1 はじめに情報社会と呼ばれる現代において、知的財産権制度は根本的見直しを迫られている。 情報の社会的・経済的価値の高まりとともに、 知的財産の保護の強化が主張される一方、 新しい情報媒体に適合した知的財産の運用方法について模索され、 ある局面においては従来の創作者保護の立場を後退させても、 より効率的な知的財産の運用が必要であると主張されるようになった [1]。 知的財産権保護の強化を唱える主張と、 創作者の人格的保護を後退させても知的財産の効率的利用をはかる主張という二つの 主張からは、 知的財産の利用から生じる社会的利益と創作者の個人的利益の対立という、 制度の内在的矛盾がうかがわれる。 この矛盾が生じる理由について、また、矛盾の調和的解決について検討するためには、 著作権理論が存在しない状況下での知的財産の運用について研究する必要があると考 えた。そこで、イギリスにおける出版特権が著作権へと変容していく発達過程を、 15世紀の印刷術の導入から18世紀の近代的著作権理論の確立までを研究題材として取 りあげることにした。 この期間の知的財産の運用の仕組みは後の著作権制度の基礎となっているのであるが、 保護される権利の性格が出版特権であるという認識のために、 著作権法研究の一環としての詳細な研究がなされなかったのである [2]。 著作権法(コピーライト)の誕生を、 著作者の創作行為に知的財産権の基礎を置く精神的所有権論に求める欧州型の発想と、 知的財産の運用制度の発生に求める英米型の発想とでは、 そもそも視点の違いがあることは明らかであり、 ドイツ法系の理論構成が主流のわが国では、 本研究の意義は歴史学的な興味の対象にとどまるものかもしれない。しかし、 著作権制度全体が変革のときを迎えている現在においてこそ、 その起源を探ることの意義は高まっているのではないだろうか。 本稿では、 イギリスの著作権制度の基礎を作りあげた書籍業カンパニーについて取りあげる。 書籍業カンパニーの性質について解説をしておかなければ次号以降の記述に困難が生 じるからである。次号以降、彼らが生みだしたコピーライト運用制度について、 続いて検閲制度とコピーライト制度の結合と分離について、 最後に立法と裁判を通じて出版特権が「著作者の権利」 として変容していく過程について論述する予定である。
2 書籍業カンパニーイギリスにおいては、印刷術の導入から約150年にわたって、単独の同業者集団、 書籍業カンパニー(Stationers' Company) が出版業を独占し、 同時にコピーライト制度の運用と発展を担ってきた。 一つの国家に複数の同業者集団が存在した欧州諸国の状況と比較して、 制度が統一的に発展するための素地があったわけである。 国全体の出版業を独占する単一の集団が成立した理由として、しばしば、異端的・ 煽動的出版物を取り締まるための国家の検閲目的に出たものだという説明がなされる [3]。確かに勅許状の趣意文には、
しかし書誌学者の研究成果や一次資料を詳細に検討するならば、(1) 書籍業カンパニーが全国的な印刷独占権をもつ集団として成立した理由が、 外国人職人の営業を制限する制定法の効果であったこと、また、(2) 趣意文で謳われているような出版統制は主たる目的ではなく、 専ら書籍業界の取引慣行の確立と安定にあったことが明らかになるのである。
2.1 書籍業カンパニーの成立“stationarius”という言葉は、 13世紀にオックスフォードとケンブリッジで最初に見られ、 大学都市の書籍販売業者を意味していた。 14世紀にはロンドンでもその言葉は一般化し、販売業者のみならず、 製造にも関与する手工業者ギルドをも指す言葉となっていたことがわかっている [5]。1357年には、写本書籍業者のギルドが、 ロンドンの手工業者ギルドとして存在していたことが記録に残っている [6]。それは法令書類代書人 (writers of court-hand)と代書人(witers of text-hand)と写本の装飾職人 (illuminators)の混在するギルドだった。 書籍業者のギルドは、その後しばらくそれぞれの職業ギルドへと分裂を続けたが、 1403年にロンドン市に請願し、代書人(Textwriters)と装飾職人(Lymners) の両方が参加するギルドとして再構成されている [7]。 1440年代までには一体のギルドとしての認識が固まり、“Stacioners” という呼称が定着する [8]。 これらの起源からわかるように、“Stationers” は必ずしも書籍販売業者だけを指すのではなく、 文字と記録に携わる職能者のギルドだったことがわかる。初期のギルド構成員のうち、 裕福なものは、多く法令書類代書人だった。 印刷術のイギリスへの導入(1476)から約50年間、 印刷業は書籍業ギルドの支配下にはなかった。印刷業者の大半は、 国王の招きに応じて移住してきた外国人であり、 宗教的組織である兄弟団に基礎を置く手工業者ギルドとは相容れなかったからである。 また、 初期の印刷所が地方に設立されていたこと [9] もギルドとの関係を疎遠なものにした。 15世紀のイギリスでは外国人職人や外国人商人に対する国内の職人や商人の排斥運 動が広く見られたが、印刷術を国内に定着する重要性は、 国王に強く認識されていたようである。1484年の 「イタリア商人が取り扱うべき商品および外国人商人の営業規制に関する法律」 [10] では外国人がイギリス国内で職業に就くことをを禁止する一方、書籍の輸入・製造・ 販売については適用除外とするなど、印刷術の振興をはかる態度が見られる。さらに、 1523年の「外国人手工業者が保有することができる徒弟に関する法律」 [11] でも外国人職人が手工業者ギルドに編入されるべき旨の規制が加えられたが、 これも印刷業には適用されなかった。また、 外国人がロンドンで店を構えることを制限する1529年の 「徒弟および自由職人の制限について外国人職人に言及する法律」 [12] の適用も印刷業については免除された。これらの適用除外のために、 ギルド加入の必要性が乏しかったので、ほとんどの外国人印刷業者は、 地方あるいはロンドン市の周辺でも市裁判所(city court) の司法管轄が及ばない特別管轄区(liberty) に存在したままだった [13]。 ただし、これらの外国人印刷業者たちの内には、 ロンドン市権力に由来する特権は保持しないものの、 書籍業ギルドの内部で定款に服する「兄弟分」(brothers) と呼ばれる人々も存在していた [14]。 ところが、1533年の「印刷業者および製本業者に関する法律」 [15]をきっかけとして、 イギリスにおける出版業はロンドンに集中することになる。 この制定法によって1484年の制定法の適用除外が取り消され、 外国人印刷業者は帰国するか、 あるいは営業を続けるためにロンドンの市民権を獲得するかを迫られた。 彼らの大部分は1534年以降に、国籍付与状(letter of denization) を獲得していたから [16] 後者を選んだ者が多かった。 ロンドンで営業するためには市民であることを要求された。 そして市民権の獲得の方法には世襲(patrimony)、身受 (redemption)[17]、徒弟 (apprenticeship)の三つがあった。 14世紀前半に至るまで前二者による市民権獲得が多かったが、 14世紀後半のギルドの地位の向上とともに、 ギルド役人による熟練の証明がロンドン市民権に優位して、 営業権を獲得する重要な要素となる。7年間の徒弟修行が終了した者には、 市民権が与えられるようになったのである [18]。 外国人である印刷業者たちには、世襲が不可能なことはもとより、 それまでの制定法で外国人徒弟は厳しく制限されていたし、 事実上外国人は徒弟になれなかったから [19] 、 彼らは身受によって市民権を獲得するしかなかった。このことは、 彼らが書籍業ギルドに編入されることを意味する。 書籍業ギルドが外国人に加入を許して身受の承認を与える条件は、 申込者が家族とともにロンドンの司法管轄内(jurisdiction of the City) に居住していること、かつ書籍業以外の商売に従事しているという口実のもと、 他人や書籍業者たちに損害を与えるような行為をしないこと [20]だったから、 自ずと正規の印刷業者はロンドン周辺に集中せざるえないのである。 さらにロンドンの書籍業ギルドは地方の印刷業を弾圧し、16世紀の後半には、 地方の印刷業は消え去った [21] とされている。 このように、書籍業カンパニーとして国王から法人化勅許状を獲得する以前に、 既に書籍業ギルドは制度上認められる唯一の印刷業者の団体として存在していたので ある。すなわち、全国規模の独占集団が、政府の検閲を助けることを目的として、 国王大権によって設立されたとする説明は正しくないのである。
2.2 法人化勅許状書籍業ギルドが女王メアリから国王勅許状を与えられて、 書籍業カンパニーとして成立するのは、 1557年5月4日のことである [22]。書籍業ギルドが法人化された理由について、異端文書の禁圧を目的とするという、 先に掲げた趣意文の内容を素直に受け入れているのがブラグデン(Cyprian Blagden) [23]、バグビー(Bruce W. Bugbee) [24]、ランソム(Harry Ransom) [25] などの比較的近年の研究者たちである。逆にアーバー(Edward Arber) [26]、ポラード(Graham Pollard) [27] などの研究者は、 趣意文は大義名分であってむしろ経済的利益を求める書籍業ギルドの請願が主たる理 由であるとする。この論点は非常に重要であり、 書籍業カンパニーの性格を考察するのにぜひとも明らかにしておく必要がある。 というのは、国王の動機が法人化の主たる理由であるならば、 書籍業カンパニーは政府の出版統制機関であり、 コピーライトの形成は副次的な産物だったとする考え方を補強するのに対して、 書籍業ギルドの動機が主たる理由であるならば彼らの経済的利便、 すなわちコピーライトの形成は当然に彼らの中心的な目的だったことになるからであ る。 アーバーの説 まず、アーバーは「間違いなく、 その法人化は金銭上の目的によってなされたものであり、 いかなる特別な国王の恩寵に基づくものでもなかった。」と述べ、 その理由として以下のことを挙げる。
また、仮に政府の主導で与えられた特許であるならば、(a) 国家の重要事項の一つである出版業についての監督権限を与えるのであるから、 政府と書籍業ギルドの間に、すでに何らかの信頼関係がなければならず、(b) 勅許状の内容が“まさに国王自身の言葉(ipsissima verba of the Crown)” で書かれていなければならないと条件を挙げる。 (a)について、1553年のメアリ女王の命令では 「印刷業者たちや書籍業者たちから異端的書籍が売り出されており」 [30]と述べられ、また、 1559年のエリザベス女王の差止命令(Injunctions of 1559)でも、 「女王陛下は陛下の全ての臣民、 とくに書籍業者の監事たちに服属するよう直接に命ぜられた」 [31] と述べられており、 政府の好まない出版がギルドの構成員の間でも行われていたことがうかがわれること、 さらに、1557年にはカンパニーの上監事(upper warden) が枢密院の命令による捜査を受けていることから、 彼は政府と書籍業カンパニー相互の信頼関係について否定している。 また(b)について、この当時、 請願は目的とする勅許の最終的な内容を先取りしたものであり、 また請願の内容は事務官の手によって新しく起草され直すことはあっても、 整理されたり短縮される程度だったとし、 印刷業ギルドへの勅許状付与手続が通常の手続によって処理されていることから、 勅許の内容へのギルドの関与を大とした。したがって、 勅許状の内容はギルドの意向を反映したものであり、 勅許の主導権は書籍業ギルドの方にあったと結論している [32]。 ブラグデンの説 これらの説に対して、ブラグデンは、1542年のカンタベリー聖職者会議 (Convocation of Canterbury) で、 書籍業ギルドに法人化勅許を与えるべしとの議論がなされ、 その提案が国王に上奏されていることを証拠に [33] 、 1540年代から書籍業ギルドによる法人化勅許付与の請願が続いていたと推測するもの の、1557年の法人化勅許状に至るまでの間、いかに政府や教会が異端的・ 煽動的文書の禁圧に苦心してきたかを示し [34]、法人化への動機は、 書籍業ギルドの利益追求と、 他の方法による国王の異端文書禁圧がことごとく失敗した後の手詰まりを打破する目 的が、一致した結果である [35] と趣意文の内容と記録に残された事項とを調和的に解釈しようとしている。 書籍業カンパニーの設立に向けられた政府の意図を読みとる手掛かりがある。 それは、国璽(privy seal)による勅許で設立されたにもかかわらず、 書籍業カンパニーがロンドン市に「制服」(livery)の保有を認められ、 制服カンパニー (livery company)[36] として完全な状態になるのが法人化に遅れること3年の1560年だった [37] という記録である。 制服保有の承認は、市長、治安官(Sheriff)、議員を選出する市民会(Common Hall) [38] の構成員となることを意味するから [39]、 ギルドの市政における位置を示すことになる。 制服の獲得が法人化に遅れること3年だったという記述はアーバーの論文にも見ら れ [40]、 書籍業カンパニーが制服を保有することを再認証 [41] されたことを認めている。 そこでアーバーは兄弟団から手工業者ギルド、 そしてカンパニーへ発達の連続性を強調するために、 1525年以降一貫して書籍業ギルドには監事が存在し、 とくに1531年には制服を着用して市長の主催する宴席(feast) に参加していた記録があることを挙げている [42]。しかしその後、 書籍業ギルドが制服を保有していた記録を辿ることができないとしている [43]。彼はふれていないが、 1531年に一度は認めた制服を1560年に「再び」認めたということは、 その間のいずれかの時期、何らかの理由で制服を失っていたと見ることができる。 この理由として1534年以降、書籍業ギルドの性格が大きく変化したことを挙げたい。 [???]節で述べたように、1533年制定法以降、 外国人印刷業者たちは多数 書籍業ギルドに流入していた。 ロンドンに広く存在した反外国人感情のために彼らへの市民権(citizenship) は認められず、兄弟分の地位にとどめられたままだったが、1544年には、 彼ら外国人たちは大きな勢力となっており、 技術的にも資本的にも書籍流通に大きな影響を及ぼしていた [44]。また、1547年の 「寄進礼拝堂没収法」[45] のため、 それまで宗教的団体である兄弟団の伝統を受け継いできた手工業者ギルドが宗教的側 面を喪失するという大きな転換を経ていたのである [46]。 このことは外国人がギルドの中枢に入るために障壁となっていたある種の神秘的な 「宗教的結合」「共同体意識」がとり除かれたことを意味するだろう。 これらのことを考慮するならば、1534年から1550年前後までの間に、従来の “Textwrite”や“Lyminer”を主体とする書籍業ギルドは外国人の“Printer” を主体とするギルドへと変貌し、幹部層は依然としてイギリス人が占めていたが、 実質は兄弟分である外国人が握るようになっていた。 そこで反外国人感情の強かったロンドン市は1531年には存在していた制服を後に剥奪 していたのではないかと考えるのである。 ロンドン市とギルドの法人化との関係について、ポラードの論文には、 「17世紀になるまでには、都市のカンパニーは[書籍業カンパニーと] 同様の法人化を国王に請願する以前に、 市長と市議会の免許を取得することが義務づけられていた」 [47]という記述がある。 彼はこの記述を、 手工業者ギルドからロンドン市への積極的な働きかけなくしては法人化することが困 難だった証拠、 すなわち書籍業カンパニーの法人化には書籍業ギルド側の利益追求による理由が大き いとする自説の補強材料として示している。しかし、 この記述の原典となっているアンウィン(Geoge Unwin)の該当箇所では、「... そこで17世紀の初頭以降、法人化勅許状の請願のみならず、 その更新の請願に及ぶまでロンドン市から免許を得ることが必要になっていたのであ る」[48] というふうに微妙に表現のずれが生じているのである。 書籍業カンパニーの法人化は16世紀の後半であるから、アンウィンの記述によれば、 書籍業カンパニーにはそれが必ずしも該当しないことになる。 また、アンウィンの記述の中では、フェルト帽製造業カンパニー(Feltmakers) が 1604年に市の免許を受けないまま法人化したため、 ロンドン市に対する国王からの圧力とギルドからの 1500ポンドの提供申し入れにも 関わらず特権が停止された [49] とされている。ロンドン市の許可がなくても、 国王に法人化の請願をすることができた証拠である [50]。さらに、ポラードの記述では、 白鑞細工業カンパニー(Pewterers' Company) が法人化する前に行ったロンドン市への運動の記録を例をひきながら、 「ほぼこれと同様の状況が法人化前の書籍業カンパニーにも見られたであろう」 [51]とし、 詳細な資料を駆使する彼でさえ具体的な証拠が見つけられていないことを示している。 以上の検討から、 法人化勅許状獲得直前の国王およびロンドン市との書籍業ギルドの関係は次のように 整理することができる。まず、(1) 先に述べたようにロンドン市から制服の保有を剥奪されるような関係にあった書籍業 ギルドだったから、 書籍業ギルドはロンドン市に法人化への免許申請は行っていなかったのではないかと 考える。それがロンドン市への請願の記録が見られない理由である。一方、(2) ポラードが主張するように、たしかに国王には法人化勅許の請願を行っていた。 17世紀以降には法人化勅許の請願にロンドン市の免許が必要となっていたが、 まだ1557年当時はその規範は明確でなく、ロンドン市の免許なしでの請願が「違法」 であるとは考えられなかったため可能だったのである。 反外国人的なロンドン市を飛越して国王からの法人化によって一挙にギルドの権限を 拡大するという大胆なもくろみだった。(3) それは当然にロンドン市にとっては好ましくない行為であり、 法人化勅許状を獲得した後も制服の保有を認めず、 カンパニーとしての十分な特権を行使することに抵抗を示した。 これが制服カンパニーとしての成立が3年遅れた理由であると考えるのである。 これだけの理由を見るならば、 書籍業ギルドの法人化への強い動機が見られるように思われるのだが、 やはり鍵は3年という期間なのである。 先に述べたフェルト帽製造業カンパニーの場合、ロンドン市に最終的に特権(freedom) を認められるのが1759年であり [52]、実に155年を要している。 これは極端な例であるが、 わずか3年でロンドン市の承認が行われたことの背景には上位権力の介入がうかがわ れる。そうであるならば、この趣意文こそがその権力の意志の現れであり、 異端文書の禁圧という大義名分なしには制服カンパニーとしての成立は困難だったと 考えるのである。そうすると結論は折衷的にならざるえない。 書籍業ギルドの法人化にはギルドの経済的利益追求 (外国人構成員がロンドンの市民権を獲得し、営業権を拡大するという目的) への強い動機が必要だった。しかし、 出版統制への国王の動機が存在しなければそれは不可能だったのである。
2.3 書籍業カンパニーの権限書籍業カンパニーのコピーライトがどの程度の効力をもっていたのかについて検討 するためには、はじめに書籍業カンパニーが保有した権限の内容と、 その権限の及ぶ時間的・地理的範囲について検討することが必要である。 書籍業カンパニーが設立された当時に彼らに与えられた権限は、 A Transcript of the Registers of the Company of Stationers of London(以下、 「Transcript」) に収録されている1557年の法人化勅許状に記載されている [53]。内容は(1)趣意文、(2) カンパニーの構成、(3)法人格の規定、(4)自治権の規定、(5)幹部の選出の規定、(6) 所有主体規定、(7)印刷業独占の規定、(8)不正印刷に対する警察権、(9) 本勅許状と既存の法律等との関係となっている。
2.3.1 書籍業カンパニーの自治権兄弟団の時代から手工業ギルドの時代に至るまで、 同業者組織は組織内部での自治権(規約制定権・裁判権)を保有していた。しかし、 それらの同業者組織が、都市や国王との結合を強めるなかで、 規約制定権は都市権力に従属し、 裁判権は外部の裁判所の司法権力に組みこまれていくのである [54]。それでは、 書籍業カンパニーはどの程度の自治権を保有したのであろうか。まず、規約制定権については、
次に、裁判権については、裁判機関についての規定はないものの、 統治機関として補佐役会が存在し、ここで、 日常の事務処理の他に規約違反を犯した構成員に罰を与えるなどの処理が行われてい た。この補佐役会が与えることができる罰については次のように規定されている。
2.3.2 書籍業カンパニーの営業独占書籍業カンパニーが与えられた営業独占については、次のように記されている。
一方、14世紀の前半から、 イギリス全域にわたって営業独占を獲得する方法が存在していた。 それは発明またはイギリスへの新規の輸入に与えられた特許(charter or patent) である。もっとも、法人化勅許も特許も同じ“patent”や“charter” という言葉で示されていたから、 両者が意識的に区別されていたかどうかは不明である。まして、1623年の「独占法」 (Statute of Monopoly)[58] 以前では、 合法な独占勅許は新規の発明あるいはイギリスへの導入だけに与えられるという原則 すら確立していなかったので、 イギリス全域にわたる特許は特定の個人に恩寵として与えられることが 16世紀の末 から、 数多く見られたのである [59]。 実際に手工業あるいは商業を営んでいる人々を集合(incorporation) して生じる事実上の営業独占を確認し、 将来にわたるその営業への監督権を認めるギルドへの法人化勅許とは異なり、 特許は新規にもたらされた「物」あるいは「製法」の製造・ 販売あるいは実施を制限するものであるから、国王の特許の効力が及ぶ範囲、 すなわちイギリス全域にわたって法的効力が生じたのである。 この違いは期間にも現れており、法人化勅許の効力が永久とされたのに対して、 特許の方には通常の場合期間が設定されている [60]。したがって、これらの 「法人化勅許」と「特許」 は両者とも営業独占という効果をもたらすが本質的に違うものなのである。 17世紀のジェイムズ1世治世にはいると、この両者は結合する傾向が現れる。 すなわち、国王の恩寵で特許を獲得したものが法人化したり、 ギルドの中の有力者が特定の製品について特許を獲得したり、 発明者が発明特許を取得した後に法人化勅許を獲得したり、 あるいは発明特許を取得したものをカンパニーの構成員とすることで、 実質的にカンパニーの構成員のみがイギリス全域にわたり永久に営業を独占すること が可能な状態が生じるようになるのである。とくに1623年独占法で、 カンパニーによる独占が合法とされる [61]と、 この傾向はますます加速されるのである [62]。 このような独占の成長過程を考慮するならば、1557年当時にあって、 唯一の合法的な出版がロンドンのカンパニーの構成員にのみ認められるという規定は、 初期の幹部層に廷臣や貴族が参加していないことも考慮して [63] 実に特殊なものだと言わざるをえない。
2.3.3 書籍業カンパニーの警察権書籍業カンパニーに与えられた警察権については、次のように記されている。
書籍業カンパニー以外に、 イギリス全域への警察権を持ったギルドは古くから存在していた。それらは金細工業 (Goldsmiths)カンパニーと白鑞細工業(Pewterers)カンパニーである。例えば、 金細工業ギルドは、すでにヘンリー4世(1399─1413) およびヘンリー6世(1422─1471) から査察の勅許(charter of inspeximus)を獲得しており、1463年には、 印刷業カンパニーのものと類似した内容を持つ法人化勅許状で、「全王国内で、 金細工師の仕事を査察し監督する権限」 を獲得した [65]。また、 白鑞細工業ギルドも1505年にヘンリー7世から査察の勅許を獲得して以来、 一貫して査察権を保持し続けた。 とくに1533年と1541年のヘンリー8世の勅許状では外国人による白鑞細工の行商およ び外国人職人の流入を阻止するためにカンパニーまたはその代理人にイギリス国内で 白鑞細工師を査察し監督する権限を与えている [66]。しかし、これらの警察権は、 金細工や白鑞細工が高価であるが故に、 商品の品質を一定させるための目的でなされており、 ロンドンのそれらカンパニーの特権は必ずしも地方の抑圧を意味していたわけではな かった [67] とされている [68]。 これらの先行するカンパニーに次いで書籍業カンパニーはイギリス全域に及ぶ警察 権を獲得したのであり、前述のイギリス全域にわたる営業独占が所与とするならば、 この点についてはとりたてて特殊な点とは言えない。さらに、 この勅許状が与えられた16世紀の後半以降は書籍業カンパニーに与えられたものと同 様に、捜査、逮捕、投獄、 罰金徴収の権能を付与されたカンパニーは他にも多く見られ、 書籍業カンパニーの特権がとくに強力なものだったとは言えない。加えて、 アーバーが指摘していたように、1555年から 1558年の間には、 メアリ女王は非常に過酷な異端摘発を直接行っており [69]、 この勅許状に現れたような微温的摘発は政府にとってはそれほど必要のないものであ る。さらに、実際に書籍業カンパニーが12組の摘発員(searchers) を選定して査察を行った記録が登場するのは1576年のことであり [70]、 カンパニーが摘発に積極的だったとも考えられない。するとブラグデンが言うように 「ほとんど政府の行政的片腕だった」 [71]とは言えないのである。 さらに、書籍業者たちが、必ずしも政府の信頼に足る人物ばかりでなかったことは、 次の資料に現れている。1553年のメアリ女王の命令では 「印刷業者たちや書籍業者たちから異端的書籍が売り出されており」 [72]と述べられ、また、 1559年のエリザベス女王の差止命令(Injunctions of 1559)でも、 「女王陛下は陛下の全ての臣民、 とくに書籍業者の監事たちに服属するよう直接に命ぜられた」 [73] と述べられており、 政府の好まない出版がギルドの構成員の間でも行われていた様子がうかがわれること、 さらに、1557年にはカンパニーの上監事(upper warden) が枢密院の命令による捜査を受けていることから、 彼は政府と書籍業カンパニー相互の信頼関係については否定されることになる [74]。したがって、 勅許状の営業独占と警察権に関する部分の意義を整理するならば、 イギリス全域についての査察権の付与は、 カンパニーの経済的利益を保障する手段をカンパニー自身に与えたものとしか理解す ることができない。趣意文の内容を勘案したとしても、異端的・ 煽動的文書の印刷に関わる危険性が最も高いと考えられる書籍業カンパニーの構成員 について、内部的な統制権を保障する手段を与えたとしか考えられないのである。 ロンドンの慣習 それでは、 書籍業カンパニーが行使する勅許に基づく統制力はロンドン市外では不十分だったに せよ、ロンドン市の書籍業者仲間内部で十分だったのかというとそれは疑問である。 その理由は、「ロンドンの慣習」にある。書籍業カンパニーの特権が及ぼす影響力や、 国王の発する布令の効力に関係して問題となるのが、「ロンドンの慣習」 (Custom of London)と呼ばれるものである。それは、 1360年代に成立した市民権獲得と営業の独占に関する規範だったが、 17世紀には一時期、イギリス全域に適用されるべきコモン・ ローであるとされた [75]。 アンウィンが「ロンドンの慣習」について述べている部分を掲げる。
それぞれのカンパニーの監事長や監事は彼らの業務に携わっているすべ ての事業者についての査察権を主張したし、 彼らの権限に抵抗するそれら事業者を妨害する実質的権力をもっていた が、しかし、その権限の範囲は曖昧で流動的なものであり、おそらくは、 勢力のある部外者あるいは頑固な部外者から、 しばしば無視されていたのである [76]。 ここで、ロンドンの慣習について簡単に概観しておく。 14世紀のギルドの組織的成熟に対応して、 ギルドの営業独占が顕著になっていたことは1363年制定法 [77] にあらわれる一人一職の原則でみられる。しかし、「古き慣行」 の維持を求めるロンドンの富裕な総合商人の請願のため [78]、翌年1364年制定法 [79] で特定商品を除く輸出の自由と卸売業の自由が認められる。ところが、 1364年制定法は外国人にも営業を開放するものだったから、 これがロンドン市の反外国人的感情を刺激することになり、1365年5月には、 “good folk of London”に由来するロンドン市での営業権に関する条例が確認され、 外国人の営業権を大幅に制限することになった [80]。 これらの展開を受けて、1364年制定法で認められた営業自由の規定と、 ロンドン市の外国人の営業を制限する条例を混合する形で、「ロンドンの慣習」 は1365年に公認され、 手工業および小売業における市民権所有者の所属ギルド変更による職業転換の自由と、 商業における卸売業の自由が認められた [81] 。これらの「自由」 は非常に重要であり、ギルドによる営業独占が事実上「抜け穴」 付きだったことを示している。 17世紀の前半にはカンパニーの職業の同質性をとり戻すことが困難なほどに職業混在 が進んでいた [82]とされている。 さて、出版統制という特殊な目的が与えられた書籍業カンパニーが 「ロンドンの慣習」の例外だったかというと、そうではない。 1558年から1559年の間に出版物の登録を行った5人の書籍販売業者のうち、 一人は呉服業者(Draper) だったことが記録されているし [83]、1600年の6月には、 13人程度の呉服業者たちが書籍業カンパニーに移籍している [84]。また、『イギリス・ ギルド崩壊史の研究』に掲げられている「カンパニー間の組合員移籍」 についての一覧表を見ると、 1603年から1641年の間に書籍業カンパニーが放出した組合員は4人で、 受入組合員は12人である [85]。 この一覧をみると、 他のカンパニーに比較して放出人数は少数であるが受入人数は多い方である。 このことは、 書籍業カンパニー内部での同一性が比較的よく維持されていたことを示す一方、 「全ての印刷業者と書籍販売業者が加入すべし」 とされたカンパニーの営業独占力が絶対的なものではなかったことを証明している [86]。 1557年の特許状の内容を字句どおりに解釈すれば、 あたかも書籍業カンパニーが強大な権力をふるったように思われがちであるが、 文言上は強力な権限の付与が、実質的な無力との対照関係にあったことを指摘したい。
2.4 小括以上の検討から、 書籍業カンパニーの成立と性格について次のようにまとめることができる。 (1)1533年以降に合法的書籍業者の存在がロンドンに限られたことで、 書籍業者のギルドへの集中が行われ、書籍業ギルドの勢力は拡大した。この頃、 宗教上の混乱のため異端的・煽動的文書が出まわっていたことを利用し、 書籍業ギルドは、彼らが政府の出版統制を肩代わりする代わりに、 政府が彼らに法人化勅許を与えるよう活動を続けた。 書籍業ギルドが法人化勅許を求めた目的は、彼らの権限と利益の一層の拡大だった。 彼らの利益とは外国人印刷業者が十分な自由市民権を獲得すること、 および海賊版の防止を効果的に行うことであり、とくに後者の目的を達成するために、 権限の拡大が求められたのである。このことから、 書籍業カンパニーが法人化されるきっかけはギルド側によってもたらされたものであ ること、すなわち、 カンパニーの法人化の最初の目的は書籍業者の営業権の拡大にあったと言うことがで きるのである。一方、(2)政府は書籍業ギルドを信用していたわけではないが、 たび重なる出版統制の失敗と摘発の困難さに直面しており、 書籍業者のロンドン集中で統制力の増したギルドに権限を与えてもよいと判断するよ うになった [87] 。 政府の出版統制への情熱は強かったものの、 書籍業ギルドを法人化した政府の目的は趣意文の内容よりもやや消極的であり、 書籍業者をロンドンに一層集中させ、取り締まりを容易にすると共に、 書籍業者内部での自律的統制を強化することにあったと判断できる。しかしながら、 書籍業ギルドには政治的・宗教的な情熱はなく、趣意文に現れているような異端的・ 煽動的文書の摘発には消極的だったのである。書籍業カンパニーが政治的・ 宗教的に主体性を持たなかった証拠としては次の事実を挙げれば十分だろう。 書籍業カンパニーの法人化勅許状はカソリックを熱烈に支持するメアリ女王によって 与えられたものだったが、英国国教会派のエリザベス1世が即位した翌年の1559年に、 命令で勅許状の内容を再認証され [88]、 宗教的な激動の時代を書籍業カンパニーは、首尾よく乗り切ったのであった。 (つづく) Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |