コピーライトの史的展開(3) ──17世紀イギリスにおける検閲制度とコピーライト──

コピーライトの史的展開(3)
──17世紀イギリスにおける検閲制度とコピーライト──

白田 秀彰

英米法系のコピーライト制度では、登記が権利の成立要件だった。 登記制度では特定の機関が創作物を把握するために、 しばしば検閲制度との結合を危惧する意見が聞かれる。また、 英米法系のコピーライト制度がそもそも検閲を目的として始められたという誤解もあ るようである。

本稿では、1620年代に成立していたコピーライト制度が、 イギリスにおける宗教上の対立という背景のもとに検閲のための道具として政府の仕 組みのなかに取り込まれていく様子を示す。すなわち、 公の制度としてのみコピーライト制度を把握するならば、 なるほど検閲と一体のものとして始められたように見えるかもしれないが、 実際にはすでに業界慣習として存在していた「書籍業者のコピーライト」 が検閲制度に取り込まれることによって、 国家の制度として公認されたという過程を辿っていたのである。

1 出版統制関連制定法

1.1 1623年独占法

書籍業カンパニー内部の反独占運動は、 カンパニー内部でコピーライトを共同保有するという、妥協的な手法、 すなわち英語版株によって解決されるにいたった。しかしながら、 社会全体の独占の弊害はますます大きくなり、 16世紀末から17世紀前半はイギリス全体が独占との闘争に巻きこまれることになる。 この間の経緯については 堀部政男「イギリス革命と人権 ─ 『営業の自由』 の成立過程 ─」[1]に詳しいので、 繰り返さない。しかし、 その全国を巻きこんだ反独占運動の成果として現れた1623年の 「独占および刑法の適用免除ならびにその没収に関する法律」 (An act concerning monopolies and dispensations with penall Lawes and the forfeyture thereof. [2](以下、 「1623年独占法」)については検討を加えておく必要がある。

この法律は、14条から成っており、1条から4条までで独占の廃止について規定し、 5条、6条で近代的特許法のモデルとなった新規の発明特許について規定し、 7条以下14条までに適用除外規定をおいている。適用除外規定のうち、12条以下は、 ニューカッスル(Newcastle)市および特定の貴族の特権を適用除外とするものである。 規定のうちでも重要な1条から11条までを掲げる。

  1. 個人(person or persons)および団体(bodies politick or corporate) に付与されまたは付与される予定の全ての独占(monopolies)ならびに全ての授権 (commissions)、権利付与(grants)、許可(licensces)、勅許 (charters and letters patents)は、この王国の法に反し、無効である。

  2. 全ての独占ならびに全ての授権、権利付与、許可、勅許の効力および正当性は、 現在および将来において、この王国のコモン・ローによってのみ検討、審査、審理、 および決定されなければならない。

  3. 個人および団体は、全ての独占ならびに全ての授権、権利付与、許可、勅許、 またはそれに基づくもしくは基づくと装われる特権、権限または権能を行使できない。

  4. この議会の終了後40日後から、独占ならびに全ての授権、権利付与、許可、 勅許によって被害を受けた個人はその救済をコモン・ ロー上において求めることができる。この制定法に基づく訴訟は王座裁判所、 人民間訴訟裁判所、財務府会議室裁判所などのコモン・ロー裁判所において行われる。 また損害は三倍額によって回復される。

  5. しかしながら上記の規定は、 この王国内の新しい製造方法による加工または製造に関して、 その最初かつ真正の発明者(first and ture inventor or inventors) にこれまで21年以下の期間で与えられた開封勅許状および特権付与状には及ばない。 また、21年以上の期間で与えられた開封勅許状および特権付与状については、 その勅許状が公布された日から21年間のみに限って与えられる。

  6. また、上記の規定は、 この王国内の新しい製造方法による加工または製造に関して、 その最初かつ真正の発明者に、 今後14年間の期間で与えられる開封勅許状および特権付与状には及ばない。

  7. この法律の規定は、 現在効力をもつ議会の制定法によって認められている既存の許可、特権、権力、 権威には及ばない。

  8. この法律の規定は、国王またはその継承者によって、 法律的処分に関して与えられた保護状(warrant)あるいは国璽(privy seal) には及ばない。

  9. この法律の規定は、ロンドンをはじめとするこの王国内の都市の諸特権、 諸慣習、また、この王国内の工芸、商業、職業、職能団体には及ばない。 それらの団体の既存の自由、特権、権限、免除の状態を変更しない。

  10. この法律の規定は、 次の品目に関する既存あるいは今後の開封勅許状および特権付与状に及ばない。(1) 印刷に関するもの(2)硝石および火薬の掘削・製造に関するもの (3) 国王布令によって設置され、また将来設置される官職に関するもの。

  11. この法律の規定は、鉱山業について与えられる既存あるいは今後の授権、 権利付与、許可、勅許には及ばない。

上記の規定から、結果として、1623年独占法は、 書籍業カンパニーが保有していた諸特権に何らの影響も与えなかったことがうかがわ れる。むしろ、他の特権が廃止されたことによって、 一層その権威と正当性が高まったとみることさえできる。

まず、9条で都市の特権とカンパニーの特権が維持されている。仮に、 この法律でこれらの伝統的な特権を廃止しようとするならば、 強力な反対者を生み出すことになり、 この独占法自体が廃案においこまれる危険さえあるのだから、 これは当然の措置だろう。しかし、この規定でカンパニーを適用除外としたために、 17世紀初頭の独占問題の本質だったカンパニーによる独占を容認することになってし まった。このため、「同制定法の通過と長期会議との間に過ぎた15年間には、 それ以前のいかなる治世におけるよりも、多くのカンパニーが法人格を付与され、 そして、それらの大部分は、独占を確保するという公然の意図でもって設立され」 [3]ることになった。

つぎに、10条、11条を見ると、とくに印刷業、火薬業、官職、 鉱山業関する特権が維持されている。この一連の品目からうかがわれるのは、 印刷業が火薬業、鉱山業と同様に国防に直結するものであり、また、 官職と同様に政治的重要度をもっているという認識の現れである。 ヘンリー8世の宗教改革の時代から、メアリ女王のカソリック反動、 エリザベス1世の国教会体制、 ジェイムズ1世とチャールズ1世の清教徒迫害政策に至るまで、異端的・ 煽動的出版物は、 常に為政者にとって銃や剣と同じ程度に注意しなければならない危険なものだった。 逆に、出版業を政府の監督下に置くならば、 政府の政策と宗教を徹底するための最も効果的な武器となりえたのである。

また、新規発明に独占権を与える5条、6条で、 既存の特権について特権を与えられた時から21年間以内、 今後の特権について14年間の独占権が与えられたことに、 注意しておいていただきたい。この既存のものに21年間、 今後のものに14年間という保護期間は1709年制定法にも同様に見られるのである。 イギリスの法律で、7の倍数が好まれることについてその理由は定かではない。 バグビーは、知的財産権(特許と著作権)の保護が7の倍数年であるのは、 導入された新技術を習得するまでの徒弟期間が7年間だったからだとしている [4]

1.2 1637年星室庁布令

1625年にジェイムズ1世の後を継いだチャールズ1世は、30年戦争に関与しつづけた (-1628)。その間、彼は議会の慣習に反する課税、軍隊宿泊強制、独断的な投獄、 一般市民への軍法施行などを行い、 議会および議会を擁護する裁判所と激しい対立に陥る。 チャールズ1世の恣意的な課税は、1628年の「権利の請願」(Petition of Right) によって非合法とされたが、彼は以後1629年から1640年に至るまで全く議会を開かず、 専制的な統治を行うことになるのである。

法律の面では、チャールズ1世は自分の意に沿わないコモン・ ロー裁判所の裁判官全員を罷免し、星室庁裁判所、 高等宗務官裁判所などの国王大権裁判所を用いて、恐怖政治をしいた。 とくに文書誹謗や言論に対する管轄権をもち、言論統制を行ったのは星室庁だった。 かつてエリザベス1世治世時代には評判のよかった星室庁も、 暴虐な君主の意をうけて残酷な刑罰を科すようになっていた。例えば、 1634年には王と王妃を中傷したため、清教徒の小冊子作家プリン(William Prynne) [5] は耳削ぎの刑のうえ投獄された。 1637年にはさらに残った耳を削がれた。また、 1637年に急進派清教徒だったリルバーン(John Lilburne) [6] は不法文書流布の罪で、 荷車の後ろに縛られ鞭打たれながら引きまわされるという屈辱的な刑を与えられた [7]。 このため星室庁はロンドン市民の憎悪するところとなっていたのである。

このような言論抑圧のための暴虐な仕打ちが行われていた 1637年に再び星室庁布令 が発布された [8]。 メアリ女王の書籍業カンパニー法人化勅許の時とおなじく、 その動機は王室側にあったのではなく、カンパニーの側にあった。 先に発布された1586年星室庁布令の結果、 カンパニーの規約と慣習は政府の公認を受け、カンパニーの権威は大幅に伸長した。 そこで彼らはチャールズ1世が異端文書の抑圧に手を焼いているとみるや、 直ちに工作を開始し、さらに強大な権限を獲得しようとはかったのである。

1637年星室庁布令は国璽尚書(Lord Keeper) や大司教の助言のもと法務総裁の手によって起草された。 この時の草案では18条しかなかったが、 最終的に発布された布令は33条に増加していた。 追加された部分は書籍業カンパニーが望んだものだとされている [9]。また、 起草の謝礼として法務総裁に20ポンドを支払った記録があり、また「特別な任務」 の成功の報酬としてカンパニーの事務員に15ポンドが支払われている [10]

1637年星室庁布令の内容を概観する。条文番号の後に[*]が付けられているものは、 草案には存在せず後から付加された条項である [11]

  1. 誹謗的、異端的、反政府的書籍、小冊子の印刷、販売、輸入の禁止。

  2. 出版される書籍、小冊子およびそれらに追加される内容全てに関して、 規定された方法に従い出版許可を獲得し、 直ちに書籍業カンパニーの登記簿に記載すべきこと。

  3. * それぞれの出版物の種別ごとに検閲官を定める。例えば、 法律書であれば大法官あるいは財務府会議室裁判所首席裁判官、 また歴史書であれば国務大臣など。通常の文芸書などはカンタベリー大司教、 ロンドン司教とされた。また、 全ての検閲官は検閲代行官を指名する権限を与えられた。

  4. それぞれの検閲官が2冊の書籍を検閲し、 1冊は検閲後に改変が加えられていないかを調べるために検閲官の下に保管され、 1冊は検閲の申請者に返却されるべきこと。また、 検閲済みの出版物は本の扉に検閲官の名前を記載すべきこと。

  5. 全ての書籍輸入業者は輸入書籍の一覧をカンタベリー大司教あるいはロンドン司教に 提出すべきこと。

  6. 全ての輸入書籍の梱包は大司教あるいは司教および書籍業カンパニーの幹部立ち合い のものに開封されるべきこと。

  7. 誰か他の者が開封勅許状、命令、 あるいは書籍業カンパニーの登記簿への記載によって独占出版の権限をもっている書 籍の印刷、輸入の禁止。

  8. 著作者名、印刷者名、出版者名を全ての印刷物に記載すべきこと。

  9. 書籍業カンパニーまたは他の出版者の紋章および商標を保有者の許可なく使用するこ との禁止。

  10. 7年間の正式な徒弟修行を経たものだけが書籍業に従事すべきこと。

  11. 外国で印刷された英語書籍の輸入禁止。

  12. * 書籍業カンパニーの自由職人(freeman) である外国人のみに外国語輸入書籍の販売を認める。

  13. 書籍業カンパニーに届けることなく印刷所を設立することの禁止。

  14. 指物師(Ioyner)、大工(Carpenter)、その他の印刷所建設に従事する職人、 または印刷機制作に従事する金属細工職人(Smith)、活字鋳造に従事する鋳造職人 (Founder)が、書籍業カンパニーの幹部の許可なく印刷所の建設、活字の鋳造、 輸入をすることの禁止。

  15. * 印刷所の数を、王室印刷人、大学印刷所の分を除いて20ヶ所に制限する規定。 将来の親方印刷人はカンタベリー大司教、 ロンドン司教他6人の委員によって任命されるべきこと。

  16. 違法な出版物を印刷しないための保証金として300ポンドを10日以内に付託すべきこ と。

  17. * 1ヶ所の印刷所に認められる印刷機の数を書籍業カンパニーの幹部については3台、 その他の印刷所については2台までに制限。

  18. 今後出版される全ての書籍について新たに検閲を受け出版許可を得ること。

  19. 一度に抱えることのできる徒弟数を書籍業カンパニーの幹部で3人、 親方印刷人で2人、自由職人で1人に制限。

  20. * 渡職人(journeyman)の失業が秘密出版の原因となっているとし、 その失業対策を講じるべきこと。

  21. * 書籍業カンパニーが20条で規定された失業対策を怠った場合の罰則。

  22. * 大学印刷所が保有可能な徒弟数を制限しない代わりに、 書籍業カンパニーの要請なしに渡職人をロンドンに送り出さないこと。

  23. * 親方印刷人が印刷業の渡職人および徒弟以外の人物を使用しないこと。

  24. 不法な印刷所での就業の禁止。 違反した場合は晒しの刑あるいは鞭打ちの刑その他適当と思われる罰が加えられるべ きこと。

  25. * 書籍業カンパニーの幹部3人とカンタベリー司教あるいはロンドン司教に任命され た2名の親方印刷人に違法印刷の査察権を与える。

  26. * 摘発した違法出版物を没収し、 カンタベリー司教あるいはロンドン司教に提出すべきこと。

  27. * 活字を鋳造することが認められる鋳造職人を4人に制限する。

  28. 27条で規定された鋳造職人が同時に保有することのできる徒弟数を2名に制限。

  29. 全ての活字鋳造職人が親方鋳造人に雇傭されるべきこと。

  30. * 補助的作業を除いて、 活字鋳造には鋳造業の渡職人および徒弟以外の人物を使用しないこと。

  31. それぞれの条項に規定された罰に加えて、 この布令に違反した場合の罰則を規定。違反者の解雇、罰金、 身体罰に加えて今後の違反を保障する供託金の提出を強制。 没収された出版物の処分の規定。

  32. 輸入書籍の荷揚港をロンドン港に限定。

  33. * 書籍業カンパニーを通じてのオックスフォード大学への強制納本を規定。

全体としての特徴は、出版統制と営業規制が1637年布令の中に併存していることで、 あたかも書籍業カンパニーの内部規約が星室庁から発布されたかのようである。 この布令の起草段階での書籍業カンパニーの関与の大きさがうかがわれる。また、 この布令は、1586年星室庁布令の9ヶ条を細分化し、詳細に規定したものであり、 1586年布令では4条に規定されていた検閲制度と登記制度の徹底に重点をおいたもの であることがわかる。

一方、書籍業カンパニーの規約では規定することが不可能な内容も見られる。 例えば14条に見られるような、指物師、大工、金属細工職人、 鋳造職人への書籍業カンパニーの統制力の拡大は特異なものだといえる。 確定的なことは言えないが、ロンドンの慣習では、 あるカンパニーが他のカンパニーの構成員を営業内容について統制することは不可能 だったと思われる。仮にそのようなことが可能だったなら、 それぞれの職業別カンパニーの存在意義が失われるからである。 カンパニーが依拠していた都市権力や都市の商慣習の許容範囲を越えた権限が、 1637年星室庁布令によって書籍業カンパニーに与えられたのである。

また、1637年星室庁布令で、海賊版の禁止、 すなわちコピーライト保護について直接規定しているのは7条である。何人も「版、 書籍、書籍の一部についてそれが海外で印刷されていようと、 あるいはどこで印刷されていようと、 それを書籍業カンパニーあるいはその他の者が開封勅許状、命令、 あるいは書籍業カンパニーの登記簿への登記で、独占出版の権利、特権、権威、 許可を保有している場合、」[12] 印刷したり輸入したりしてはならないと定め、版の帰属について、 書籍業カンパニーの登記簿が政府に公の記録として認識されていることがわかる。

コピーライトの帰属に関して書籍業カンパニーの登記簿に法的効力が与えられたこと、 また、この布令で強化された出版統制権、営業統制権、 および検閲制度との結合をもって、 書籍業カンパニーは名実ともに政府の検閲執行機関として統制力を行使することが可 能になった。もはや書籍業カンパニーは単なる制服カンパニーではなくなり、 出版を統制するための政府機関となったということができるだろう。

では、このように強化された検閲制度のもとで、 社会はどのような状態に置かれたのだろうか。 この時代の検閲の様子について歴史家トレヴェリアン(G. M. Trevelyan) は次のように記している。

    当時、主教たちの掌中に握られていた新聞検閲権は、ロード(Laud)によって、 彼自身の考えに反対する声を黙らせるためにせっせと使用された。イングランド人は、 万事、特異な聖職者の一派によって定められた命令に従わされることになった。 要するに、 中世時代の俗人に対する聖職者の関係を復活させようという試みが進行しつつあった [13]
この1637年星室庁布令は1662年印刷法の雛型となったもので、 イギリスにおける検閲制度の完成形態を示すものである。しかし、 この1637年星室庁布令はわずか4年間で効力を喪失した。というのは、 1641年の長期議会のさなか、 国王大権裁判所の廃止と同時にこの布令も無効とされたからである。

2 王位空白期の出版統制律令

チャールズ1世の専制が崩壊し始めるきっかけは一冊の書籍によってもたらされた。 1637年にイギリス国教会高教会派の創始者で、宗教的不寛容で知られる大主教ロード (William Laud)が国教会の英語祈祷書をスコットランド教会に強制しようと試みた。 この出来事はイギリス、スコットランド両国民を刺激し、 スコットランドでチャールズ1世に対する反乱を招く結果となった [14]

この反乱の鎮圧に必要な軍事費を集めるために「短期議会」「長期議会」 が 12年ぶりに開かれたが、 これらの議会はイギリス国民の国王に対する不信と不満を明確にしただけだった。 その長期議会で、ロードは庶民院の満場一致の弾劾でロンドン塔に幽閉され、 1641年7月5日に残虐で知られた国王大権裁判所が全て廃止され、 星室庁布令も無効となった。 追いつめられたチャールズ1世は 1642年1月4日に暴力で議会を蹂躙しようとして果た せず、北部に逃亡した。そしてそのときから、 4年間の王党派と議会派の内戦が開始されたのである [15]

2.1 出版業界の混乱

長期議会以降に政権を握った人々が、 宗教改革 以来の100年以上にわたって異端審問と検閲の被害者だったことは、 長期議会初期の議会派の態度を決定した。きわめて初期には、 長期議会はあらゆる検閲制度を廃止し、 出版の自由をもたらそうと考えた [16]。しかし、 書籍業カンパニーの上層階級には多数の王党派がいるのではないかと考えた議会は、 1641年2月13日に「印刷委員会」 (Committee Concerning Abuses in Licensing and Printing of Books)を組織して、 書籍業カンパニーの監督にあたらせることにした [17]。しかし、 この委員会は有効には機能しなかった [18]。そこで当座の対策として、 1642年1月29日の律令で、著者、 出版者の名前を登記することのみを義務づけることになったのである [19]

2.1.1 書籍業カンパニーへの挑戦
容易に想像がつくように、書籍業カンパニーの諸特権の法的根拠の喪失は、 カンパニー内外の統制力の低下となって現れ、 カンパニーが保有する特権への挑戦が数多く生じた。早くも1641年、 書籍業カンパニー内部から、 カンパニーの補佐役会の寡頭的体制と幹部たちの独占的利益への攻撃が始まった。 この攻撃は単に経済的理由のみによるものではなく、 カンパニーの幹部に王党派が多く存在し、一方、 経済的に恵まれていない出版業者に清教徒、 すなわち議会派の人々が多かったことも影響している。

反対派の指導者はスパーク(Michael Sparke)という人物だった。彼は、 1620年代末から1630年代を通して清教徒派の宗教書出版者として有名で、 1637年に耳削ぎの刑に処せられたプリンと一緒に、晒しものにされたこともあった。 彼は、1641年に「火花、または暗黒の巨商たちを暴く一条の光明」(Scintilla, or a light broken into darke warehouses)という小冊子を出版し、王室印刷人、 法律印刷勅許権者、英語版株の特権を批判し、 それらの独占のため書籍の価格がつりあげられていると主張した。その証拠として、 彼自身が法律を無視してオランダから聖書を輸入し販売しており、 この輸入にかかる費用を算入しても輸入版の価格の方が安かったことを挙げている [20]

しかし、彼の「火花」の中で主張されている提案は、 すでに印刷されなくなった版がカンパニーに帰属するという慣習を排除し、 古い版の自由印刷を主張したり、カンパニーの補佐役会の参加人数を増やし、 業界内部の広い層の意見がカンパニーに反映するように求めたり、 理事長の重任を禁止することを主張するなど、 カンパニーの体制の改善を目指すもので [21]、 特権を批判しながらも特権に依存していた印刷業者の立場がうかがわれる。結局、 彼の提案の一部は受け入れられ、また彼も1580年代のウルフと同じように、収入役 (Renter Warden) の地位を与えられることで懐柔されてしまった [22]

このような挑戦はこの後も続いたが [23]、 書籍業カンパニーの幹部たちは英語版株から生じる莫大な収益を背景に、 主として懐柔策を用いながら、 1660年の王政復古までカンパニーの特権を維持することに成功したのである [24]

2.1.2 印刷所の拡散
しかし、一層厄介な問題は、 統制力の低下のために中小の違法印刷所が数多くイギリスに拡散してしまったことで あった。

これまで、労働賃金を低く抑えるという目的で、 印刷職人は常に過剰気味に供給され続けてきた。1586年星室庁布令、 1637年星室庁布令の条項で徒弟数を厳しく制限した裏には失業問題があったのである。 このような多数の失業印刷職人が存在するという状況の下で、 王党派と議会派の内戦が開始された。当然に内戦の戦況は国民の関心事となり、 新聞や小冊子などの刊行物の莫大な需要が生じたのである。 そこでこうした失業印刷職人たちは書籍業カンパニーの統制を無視して、 新聞や小冊子を大量に印刷し街頭で販売することを始めた。 また海賊出版も横行をはじめた。 英語版株でも最も収益の高かった暦の海賊版が販売され、印刷業界は生産、 流通の両面で無統制状態に入ったのである [25]

また、1642年から1648年の内戦の全期間を通じて、王党派、 議会派双方の大量の宣伝文書が出版された。王室印刷人バーカー (Christopher Barker)はチャールズ1世の陣営に参加し、 国王布令などの政府文書および王党派の宣伝文書を印刷した。 彼は王党派軍に従ってイギリス各地を移動しながら印刷を続けた [26]。おそらく、1533年以来、 100年ぶりに国王の認めた公然の印刷機がロンドン、オックスフォード、 ケンブリッジ以外の土地に据えられたのである。 内戦はまたイギリスにおける最初の言論戦でもあった。 内戦期間を通じて23,000点を上まわる種類の宣伝文書が印刷され流通した。 この言論戦は常に王党派に有利に展開したという [27]

ロンドンの印刷機の独占が崩壊することは、 もはや書籍業カンパニーの統制力が二度と復活しえないことを意味した。 内戦期以前でも、 ロンドンの慣習に基づいて他のカンパニーの自由職人が書籍業を営むことで、 書籍業カンパニーの営業独占は侵食されていた。 そのロンドンの慣習から生じる営業独占のほつれを 1637年星室庁布令に具体化した 国王の大権で克服したそのときに、統制力を完全に失う結果となったのである。 今後の書籍業カンパニーの営業独占を脅かすのは地方の印刷業者ということになった。 摘発が困難になっただけ、問題の深刻さは増したのである。

2.2 長期議会の出版統制律令

2.2.1 書籍業者の請願
議会派が言論統制に踏み切った背景には、 やはり書籍業カンパニーの権益保護が動機として存在していた。 議会派が政治的に勝利を収めると新しい聖書の出版計画が立てられ、 11人の書籍業者が印刷人として指名された。すると直ちに、 書籍業カンパニーから請願が議会に提出された。1643年1月の請願 (The humble Petition of the Company of Stationers of the City of London) [28]によれば、それらの11人の 「独占者」に特権を与えてイギリス印刷業の崩壊を招くのではなく、“common stock” すなわち、英語版株にその聖書印刷の特権を組みいれることで、 カンパニーの全員がその恩恵を享受できるようにすることが望ましいというのである。 彼らはとくに英語版株からカンパニーの貧民層に支払われていた「年金」を挙げて、 英語版株の公共性を強調している。

つぎに、直接的に検閲制度の復活を求める 「議会に申し上げる書籍業カンパニーの忠告」(To the High court of Parliament: The humble Remonstrance of the Company of Stationers, London) [29]が 1643年4月に提出された。 この請願は、この当時の書籍業カンパニー幹部が検閲制度と自分たちの財産、 すなわちコピーライトをどのように捉えていたのかを知るための最も好適な資料であ る。そこでやや詳細に検討する。

まず、書籍業カンパニー幹部は出版統制が公益と結び付くことを強調している。 彼らの主張は次のように整理することができる。まず、学問の振興と国内の治安 (宗教)のために重要な出版業を統制することは政府にとって重要な任務であり、 出版業が統制されなければ国家にとって危険を招くことになるとする。 とくに学問の振興という目的を強調して次のように述べる。 「学問は我らの印刷術の恩恵を必要とする。というのは、 印刷術は我々の学問を進歩させた偉大な手段だからである。」 [30] また、国家の治安に関しては、 次のように述べる。「一般に、印刷術が衰退したところ、 また政府が措置を怠ったために印刷業者が貧しくなったところでは、 虚偽と異端が蔓延する。」[31] したがって、印刷業界の秩序を維持することで印刷業の繁栄を導くことは、 印刷業界の私的な利益だけでなく、学問の振興と国家の治安に貢献する。

ところが近年、 出版業界の秩序が政府の無関心のために大きく乱れて危機に陥っているとする。 すなわち、出版を取り締まる法律が存在しないために、 書籍業カンパニーが違法行為を取り締まることができなくなり、(1) 無許可出版所の増加、(2)海賊版出版による出版業者の経営の悪化が生じており、 この(1)と(2)が悪循環を招いてますます状況は悪化していると主張している。 「近年カンパニーは違法出版物のため多量の在庫を抱えて貧しくなっており、 その貧しさ故に違法出版物が増えるという悪循環に陥っている。 家畜に例えていうならば、 餌となる牧草がすべて枯れ果てようとしているのである [32]。」言葉を換えていうならば、 「書籍業者たちの古くからの権利と関連している特権の享受が脅かされている。 この版についての財産(Property of Copies)は現在ほとんど失われ、 混乱の中に紛れてしまうとしている」 [33] ということになる。

そこで、書籍業カンパニーは(1)学問の振興(2)印刷業の繁栄(3) 特権と奨励の三点を目的として印刷業界の統制のための法律を求めるという。(1) の目的は粉飾であるが、(2)、(3)の目的は書籍業者の正直な目的を示している。

(1)学問の振興という目的のために出版統制が必要であるとし、 有益な出版物を免許し、危険な出版物を抑圧するための効果的な検閲制度 (severe Examiners for the licensing)が必要であるとする。それでは、 だれがその検閲を行うべきかということについて、彼らは次のように主張する。

  1. すべての法の生命は、訴追にある。

  2. 印刷に関して書籍業者以外に効果的に訴追を行うことができる人物は、いない。

  3. 仮に書籍業者が現在、望ましい訴追を熱心に行っていないならば、 その原因は訴追を行うだけの十分な権威が欠けているからであり、 また書籍業者の利益保護という奨励策が必要である [34]

(2)印刷業の繁栄という一見私的な目的が、どうして公益と結び付くのかについて、 彼らは「印刷業の繁栄によって、望ましい出版秩序の改善が行われ、 書籍業者が国家に貢献することが可能になる」という論法を用いる。そして、 そのためには、秩序を乱している業者を訴追するための権威が必要であると主張する。

彼らが求める権威とは、書籍業カンパニーによって指名され、 議会の任命による統制委員会(committee)である。彼らがいうには、 統制委員会はあまりに強い権限をもつべきでなく業界を監督するもので足りるとする [35]。すなわち、 これまで王権に基礎をおいていたカンパニーの業界に対する監督権限を復活させるた めに、 委員会という機関を介在させて議会の権威に基礎を置きなおそうというわけである。

(3)特権と奨励策(previledge or encouragement)という目的は、 まわりくどく説明されているが、結局のところ(2)の論法と同一であり、(2) で彼らが主張した「繁栄」を達成するための具体的な利益についてのべられている。 書籍業者たちの特権、すなわちコピーライト制度が失われることによって、 彼らは経済的困窮に陥り、家族を崩壊させ、仕事への熱意を失う。だから、 書籍業カンパニーの特権、 すなわち出版業への監督権を復活させる必要があるというのである。

コピーライト制度について、すでに「独占である」との批判が生じていたこと、また、 書籍業者たちも自分たちの保有している財産すなわちコピーライトが独占と同一のも のであることを理解していたことが次の記述からうかがわれる。「一見、 版についての財産権は、いくらかの人に理解されているように、 独占と同じものであるが、書籍業者にとって必要な権利であって、それほど勝手 (free)な特権というわけではない。それがなければ、 彼らは生活していくことすらできない。」 [36] 続けて彼らは、コピーライトと独占の関係について次のように説明する。 「版についての財産権はさまざまな面から国家にとって有益なものである。 というのは、 その本質が他の日用品を少数者の手に帰する独占とは異なっているからである。」 [37] その理由として次のように列挙する。

  1. 書籍は(聖書を除いて)日用品と異なり、一般的に使用されるものでも、 必要なものでもない。そこで、 版についての財産権が書籍業者のあいだで維持されても、 より一般的な日用品についての独占権と同じような反社会的効果を生じない。

  2. 書籍業者たちのあいだで、版についての財産権がよく統制されるならば、 印刷業は繁栄し、書籍はより豊富に安価になる。

    その理由は次のとおり。

    1. 仮に全ての人が印刷することが合法となれば、 複数の人物が知らずに同じ作品を印刷してしまい、互いに経営がうまく行かなくなり、 また商品の多大な無駄になってしまう。

    2. 同一作品の同時出版から生じる不利益の危険ために、 多くの人々を印刷業から遠ざけてしまい、学問の振興に大きな妨げとなり、 価値ある素晴らしい作品が世にでなくなる。

    3. 版についての権利の混乱や一般的共有は書籍業者たちの商売を破壊する。

    4. 版の一般的共有は書籍業者たちを衰退させ、 それが同時に著作者たちの衰退にもつながる。「仮にこれ[コピーライト] が取り除かれたら、大変な価値をもつ優れた多くの作品が子宮の中で窒息してしまい、 世に全く知られることがなくなるだろう。」 [38]
    5. 多くの場合、一般的共有は不正である。というのは、 現在多くの家庭が彼らの生活費を版の割り当て(Assignment of Copies) によって維持しており、遺児や未亡人の生活のすべを奪うことになるからである。

同一作品の同時出版による不利益を主張していることに注目される。 コピーライト制度が書籍業カンパニーの内部で発生した理由は、この不利益であり、 この不利益を避けるために、コピーライトの共有が(b)から(e) の部分で否定されているのである。このことは、書籍業者たちがコピーライトを「物」 あるいは「土地」と類似の財産権の対象と把握していたのに加えて、 小さな市場で自由競争した場合、 大きな初期投資が必要な印刷業が経営的に成立しないことを認識していたことを示し ている。経済学的に、 この当時の出版業の独占が正当化されることを主張しているわけである。

2.2.2 1643年条例
書籍業者たちの長大な請願は、議会に受け入れられ、1643年6月14日に 「印刷の規制に関する条例」(An Ordinance for the Regulating of Printing) [39]が発布された。この結果、 かつての検閲制度の被害者が、 加害者側の印刷物を検閲制度によって抑制する皮肉を生むことになった。 しかしながら、この法律に規定されたとおりに印刷許可(imprimatur) を掲載した書籍は現れなかったという [40]。 要求された記載事項のいずれかが欠けていたり、 あるいは書籍業カンパニーへの登記がされていなかったのである。

条例は、短いものであり、3段落と付加的な1段落から構成されている。

第1段落は趣意文である。検閲法規の趣意文の常套句である「誤謬に満ちた、 虚偽だらけの、中傷的、煽動的、反抗的、無免許の新聞、 小冊子および書籍が無認可の施設印刷所で大量に印刷されており、 出版秩序が多いに乱れている。 また書籍業カンパニーおよびその他の人物が保有している利益の多い印刷物の海賊版 が許可なく印刷、出版、販売されている。」といった語句に続いて、 「書籍業カンパニーと権利者(Agents)の権利を著しく侵害し、 彼らの社会への貢献意欲を著しく阻害するゆえに、 違法出版業者たちが行っている印刷における犯罪について、 報復として彼らを議会に告発する。」とされていることから、 1643年条例が書籍業者たちの請願に基づくものであることは間違いない。

第2段落で、(1)議会が指定する検閲官に印刷前に提出して印刷許可を得たのち、 古来の慣習に従って書籍業カンパニーの登記簿に登記されていないもの、(3) 印刷人の名前が記載されていないもの、(4)英語版株に含まれているもの、(5) 版の保有者(owner) の同意あるいは許可を得ずに印刷されたものの出版を禁止している。

第3段落で、議会が指定する検査官に加えて、書籍業カンパニーの幹部、 貴族院の廷吏(Gentleman Usher of the House of Peers)、庶民院の守衛官 (Sergeant of the Commons House)、および彼らの代理人(Deputies) などから編成される査察機関について規定し、違法出版所の捜査、印刷機の没収、 違法出版物の没収、身体罰、罰金、担保金の提出などの罰則が規定されている。

最後に出版物を内容の面から9つの領域 [41] に分類し、 12人の検閲官がそれぞれの領域に割り当てられている。

全体として1637年星室庁布令から、営業規制に関する条項を取り除き、 目的を検閲制度の復活と違法出版物の禁止に絞りこみ、 違法印刷所摘発のための査察権を認めたものとなっている。当然ながら、 かつて検閲制度の権威を支えていた、 カンタベリー大司教やロンドン司教などの宗教的権威はいっさい現れない。 それとは対照的に“ancient customs of the company”という語句が目立ち、 こまかな内容については書籍業カンパニーに一任するという態度がうかがわれる。

この時期のコピーライトについてみるならば、 印刷許可と一体ものと理解されていたことがわかる。まず、 はじめに著作者が庶民院に出頭して内容を検閲者に説明(first-day sermon)し、 著作者が印刷許可を獲得する。 このとき同時に著作者が作品の保有者としての地位を確認される。 すなわちコピーライトが認証されるわけである。つづいて、出版可能な作品について、 コピーライトと出版許可ごと、著作者から書籍業者に譲渡されたのである。しかし、 この手続がなされたときに書籍業カンパニーの登記簿への記載が行われた例はないと いう [42]。また、 庶民院あるいは印刷委員会から直接に書籍業者に出版許可が与えられている例もある という [43]

2.2.3 アレオパギティカ
こうした議会側の反動的態度を嘆いたのが、 後にクロムウェルのラテン語書記官となるミルトンである。1644年11月24日、 イギリスにおける出版の自由の聖典ともいうべき『アレオパギティカ』 (Areopagitica) [44]が出版された。 ちなみにこの『アレオパギティカ』自体も許可を受けないまま、 秘密印刷所で出版された小冊子だった [45]。 もちろんミルトン自身は清教徒であり熱心な議会派ではあったが、彼がいうところの 「ローマ・カソリック的な卑怯で愚劣な手法」 [46] である検閲制度を、 彼が賞賛していた長期議会が採用したことに憤っての反政府出版だった [47]

この小冊子の中で、彼はいかに検閲制度が言論統制に効果がなく、 逆にいかに学問にとって有害であるかを主張した。その主張の最後の部分で、 この検閲制度が誰によってもたらされ、 維持されているのかについてのミルトン自身の見解が示されている。

    なぜ、それ[1643年条例]が、 非常によくつくられていた諸君の前の命令にとって代わったか、 もし我々がその職業のために疑いをかけられやすい人物たちを思い起こしてもかまわ ないならば、そこには書籍販売業における古い特許権所有者や、 独占者らのごまかしがあったのではないかと思われる。その人々は、 彼らのカンパニー内の貧困者の保護と、 各人それぞれの版を正当に維持するのだという神が反駁を許さない題目の下に、 議会にさまざまの口実を用いた。しかし、それは口実以外の何物でもなかったので、 彼らの隣人、すなわち学問が恩恵を受けている賞賛すべき職業に従事するがゆえに、 他者の利益のために利用されるべきでない人々に、 彼らが優越権を揮う目的に役立ったのみだったのである。 彼らのうちのいくらかの人々が請願によってこの命令を獲得するのに際して、 もう一つの目的が狙われたものと思われる。それは、権力を彼らの手中に握って、 王党派の書物がよりたやすく世に出るようにしようというものである。 それは結果が証明するとおりである [48]

ミルトンは1643年の書籍業者たちの請願について詳細に知っていたと思われる。また、 その後半部分の分析も的確であり、事実、 王党派のニュース本は内戦の終結後もロンドン市内の秘密印刷所で出版されたのであ り、 不安定な長期議会政権を揺さぶり続けたのである [49]

こうした反政府文書に悩まされた議会は、自らの愚策のため、 出版に関する権限を軍に与えてしまうことになる。 チャールズ1世の降伏で内戦が終結した翌年の 1647年に、 議会の多数派が議会側の軍人を全て解雇しようとしたことで、 議会とクロムウェル率いる軍隊の分裂は決定的となり、1647年8月には、 軍隊が議会に威圧を加えるまでになった [50]。 そして1647年9月には検閲官に軍人が就任し、 軍による出版統制権力の接収は完全なものになった [51]

2.3 共和制期の出版統制律令

2.3.1 1647年律令
1647年9月30日「無許可あるいは中傷的小冊子を抑制し、 よりよい印刷業の統制を行うための律令」 (An Ordinance against unlicensed or scandalous Pamphlets, and and [sic] for the better Regulating of Printing.) [52] という短い律令が発布された。 全体の構成は3段落からなるものである。

この律令は、 印刷業者と同程度に著作者を規制することに目的をおいた最初の検閲法規だった。 その理由は、この時期の反政府出版物がほとんど新聞、小冊子、ニュース本 (News-Book)であり、著作者と出版者は発行の度に取引相手をかえたから、 両者の結び付きは強固でなく、 印刷業者だけを取り締まっても効果が薄かったからである。また、最後の段落で、 煽動的、反逆的、冒涜的出版物については「そのような罪に応じた、この国の法、 あるいは議会が適当だと判断する一層の罰に服させる」 [53] と上限のない罰を与える可能性をとりいれるなど、恣意的性格を増している。

2.3.2 1649年律令
チャールズ1世が処刑された1649年になると、当然考えられる反動として、 クロムウェル批判が高まった。すると、 かつて自分たちが憎悪して止まなかった1637年星室庁布令に比較しても見劣りのしな い出版統制律令が発布され、反政府文書の摘発は徹底された。 1650年以降の出版業界は1630年代の悪しき時代にもなかったような抑圧のもとに置か れたのである。

1649年9月20日「無許可あるいは中傷的な書籍および小冊子を抑制し、 よりよい印刷業の統制を行うための法律」 (An Act against Unlicensed and Scandalous Books and Pamphlets, and for better regulating of Printing.) [54]が発布された。

全体は24の段落から構成されている。

  1. 「誤謬に満ちた、虚偽だらけの、.....」という、 検閲法の趣意文に現れる常套句が置かれている。これまでの律令と異なっているのは、 とくに週刊誌(weekly Panphlet) について規律の乱れが著しいと指摘していることである。 小規模の秘密印刷所で作成されるニュース本に苦しめられている政府の様子がうかが われる。

  2. 違法な文書を印刷、販売した著作者、出版者、販売業者への投獄、 罰金などの罰則。

  3. 違法な出版物の購入者への罰則。

  4. 「国政に関する公表に適した情報を共和国の良き人民に伝えるため」に、 検閲制度を置き、出版の事前許可を得るべきこと。

  5. 1647年律令の規定を強化するために1647年律令の撤回する。

  6. 1647年律令で定められた検閲機関の廃止。代わって、国務評議会 (Council of State)が任命した国会事務官(Clerk of Parliament)、 あるいは軍秘書官(Secretary of the Army) が検閲を行う規定。 検閲官の独立性が弱まり、検閲に対する政府の影響力が大幅に増大している。また、 全ての出版物は書籍業カンパニーの登記簿に登記することが要求された。

  7. 反逆的な出版物について、一層の加重刑を与える規定。 刑の上限について規定をおいていないので、 恣意的に刑罰を与えることが可能になっている。

  8. 書籍業カンパニーに査察権を与えて、違法出版所、 あるいは違法出版物の摘発にあたらせる規定。 摘発された違法出版所は印刷機器を没収され、また違法出版物も没収された。

  9. 郵便その他の輸送手段を用いて違法な出版物を伝達することの禁止。

  10. 「以前の慣習に反して、政府の目の届かぬところで」 違法な出版が行われているとし、ロンドン市とその周辺部、 および二大学をのぞいて印刷機械を使用することを禁止。一方、これに追加する形で、 ヨーク(York)およびフィンスベリー(Finsbury)の印刷所を適用除外としている。

  11. 違法な出版物を出版しない保証金として、全ての印刷所が300ポンドを治安機関 (Keepers of Liberty)に供託金として提出すべきことが規定され、また、 全ての印刷物の表題頁に著作者の名前と住所、 少なくとも検閲官の名前と印刷者の名前と住所を記載すべきことが規定された。また、 二度目の違反の場合には、印刷業を営む事自体を禁止すると規定した。

  12. 印刷所設立にあたって、前述の供託金の他に、 提供した不動産が印刷所として使用されている貸主は書籍業カンパニーにその旨届け るべきこと。

  13. 印刷機械の輸入に際して、書籍業カンパニーの登記簿にその旨登記すべきこと。

  14. 外国からの違法書籍の輸入を禁止し、輸入書籍の荷揚港をロンドン港に限定。 また輸入書籍の梱包を開封する場合に、書籍業カンパニーに連絡し、 カンパニー幹部の立ち合いのもとに行うべきこと。

  15. 聖書、祈祷書の輸入の禁止。

  16. 書籍業カンパニーの登記簿に記載することで、 すでに書籍業カンパニーから正式の認可を受けている出版物を、 他者が許可なく印刷することを禁止。また、書籍の商標、 表題を無断使用することを禁止。

  17. 違法な出版物が小包で地方に郵送されているとし、 内容が違反出版物である疑いがある場合、2名の治安判事(Magistrates) の令状によって、小包の内容を検査することができる旨規定された。

  18. 没収された違反品を国務評議会に提出すべきこと。

  19. 街頭で反政府的印刷物を販売していた行商人(Hawker) あるいは反政府的な歌を唄いながら歌詞を印刷した紙を販売していた街頭詩人 (Ballad-singer)は、反政府的印刷物を没収した上に、矯正院(House of Correction) に収容すべきこと。 またロンドン市の市長および市議会が行商人を取り締まるべきこと。

  20. 罰金あるいは没収品から生じた利益を書籍業カンパニーと共和国政府とで折半する。 また、この違法出版についての司法的判断を行うべき裁判所を規定し、 また全ての文官、武官、軍人がこの法律の執行を援助すべきことを規定した。

  21. この法律の規定に反して、意図的に自らの職務を懈怠した役人は、 国務評議会の権限に基づき、この法律の規定で処罰される。

  22. この法律の規定に基づいて行われた裁判で、 被告側の無実が明らかになった場合、損害の2倍額を賠償される。

  23. この法律に基づいて行われる裁判は、 違法行為が行われてから6ヶ月以内に提起されなければならない。

  24. この法律は1751年までの2年間のみ有効な時限立法である。

全体として、検閲における政府権力の介入が強化されていること、 1637年星室庁布令が産業面からの規制だったのに対して、 違法書籍の輸送の禁止や行商人の規制など流通面を重視した規制が行われていること がわかる。

この頃から、出版許可を獲得したものの、 書籍業カンパニーの登記簿へ記載されない例が増加している。例えば、 庶民院の記録では多数の著作者が出版許可願いを出しているにもかかわらず、 1648年から1649年の間に出版が確認された書籍は12種にとどまるという。 その原因として、出版許可が庶民院の議会記録に記載されるようになったからとも、 出版許可を獲得した人物が登記にかかる費用を避けるためだったともいわれている [55]。また、 出版許可を獲得した著作者本人の依頼によって、 出版業者を通さずに印刷された書籍があるという。 これは出版業者にコピーライトを譲渡してしまう事で、 不完全な内容で出版されることを避けるためだと記録されている [56]。また、 出版が書籍業カンパニーの登記簿に記載されなかった理由として、 書籍業カンパニーに加入していない業界外の非合法印刷業者が、 多数存在したことを考慮するならば、 議会から出版許可を獲得した著作者がそれらの外部の出版業者から刊行したことも考 えられる。

この法律は1753年1月7日に、細部に変更を加え不備を補った上で、 ほぼそのまま復活させられた [57]。 ここでは、取締機関が主として国務評議会(Council of State)となり、 書籍業カンパニーは副次的な立場にたっている。 取り締まりの効果が上がらないために政府の直接介入が始まったのである。

これらの法律が有効に機能したかどうかについては、次の資料によって明らかになる。

1655年8月28日、護国卿(Lord Protector)クロムウェル自身が発令した 「印刷を取り締まる法、制定法、命令の迅速な執行についての命令」 (Orders of His Highenss the Lord Protector, made and published by and with the Advice and Consent of His Council, for putting in speedy and due Execution the Laws, Statutes, and Ordinances, made and provided against Printing Unlicensed and Scandalous Books and Pamphlets, and for further Regulating of Printing.) [58] で、「それら[違法な印刷施設] が発見され次第、彼らの全ての活字と印刷のための材料を直ちに破壊すべきこと」 [59]「そのような [ロンドンの特別管轄区(Liberty)]場所で、それらの違反者[行商人] に迅速かつ公平に身体的金銭的罰を与えること」 [60]また、 違法な秘密印刷が行われているという合理的な疑いがある場合、「扉の鍵を破壊し、 抵抗する人々を逮捕することを認め、それを必要とする」 [61]など、もはや慣習上の権利 (住居の不可侵) などの法の手続を無視してでも摘発を徹底させようというあせりが見られる。

このことからわかるように、 共和制期になされた検閲制度は有効に機能しなかったのである。

3 1662年印刷法

チャールズ2世による1660年の王政復古は、 書籍業カンパニーにとっては歓迎すべきことだった。 王位空白期に彼らが失っていた特権の根拠が復活することを意味したからである [62]。彼らは、 王位空白期に統制できないほど出まわった小冊子や新聞が一掃され、 再び書籍業カンパニーによる市場統制が復活することを望んでいた。しかし、 王位空白期に破壊された業界の秩序が再び元に戻ることはなかったのである。

逆に、印刷業界には1640年に経験したような無秩序が訪れる危険が生じていた。 1640年以前の王制のときに出版業を統制していた星室庁は廃止され、また、 1640年以後の王位空白期に発布された全ての律令が無効とされたために、 印刷に関する何らの法律も存在しないことになったからである。

しかしながら、今度の政府は出版統制について積極的だった。 チャールズ2世は5月に帰国したが、1660年6月7日には、ビルケンヘッド (John Birkenhead)という人物が出版監督官(Surveyor of Press)に任命され、 反国王的出版物の摘発を書籍業カンパニーに命じている [63]。また、8月には、 すでに議会で出版統制法案が審議中であり、 より効果的に摘発を行うために委員会を組織して、 これまで作られた出版統制法規の分析を行い、 印刷を政府の監督下に置くための具体的な方策を練るように提案されている [64]

1661年7月3日には三人の委員が出版統制法案の審議のために任命されたが、 こちらはたち消えになり、1661年7月25日に法務次長(Solicitor-General) が出版統制法案を起草するよう指示された。その法案は翌日提出された。「無許可、 無秩序出版を規制する法案」 (An Act for regulating unlicensed and disorderly Printing) と題されたこの法案は、 貴族の邸宅を立入査察の対象からはずそうとする貴族院議員と、 例外を認めず全ての家屋を立入査察の対象にしようとする庶民院議員との対立のため、 廃案となった [65]

王政復古に伴う検閲制度の復活は、翌年に持ち越された。そして1662年5月19日に 「煽動的、反逆的かつ無許可の書籍および小冊子の印刷における濫用を防止し、 印刷業および印刷機械の規制するための法律」 (An act for priventing abuses in printing seditious, treasonable, and unlicensed books pamphlets, and for regulating of printing and printing-press.) [66] が議会を通過した。 1662年印刷法は、25条から成っていたが、内容のほとんどは、 1637年星室庁布令を引用したものであり、次の諸点が異なっているに過ぎなかった。

    † .... 1637年星室庁布令に存在して、 1662年印刷法に存在しない内容はローマ数字で1637年星室庁布令の条文番号を示し、 1662年印刷法で新たに規定された内容については1662年印刷法での条文番号をアラビ ア数字で示す。

  • 指物師、大工、金属細工職人、 鋳造職人が印刷所の設立に関与することを規制する規定の削除。[XIV]
  • 違法行為をしないことを保障するための保証金制度の削除。[XVI]
  • 再版の場合の再検閲規定の削除。[XVIII]
  • 渡職人の雇傭保障規定の削除。[XXI]
  • オックスフォード大学とケンブリッジ大学の印刷業者がロンドン出版業への進出を禁 止する規定の削除。[XXII]
  • 王立図書館(King's Library)、ケンブリッジ大学図書館、 オックスフォード大学図書館(Bodleian Library)への3冊の強制納本。(17)
  • 1662年印刷法の規定がケンブリッジ大学、 オックスフォード大学の特権に及ばないことを明記。(18)
  • 査察権の行使範囲を書籍業者の住居に限り、その他の場所を査察する場合には、 国王が発給する特別令状(special warrant)が必要であるとする。(19)
  • すでに7年間書籍業に従事している書籍業カンパニーの自由職人が、 以前に禁止されていなかった書籍であり、 かつ10年以上にわたって印刷されていた書籍を輸入することを認める。(20)
  • 1661年11月20日以前から、 ウェストミンスターで営業していた露天商について営業保護を与える。(21)
  • 1662年法の規定が国王勅許状による特権に及ばないことを明記。(22)
  • 1662年法の規定がストリーター(John Streater)の特権に及ばないことを明記。 (23)
  • ヨークの印刷所を存続させる一方、 聖書と英語版株に含まれている書籍の印刷を禁止。(24)
  • 1662年法が2年間の時限立法であること。(25)
削除されたのは営業規制に関する規定であり、一方、 追加されたのは王位空白期に既成事実化した事柄について追認する規定(20, 21, 24)、 および特権への適用免除(18, 22, 23, 24)である。(19)条については、 貴族の邸宅への立入査察権をめぐる1661年の議会での論争の産物であることは明らか である。

また、(25)条で2年間の時限立法とされたのは、 国王がこの法律を濫用して世論を蹂躙することを警戒したからであり、 一定年限ごとに議会が存続を検討することができるように配慮された結果である。 この法律は、次のような経過を経て1695年まで存続した。まず、 2年後の1664年5月17日に次の会期(next session) の終了まで延長される法 [67] が可決された。つづいて、 1665年5月2日にさらに次の会期の終了まで延長される法 [68]が可決された。さらに、 1665年10月31日に次の議会が召集された最初の会期 (first session of next Parliament) まで延長されるよう改められ [69]、 次の議会は1679年3月13日に召集された。この議会は延長を議決せず、 1679年に一時的に1662年印刷法は失効した。しかし、1685年7月2日に復活が可決され、 つづいて1688年、1693年に更新された。 1695年にさらに更新が議題になったが否決され、そのまま失効した。

1662年の政府の出版統制政策における最も大きな変更点は、 1586年星室庁布令で規定されたように書籍業カンパニーの幹部が事実上検閲官の役割 を果たすのではなく、 代わって一名の出版監督官が任命されるようになったことである。 おそらくこの原因は、 チャールズ1世の絶対王制期から長期議会を経て共和制期に至る激動の時代を書籍業 カンパニーがあまりにうまくたちまわったためであり、一度、 クロムウェルになびいた集団に国家の治安に拘わる重大事を任せられないという政府 側の態度がうかがわれる。

この初代「印刷監督官」(Surveyor of Press)となったのが、レストランジ (Roger L'Estrange)である。彼は、官職を得ない時から出版許可制度に関心を寄せ、 出版統制についての自らの見解を明らかにする小冊子を印刷したりしている [70]。 彼は出版統制を行うにあたって、書籍業カンパニーを信頼せず、 カンパニーの出版における権限を縮小しようと努めたために [71]、 書籍業カンパニーとしばしば対立した。

4 小括

紙幅のため、ここで一旦小括を置くことにする。本稿では、 書籍業カンパニーの業界内部での規約として存在していた書籍業者のコピーライトが、 検閲制度を媒介として国家の制度へと認知されていく過程を、 王位空白期を挟む1623年独占法から1662年印刷法までにおいて概観した。 この期間においても、書籍業カンパニーの目的は、 常に自らの権限を強化することから生じる経済的利益の維持・拡大であった。

1643年の請願に現れているように、書籍業カンパニーの幹部たちが、 コピーライトを投資の回収を可能にするための仕組みであると理解していたことは間 違いない。しかしながら、出版に関する当時の政府の関心は専ら統制にあったし、 社会的には反独占の感情が強かったので、 カンパニーは検閲制度の中に自らの権限を強化するような内容を巧妙に盛りこむこと で、自らの独占特権を維持・拡大しなければならなかったのである。 つづく王位空白期の社会的混乱のなかでカンパニーの権限が失われそうになったとき でも、いっそう重要性を増した検閲制度を手掛かりにして、 書籍業者のコピーライトを実質的に維持する努力が続けられた。そして、 王政復古直後の不安定な政権においてもやはり検閲制度が書籍業カンパニーの権限維 持の口実とされた。 この検閲制度とコピーライトの結合が17世紀の大部分を通じて維持された結果、 両者の混同が生じ、 出版物に関する諸権利を検閲制度から切り離して捉えるという態度を後退させること になったのである。

それでは、コピーライトが検閲制度から分離した理由は何であろうか。第一に、 1695年の印刷法の失効が制度上の理由である。しかし、より根本的には、 王位空白期以降において違法な小規模印刷業者が増加したことの方が重要であった。 次稿でこの点および当時のコピーライトの状態について具体的に検討することになる。

(つづく)

Note

[1]
堀部 政男 イギリス革命と人権 ── 「営業の自由」の成立過程 ── , in 2 基本的人権, 339, 339-381 (東京大学社会科学研究所 ed., 1968)
[2]
21 Jac.1, c.3 (1623). プライス(William H. Price), The English Patents of Monopoly, p.33 によれば、 「独占法」が成立したのは1624年5月22日である。
[3]
Geoge Unwin, Industrial Organization in the Sixteenth and Seventeenth Centuries, 318-319 (org.1904 rep.1957) ({m Reprint, Nation=}with Note by T. S. Ashton=Label, originally published by Clarendon Press, Oxford)
[4]
Bruce W. Bugbee, Genesis of American Patent and Copyright Law, 34 (1967)
[5]
William Prynne (1600-1669) イギリス内乱の議会側小冊子執筆者。 演劇を非難した小冊子 Histrio-mastix (1633)の中で、 王と王妃を誹謗して投獄その他の厳刑を科され(1634)、 獄中でも書き続けてさらに厳罰を受けた(1637)。長期議会により釈放され(1640)、 内乱中議会側を弁護した。1648年には庶民院議員となったが、 王の処刑に反対し軍によって追放された。 クロムウェルの共和政府を攻撃してしばしば投獄された。 王政復古に際して再び庶民院議員となった。
[6]
John Lilburne (1614-1657) イギリス水平派(levelers)指導者。 ロンドンの仕立職人だったが、不許可文書を流布して告発され(1637)、投獄された。 内乱に際して議会軍に入ったが、軍の上層部を批判して多くの小冊子を書き、 水平派の指導者として下層民衆の偶像となった(1649頃)。
[7]
2 G. M. Trevelyan, イギリス史, 126 (大野 真弓 trans., 1974)
[8]
4 Edward Arber, A Transcript of the Registers of the Company of Stationers of London 1554-1640, 529-536 (org.1875 rep.1967)
[9]
Cyprian Blagden, The Stationers' Company, 118 n.1 (1960)
[10]
Id. at 118
[11]
Id. at 117-125
[12]
4 Transcript, supra note 8, at 531
[13]
英国史2, supra note 7, at 125
[14]
Id. at 128-129
[15]
Id. at 131-135
[16]
William M. Clyde, The Straggle for Freedom of the Press from Caxton to Cromwell, 55 (1934)
[17]
Frederick Nash, English Licenses to Print and Grants of Copyright in the 1640s, IV The Library 174, 175 (1982)
[18]
John Feather, A History of British Printing, 44 (1988) (邦訳: 箕輪 成男 trans, イギリス出版史, (玉川大学出版部, 1991))
[19]
Nash, supra note 17, at 175
[20]
Feather88, supra note 18, at 43-44
[21]
Blagden, Company, supra note 9, at 131
[22]
Id. at 133
[23]
Id. at 134-140
[24]
Feather88, supra note 18, at 47-48
[25]
Id. at 44-45
[26]
Id. at 45
[27]
Id. at 45-46
[28]
1 Transcript, supra note 8, at 583-584
[29]
1 Id. at 584-588
[30]
1 Id. at 584
[31]
Id
[32]
1 Id. at 586
[33]
Id
[34]
1 Id. at 585
[35]
1 Id. at 586
[36]
Id
[37]
1 Id. at 587
[38]
Id
[39]
I C. H. Firth and R. S. Rait, Acts and Ordinances of the Interregnum 1624-1660, 184-187 (1911)
[40]
Nash, supra note 17, at 175
[41]
(1)神学 (divinity)(2)法令集(law)(3)医学(physic and surgery) (4)法律学 (civil and common-law)(5)紋章学、布令、命令 (heraldry, declarations, ordinances) (6)小冊子、肖像画、絵画(small pamphlets, portraits and pictures) (7)名誉(titles of honor and arms) (8)哲学(philosopy) (9)数学、暦、予言 (mathematics, almanacs and prognostication)
[42]
Nash, supra note 17, at 177-178
[43]
Id. at 180
[44]
John Milton, English Minor Poems: Paradise Lost, Samson Agonistes, Areopagitica, (1952)
[45]
Nash, supra note 17, at 176
[46]
Milton, supra note 44, at 386-387
[47]
もう一つの個人的動機として次のようなものがあったと、石田 憲次 他 『言論の自由 ─アレオパヂティカ─』(岩波書店, 1950)の後書きに記されている。

「なお右の外にミルトンは個人的の動機もあった。 彼は 1643 年彼の最初の離婚論をば無検閲、無許可で出版し、 翌年再版のときもやはりそのままだった。然るに之が物議を醸し、 上下両院に於てその趣旨を排撃する激しい説教が行われ、 書籍出版業組合は衆議院に告発の請願をなすに至った。 衆議院は之を握り潰す事にしたようであるが、ミルトンがかような際、一般的に元論・ 出版の自由の為に、 侃顎の議論を公にしようとの衝動を強められたことは察するに難くない。」

[48]
Milton, supra note 44, at 412
[49]
Feather88, supra note 18, at 48-49
[50]
英国史2, supra note 7, at 149
[51]
Feather88, supra note 18, at 49
[52]
Firth, supra note 39, at 1021-1023
[53]
Id. at 1023
[54]
II C. H. Firth and R. S. Rait, Acts and Ordinances of the Interregnum 1624-1660, 245-254 (1911)
[55]
Nash, supra note 17, at 182
[56]
Id. at 183
[57]
Firth2, supra note 54, at 696-699
[58]
Clyde, supra note 16, at 323-327
[59]
Id. at 324
[60]
Id. at 326
[61]
Id. at 327
[62]
Blagden, Company, supra note 9, at 148
[63]
Feather88, supra note 18, at 135
[64]
Id. at 136
[65]
Id. at 136-137
[66]
13 & 14 Char.2, c.33 (1662).
[67]
16 Char.2, c.8 (1664).
[68]
16 & 17 Char.2, c.7 (1665).
[69]
17 Char.2, c.4 (1665).
[70]
Blagden, Company, supra note 9, at 150
[71]
Harry Ransom, The First Copyright Statute, 78 (1956)

to Copyright 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
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