書の摘発は徹底された。 1650年以降の出版業界は1630年代の悪しき時代にもなかったような抑圧のもとに置か れたのである。1649年9月20日「無許可あるいは中傷的な書籍および小冊子を抑制し、 よりよい印刷業の統制を行うための法律」 (An Act against Unlicensed and Scandalous Books and Pamphlets, and for better regulating of Printing.) [54]が発布された。 全体は24の段落から構成されている。
この頃から、出版許可を獲得したものの、 書籍業カンパニーの登記簿へ記載されない例が増加している。例えば、 庶民院の記録では多数の著作者が出版許可願いを出しているにもかかわらず、 1648年から1649年の間に出版が確認された書籍は12種にとどまるという。 その原因として、出版許可が庶民院の議会記録に記載されるようになったからとも、 出版許可を獲得した人物が登記にかかる費用を避けるためだったともいわれている [55]。また、 出版許可を獲得した著作者本人の依頼によって、 出版業者を通さずに印刷された書籍があるという。 これは出版業者にコピーライトを譲渡してしまう事で、 不完全な内容で出版されることを避けるためだと記録されている [56]。また、 出版が書籍業カンパニーの登記簿に記載されなかった理由として、 書籍業カンパニーに加入していない業界外の非合法印刷業者が、 多数存在したことを考慮するならば、 議会から出版許可を獲得した著作者がそれらの外部の出版業者から刊行したことも考 えられる。 この法律は1753年1月7日に、細部に変更を加え不備を補った上で、 ほぼそのまま復活させられた [57]。 ここでは、取締機関が主として国務評議会(Council of State)となり、 書籍業カンパニーは副次的な立場にたっている。 取り締まりの効果が上がらないために政府の直接介入が始まったのである。 これらの法律が有効に機能したかどうかについては、次の資料によって明らかになる。 1655年8月28日、護国卿(Lord Protector)クロムウェル自身が発令した 「印刷を取り締まる法、制定法、命令の迅速な執行についての命令」 (Orders of His Highenss the Lord Protector, made and published by and with the Advice and Consent of His Council, for putting in speedy and due Execution the Laws, Statutes, and Ordinances, made and provided against Printing Unlicensed and Scandalous Books and Pamphlets, and for further Regulating of Printing.) [58] で、「それら[違法な印刷施設] が発見され次第、彼らの全ての活字と印刷のための材料を直ちに破壊すべきこと」 [59]「そのような [ロンドンの特別管轄区(Liberty)]場所で、それらの違反者[行商人] に迅速かつ公平に身体的金銭的罰を与えること」 [60]また、 違法な秘密印刷が行われているという合理的な疑いがある場合、「扉の鍵を破壊し、 抵抗する人々を逮捕することを認め、それを必要とする」 [61]など、もはや慣習上の権利 (住居の不可侵) などの法の手続を無視してでも摘発を徹底させようというあせりが見られる。 このことからわかるように、 共和制期になされた検閲制度は有効に機能しなかったのである。
3 1662年印刷法チャールズ2世による1660年の王政復古は、 書籍業カンパニーにとっては歓迎すべきことだった。 王位空白期に彼らが失っていた特権の根拠が復活することを意味したからである [62]。彼らは、 王位空白期に統制できないほど出まわった小冊子や新聞が一掃され、 再び書籍業カンパニーによる市場統制が復活することを望んでいた。しかし、 王位空白期に破壊された業界の秩序が再び元に戻ることはなかったのである。 逆に、印刷業界には1640年に経験したような無秩序が訪れる危険が生じていた。 1640年以前の王制のときに出版業を統制していた星室庁は廃止され、また、 1640年以後の王位空白期に発布された全ての律令が無効とされたために、 印刷に関する何らの法律も存在しないことになったからである。 しかしながら、今度の政府は出版統制について積極的だった。 チャールズ2世は5月に帰国したが、1660年6月7日には、ビルケンヘッド (John Birkenhead)という人物が出版監督官(Surveyor of Press)に任命され、 反国王的出版物の摘発を書籍業カンパニーに命じている [63]。また、8月には、 すでに議会で出版統制法案が審議中であり、 より効果的に摘発を行うために委員会を組織して、 これまで作られた出版統制法規の分析を行い、 印刷を政府の監督下に置くための具体的な方策を練るように提案されている [64]。 1661年7月3日には三人の委員が出版統制法案の審議のために任命されたが、 こちらはたち消えになり、1661年7月25日に法務次長(Solicitor-General) が出版統制法案を起草するよう指示された。その法案は翌日提出された。「無許可、 無秩序出版を規制する法案」 (An Act for regulating unlicensed and disorderly Printing) と題されたこの法案は、 貴族の邸宅を立入査察の対象からはずそうとする貴族院議員と、 例外を認めず全ての家屋を立入査察の対象にしようとする庶民院議員との対立のため、 廃案となった [65]。 王政復古に伴う検閲制度の復活は、翌年に持ち越された。そして1662年5月19日に 「煽動的、反逆的かつ無許可の書籍および小冊子の印刷における濫用を防止し、 印刷業および印刷機械の規制するための法律」 (An act for priventing abuses in printing seditious, treasonable, and unlicensed books pamphlets, and for regulating of printing and printing-press.) [66] が議会を通過した。 1662年印刷法は、25条から成っていたが、内容のほとんどは、 1637年星室庁布令を引用したものであり、次の諸点が異なっているに過ぎなかった。
また、(25)条で2年間の時限立法とされたのは、 国王がこの法律を濫用して世論を蹂躙することを警戒したからであり、 一定年限ごとに議会が存続を検討することができるように配慮された結果である。 この法律は、次のような経過を経て1695年まで存続した。まず、 2年後の1664年5月17日に次の会期(next session) の終了まで延長される法 [67] が可決された。つづいて、 1665年5月2日にさらに次の会期の終了まで延長される法 [68]が可決された。さらに、 1665年10月31日に次の議会が召集された最初の会期 (first session of next Parliament) まで延長されるよう改められ [69]、 次の議会は1679年3月13日に召集された。この議会は延長を議決せず、 1679年に一時的に1662年印刷法は失効した。しかし、1685年7月2日に復活が可決され、 つづいて1688年、1693年に更新された。 1695年にさらに更新が議題になったが否決され、そのまま失効した。 1662年の政府の出版統制政策における最も大きな変更点は、 1586年星室庁布令で規定されたように書籍業カンパニーの幹部が事実上検閲官の役割 を果たすのではなく、 代わって一名の出版監督官が任命されるようになったことである。 おそらくこの原因は、 チャールズ1世の絶対王制期から長期議会を経て共和制期に至る激動の時代を書籍業 カンパニーがあまりにうまくたちまわったためであり、一度、 クロムウェルになびいた集団に国家の治安に拘わる重大事を任せられないという政府 側の態度がうかがわれる。 この初代「印刷監督官」(Surveyor of Press)となったのが、レストランジ (Roger L'Estrange)である。彼は、官職を得ない時から出版許可制度に関心を寄せ、 出版統制についての自らの見解を明らかにする小冊子を印刷したりしている [70]。 彼は出版統制を行うにあたって、書籍業カンパニーを信頼せず、 カンパニーの出版における権限を縮小しようと努めたために [71]、 書籍業カンパニーとしばしば対立した。
4 小括紙幅のため、ここで一旦小括を置くことにする。本稿では、 書籍業カンパニーの業界内部での規約として存在していた書籍業者のコピーライトが、 検閲制度を媒介として国家の制度へと認知されていく過程を、 王位空白期を挟む1623年独占法から1662年印刷法までにおいて概観した。 この期間においても、書籍業カンパニーの目的は、 常に自らの権限を強化することから生じる経済的利益の維持・拡大であった。 1643年の請願に現れているように、書籍業カンパニーの幹部たちが、 コピーライトを投資の回収を可能にするための仕組みであると理解していたことは間 違いない。しかしながら、出版に関する当時の政府の関心は専ら統制にあったし、 社会的には反独占の感情が強かったので、 カンパニーは検閲制度の中に自らの権限を強化するような内容を巧妙に盛りこむこと で、自らの独占特権を維持・拡大しなければならなかったのである。 つづく王位空白期の社会的混乱のなかでカンパニーの権限が失われそうになったとき でも、いっそう重要性を増した検閲制度を手掛かりにして、 書籍業者のコピーライトを実質的に維持する努力が続けられた。そして、 王政復古直後の不安定な政権においてもやはり検閲制度が書籍業カンパニーの権限維 持の口実とされた。 この検閲制度とコピーライトの結合が17世紀の大部分を通じて維持された結果、 両者の混同が生じ、 出版物に関する諸権利を検閲制度から切り離して捉えるという態度を後退させること になったのである。 それでは、コピーライトが検閲制度から分離した理由は何であろうか。第一に、 1695年の印刷法の失効が制度上の理由である。しかし、より根本的には、 王位空白期以降において違法な小規模印刷業者が増加したことの方が重要であった。 次稿でこの点および当時のコピーライトの状態について具体的に検討することになる。 (つづく) Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |