王政復古につづく17世紀の後半において、書籍業者の利益、
すなわちコピーライトに関する諸制度に公の権威を与えてきた法律は、
1662年印刷法だった。1709年制定法が登場するまで、
コピーライトを保護する仕組みは、1662年印刷法で法律的な根拠が与えられ、
その枠の中で書籍業カンパニーが培ってきた商慣習が機能するという構造になってい
た。 すでに見たように、検閲制度とコピーライト制度の結合は、 権限の拡大を求める書籍業カンパニーと、 書籍業カンパニーを違法出版の取締機関にしようとする政府側のもくろみの一致から 始まった。そして国王権力の衰退と反比例して、 検閲制度は書籍業カンパニーの諸権力の後楯として重要度を増したのである。 そして1680年前後には、 検閲制度とコピーライトの結び付きは当然のものと認識されるようになっていた。 ところが、書籍市場の構造変化、 および言論統制に関する為政者側の認識の変化によって、 実効がなく害の多い検閲制度への批判が高まるようになる。 こうした批判にさらされたとき、書籍業に携わる人々は、 自分達が必要とするものが検閲に関する法律ではなく、 自らの商売の基礎になっている権益に関する法律であったことをようやく思い出した のである。
1 王政復古から名誉革命までの書籍業界王位空白期には、 新聞や小冊子は政府の検閲や書籍業カンパニーの統制の及ばない流通経路、 すなわち行商人(hawker)や露店(stall)によって街頭で販売された。そして、 王政復古が行われた1660年代には、この独自の流通経路が確立していた。当然、 政府はこの自由流通経路を根絶しようと努力したのであるが、 もはやカンパニーが統制し得るものではなかった [1]。ここで、 1662年印刷法が制定されてから後の出版業界の状態を概観する。
1.1 新聞の普及王位空白期には多数の小冊子や新聞が統制の目を逃れて出版されていたが、 1660年代には、非合法出版に従事する販売出版業者(trade-publisher) と呼ばれる層が登場していた。彼らが取り扱った「新聞」という媒体が、 独自の流通経路で存在することになったのである。 彼らがもたらした書籍業界への最も大きな影響は、 市民の幅広い層にまでこれらの印刷物の市場を拡大したことである。また、 世論への影響力という観点から見れば影響はより大きいといえた。というのは、 当時流行していた喫茶店(coffee house)で回覧され、 新聞は実際の発行部数以上に読者の目にふれていたからである。当時の新聞としては、まず「王国通信」(The Kingdom's Intelligencer) が挙げられる。この新聞は1659年に「議会通信」(The Parliamentary Intelligencer) という名称で創刊されたのであるが、 王政復古による統治権力の交替に倣って名前を変えたのである。 当時唯一の定期刊行新聞であり、親政府的性格のものだった。王国通信は、 1663年には出版監督官レストランジによって買取られ、 印刷法が廃止される1679年まで存続した。また、 政府系新聞としては 1665年に国務大臣ウィリアムソン卿(Sir Henry Williamson) が政府広報紙として創刊した「官報」 (The London Gazette)[2]が存在した。 1662年印刷法が存続している間も、反政府新聞は根強く刊行されていたが、 1679年に印刷法が一旦停止されると、数多くの反政府系新聞が創刊された。 これに対して、レストランジは政府擁護派新聞「オブザヴェーター」 (The Observator)を創刊することで、情報戦・ 言論戦によって政府に対する誹謗を抑えこもうとはかった。 このことは政府側の反政府宣伝対策の手法の転換を意味していた。 宣伝には宣伝によって対抗しようというのである。 彼は反政府系新聞を効果的に抑えられなかったが、1680年以降、 新聞発行が政府の統制下に置かれるという事態は生じなくなるのである。
1.2 文芸出版王位空白期には、過酷な出版統制を背景に書籍業界は沈滞していたが、 その間にも書籍業カンパニーは1600年代から続く登記簿を維持していた。そして、 王政復古とともに書籍の需要が急激に増大したとき、 登記簿に記載されていたコピーライトは、 莫大な収益を書籍業カンパニーにもたらしたのである。とくに収益が大きかったのが、 英語版株に含まれていた暦であり、 その収益が毎年1000ポンド以上にまで拡大していた。しかし、それ以外の版、例えば 「ABC本」あるいは祈祷書は、 すでに市場価値を失ってしまっていた [3]。また、王政復古後には1640年代以前の文芸作品、とくにシェィクスピア戯曲が、 大変な人気を集めるようになった。 それらの文芸作品のコピーライトは王位空白期を通じて登記簿によって維持され、 しかも、相続や購入を通じて少数の人物に集中していた。そこで、 主としてコピーライトの行使によって収益を挙げる純然たる出版者が登場するのであ る。 集中されたコピーライトと出版業界の活況のため資本が蓄積された結果、 収益が確実だった古典の出版が中心だったそれまでの出版業界に変化が生じた。 1670年以降、 人気作家を発掘し新刊を出版するという手法が大きな収益をもたらすようになるので ある。 このころ、1666年には「書籍販売業者と印刷業者の置かれた地位について」 (The Case of the Booksellers and Printers Stated) [4] という小冊子が発行され、 そのなかで「あらゆる手稿あるいは版の著作者は、人間がその財産(Estate) について完全な絶対的財産権をもっているのと同様の、何らかの権利をもっている」 と主張されるようになっていた。 王政復古後の文芸出版の隆盛が著作者の権利意識を目覚めさせ始めていたのである。
2 コピーライト維持の努力1662年印刷法は、1637年星室庁布令の内容を引き継ぐことで、 書籍業カンパニーが長い間維持してきた慣習を確認するものとなっていた。 したがって印刷法が存続する限り、書籍業カンパニーの統制力は (それが名目上のものであっても)法律によって保障されていたのである。しかし、 1662年印刷法が更新されなかった1679年には、 再び書籍業カンパニーの統制力の根拠が失われ、 かれらの権益が危機にさらされることになった。このため、 書籍業カンパニーは印刷法復活に向けて直ちに工作を開始する一方、 当座の権益侵害を除去するために法廷に頼ることになったのである。 以下では、はじめに1660年代前半の書籍業カンパニーと勅許権者の争いを検討し、 つぎに1679年以降の訴訟を検討することにする。
2.1 法廷闘争2.1.1 書籍業カンパニー 対 出版勅許国王権力が回復すると、 王位空白期に実質的効力を失っていた国王大権に由来する出版勅許を確認しようとす る活動が始まった。最初に法廷に持ちこまれたのは、最も収益の高い出版物の一つ、 法律書の出版勅許をめぐる争いだった。法律書に関する出版特権は、勅許によってムーア(John Moore)が保有していたが、 その娘コロネル(Collonel)を経由してアトキンス(Richard Atkins)に譲渡されていた。 アトキンスは、自身の保有する法律書出版勅許を正当化するために、1660年に 『印刷の起源と展開』(The Original and Growth of Printing)を出版し、 その中で出版術の導入が国王の資金で行われたと説き、 国王が出版術について大権を行使すべきことを主張する [5]ほど、 コピーライトに深い関心をもつ人物だった。 法廷で「私の依頼者であるアトキンス婦人(コロネル) から書籍業カンパニーに与えられ、長期にわたり賃借料が支払われていた [コピーライト]賃借契約が存在した。しかし、最近の動乱によって、 この賃料は支払遅延になり損害を被っている [6]」と主張されていることから、 ムーアの法律書出版勅許は英語版株に賃貸されていたが、 王位空白期の混乱の中で賃料が支払われなくなっていたらしい。そこでアトキンスは、 法廷で法律書出版勅許をとり戻そうとしたのである。彼は、 著作者と直接に契約を結んで法律書を出版していた書籍業カンパニーの構成員に、 大法官府から獲得した差止命令を用いることで、出版差止をはかった。またこれは、 自分が保有する勅許の確認訴訟でもあった。これに対して、 書籍業カンパニー側は差止命令の撤回を求め貴族院に上訴した。そして、 最終的に1670年にアトキンス側の国王勅許の効力を認める判決が下され、 結審したというものである。この事件は、総称してアトキンス事件(Atkins cases) と呼ばれるが、訴訟記録としては、1664-1667年の書籍業カンパニー 対 勅許権者 (The Stationers v. The Patentees) 事件 [7](以下、「勅許権者事件」) と、1670年のローパー 対 ストリーター(Roper v. Streater) 事件 [8](以下、「ローパー事件」) が残っている。 同時に、もっと根本的な問題が持ち上がった。この訴訟が端緒となって、 書籍業カンパニーに与えられた法人化勅許状を確認することが要求されたのである。 しかし、カンパニーの監事たちはついに勅許状を発見することができなかった。 やむなく、彼らは1665年に、ロンドン塔の書記官 (Keeper of the records in the Tower)となっていたプリン(William Prynne) に依頼して、 そこの記録から法人化勅許状を再製したのである [9]。 勅許権者事件が貴族院に持ちこまれるまでの経過は次の通りである。 書籍業カンパニーの構成員であるティトン(Tyton)およびローパー(Roper: 後のローパー事件の原告)が『ロールの法要録』(Roll's Abridgment)を出版したため、 アトキンス婦人とその共同事業者たちが、 書籍業カンパニーの法律書出版に対する差止命令の発給を求めて、 大法官府に訴を提起した。大法官はこの訴を認め、差止命令を発給したが、 書籍業カンパニー側はこれを不服として貴族院に上訴したというものである。 上訴審で書籍業カンパニーは「メアリ女王治世4年(1557)5月10日のもの [10]とエリザベス女王治世2年 (1559)11月10日のもの[11]を再引用 (recite)した、ジェイムズ王治世15年(1623)1月19日の開封勅許状に基づき主張する」 と述べている。直接に1557年の法人化勅許状を根拠としていないことから、 このときに1623年以前の勅許状が失われていたことがわかる。 この法廷で勅許権者の弁護士は、 書籍業カンパニーに与えられた出版勅許が印刷術に対する技術的な免許であること、 一方、印刷術および法律それ自体は王の所有するものであり、 法律書出版勅許は国王が直接与えうる勅許であることを巧みに弁論し、結果的には、 アトキンス側が勝訴した。審理は最終審である貴族院で行われたから、国王が印刷・ 出版について全般的な大権を保有することが確定し、 一般的な印刷術の特権が書籍業カンパニーに与えられていたとしても、 国王勅許で特定の人物に特定の書籍の出版特権を与えうることが確認された。 この裁判で書籍業カンパニー側が敗訴した理由の一つは、 法人化勅許状を紛失していたことにあると思われる。後のシーモア事件でも、 審理の前提として、 書籍業カンパニーの法人化勅許に由来する特権についての疑問が提示されていること から、同様の疑問がこの事件でも提示されたと思われる。 ところが書籍業カンパニーは勅許状の原本を失っていたので、 カンパニー側の主張の根拠が大きく揺らいだのだろう。 このことはカンパニーにとっては致命的な問題だった。 そこで1667年に、改めてロンドン塔の記録に残された法人化勅許状そのままに、 チャールズ2世から勅許の再交付を受けたのである [12]。そして書籍業カンパニーは、 法人化勅許状に由来する特権の再確認をすると、 再び勅許権者に対して訴訟を起こした。それが、ローパー事件である。 この事件については、直接記録が残っておらず、 1677年の書籍業カンパニー 対 シーモア (The Company of Stationers against Seymour) 事件 [13](以下、 「シーモア事件」)、1685年の書籍業カンパニー 対 パーカー (Company of Stationers and Parker) 事件 [14](以下、 「パーカー事件」)および、1769年のミラー 対 テイラー(Millar v. Taylor) 事件 [15] に断片的に引用されているのみである。そこで、 それらの記録をつなぎ合わせると次のような内容になる。
ローパー他はクローク判事から出版権を購入して判例集を出版しようとした。一方、 ストリーターは国王から新たな勅許を獲得して、勅許を根拠に出版を行った。 ローパー他は1662年印刷法の6条に依拠してクローク判事から購入した版のコモン・ ロー上の所有権を主張し、 ストリーターの獲得した勅許の法的効果について訴答不十分の抗弁を行った。一方、 ストリーターは国王の勅許が正当なものであるとする主張で抵抗したのだろう。 王座裁判所はコモン・ロー上の権利の主張に好意的だったので、コモン・ ロー上の所有権を主張したローパーが勝訴した。 しかし、1670年の夏にはリー事件の補足でふれられていたように、 ストリーターが誤審令状をもって、 貴族院に再審を請求した [17]。 この時、議会から書籍業カンパニーに権限開示令状(quo-warranto)が送達された。 これは1667年に再交付された法人化勅許状が再び論点となったことを示している。 そしてリー事件、パーカー事件の記録どおりであれば、ストリーターの勝訴、 すなわち出版に関する国王の大権が、コモン・ ローに優先することが再び確定したのである。 一方、書籍業カンパニーが法人化勅許状を根拠に特権を主張する場合には、 カンパニー側が勝訴している。1669年にシーモア(John Seymour) という人物 [18] に41年間にわたる37の古典の出版と暦の出版勅許、 および書籍業カンパニーの教科書出版勅許が失効した後の教科書出版勅許が与えられ た [19]。そこで、 書籍業カンパニーは、 シーモアが出版している暦がカンパニーの出版している祈祷書および暦の海賊版であ ることを主張して、王座裁判所に提訴したのである。 この1677年の書籍業カンパニー 対 シーモア (The Company of Stationers against Seymour) 事件 [20]では、被告シーモア側が、 特定の著作者のいない出版物のコピーライトが国王に帰属することを主張し、 先のアトキンス事件における貴族院の判決を援用している。これに対して、 首席裁判官ブリッジマン(Orland Bridgman)は、 勅許による特権それ自体について疑問を提示し、 国王の勅許よりも版についての財産権(property in the copy) が優先するのではないかという、アトキンス事件での王座裁判所の見解を示した。 しかし、続けて「この点について意見が分かれている」と留保の姿勢を見せる。 また同裁判官は、陪審評決によってシーモアが出版してる暦が、 書籍業カンパニーの暦を複製した海賊版であることが明らかになっており、 シーモアがその版について何らの権原も持たないと説明する。したがって、 国王は自己の保有する暦についての財産権を書籍業カンパニーに与えたと判示した。 この判決は、 一読するとあたかもアトキンス事件の貴族院判決を踏襲しているように粉飾されてい るが、実際には版の財産権についての判断が示されているのである。裁判官は 「我々の意見は貴族院の判決に導かれなければならない」という。そうであるならば、 新たに国王から勅許を獲得したシーモアに有利に判示しなければならないはずである。 しかし、彼は貴族院判決における 「特定の著作者がいなければその版は国王に帰属する」という部分を援用しつつ、 シーモアがカンパニー側を剽窃した事実から、 問題となっている暦については書籍業カンパニーが国王から所有権を与えられている とするのである。貴族院判決に従う限り、この論理展開は詭弁であることがわかる。 王座裁判所は、表面的に貴族院の判例に従いつつ、 独自に版を組んだ書籍業カンパニー側の財産権を実質的に認めているのである。 しかし、この判例は、コモン・ロー・コピーライトを認めたというよりは、 明らかな海賊版を認めなかっただけで、積極的に創作関与者 (暦自体に創作者がいないならば、版を組んだ者が創作者の地位に立つだろう) の権利を認めたものではない。この点および粉飾部分が強調されているために、 この判決までも特権擁護的判例として紹介されている例がある [21]。 さて、そののち書籍業カンパニーとシーモアは金銭によって妥協し、 書籍業カンパニーが毎年一定額をシーモアおよびその遺族に支払うことで、 彼らが特権を保持している教科書の出版を独占した [22]。このような現実的「かけひき」 が訴訟の舞台裏でなされていたことも忘れてはならないだろう。 以上の事件からわかるように、1662年印刷法の下でも、 書籍業カンパニーの出版特権は絶対的なものではなく、 競合する特権から挑戦を受けていたのである。また、この訴訟の過程で王座裁判所が、 コモン・ロー上のコピーライトを認める態度を示していたことがわかった。 しかしそれは、アトキンス事件における貴族院の判決が判例として残ることで、 消滅してしまうのである。
2.1.2 書籍業カンパニー 対 輸入書籍独占のために自由競争がない市場では、 商品の品質が著しく低下するという原理は古今を問わない。約10年後にジョン・ ロックによって罵倒されるようなイギリスの出版業界の堕落は1680年代にすでに生じ ていた。すなわち、印刷法が失効したため、 1680年代前半の書籍業カンパニーの出版物は、 種類豊富で正確かつ安価なオランダ出版物との競争にさらされたのであるが、 彼らは自分たちの出版物を改善することよりも、法に訴えることを好んだのである。1681年に書籍業カンパニーは、リー他がカンパニーの独占している暦を違法に出版し、 さらに禁止されているにも関わらず、 その他の書籍をオランダから輸入しているとして、 大法官府に差止請求を申し立てた [23]。 ここでも書籍業カンパニーの1557年の法人化勅許状の有効性への疑いがリーによって 主張された。しかし、この裁判までには、法律書の出版に関する権限が国王に専属し、 それが書籍業カンパニーに勅許として与えられているとする判例が確立していた。 そこで二週間後の大法官府での審理では、 被告の答弁が行われるまで輸入書籍は税関に止め置かれるべきとの原告の主張に対し て、大法官は一般の書籍(『人間の全ての義務』(Whole Duty of Man) だったようである [24]) については通常の手続で処理されるべきだが、 法令書に関しては税関に止め置かれるべきであるとし、 確定的差止命令を発給したのである [25]。 また、 1682年1月には王室印刷人がオランダで印刷された英文聖書の販売の差止をもとめて 大法官府に訴え出ている [26]。 この事件では法律書ではなく聖書だったためか、 大法官府は先の事件よりも差止命令の発給に慎重である。「[原告が] 保護される明白な権利を保有していない限り、本裁判所は、 いかなる事件においても差止命令を発給する権限を持たない」と述べている。そして、 原告である王室印刷人が保有する勅許の正当性をコモン・ ロー上の正式事実審で審査すべきだと判示した。 1682年4月には、 この事件に続くと思われる記録がある [27]。これによれば、 王室印刷人が英文聖書と法令集の独占出版特権を獲得していることが確認され、 彼らの請求どおり書籍輸入の差止命令が発給されており、すでに、 輸入書籍は税関に止め置かれた状態となっていたことがわかる。 この記録で問題となっているのは、被告がこの差止によって破産したため、 破産委員会(Commission of Bankrupt)がこの差止書籍を処分していることである。 この処分によって差止書籍が市場に流れては困るので、 この破産委員会の執行に対する差止命令が発給されたというのである。 そして翌1683年には、 一連のオランダからの輸入書籍に関する事件の総括が王座裁判所でなされた [28]。それによれば、 勅許の正当性についての正式事実審で、 国王が出版に関する大権を保有していることが確認され、 以前に国王が付与した祈祷書、法律書、 聖書の独占出版勅許はいずれも有効であるとされた。 そして1623年独占法がこれらの勅許に適用されないことが確認された。また、 この裁判で「新しい開封勅許状によって、原告[書籍業カンパニー] は英文聖書および祈祷書のコピーライト [29] の権利者である (...now plaintiff by virtue of the new letters patents, was a proprietor of the copy-right of the English bibles and psalms,..)。」 と判示され、国王大権に由来する勅許が正当なものであることが確認された。 このように、1683年の王座裁判所判決でコピーライトはコモン・ ロー裁判所の認める権利として確認されたのであるが、 その性格は国王大権に基礎をおくものとして理解されていたことが明らかになった。
2.1.3 書籍業カンパニー~対~大学出版書籍業カンパニーの独占出版権に対するもう一つの脅威は、 オックスフォード大学が保有する出版特権だった。 1640年前後に書籍業カンパニーとオックスフォード大学は協定を結んでいたが、 それに続く王位空白期の混乱で、両者の権利関係は曖昧になっていた。また、 王位空白期のあいだに、オックスフォード大学は、 大学の出版特権を個人に期間貸与するようになっていたのである。そして、 1670年代には書籍業カンパニーとオックスフォード大学側との出版特権をめぐる交渉 が展開する。しかし最終的には、 書籍業カンパニーが大学の特権の使用料として年額100ポンドを支払うことを条件に、 オックスフォード大学側が書籍業カンパニーに従属するという形で妥協したのである [30]。ところが1680年代にはいってから、すなわち印刷法の失効を境にして、 オックスフォード大学側は、独自の「株仲間」(Stock)を設立し、 書籍業カンパニーがその株の持分を購入することを権利譲渡契約更新の条件としてき たのである。書籍業カンパニーは、この取引を拒否した。その結果、 オックスフォード大学の出版特権は4人のロンドンの書籍販売業者に共同保有される ことになる。彼らは個人的な理由で書籍業カンパニーに挑戦したのだとされている。 そのうち二人は破産したり死亡したりし、残った二人、ガイ(Thomas Guy)とパーカー (Peter Parker) が訴訟を継続することになった [31]。 これに関する裁判記録が残っている。1684年のヒル他~対~オックスフォード大学他 (Hill &{} Al' versus Universitat Oxon. &{} Al') 事件 [32](以下、「ヒル事件」) と、1685年の書籍業カンパニー 対 パーカー(Company of Stationer and Parker) 事件 [33](以下、 「パーカー事件」)である。 ヒル事件では、原告は王室印刷人であり、 被告はオックスフォード大学の特権を譲渡されたガイとパーカーである。 訴訟の目的は、 被告側が行っているオックスフォード大学の特権に基づく聖書その他の出版の差止命 令である。大法官は、大学の勅許と王室印刷人の勅許のいずれも認め、 その勅許の争いについては、 王座裁判所の正式事実審で審理されるべきであると判示した。 そして原告が要求する事実審理が終了するまでの出版差止命令発給について、 大法官は差止命令を発給することで被告側の権利が侵害されるおそれがあるとして、 却下した。 1685年のパーカー事件は、 大法官府でのヒル事件の判示を受けて王座裁判所で審理されたものである。 論点は三つににまとめられた。(1)書籍業カンパニーに与えられた勅許は正当か、(2) 書籍業カンパニーに与えられた勅許が正当なものであるとすると、 その後に与えられた大学への勅許は有効であるか、 また後の勅許が先の勅許を無効とするか、(3)大学への勅許が有効ならば、 この訴訟は提起しうるか、というものである。 原告である書籍業カンパニー側は、(1)の論点に関して、印刷術の公共性、 および印刷術がヘンリー6世によってもたらされたこと (これはアトキンス事件以来 続く誤解である)、 そして国王によって独占出版勅許が与えられたこと、また、 独占法が印刷には適用されないこと、 1662年印刷法がこれまで与えられた印刷特権を確認するものだったことから、 「それは権利および利益であり、単なる特権ではない(it is a right and interest, and not only a privilege :...)」と主張した。(2)の論点については、 シーモア事件 [34]にふれながら、 後の大学への勅許は印刷の権利あるいは利益を与えたものではなく、 大学内での利便のために印刷の権限を与えたものであり、 大学が書籍販売のための印刷をすることは勅許に想定されていないと主張した。 被告であるパーカー側は、書籍業カンパニーの勅許について合意するものの、 前王の勅許状によって現王の大権が制限されるか、と論を組み立てた。 そして前王の勅許は独占利益を書籍業カンパニーに付与したものではないとし、 前王の勅許に基づいた書籍業カンパニーの主張は拡張解釈されたものであると批判し た。また、現王は自己の権限に関して前王によって制限を受けないと主張した。 法廷は被告有利に推移したが、シーモア事件で、 新たな勅許よりも旧来の書籍業カンパニーの勅許が優越するという判例があったため に、判決は延期された。 ここで判決が示されれば、後の判決に大きな影響を与えるものだった。とくに、 書籍業カンパニーの特権が権利であると主張されたのはこの時期が最初であり、 この主張が認められれば、その権利の内容と帰属について議論がなされたはずである。 しかし、裁判官たちはその点について議論を避けたようである。一方、 被告側有利に審理が進んだというのは、 チャールズ2世治世下での絶対主義的傾向を反映していると思われる。 パーカー事件は未決のまま、うやむやになったが、 それは書籍業カンパニーが法廷闘争を通じて自分たちの権利を確立しなくてもよくな ったという変化が背景にある。後でふれるが、1684年の新勅許によって、 書籍業カンパニーの権威が王権によって再び確固としたものに強化されたのである。 しかし興味深いことに、その1684年勅許には、 書籍業カンパニーの構成員が享受している利益が著作者から譲渡されたものであるこ とが初めて明記された。 コピーライトが特権から権利へと変化しはじめるのはこの年が最初なのである。
2.2 規約の整備1679年から1680年代前半の混乱への対処として、書籍業カンパニーは1678年、1681年、 1682年と次々に規約(Ordinance)の制定を行う。これらの規約は、 1562年に最初に認められた規約が年々増補されてきたものを元にしていると謳われて いた。しかし、実際には規約集(Book of Ordinances)もまた、 勅許状と同様に失われていたのであり、記録長官(Master of Rolls) のもとに残っていた記録から1668年に再編されたものなのである [35]。 1678年規約の序文 [36]、 1681年規約 [37] および 1682年規約の末尾 [38]で、 この規約が大法官(Lord High Chancellor)、王座裁判所首席裁判官 (Lord Chief Justice of his Majesties Court)、人民間訴訟裁判所首席裁判官 (Lord Chief Justice of the Court of Common Pleas)の認証を受けており、 ヘンリー7世の議会の制定法 (For making of statutes by bodies incorporate.)[39] に適った権威あるものだということを繰り返し強調している。その表現は、 この規約があたかも議会の権威に基づいて効力を持つといわんばかりであったが、 実際には、その制定法は、 カンパニーが勝手な規約を作ることで公益を害さないように、 政府機関が監督するための法律でしかなかった。1678年規約 [40] は主としてカンパニーの秩序についての規定であり、コピーライトに関しては、 直接の規定を持たない。しかし、書籍業カンパニーの構成員の間で、版または権利 (Copy, Right)、あるいは印刷、書籍販売、製本、に関する争いが生じた場合、 最初に書籍業カンパニー幹部による裁定に委ねるべきことを規定し、これに対応して、 書籍業カンパニー幹部が最大の努力をすべきことを規定している。 これはコピーライトに関する紛争を外部の法廷に持ち出さないための規定であり、 これに反した場合10ポンドを罰金として徴収することとされていた [41]。 このように書籍業カンパニーは組合員内部での司法管轄権を維持しようとはかったの である。 コピーライトに関する規定は1681年、 1682年両規約に見られる [42]。 1681年規約では、1条で書籍の表題頁に書籍販売業者の名前を記載することを要求し、 5条で出版される書籍の登記を義務づけており、 また他人の版を印刷することを禁じている。さらに、 6条で書籍業カンパニーの査察のための立入権について規定し、 7条で海外からの書籍の輸入の制限を規定するなど、1662年印刷法の失効を受けて、 失われた規定を書籍業カンパニーの規約で補うという形になっている。 またブラグデンによれば、 1681年規約は1679年8月に命令という形で決定されたものであるという [43]。 次に1681年規約の中で、コピーライトに関連する部分を掲げる。
そこで、次のように規定される。このカンパニーの登記簿に出版物の登記が、 このカンパニーの構成員によって正しくなされたならば、 このカンパニーの他の構成員が、このカンパニーの幹部の許可あるいは同意なく、 正しくこのカンパニーの登記簿に登記した者またはその譲受人の版または版の一部を、 印刷し、海外から輸入し、あるいは販売、製本、展示、 または一部分を販売することで侵害した場合、その構成員は、 それぞれの違反品について12ペンスを書籍業カンパニーに没収されるものとする。
それゆえ、次のように規定される。(前述したごとく、 イギリス国璽の下で認められたものを除き)このカンパニーの全ての構成員は、 出版物の印刷または再版の前に、彼ら自身で彼らの氏名と、 彼らが今後印刷しようとするそれぞれの出版物の表題を、 このカンパニーの登記簿に登記されるものとする。(登記にかかる通常の費用を払い、 このカンパニーの事務員の後見を受ける)そして、彼らによって行われ、 彼らのそれぞれの名前が記載されるべき登記について、 (その登記がなされなかった場合)書籍業カンパニーは 20ポンドの罰金を科す。 それはカンパニーの用のために、金銭債務訴訟によって徴収される。 ランソムは1683年に急激に増加する登記件数を根拠に書籍業カンパニーの規約の効力 を推測するのであるが [44]、 私は実際には逆ではないかと思う。 登記には費用がかかったことから [45]、権利関係が安定し、 特別に保護する必要がない版については登記がされなかったことはすでに見てきた。 そうであるならば、 登記件数が増大したことはそれだけ海賊出版に悩まされる出版物が増大していたこと の証拠でしかない。このことは、 1694年に印刷法が失効した後に登記件数が増大したことからもわかる [46]。
2.3 新勅許1672年の第3次英蘭戦争の敗北のため、 チャールズ2世とキャバル臣団の勢力が打撃を受けると、反ローマ・ カソリック的雰囲気が高まり、 チャールズ2世は宮廷的ではあるが国教会的な騎士派議会との協調を余儀なくされる。 そして騎士派議会が権力を掌握し続けた1678年まで、 印刷法は依然として更新され続けた。しかし、1678年に教皇主義者陰謀事件(Popish Plot)が起こり、 ヨーク公ジェイムズがイギリスをカソリックに改宗しようとしていることが明らかに なると、議会は一気にホイッグ党のものとなる。 この混乱が1679年に1662年印刷法が更新されなかった最も大きな要因なのである。 この時、ホイッグ党はトーリー党を激しく攻撃し、 またホイッグ党の傀儡であるモンマス公を王位に付けようとしたため、 清教徒革命の再来を怖れたホイッグ党穏健派がトーリー党と国王派に結び付く結果と なった。 このため、1681年からトーリー党が再び政権を握り、ホイッグ党、 すなわちプロテスタント非国教徒への攻撃が熾烈を極めるようになった。 余談ではあるが、この迫害のためロックは、 1683年にオランダに亡命することになったのである。 チャールズ2世の治世最後の4年間は、議会は開かれなかった。 そして1684年には都市の特権の引渡が要求され(surrender of borough charters)、 新たに勅許状が再交付されることになるのである。 その目的はロンドンを含む地方自治都市からホイッグ党を一掃するための地方的諸特 権の再編だった [47]。 書籍業カンパニーにとって、 この勅許状の引渡と再交付は危険ではあるが願ってもない好機だった。というのは、 1557年法人化勅許が王位空白期の混乱の中で曖昧になり、 1662年印刷法の後ろ楯を失い、裁判所の態度が流動的である以上、全く新しい基盤で、 自らの特権を確立することが必要だった。その好機を1684年に見いだしたのである。 チャールズ2世の1684年布令が発布されると、 すぐに書籍業カンパニーは旧勅許を引き渡し、 補佐役会で国王への新勅許付与の請願書を作成した。 そして4月7日に新勅許付与の請願書が提出され、 10日後には新勅許の交付が決定された。 すぐに書籍業カンパニーの幹部たちは新勅許の草案を作成し、5月の最初の一週間で、 政府で草案の法的な検討がなされた。そして王座裁判所首席裁判官ジェフリーズ (George Jefferys) 他から認可され、 国璽が捺された新勅許を 5月22日付けで付与されたのである [48]。 この書籍業カンパニーのすばやい対応と、またすばやい新勅許の付与から、 カンパニーの幹部たちが極めて「ホイッグ的でなかった」ことが明らかになる。 いずれにしても、書籍業カンパニーの幹部と出版勅許保持者たちは、 国王の大権が強力で、その結果としてコピーライトの根拠が安定し、 商売がうまく運べはそれで良かったのであり、政治的信条抜きの「国王派」 というべき人々だったと考えていいだろう。
2.3.1 1684年規約1684年規約では、 書籍業カンパニーの運営機関が国王への忠誠を宣誓することが盛りこまれ、 補佐役会の役員はカンパニー内部で選出されるものの、 ロンドン市議会の承認を受けることが規定され、さらに、 新役員は国王の謁見を受けることが規定された。また、 書籍業カンパニーの権限については、これまでの印刷業者だけでなく、活字鋳造職人 (letter-founder)、印刷機製造職人(builder of press)にまで拡張され、 王室印刷人と大学の印刷業者を除いて、 彼らはロンドン市の付近に住むことが規定された。また、 書籍業カンパニーの構成員でなければ、 ロンドンとウェストミンスターの周囲4マイル以内で出版関連の職業を営むことが禁 止され、営業は常設の店舗(open shop)で行うべきことが規定された。 そして何よりも重要なことは、 書籍業カンパニーの内部的取決めだった登記簿への記載が国王の認めるところとなり、 公的な記録とされたことである [49]。コピーライトに関して重要な点は、書籍業カンパニーのメンバーは著作者から、 または版を売却あるいは譲渡する権利をもつ者からの贈与または購入によって (by gift or purchase from the Author) 権利者となり、 それを登記簿に記載することで権利を享受する [50]と規定されたことである。 これは、 暗黙にではあるが書籍業カンパニーが享受している利益が根源的には著作者に由来す ることを認めたことになる。1680年代前半の法廷闘争で 「法令書や暦は特定の著作者が存在しないので国王が権利者であり、 勅許状でこれを処分する権限をもつ」という判決が繰り返し現れたことの反射として、 「特定の著作者が存在すれば、彼が作品について権利をもつ」 という考え方が確立したこと、またそれ以上に、 この時期に古典作品ではなく現代作家による文芸出版が活況を呈するようになったこ とが影響していることは間違いない。書籍取引で、 生存中の著作者が占める重要度が増大することが権利主体として著作者が登場するた めの前提条件だったことを強調しておきたい。
3 名誉革命前後の書籍業界1685年にジェイムズ2世が即位すると、1662年印刷法は復活され、 1684年規約とあいまって書籍業カンパニーの権力は最高点に達する。この時期、 カンパニーはかつて発揮したような市場統制能力を取り戻すべく盛んに活動を行うが、 その目的を完遂するには栄華の春はあまりにも短すぎた。 ジェイムズ2世のイギリス改宗計画は、あまりにも性急かつ残虐であり、 トーリー党を含むイギリスのほとんどの勢力を敵にまわすことになった。しかも、 フランスにおける1685年のナント勅令廃止の残酷な結果をみて、 ジェイムズ2世が頼みとした国内カソリック穏健派勢力までも彼に反目するに至った [51]。そうした混乱の中、 書籍業界も混乱に陥った。さらに、 1687年にジェイムズ2世がロンドン市長に命じて多数の役員をカンパニーの幹部から 除外するに至り、書籍業カンパニー内部でも内紛が生じていた。 この国王による都市の自治特権の蹂躙に反発したロンドン市議会は、1688年10月に、 カンパニーの権限を1684年以前の状態に復帰させることを決定した。 このように、イギリス国内でのジェイムズ2世への反発が強まり、 国王側の不利が明らかになると、王座裁判所首席裁判官ジェフリーズは、 1684年の勅許状引渡が無効であり、以前の勅許が有効であると宣言した。 このことは1684年勅許で権限を拡大した書籍業カンパニーには不利な決定だった。 そこで、書籍業カンパニーは 1684年勅許の引渡しを拒否することを決議したが、 1689年には、 1684年規約はもはや使われなくなったのである [52]。 そして書籍業カンパニーの市場統制力も壊滅した。 書籍業カンパニーへの登記は信用を失って激減し、オックスフォード、ヨーク、 チェスター(Chester)に現れた競争相手が、 ロンドンの業者の市場を侵食するのを傍観するしかなかったのである [53]。 このように、1688年の名誉革命によって書籍業カンパニーは壊滅的な打撃を受けた。 しかし、不安定な社会情勢を背景に、 1662年印刷法は1688年および1693年に更新され続けたため、 印刷法は衰弱しきったカンパニーにとっての頼みの綱となった。ところが、 出版業界はカンパニーの存在を前提としない状況に移りつつあった。 印刷法が存在しても、無許可文書は、 新聞や小冊子の流通に従事した販売出版業者の経路を通じて販売され、もはや政府は、 出版が完全に統制のもとに置かれうると考えなくなったのである。
3.1 コンガー草ミ流通機構の変化も生じていた。1680年代前半の印刷法の空白期に、書籍仲買業者 (Trading Bookseller)という卸売業者が登場していた。「コンガー」(conger) と通称された彼らは、海賊版販売防止を目的として発達した卸売連合(syndicate) であり、彼らを通じなければ正規の書籍を仕入れられなかったので、 海賊版を扱う小売業者に、 海賊版を扱わないように圧力をかけることができるようになったのである [54]。 さらに書籍仲買業者の登場は出版における投資の回収の問題にも解答を与えた。 当時のイギリスの書籍流通は、 想定された小売価格から各流通段階の利益分を割り引いた「売りきり」 で行われていた。純然たる大手の仲買業者が関与することで、出版業者は、 書籍を出荷した段階で投資額を直ちに回収することができるようになった。このため、 この方式は出版業者の経営を円滑にすることができた [55]。また一方で、小売業者は、 大手の仲買業者を経由することで、 さまざまな出版物を複数の経路から入手することができるようになり、 書店の品揃えを豊富にすることが可能になったのである。このようにして書籍仲買業者の取扱量は、1705年頃には年間2万冊、 取扱額5000ポンドに達して、 書籍業カンパニーの英語版株と肩を並べるまでに至った [56]。 これらの書籍取引の利益は少数の人間に集中したから、 彼らも英語版株の幹部たちと同様に、 業界団体として活動するだけの資力を蓄積することができた。つまり、 1700年代の最初の10年のうちに、 書籍取引市場の秩序と安定に関して深い関心を示す団体が一つ増えたわけである。
3.2 「競り」コピーライトの処理についても、勅許や制定法の保護が無くても、 事実上の独占出版を維持する方法が確立していた。それは、 業界の仲間内しか参加を許されない「競り」(trade sale)でしか、 コピーライトを売却してはならないという仕組みだった。 これによって書籍業者たちの外部へコピーライトが拡散することを防いだのである [57]。この「競り」は、セント・ ポール寺院に近い「女王の紋章亭」(Queen's Arms Tavern) と呼ばれた居酒屋で開かれた。この「競り」で売却されたコピーライトは、 一つの作品についての一つの権利として処分されたわけではない。 英語版株という制度は、収益の大きい出版特権を複数集合し、 出版特権のプールとして組織化し、出資を募り、 出資額に応じて出資者に持分を与えるものであり、 いずれの書籍からの収益かを問題にせず、英語版株への投資額、 すなわち持分に応じて全体の収益が分配されるという制度だった。 この制度がイギリスで成功を収めたことが、コピーライトにも影響を与えたことは 「コピーライトの史的展開(2)」で述べたとおりである。 すなわち、イギリスの書籍業者たちは、 コピーライトを分割不能な一体の所有権として理解せずに、 イギリスの土地の権利関係に倣って、 重層的にも垂直的にも細分化して設定することのできる財産権である、 と理解していたのである。したがって、コピーライトも1/2から1/64、 あるいはそれ以上の持分に分割された [58]。このことによって、 出版にあたっての出資額の総額を大きくし、投資回収失敗の危険を分散し、 そして収益を効率的に分配できたのである。しかも、 収益の高いコピーライトの持分は、「競り」 で値がつり上がったから [59]、 もし、コピーライトの持分が原稿料の代わりに著作者たちにも与えられていたら (当時は原稿買取制)、成功した著作者は、買取制以上の収益を、 配当金あるいは株式の売却という手段で挙げることができただろうし、 晩年になって世に認められるまでコピーライトの持分を保時することで、 若い時代の安値での原稿の売却による不利益を回避することができたであろう。 書籍仲買業者と「競り」という二つの仕組みで、 書籍業界は国王勅許や制定法が無くても、業界の秩序を維持することが可能になった。 しかし最後に唯一つ、業界の外部者に対する時、 どうしても法による保護が必要とされたのである。すなわち海賊出版の禁止である。
4 検閲制度とコピーライトの分離
4.1 検閲制度批判名誉革命の後、海外に亡命していたホイッグ側の人々が、 オレンジ公ウィリアム3世と一緒にイギリスに戻ってきた。その中には、 オランダに亡命していたロックもいた。ウィリアムとメアリの共同統治体制下(1689) では、トーリー党穏健派とホイッグ党の妥協が成立しており、 何度か過激に走ることはあったものの、 トーリー党とホイッグ党は互いに暴力ではなく、 言論による闘争を選択するようになった [60]。宗教でも同様で、 相変わらず国教会派の勢力が優勢だったが、もはや、 非国教派を根絶しようとするような、 過酷な迫害は行われなくなったのである [61]。一方、フランスに亡命している王位要求者ジェイムズ2世とその子孫を、 再びイギリスの王位に付けようと狙うルイ14世とジャコバイト [62] の脅威が常に国内問題に影響を及ぼしていたし、さらに、1689年から、 1697年までアウグスブルグ同盟戦争が続き、1701年から、 1713年までスペイン継承戦争が続くというように [63]、1662年印刷法の廃止から、 1709年アン制定法までの期間はむしろ、 言論統制が必要とされそうな状態だったとも言えたのである。 1689年以降の議会はトーリー党穏健派の支配するところであり、 政府攻撃を行うホイッグ側の小冊子は検閲で抑圧された。また、宗教的権威、 すなわちカンタベリー大司教およびロンドン司教は、 相変わらず高教会派的な出版物しか許可しないという状況が続いていた。 しかしながら、最も問題とされたのは、 トーリー党右派であるジャコバイトのウィリアム王批判であり、1692年前後には、 この誹謗(libel) を抑制するための摘発が活発に行われた [64]。 しかしながら、トーリー党がアウグスブルグ同盟戦争の遂行に失敗すると、 議会はホイッグ党の勢力が伸長し、トーリー党側検閲官は、 ホイッグ党過激派の攻撃にさらされた [65]。 そして1693年にはトーリー党的検閲に対するホイッグ党の反感が高まり、 ホイッグ党はトーリー側の検閲官の追い落としに失敗すると、 検閲制度自体の廃止を主張するようになったのである [66]。 また、 この時期には印刷法を攻撃する小冊子が多数刊行されていた [67]。 これらの知識人階級からの検閲制度への批判のなかでも、 議会に最も影響を与えたと思われるものが、 ロックが彼の友人である貴族院議員クラーク(Edward Clarke) [68] にあてた書簡である [69]。 以下に該当部分を掲げる。
さらに1693年2月、 印刷法の規定によって違法とされていた書籍業カンパニーに属さない独立系の書籍業 者たちから、 印刷法の延長に反対する請願が議会に提出されている [71]。 このことからも書籍業カンパニーに属さない出版業者勢力の伸長がみてとれる。 彼らは印刷法を盾にした書籍業カンパニーの「営業独占」を批判しているのである。 しかし、フランスの脅威が続く不穏な世相では、 この印刷法への攻撃はフランスとジャコバイトの陰謀である、 との内容の小冊子が出版されるなど [72]、 印刷法の延長をめぐる状況は混沌としていたのである。そのため、 多数の人々の反対にも関わらず、 1693年2月に庶民院において僅差で印刷法の延長が可決され、 3月に貴族院で修正を受けたのち承認された。このとき、 出版物に著作者と出版者の名前が記載されていれば、 検閲を免除しようという修正案が出されたが拒否されている [73]。また、11人の貴族院議員は、 検閲官の無能力と恣意的判断のため、 著作者の著作物についての権利が無に帰せられているとして反対している [74]。これらはミルトンの 『アレオパギティカ』に見られる検閲制度批判に沿ったものである。しかしながら、 結果的には 1693年の印刷法更新では、 書籍業カンパニーなどの諸特権については変動がないものとされた [75]。 このようにして、印刷法を廃止しようというロックの願いは実現しなかったが、 彼は1693年5月に再びクラークに手紙を書き [76]、 印刷法の廃止に向けて議会のホイッグ党宮廷派(Court Whig) 議員に働きかけをはじめた [77]。 1694年11月には庶民院で、その会期に失効する法律を検討する委員会が組織され、 そのなかで印刷法も検討された。この委員会にはクラークも参加していた。 ロックは 1662年印刷法の条文に批判的コメントを付した「覚え書き」 [78]をクラークに送付し、 この委員会の議論に影響を与えたと思われる [79]。 ロックが議会に及ぼしていた影響力は、 彼自身とホイッグ党議員クラークとホイッグ党の宣伝者であり法律家であるフレーク (John Freke)の三人で主宰していた知的サロンである“College” を通じたものであり [80]、また、 このサロンには大法官サマーズ(John Somers) [81]も参加していた。この “College”の影響力は、 1695年にはホイッグ党宮廷派全員とその他の有力者数人に及んでいた [82] といわれている。そして、 ロックが顧問となった貨幣改鋳とイングランド銀行の設立を通じて、 トーリー党穏健派もまたロックと親しかったのである。 1694年の庶民院委員会は1695年1月に最終答申を庶民院に送った。 庶民院は四回の討議の末、印刷法の更新を否決した。そして1695年2月 「印刷と印刷所の適正な規制に関する法案検討委員会(以下、「印刷法委員会」)」 を指名した [83]。 これが印刷法の最終的な失効であり、以後、 ようやくコピーライトが独立の課題として検討されるようになるのである [84]。 印刷法の失効が確定すると、直ちに書籍業カンパニーの補佐役会は、 印刷法の復活に向けて活動することを決定し、委員を選定している。 そして庶民院で印刷法委員会が指名されたとの報に対応して、 新しい法律に書籍業カンパニーの権益を盛りこむべく、 カンパニーの幹部たちが活動するための予算が認められた。 結果的に3月2日に庶民院に提出された草案は、 カンパニーの諸特権を剥奪する内容であったものの、検閲制度を残しているうえに、 コピーライト保護について何らの規定もおいていなかった。 ロックの議会に与えた影響が、 出版業独占の排除を中心として理解されていたことがわかる [85]。1695年の段階では、 宮廷と教会が印刷法の現状のままの存続を望んでおり、トーリー党はもちろんの事、 ホイッグ党も、 政府攻撃に対抗するための何らかの言論統制手段を必要と考えていた [86]。 このことが検閲制度が残留している理由であろうと思われる。 この草案を審議する第二読会で、宮廷、教会、 書籍業カンパニーの三者から激しい反対意見が出され、 それぞれが既得権の保護を訴えている。その議論の中で、 財産権の保障を確保せよとの要求が持ち上がって来るのである。書籍業カンパニーは、 自分たちの登記簿を法的に承認することで、財産権(すなわちコピーライト) の処理に関する権限を認めることと、この法律の運用に関して、 書籍業カンパニーの命令が効力を持ち得るようにすることを要求している。ここでは、 尊重されるべき「財産権の保障」を根拠にして、 カンパニーが営業統制権を維持することが正当化されているのである [87]。 ロックは書簡 [88] の中で、 著作者の権利(authors' right)についてとくに言及し、 次のような条項を盛りこむように提案している。まず、(1) 著作者の許可なく出版物に著作者の名前を掲げた出版者は、 印刷された全ての出版物を没収され、著作者に与えられるべきだとし、(2) 新しい出版物が指定された機関に納本された場合、王室司書(King's Librarian) および大学副学長(Vice-Chancellor)が認証(certification)を発行し、 これによって最初の版が出版されてから特定の年限をもって、 著作者にその出版物の独占再版権(sole right to reprint these books) を帰属 (vest)させる [89] ことが適当だというのである。 ここで重要なのは、提案されている「著作者の権利」が「独占再版権」であることと、 それが認証によって著作者に「帰属」するということである。 ロックが示している著作者の権利とは、この提案を見る限り、 創作行為から自然権として生じる所有権ではなく、 法律の規定によって生じる財産権であることがわかる。仮に彼が著作者の権利を、 『市民政府論』 で展開したような自然権に由来する権利であると認識していたならば [90]、 認証によって帰属させる仕組みを採らないだろうし、また、 再版権ではなく第1版からの排他的独占権を提唱したはずである。 ロックがそうしなかったのは、 当時の出版業界の状態を現実的に把握していたからだろう。 第1版からの排他的独占権を著作者に帰属させれば、 出版者は経営的に旨味の少ない種類の書籍の出版に乗り出さなくおそれがあるし、 そもそも、そのような排他的独占権を交渉力の小さな著作者に与えたところで、 有効に機能しない事が考えられる。しかし、独占再版権であれば、 再版が検討されている段階で、すでにその出版は成功しているのであり、 著作者は十分に交渉力を高めている。しかも、出版業者は第1版の出版によって、 すでにある程度の収益を獲得しているのである。また、 実際には占有不能な著作物については何らかの認証機関が存在しなければ、 権利の行使の場面で混乱が生じる。彼は以上のことを考慮したのではないか。 この場合に、王室司書と副学長を認証機関としたのは、 彼が書籍業カンパニーを信用していなかったからに違いない。 このロックの提案に応じて、 フレークは彼の提案を法案に盛りこむことを約束しているが、 法案自体は既得権者たちの反対にさらされており、 成立は難しいとの見方を示している [91]。また、 委員会の構成員たちのほとんどは、財産権の問題については通常の法的手続き、 すなわち人的財産の法理で処理されれば十分であると考えていたのである [92]。 この草案の第二読会の後、3月30日に書籍業カンパニーから請願が提出されている。 それは、この草案が「版についての権利」(rights in copies) を保護していないことを批判するものだった。さらに同日、 印刷職人たちからも請願が提出されている。 そこでは印刷親方の数と徒弟の数を制限するように求めている。つづいて、 4月2日に大手出版者クックリル(Thomas Cockerill)は、 この時期に抬頭したトーリー党穏健派の政治家ハーリー(Robert Harley)に、 書籍業カンパニーの登記簿へのコピーライトの登録手続を、 永久のコピーライトの基礎として草案に盛りこむように要求している [93]。 おそらくは書籍業カンパニーの運動の結果と思われるが、 書籍業カンパニーの請願の数日後の4月9日には、貴族院全院委員会 (Commitee of the Whole House of Lords)で、 いくつかの法律の更新に関する動議の中に印刷法の復活が盛りこまれ、 庶民院に送られている。ところが、4月12日に庶民院は、 印刷法の復活に関する部分を除いて可決した。この印刷法復活法案否決について、 クラークが18日に庶民院に出向いて説明を受けている。この会合では、 印刷法の復活を撤回することで貴族院が譲歩した [94]。結局、 この印刷法の復活をめぐる一連の審議で、 ロックが提案したようなコピーライトについての言及はなされなかったし、 出版特権の保護に関する問題についても解決を見なかった [95]。 この議会で、数々の試みにも関わらず印刷法が復活しなかったのは、 印刷の自由を求める庶民院の努力によるというよりも、東インド・ カンパニー疑獄による議会の紛糾が理由であるとも、 印刷法草案に盛りこまれた罰金刑が実質的に税の機能を果たし、このことが、 庶民院に専属すると考えられた予算編成権を脅かす事になる、 と考えられたからであるとも言われる [96]。しかし、この論戦を通じて、 印刷に関する法律の中心課題が、 出版活動から生じる経済的利益に関するものであることが、 ようやく認識されるようになったのである。 第二議会は10月11日に解散され、11月26日には第三議会が召集された。ここでも再び、 ハーリーとクラークが「印刷と印刷所の規制に関する法案」 (Bill for the regulating of Printing and the Printing Presses) 作成のために指名された。直ちに草案が提出され、 11月から12月にかけて審議された [97]。 その内容は次の通り。
1695年12月2日の書簡で、 ロックはこの法案について満足の意をクラークに伝えている [99]。しかし、 この草案は折衷的な内容だったため、 既得権者たちおよび改革論者たち双方からの攻撃を受けることになった。 攻撃の内容はブリストル、エクセター両都市にまで印刷所を開設し、 さらに草案に何らの職人資格制限の規定がなかったことから、 職業独占の既得権が失われるというものだった。また、 印刷に関する独占を廃止することで、 国王の印刷についての大権が失われることへの抵抗も大きかった。 大学も古来からの特権を失うことに反対した [100]。また、 書籍業カンパニーは、 自分たちの財産の存続が年数によって制限されることに反対した [101]。 年が改まった1696年1月、失効する法律の検討委員会が再び組織され、 検討される法律の中に印刷法も含まれていた。また、 印刷に関する新しい法案を準備する委員会も3月まで存続した。 3月に庶民院の失効法律検討委員会からの答申には、 印刷法の復活に関する項目もあったが、庶民院は印刷法の復活を否決し、 この議会が終了する4月まで何らの検討もなされなかった [102]。 印刷法が否決された背景には、しばしば世論誘導を図っていた官報に対抗して、 自分たちの意見を世に明らかにするために、ホイッグ党若手たちが、 独立の新しい新聞を創刊しようと考えていたこともあるという [103]。 出版に対する政府の態度の変化は、トーリー党の実力者ハーリーによく現れている。 ハーリーは政治家として報道の重要性に着目した最初の人物であり、 彼は常に世論の動向に気を配り、情報収集のために公費、私費を注ぎこんでいた。 彼は1702年頃、すでに印刷法の復活は不要のものとなった、と語っている。 その理由は、誹謗の問題を解決するための十分な「権威」 ができあがっているからだというのである [104]。それは、 著しい政府攻撃に対する議会での議会侮辱(contempt of legislature) による訴追である [105]。 彼はこの議会侮辱罪を活用して、 政府を攻撃する執筆者たちを次々に訴追したのである。 さらに、ハーリーは自己の政策の宣伝にも乗り出し、 彼の政策を有利にする小冊子を出版させるために文筆家を雇っていた。 その一人が人気作家ディフォー(Daniel Defoe) だった [106]。1703年11月に、 ハーリーは誹謗罪で投獄されていたディフォーを出獄させ、 自分の宣伝者としてディフォーを活用するようになるのである。この出獄の直後、 ディフォーは印刷に関する小冊子『印刷の規制に関する小論』 (An Essay on the Regulation of the Press) [107]を出版している。 誹謗罪で投獄されていた直後に出版されたものであること、 彼がハーリーの宣伝者として救われたことを考慮するならば、 この小冊子で主張されている内容が、 少なくともハーリーの意思に反するものでないことがいえるし、 かなりの信憑性をもって、 ハーリーが率いていたトーリー党穏健派の意見を代弁しているものだと推測すること ができる。 この小冊子の中で、ディフォーは版を「著作者の財産」として把握している。そして、 海賊版出版を「著作者からの窃盗」と表現していることからわかるように、 出版者たちの営業利益を侵害する行為が、 著作者の経済的利益を侵害するものであると認識している。さらに、 海賊版がもたらす害悪として、 本の内容が不当に改変され著作者たちの努力を損なうという点を挙げている。 これは作品そのものについての著作者の支配権を主張したものである。 以上のことから、「著作者の権利」 として著作財産権および著作者人格権の両方が主張されていることがわかる。 以上の認識に基づいて、ディフォーは、 著作者が自らの作品について排他的権利を持つことができるよう、 出版物に著作者の氏名を記載することを義務づける法律を作るべきだと主張している。 彼は、この法律の性格を「著作者に与える特許」であるとしている。すなわち、 コピーライトは基本的には「著作者の財産権」であるのだが、 それを保護する場合には「特許」で行うとしているのである。この「財産権」と 「特許」の関係は、1709年制定法にも現れることになる。さらに、最後の部分で、 誹謗文書を法律によって抑制することが不可能であることが示されている。 ディフォーのこの認識は、おそらく政府でも、同様だったと思われる。 以上のことから1704年当時、1709年制定法の基礎条件となった(1) 出版統制とコピーライトの分離、および (2)コピーライトを「著作者の権利」 として把握する考え方、および(3)「財産権」としてのコピーライトを「特許」 で保護するという手法が、 議会の周辺である程度の一般性をもって認識されていたことがうかがわれるのである。 (つづく) Note
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |