10月13日に、東京大学の文学部に在籍中の井上さんから、とてもよい質問が届きました。そこで、公開往復書簡という形で、「グリゴリの捕縛」の内容を補っていこうと思います。井上さんからは公開の承諾を頂いています。
はじめまして、僕は現在大学生で、時々先生のホームページを みさせていただいている井上というものです。 「グリゴリの捕縛」をハッカー倫理のところだけ(いずれ全部読みます) 読ませていただいたのですが、少し疑問があります。 もしよろしかったらお答えいただければ大変嬉しいです。 大きく分けて疑問はふたつです。 1. ハッカーの労働をプロ倫の労働と同じに扱ってよいのか? 文中ではそれは二次的な問題だ、となってましたが、 いい加減な言葉ですが「生活がかかってるかかかってないか」で 大きく分かれるのではないでしょうか? 生活のかかってない労働には情熱が求められ、 生活のかかってる労働には禁欲が求められる、 これは当然なことなのでは? もっと具体的にいうと、ハッカー以前にもそういったエートスは 存在していたのではないか、ということです。 科学でも芸術でも、その分野で最高の人間にはそういう態度が見られるものだ とヒマネンは書いてますが、いつの時代も お金に余裕のあるような「その分野で最高の人間」は 「おれは金なんか関係ない、情熱をもって仕事をしてるんだぜ」と 言うんじゃないでしょうか? 逆に、いつの日も生活に追われて仕事をする人々はいるはずで、 その人たちはやはり禁欲的に働くことが求められるのではないでしょうか。 おそらく、ハッカー倫理の伝播には階級性があると思います。 つまり、広がっていく人には広がるだろうし、 広がらない人には広がらないんじゃないでしょうか。 それで、大事なのは「コンピュータとネットワークの構造」のなかに 潜んでいるハッカー倫理が今からの時代において 広がっていくだろうというとこだと解したうえで↓の疑問が浮かびます。 2. ハッカー倫理はアメリカのナショナリズムじゃないのか? ハッカー倫理を「情熱」を求め「自由」な人々が「自発的」に「参加」して 「協力」しあうものだとするならば、 これはピルグリム・ファーザーズ以来の アメリカの伝統的な way of thinking ってやつじゃないのでしょうか。 僕はいま学校でナショナリズムの 講義を受けているのですが、それによると(極めて単純化してますが) 「参加」「協力」「自発的」「自由」「正義」などが アメリカナショナリズムのキーワードだということでした。 で、ハッカー倫理はモロにそうだと思います。 もちろんそれが悪いとかいけないとかいうわけではなくって、 その思考法が例えばヘルシンキ大学などに伝播し、 世界に「ハッカー」として一般化していること自体が アメリカナイゼーションなのではないかと。 だったら、ネット時代のエートスとはアメリカのエートスであり、 それはネットを介した新たなアメリカの帝国主義といえるんじゃないかと 僕は思います。 (これはアメリカの知的財産権政策を見れば実感できることなのですが...) 帝国主義だろうといいじゃないか、ということはもちろん言い得るのですが、 やはりハッカー倫理が浸透した社会では「技術」と「金銭」が なければやっていけないので、そこで階級の再生産が起ってしまわないでしょうか。 もっと突っ込んでいうと、それはアメリカ一人勝ちの社会なのではないか、 ということです。 ...ということで、疑問は以上です。長々とすいません。 うえにも書きましたが、もしよろしかったらお答え頂ければ 嬉しいです。 それでは、失礼します。
1. ハッカーの労働をプロ倫の労働と同じに扱ってよいのか?という論点について すこし視点を変えてみましょう。プロテスタンティズムの倫理 = プロ倫が現在の産業社会全体で実践されているか、というとそうではないですね。 「禁欲的に働くべきだ」という価値観はある程度通有されていても、 実際に「禁欲的に働いている」人ばかりというわけではありません。 禁欲的に働くかどうかという問題は、 倫理観の問題というよりも個々人のパーソナリティの問題であると思われます。 そうであれば、「広がっていく人には広がるだろうし、広がらない人には広がらない」わけです。 では、産業社会が「プロ倫の時代だ」といわれている理由はなんでしょう? それは、プロ倫に従って労働することが良いことであり、プロ倫を実践できた労働者が社会的に高く評価されるという形で、高くかつ主要だと見なされる階級を形成したところにあると私は考えます。 そして、価値を金銭で評価する時代において「社会的に高く評価される」ということは、すなわち高い賃金を獲得する、生活に余裕があるという状態を発生するわけです。 すなわち、階級性に伴ってエートスが通有されるのではなく、あるエートスについて、 高くかつ主要な階級を形成する条件が遷移するのだ、とみるわけです。 ヒマネン自身がインタビューに答えて次のように指摘しています。 「いま、産業はネットの世界に移行しようとしています。マニュエル・カステルも指摘しているように、 情報クリエーターたちが産業・経済を引っ張り、社会の中心になろうとしています。 ある統計では、新しい仕事の3分の2は情報関連とされ、 こうした傾向は急速に広がりつつあります。ハッカー倫理を持つ人々は、 もはや少数派どころか、新しい産業の中心部にいます。 ハッカーの倫理を貫いていくことは、一部の人の課題ではなく、 万人にとっての課題になっていくのではないでしょうか。」 「ハッカー倫理」が世界を変える?! 『リナックスの革命』の著者、ヒマネンさんに聞く , 毎日新聞社 このようにハッカー倫理に適合的な労働形態が増えつつあるという認識を前提にして、 ハッカー倫理を実践して情熱的に労働できる人々が、 新しい価値観に基づいて高い社会的評価を獲得し、 かつ「主要なあり方」という認識を獲得するのであろうと私は予測するわけです。 情報時代が価値を「評判」で測るという予測を前提にしますと、 はたして高い社会的評価を獲得するという条件が賃金に反映し、 生活の余裕を発生させるかどうかは不明です。 もしかすると、金銭的に貧しくて生活は苦しいが、 情熱を注げる職業を通じて高い評判を獲得して、 とても幸福であるという状態が発生するかもしれません。 そして、このような社会認識が形成されれば、この高い階級への参加要件として、 ハッカー倫理を制度化(?)し、教育するようになると予測します。 ですから、ハッカー倫理は、 プロ倫と同じように主要なエートスの地位を獲得しうると考えます。 そして、そこには「階級性」と呼ばれるものが発生するかも知れませんが、 それは、階級が前提となってエートスが通有されるのではなく、 あるエートスをもった人たちが高い階級と見なされるようになるのだ、 と考えてみたらいかがでしょう。 2. ハッカー倫理はアメリカのナショナリズムじゃないのか?という論点について まず、主体としての「アメリカ」がネットワークの時代においても意味をもつのか、 という問題がありますが、とりあえず、その点については置きましょう。 「参加」「協力」「自発的」「自由」「正義」が アメリカン・ナショナリズムであると見ると、 確かに、そうした価値が伝播することは帝国主義だと見ることが可能でしょう。 では、カルヴァン派のエートスが伝播することがスイス・ナショナリズムかというと、 そうではないと思われるはずです。 また、上記の項目が積極的な価値として通有されていない国家というものも、 なかなか想像しにくいところがあります。 さて、「ナショナル」に保有されるエートスというものは、 地域的・歴史的なものであることが一般的だろうと思われます。 日本のナショナリズムがそうだと思うのですが、 外部から認識しにくい暗黙知によって伝播・通有されている割合が大きいわけです。 そして、この暗黙知は、 メディアによってとても伝達が難しいという性質を持っています。 だからこそ、地域的・歴史的になるわけです。 あまり指摘されないポイントですが、 ある地域で行われている行為規範の大部分は、いい表現ではありませんが 「別にどうだっていい」ものなのです。 それらの行為規範は、集団に属していることを示すシグナルであり、 たとえば、人と人が出会ったとき、 頭を下げるサインでも、手を握るサインでも、抱擁するサインでもよいのです。 アメリカという国は、200年そこらの伝統しか存在しない人造国家です(社会契約を結 んだ上で国家を成立させたという点で)。 また、たくさんの移民を受け入れることで、国家内部に、文化的な意味で「国際社会を抱えている」とも見る事ができます。 そうした国家で成立しうるエートスは、形式知である必要があります。 というのは、メディアを通じて理性的に伝達しなければならないからです。 理性は人類に共通して通用しうる説得方法ですが、 地域性や伝統は、他の地域性や伝統に立つ人には説得方法としては使えません。 アメリカの文化や価値が「わかりやすく」て「単純である」のは、 そうしたアメリカの「ナショナル」な事情があるのだと考えています。 さて、インターネットによって形成されると考えられる新しい共同体は、 地域性や伝統を通有することが不可能な参加者から形成されると考えられます。 そして意思疎通は、文字を中心とした理性的説得を基礎にしたものになることが 考えられます。 すると、それはアメリカが標榜する価値と、 とても類似したものになると考えられます。 すなわち、アメリカの価値がハッカー倫理であり、 それが世界を覆っていくのだ、と考えることも可能ですが、 アメリカよりも純粋な形の人造世界国家(政府?)が形成されていくときに、 アメリカの way of thinking がとても親和的なのであるとみることもできると、 私は考えます。 そして、それは「良い・悪い」の価値判断の問題ではなく、 それ以外のあり方をとることが難しいということなのだろうと考えます。 その結果として「アメリカの一人勝ちになる」というのは、 十分にありそうなシナリオですが、 それは、人造国家の運営において200年の長がある国家が甚だ有利な立場にたった、 ということにすぎないと思います。 そしてまた、個人的な意見をいえば、 暗黙知を基礎にした奥深さをもつ「日本的あり方」が インターネットを制覇するよりは、 わかりやすい「アメリカ的あり方」が普及するほうが 世界全体から見たとき、よりマシな結果をもたらすと考えます。
まず、今までは 「1.ハッカーの労働をプロ倫の労働と同じに扱ってよいのか?」 「2.ハッカー倫理はアメリカのナショナリズムじゃないのか?」 という二つの論点がありました。 僕の疑問は 「ハッカー倫理が広まる人はお金持ちばっかじゃないのか? また、お金持ちじゃなくても限られた人にしか広まらないのではないか?」 「ハッカー倫理の思考法はアメリカの伝統的なそれとそっくりだ。 だから、ハッカー倫理の伝播はアメリカナイゼーションで、 それが浸透した世の中はアメリカに有利なんじゃないか」 ...というものでした(少なくともそういう認識が働いたものと考えます)。 それに対する先生の返答は、
限られた人にしか広まらないのではない。世の中全体にエートスが広まって、 その広まったエートスに基づいて『お金持ち』などに変わる偉い人(の条件)が 出てくる...ということだと僕は理解しました。これでよろしいでしょうか? そうだとすると、先生のご返答には確かに納得できるのですが、なんとなく、まだわだかまりが残ったような感じがしました。ですので、僕の本当の疑問は上記の二点とはまた違ったところに根っこがあるのではないか、と思います。 それなら最初から疑問を論点として扱うのではなく、より大きな論点を問う中でその疑問を位置付け、精緻化させていくほうがいいと思います。よって、一般的にハッカー倫理について問われると思われる論点を挙げると、以下の3点があります。 1. ハッカー倫理とはどのようなものか? 2. ハッカー倫理は本当に広がるのか? 3. ハッカー倫理が広がったとして、どんな世の中になるのか? この3点に関して、「グリゴリの捕縛」その他についての僕の認識を示しておこうと思います。 1については、基本的にレヴィー「ハッカーズ」とヒマネンの著によっていると解釈していいでしょうか。これは先生も書いている通り、実際にあったエートスというよりはレヴィーの著によって「ハッカー倫理」が知られるようになったことに起因するものだと考えます。他の個別的な点を↓に書き出します。
・労働についての特徴
・金銭についての特徴
・合理主義についての特徴 2については、世界全体に広がるのではなく、プロテスタンティズムを信仰していた人が少ないにも関わらず産業国家に広まったように、ハッカー倫理も、具体的なそれを持っていたり、信じていたりする人は少ないにも関わらず次世代の社会に広まっていくはずだ、ということでしょうか。 3については、まず「『グリゴリ』によって象徴される、コンピュータ・ネットワークとデータベースが結合した、私たちに意識されないで運用される緻密な監視と管理のシステムが、情報社会における脅威である」一方でハッカー倫理が広まって、憲法や教育制度にもそれが組み込まれ、人々は新時代のプロテスタントとなりうる、というようなことでいいでしょうか。 それでは、ここで僕の疑問をもう一度考えなおしたいと思います。 まず1.「ハッカー倫理とはどのようなものか」と関連して 僕が「プロ倫の労働とハッカーの労働は違うのではないか」と考えたのは、ある意味で的外れだったと思います。何故なら、上記の通り「労働と余暇の区別をしない」のがハッカーだからです。そして、僕は明らかに「ハッカー倫理」を労働についてのエートスだと勘違いしていたと思います。 そこで、改めて疑問に思うのが「ハッカー倫理は何についての倫理なのか?」ということです。労働と余暇の区別のない、ハッカーの活動があって、ハッカー倫理がそれについてのエートスであるだろうことはわかります。しかし、それが「蒸発」して抽象化、一般化されたときに、「ハッカーの活動」はどんなことになるのでしょう? そこで、「プロ倫」の図式を確認すると、 「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理に基づいて行われた経済活動が、 資本主義の勃興を促した」 ということであったと思います。前記の疑問に照らすと、「プロ倫」の場合はまず「禁欲的に仕事に励め」という教義があり、その教義を信じている人々が「職業」に励んだ。そして、「蓄財」が肯定された。だから逆にどれだけ「蓄財」してるか、ということがどれだけ「禁欲的に仕事に励め」という教義を満たしているかを測る基準となり、それが元の教義を中抜きにした形で資本主義社会に広がり、 1.「蓄財してる人はプロテスタントの教義を守って一生懸命働いてるので偉い」が 2.「蓄財してる人は一生懸命働いてるので偉い」になった、 ということとなると思われます。 僕が注目したいのは、1と2の間で、それに関する活動そのものが「職業」だという点に変化がないということです。しかし、ハッカー倫理が広まった結果想定されるのは人々がプログラミングをすることではないはずです。さらに、「ハッカー倫理を持っている人はプログラマーだけではない」と書かれていたこともあったかと思いますが、あれはハッカー倫理がプログラミングという行為を蒸発させた形で定義した帰結にすぎないと思われます。つまり、プログラミングに対するハッカーの態度をAだと定義した後に、ある活動に関わる人の態度がAだと判定することによって前述の「プログラマーだけではない」という命題が成り立ちうるのです。つまり、そういった意味では「ハッカー倫理を持っている人」という部分は「ハッカー倫理っぽい態度をしてる人」ということになり、「ハッカー倫理」自体を持っているわけではないのではないか、と考えます。 なぜ僕がハッカーの具体性にこだわるか、というと、それが2の論点を考えるにあたってものすごく大事になると思われるからです。 2.「ハッカー倫理は本当に広がるのか」に関連して 確認しておかなければいけないことは、「どうなったらハッカー倫理が広がったと言い得るのか」ということです。 前述の「プロ倫」の議論は「蓄財を促すプロテスタントの教義が資本主義のエートスとして通有された」ということでしたが、これが成立するにはやっぱりもう一段階の説明が必要だと思います。それは、「プロテスタント(の教義)が(資本主義)社会に広まった」ということです。前述の1.「...プロテスタントの教義を守って...偉い」→2.「......偉い」への変化が起るためには、その前提として、ある程度プロテスタント自体が広まったということ自体の説明が必要なのではないかと思うのです。(この点についてはプロ倫も弱く、批判が絶えないところだったと思います。ただカルヴィニズムが広まってるのは割と一般的に認め得ることなので、ウェーバーの説が承認されているのでしょう。) つまり、「ハッカー倫理が広まった」と言いうるためには、「ハッカーの行動倫理それ自体」がどれくらい原因として機能しているのか、ということが問われなければいけない、と言うことです。 それが僕の最初の疑問、「ハッカー以前にもそういったエートスは存在していたのではないか」云々、といったことに繋がってくるのではないかと思います。ハッカー倫理っぽい態度を持ってる人はハッカーだけではないのに、なぜハッカーなのかと。説明変数としてのハッカーを強調するならば、具体的なハッカーの行動倫理それ自体が広まってるということを説明しなければいけないのではないか、と思ったのです。 ヒマネンの回答によると
いま、産業はネットの世界に移行しようとしています。マニュエル・カステルも指摘しているように、情報クリエーターたちが産業・経済を引っ張り、社会の中心になろうとしています。ある統計では、新しい仕事の3分の2は情報関連とされ、こうした傾向は急速に広がりつつあります。ハッカー倫理を持つ人々は、もはや少数派どころか、新しい産業の中心部にいます。ハッカーの倫理を貫いていくことは、一部の人の課題ではなく、万人にとっての課題になっていくのではないでしょうか。要するにヒマネンの考えではハッカーが新しい社会の倫理となっていく根拠は「情報クリエーターたちが産業・経済を引っ張り、社会の中心になろうとしています」のところだと思うのですが、これは本当に充分な回答なのか、少し疑わしいところがあると思います。それはハッカーの行動倫理がプロテスタントの教義のような権威や求心力があるのかどうか、という点でもそうですし、情報クリエーターが社会の中心となることと、社会に情報クリエーターたちの倫理が広まることの差があるんじゃないか、という点も問われていいのではないかと思います。 たぶん統計的な手法ではハッカー倫理が原因かどうかというのをつきとめるのは難しいんじゃないでしょうか。統計上の分析では原因-結果という関係性が導かれないからです。たばこを吸ってる人が肺がんにかかりやすいとしてたばこが肺がんの原因なのかというと怪しいってやつと同じです。 だから、怖いのはハッカー以外の原因によってハッカーっぽい態度をみんなが持つようになったとして、統計的な分析では「ほら、広がった!」と言い得てしまうというところです。 僕はそれならば、ハッカーの行動倫理自体を問うことにはアクチュアリティはそれほどないのでは、と言う気がしてしまいます。だからむしろ「ハッカーっぽい行動倫理」を持つ(芸術家や技術者などを含めた) 人たちも含めた形で社会に広まるべき「ハッカーっぽい倫理」の精緻化をはかったほうが良いのではないか、という気がします。そのうえで経済・文化的な階層性を問う考察があってもよいのではないかと。要するにハッカーの行動倫理は新たな社会の全体的な倫理に関しては、部分的であるにとどまるのではないか、ということです。 つまり原因より結果を問うべきだというのが基本であると思うのですが、この点に関しては先生も同意見、というかそもそも「グリゴリの捕縛」はそういう論文だと思います。だからこそ「ハッカー倫理が広まる」という言い方は危険なのではないかと思えてしまうということだと思います。 それでは、それを踏まえたうえで3.の論点を考えたいと思います。 3.「ハッカー倫理が広がったとして、どんな世の中になるのか?」に関連して まず、前述の「結果」に当てはまるケースのひとつとして僕は「アメリカひとりがち」というシナリオを挙げたわけですが、それは先生の
「参加」「協力」「自発的」「自由」「正義」がアメリカン・ナショナリズムであると見ると、確かに、そうした価値が伝播することは帝国主義だと見ることが可能でしょう。というご指摘の通り、「そうだとしたら云々」という言い方しかできないところに問題があり、しかも2.で考えたような原因-結果の循環が起る可能性を否定し得ないということだと思います。 しかし、ハッカーとの比較においては、「具体的なハッカーそれ自体の行動倫理」が蒸発して「ハッカーっぽい倫理」が成立し、新しい社会を形作るというシナリオよりも、「具体的なアメリカそれ自体の行動倫理」が蒸発して「アメリカのナショナリズム」が成立し、新しい社会を形作るということのほうが可能性としては高いと思います。なにせ、これだけ「グローバリゼーションはアメリカナイゼーションなのではないか?」ということが言われているのですから。で、「ハッカーっぽい倫理」と「アメリカのナショナリズム」は似ていて、後者に前者が回収されてしまうのではないかというのが僕の思ったところなわけです。 結果を考えるにあたってはどちらが、ということは全く意味がないでしょう。似てないとしても似てるとしても、社会はそれらの重なり合いによって形作られるだろうから、メジャーな行動倫理となるのはそれらをさらに一般化させたものになると予想されるからです。 しかし、僕の疑問というか懸念は「どちらが」ということではなくって、まさにこのふたつの共通点にあります。それは、互いにその自由のうちに戦争、争いを含んでいるということです。 「戦争、争い」というのはアメリカのほうに引っ張られた言い方ですが、「マニフェスト・ディスティニー」という言葉に象徴されるようにアメリカはフロンティアを広げ、インディアンを追い出し、戦争をすることによって発展してきたと考えてもよいのではないかと思います。アメリカの「自由」「正義」「参加」「協力」というナショナリズムは、背中合わせに「自由でないもの」「正義でないもの」「参加しないもの」「協力しないもの」を許さないという性質をも持ち合わせているということです。最近のテロ事件でいえば、「世界はテロに荷担するかアメリカに味方するかどちらかにわかれる!」みたいなことをブッシュ大統領がいったところにも「参加・協力しないもの」を許さないという態度が見られます。 先生はそういったことに対して
プロテスタンティズムにおける合理主義は、世界全体が「そうあらねばならぬ」という価値観を基礎にしていましたが (たとえばピューリタンなど)、ハッカー倫理における合理主義は、自らが責任をもてる領域については 自らの「理」によって最適化をすすめますが、他人の領域については不干渉であると思われますと書かれてますが、それは具体的な「ハッカーの倫理」であり、それが蒸発すれば「他人の領域については不干渉」という部分がどうなるかはわかりません。それに「そうあらねばならぬ」と思っているかどうかは、「どういう倫理が形成されるか」ということには関わってこないのではないでしょうか。どちらかといえばハッカー倫理を狂信的にもっている人々としての「クラッカー」が行ったような違法行為などが、要素としては残る可能性が高いと思います。 要するにアメリカナイゼーションもハッカー倫理も両方「広がるのではないか」ということが言われているもので、共通点もあると思います。そして両方に共通する「自由」は表裏一体に「戦争」「違法」といった乱暴な行為が含まれているのではないか、ということです。 僕はどちらが広まるか、また本当に広まるのかといったことを心配しているのではなく、もし広まったとしたら乱暴な行為を裏腹にもつ社会ができてしまうのではないか、ということを純粋に懸念しているのです。それはやはり良いとか悪いとかいうことではなくしょうがないことなんでしょうか?だとすれば、現在のテロ行為をも許容してしまうことになるのではないでしょうか。 僕の妄想かもしれませんが、今回のテロ行為を行った(と言われている) オサマ・ビンラディン一派の態度はまさにハッカー的な「情熱」をもって行われ、「労働」でも「遊び」でもない目的意識をもっていたのではないかと思います。「自由じゃないじゃないか」、と思うかもしれませんが、原理主義である彼らにとってその教義にそった行いをするということはまさに「自由」の発現であるのではないでしょうか。宗教的な行為規範は、白田先生が
あまり指摘されないポイントですが、ある地域で行われている行為規範の大部分は、いい表現ではありませんが「別にどうだっていい」ものなのですと指摘される通り彼らにとっては束縛だとは全く考えられていないのですから。 つまり、「自由」への拘泥は結果として各人の原始的なアイデンティティへの回帰であり、その先にはサミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」と呼んだような事態が待ちうけているのではないか、ということです。 さらに僕が恐れるのは、ハッカー倫理には「平等」という視点がなく、実力主義的な部分があるということです。つまり、戦争で犠牲になる人々、コンピューターが使えなくって個人情報を盗まれて大変な目にあったりする人々にたいする視点が欠けているということです。 つまり他人に干渉しない、というよりも他人に気を使う要素がないという部分もあると思います。 そのような世界が待ちうけているのであれば、はたして本当にそんな行動倫理が広まることは許容されるべきでしょうか?僕は、(あくまで個人的にですが)必ずしもそうではないと思います。 「Code」の議論では、
そして憲法のなかに、「伝統的に享受してきた自由」を保障するように書き込むだけでなく、それを実現できるように、政府が「コード」を制御しなければならないとなっているわけですが、政府が「コード」を制御しようとすればインターネットの性質を鑑みて国際的な問題が生じるのは最近さわがれている通りだと思います。憲法で「我が国のインターネットは自由だ!」とやれば、それを抑圧する他国の規制が許せない、といった摩擦の元にもなるのではないでしょうか。 僕はもっと「自由」の中身が問われるべきだと思うのです。
今度のメールもかなり鋭そうで楽しみです。 さて、
先生の返答は、という部分についての井上さんの二つの整理のうち、前者についてはそのとおりです。後者については「影響関係にあるかどうかはわからない」という要素はありません。「必然的に似たものになる」ということです。 まず、「ハッカー倫理とはどのようなものか?」 という問いについてです。 「実際にあったエートスというよりはレヴィーの著によって「ハッカー倫理」が知られるようになったことに起因するものだ」という見方は、私自身も示したものですが、そのように言いきれるか微妙なのです。経験から、『ハッカーズ』を読んだことのない高度なコンピュータ利用者についても、ハッカー倫理として示される態度が共通して見られると私は認識しています。(これは経験的なものなので一般化ができないことは認めます。) そして「それがハッカー倫理である」という認識がレヴィーの著作によって(ある範囲において) 一般的になったのだというのがより正確な私の主張です。ですので、「ハッカー倫理とはどのようなものか?」という問いに対する答えは、私については、 「コンピュータを高度に利用している利用者に共通してみられる基本的態度を指すものである。それはレヴィーの著作を代表とする、ハッカー倫理について語る著作群によってかなりの程度に適切に表現されている。」 というものであることになります。 井上さんのメールの後のほうで、「僕は明らかに「ハッカー倫理」を労働についてのエートスだと勘違いしていたと思います」という記述がありましたが、「ハッカー倫理とは何か」という問いに答えるはかなり困難な面があります。 それは、ある種の態度や精神的なあり方について答えるのが一般に困難なことと同じだろうとおもいます。「キリスト教とは何か」という問いに近いものです。ただ、その部分についてのみ言えば、「ハッカー倫理と呼ばれるエートスに労働に関するものが含まれている」という命題は真ですが、「労働に関するエートスがハッカー倫理である」という命題は偽です。 また、つづいて、「抽象化、一般化されたときに、「ハッカーの活動」はどんなことになるのでしょう?」という問いも提示されていますね。これには、様々な答えがあると思われます。 私の個人的見解では、自己の課題について「自助・独立」「社会に既存の資源を活用」、社会的課題について「互恵・協働」「自己の新規な資源を通有」、権威や常識に対して懐疑的であり、問題解決の指針として合理性と効率を掲げるというものです。そしてそれらが「ハッカー」的価値である理由は、それらの活動における「行為の指針 (code of conduct)」が、UNIXを中心とするコンピュータ運用上のそれとの類推で把握されているところにあります。 ある集団が課題解決のために折衝する場合、手続に関する合意を形成する必要があります。えてして課題の解決に関する合意それ自体よりも、合意形成までの手続で折り合わない場面が見られます。何をもって問題解決とするのか、という認識の基礎が違ったりするわけです。また、問題の把握の仕方 それ自体がすれ違っているということもよく見られます。このとき、同じ思考の枠組み (framework) が通有されていれば、問題解決が容易になります。この同じ「思考の枠組み」に「コンピュータ・システム的ものの考え方、コンピュータ運用上の概念の援用」が採用されるというシナリオが、「ハッカー的である」ことだと私は考えています。 つづいて、「ハッカー倫理は本当に広がるのか」という問いについてです。 私の主張は「ハッカー倫理は、現在のコンピュータやネットワークの構造として表現されている。システムに表現されたハッカー倫理は、それらのシステムを日常的に使用する一般の人々の思考様式や行動様式を、そのシステムに適合的なものに変容させていく」というものです。このプロセスを指して「ハッカー倫理が一般に広まる」と主張しているのです。ですから、「一般の人々がハッカーになる」とか、「みんながコンピュータのエキスパートになる」と主張しているわけではないのです。 後のほうの部分で、井上さんは、
ハッカー倫理を持っている人はプログラマーだけではない」と書かれていたこともあったかと思いますが、あれはハッカー倫理がプログラミングという行為を蒸発させた形で定義した帰結にすぎないと思われます。つまり、プログラミングに対するハッカーの態度をAだと定義した後に、ある活動に関わる人の態度がAだと判定することによって前述の「プログラマーだけではない」という命題が成り立ちうるのです。と指摘しています。確かに、ある種のエートスの中身を抽象化していきますと、「正義」や「公正」や「友愛」といった誰もが認める価値に近づいていきます。ゆえに、ハッカー倫理がそもそも持っていたプログラミングという行為との緊密な結合が蒸発したものを「ハッカー倫理である」と呼んでよいのかという疑問がでてきます。 上記に説明した私の「ハッカー倫理」を前提にして説明しますと、「自助・独立」という態度にしましても、「互恵・協働」という態度にしましても、これまでのそういった態度とは、違った手法を採用しているわけです。それが、「社会に既存の資源を活用」「自己の新規な資源を通有」という部分で、これらの要素については、低コストなネットワークが存在するという前提で可能になるものです。ですから、確かにこれまでも「自助・独立」「互恵・協働」という価値は存在していたわけですが、ハッカー倫理においてはそれらの価値が具体的に実現される手法が異なっているわけです。また、コンピュータ運用上の概念を基礎に、問題を把握し解決しようとする態度は、まさに「ハッカー的」なものだと考えます。ですから、「ハッカー倫理」を持っている人を判別する基準は、その行動や発想の基礎に、コンピュータやネットワーク運用に用いられる概念枠が存在しているかどうかということになると私は考えています。 また、井上さんは、「どうなったらハッカー倫理が広がったと言い得るのか」という問題を指摘しています。 情報クリエーターが社会の中心となることと、社会に情報クリエーターたちの倫理が広まることの差があるんじゃないか、という点も問われていいのではないかと思います。という部分については、おっしゃる通りで、私の「ハッカー倫理」の定義から考えますとみんながコンピュータ用語を用いて会話し、ネットワーク的な問題解決の手法を用いますと、「ほら、広がった!」ということになりかねません。そこで強調したいのは、「社会に既存の資源を活用した」「自助・独立」、「自己の新規な資源を通有する」「互恵・協働」の核となる部分、「自助・独立」「互恵・協働」がもっとも重視すべき積極的価値として一般的に認識されているかどうかです。というのは、現在の社会に核となる倫理規範があると仮定しても「自助・独立」「互恵・協働」がもっとも重視されているとは言えないからです。
3については、まず「『グリゴリ』によって象徴される、コンピュータ・ネットワークとデータベースが結合した、私たちに意識されないで運用される緻密な監視と管理のシステムが、情報社会における脅威である」一方でハッカー倫理が広まって、憲法や教育制度にもそれが組み込まれ、人々は新時代のプロテスタントとなりうる、というようなことでいいでしょうか。という部分について、『グリゴリの捕縛』に関する前段の整理は、そのとおりです。前段の脅威は、『グリゴリの捕縛』における「3.4.1 中央集権的コンピュータの世界」と「3.5 情報力のゲームで強くなり過ぎるのは誰か?」に対応するものです。後段の展開は、「3.4.2 分散的コンピュータの世界」と「4 情報時代の基本権について考えてみましょう」に対応するものです。後段のハッカー倫理は、前段の脅威に対抗する力としてもっとも有力なものであると考えているのです。こうすることで、ハッカー倫理を憲法的価値として位置付けようというのが『グリゴリの捕縛』の目的です。 また、後の方で井上さんは、アメリカン・ナショナリズムとハッカー倫理の抽象度の高いレベルにおいての同一性を指摘し、具体的な行為規範が蒸発したのちに残るものは、むしろアメリカン・ナショナリズムであり、ハッカー倫理はそれに包摂されてしまうのではないか、と指摘しています。 私は「アメリカン・ナショナリズム」についての専門家ではないので、的外れなコメントをしてしまうかもしれませんが、私は、英米法の諸原則からみても原則的に「アメリカン・ナショナリズム」は「参加」「協力」「自発的」「自由」「正義」などで表現される単純なものであると考えます。実際のアメリカ政府の行動が、外部からみた場合に、それらの価値を具現していると見られるかどうかは別の問題だと考えてください。というのは、ここでいう「正義」は「アメリカの正義」であることはまちがいないからです。ただ、アメリカの正義は比較的シンプルな信念に基づいていると思います。 で、上記の私の「ハッカー倫理」の定義から、理解していただけると思いますが、「ハッカー倫理」と「アメリカン・ナショナリズム」は達成すべき価値において類似する要素を持っていますが、その価値を達成するためのアプローチが、ハッカー倫理においては、より限定的です。ゆえに、「ハッカー倫理がアメリカン・ナショナリズムに包摂される」という主張は認めざるえませんが、ハッカー倫理はアメリカン・ナショナリズムとは明確に違ったアプローチによって区別されると考えます。重要なポイントは、「正義」が「アメリカの正義」ではなく、システム的な価値観から判断される「システム的正義」となると予測されるところにあると思います。 井上さんは、「このふたつ(ハッカー倫理とアメリカン・ナショナリズム)の共通点にあります。それは、互いにその自由のうちに戦争、争いを含んでいるということです」と述べていますが、この部分については、私は疑問があります。ハッカー倫理に「戦争あるいは争い」の要素が含まれているとは考えられません。ハッカーがある面で反抗的に見られるのは、既存の権威と常識に対して懐疑的である場合です。しかし、権威や常識の根拠について満足すべき回答がえられれば(えてしてそれはとても困難であるわけですが)、それらの価値を尊重すると考えます。このあたりについては、私たちだけでなく広い参加者の間で議論してみたい論点であります。 井上さんのいう個別性が蒸発した「ハッカー倫理」とは、私のいう「ハッカー倫理」から私のいう「ハッカー的要素」が蒸発した結果に残る抽象度の高い概念であるようです。すると、上記の議論のように「ハッカー倫理とはすなわちアメリカン・ナショナリズムなのではないか」という疑問が出てくるのは当然です。そして井上さんは「ハッカー倫理」のなかに「戦闘的要素」があると考えていて、そちらの要素が残る可能性が高いとみているということですね。上記のように私自身は、ハッカー倫理の中に戦闘的要素があるとは考えていません。 ですので、井上さんのハッカー倫理が暴力を正当化する要素があるのではないかと指摘する最後の部分の論点は、私の定義に立てば問題とならない部分ということになります。それでも、私のいう「権威や常識を疑う態度」が戦闘的に発揮される可能性はあります。 さて、タリバンのみなさんが信じる価値、および宗教一般は、理解するものではなく信じるものです。で、先ほど指摘しましたようにハッカーの価値は、より純粋な論理に基礎をおいているという意味で、宗教よりは比較的に客観的・理性的であり、形式知による説得に馴染むものであると考えます。ですのでタリバンの価値とアメリカの価値が対立するといったような事態には到らない(あるいは到りにくい)と考えます。 もし、ハンチントンがいう『文明の衝突』を避ける解があるとするならば、私の主張からすれば、ハッカー倫理を広めることであるということになります。よりローカリティから離れた思考枠組みを皆が持つことができれば、文明は衝突しなくなると考えているわけです。 ハッカー倫理が「実力主義である」という指摘はそのとおりだと思われます。ただ、知識が権力であるという認識が一般的となり、また、そうした力が各人にかなりの程度不均衡であるという認識が形成されてくれば、現在のような社会保障制度あるいは所得の再分配と同じような制度が整備されるはずです。それまでに必要な時間がどれくらいになるかは予測できません。しかし、それは「経済力は権力であり、経済力が各人にかなりの程度不均衡であり、そうした不均衡が人間性を破壊しつつある」という認識が一般的になり、対処がされるのに必要だった時間よりも短くなると考えます。 以上で、井上さんの質問に答えたと考えます。もし、また疑問がありましたらメールをください。
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