「奴隷」といいますと、
報酬も受けずに鞭で打たれながら激しい労働を強いられる人々という印象があります。
実際そうした扱いを受けて亡くなっていった人々は多数います。しかしながら、
そうばかりでもなかったようです。
奴隷に対して責任を持って彼らの幸福について努力・考慮した主人もいたようですし、
かつてのアメリカでも奴隷解放がされたあとも自発的に主人のもとに「使用人」
として止まった奴隷もいたようです。また逆に、主人のもとをはなれたが故に、
より厳しい生活状況に陥ってしまった人たちもいたようです。 非情な経済原則にもとにある社会において、 その経済原則を理解して自らの意思と努力で対応していくことは、 それぞれの個人にとってかなりの負担です。私たちはできるならば、信頼できる 「大いなる存在」 に帰依してその存在の示すままに従うことで幸福が得られないものか、と考えます。 その「大いなる存在」としては、かつては宗教や地域共同体等が、 現在ではそれに加えて企業が挙げられるでしょう。それらの「大いなる存在」 は社会で荒れ狂う嵐を遮り、内部に安らかな港を作り出します。そして 「大いなる存在」はそうした安らかな港を人々に与えることで、 ますますその力を増していくのです。 誰もがそうした安らかな港の中で一生を終えたいものだと考えるでしょう。 私もそうです。 しかし、そのためには「大いなる存在」に従属しなければなりません。 「大いなる存在」の示す価値や規範に従うことで、私たちは「大いなる存在」 のもとにいることができるのです。また「大いなる存在」に奉仕することでのみ、 その福利にあずかることができます。一方、「大いなる存在」 が依拠しているような価値体系、論理体系に反することは、 その安らかな港を離れる覚悟を必要とします。 すると、私たちはそうした価値や規範について疑うことなく、 無批判に受け入れることがもっとも望ましいということになります。なぜなら、 疑うこと批判することは大変な精神的・肉体的努力を必要とするからです。 みずからの幸福と安全を脅かすことを、 わざわざ努力して行うのは愚者の行為に他ならないでしょう。 最近の若者が「無気力で無批判だ」と言われていますが、 こうした観点から見ると実に理にかなった行為です。 疑っても批判してもなにも事態はかわらず、しかも自分が損をするのならば、 勉強などして要らぬ知恵を付ける必要はありません。「世渡り」と 「仲間から排除されない人間関係」について学ぶ方がよほど意義があります。自ら 「大いなる存在」たりえない私たち凡人にとっては、 積極的に従属者になることが私たちの幸福にとって最も確実な近道なのです。また、 こうした積極的に従属者になってくれる人々が多いということは、「大いなる存在」 にとっても好都合です。 労せずして人々が我も我もとやってきて自らの勢力の基盤を強化してくれるからです。 なんと幸福な相互関係でしょう! 「大いなる存在」が永遠に安泰であるならば、 私たちは積極的に従属者として仕えることのみを専心すれば、 かならず幸福が得られます。しかし、栄者必衰の歴史が示すように、「大いなる存在」 もまた完全ではなく永遠でもありません。「大いなる存在」が その従属者に十分な幸福を与える力を失ったり、それ自体が消えてなくなったとき、 従属者には社会の荒波が直に打ち寄せてきます。 それまで安らかな港でうろうろとしているだけだった私たちには、 その荒波はことのほか厳しいものに感じられるでしょう。 さて、我が国の現状を見ますと既存の「大いなる存在」 が揺らいでいるかのようにみえます。 多くの人々が防波堤を越えて打ち寄せる経済原則の荒波に脅えているようにみえます。 幾度も「大いなる存在」の台頭と崩壊を経験してきた国、また、 そうした歴史的事実の反省に立っている国は、ある「大いなる存在」 が倒れた後に弱い従属者たちを導くことのできる 別の「大いなる存在」の芽を常に準備しています。 それは異なった考え方に対する寛容や、少数者の尊重として現れています。一方、 日本の社会は日本株式会社ともいわれる同質性でもって調和と均衡を維持してきまし た。それは、より高い水準の繁栄と安全をもたらすものとして私たちの誇りでした。 しかし、その過程で多くの「異質」な存在が排除されてきました。私たちは「次」 の準備をしてこなかったのです。 「次」の準備を怠った私たちは、これからしばらくの間、 自らの力で荒波を乗り切ることを要求されるでしょう。 こうした荒波を自力で乗り切るためには社会の仕組みを理解し、情報を集め、 的確に判断し、行動に移す、という思考力・判断力・批判力・ 実行力を備えなければなりません。 実はこうした資質を備えた人々を西洋近代の考え方では「市民」というのです。 「大いなる存在」が揺らいでいるかのような今、かつての大政翼賛体制のように、 「大いなる存在」を支えるためにより一層の従属的奉仕と団結を強化するのも一つの方向です。また、 ここに従属者としての幸福の真骨頂があるのかもしれません。しかし私は、 そろそろ日本でも「市民」を基本とする社会、そして「次」 を常に準備しておく社会に移行しても良いのではないかと考えます。 私たちは、もう既に何度も失敗しています。そろそろ、 「大いなる存在」をあてにして甘える幸福から決別する時期ではないでしょうか。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |