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いかに私がレッシグの議論をつかって日本の世論をコントロールするか

白田 秀彰

この解説文のβ版については、「ロージナ茶会」のメンバーの学生諸君および数人の友人・知人にチェックをお願いし、有益な指摘を多数いただきました。とても感謝感激です。ありがとうございました。もちろん、この文章中にある間違いや誤解は、私が責任を負うべきところです。

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0 はじめにのはじめに

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7月の末のある日、職場のロッカーの中に分厚い書籍小包が入ってた。 一目でなんだかわかった。

「キター!━━(゚∀゚)━( ゚∀)━(  ゚)━(  )━(  )━(゚  )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━!!!!! 」

と感謝しつつ梱包を解きましたが、「これ、やっぱりまた解説つけるんだよな > 俺。」と思うと本の重みがズッシリときた。 これを8月の避暑先に持っていって、だいたい3日くらいで読み終えたわけです。

今年サバティカルを頂いた私は、昨年からの懸案であるプライバシーに関するまとまった文書を書こうと勉強している最中でした。ですから、またまた前回と同じように、頭の切り替えが必要かなぁ、と思っていたのですが、『Free Culture』は、それまでの『CODE』や『コモンズ』の焼き直しという面と、かなり政治的なプロパガンダという面があって、読むのに苦労しなかった。主張は明確だし。

だから、また解説なんかつけなくてもいいんじゃないか、と思ったけど、最近「様式美」がロージナ茶会内部でのはやりで、「様式美研究会」 なるものも あるやらないやらという状況なので、「様式美」としてやらなければならんでしょう!と決意しました。バナーも作ってしまったし。

これを書きながら、山形さんの部室を見てたら、前回に引き続き、池田先生と山形さんの間でなにやらありそうな雰囲気。そこで池田先生のブログの該当記事を読んだら... あいたたた。 私が今回、注釈をつけるにあたって、書籍の該当部分を手で抜き出す作業にウンザリしたので、山形さん本人から『Free Culture』のTeX原稿をいただいた。そのときすでに136ページまで手で打ってたんだよ。自分に「君はアホだが偉いぞ」 と言ってあげたい。

で、そのTeX原稿の冒頭には、はっきりと山形さんがタイトルも日本語にしていた証拠がついてる。ここで引用するね。

\title{文化に自由を \\ 文化を押さえつけて創造性を支配する大手メディアの法とテクノロジー \\ Free Culture: How Big Media Uses Technology and the Law to Lock Down Culture and Control Creativity}
だから池田先生の言うマナーの問題は山形さんの問題じゃないと思う。私は池田先生は立派な人だと思うし、お世話にもなった。だからこそ、池田先生には瑣末なことで評判を落とすようなことはしてほしくない。実力があるんだから、他人の事ばかり気にするのはつまらない。地上波デジタルの問題とか、メディアの集中の問題とか、ネットワーク事業の未来とか、やってもらう仕事は山ほどある。池田先生ほどの人なら、どこでだって仕事はできると思う。

いま、GLOCOM という研究機関と池田先生の間にトラブルがある。つい この間も私は GLOCOM の研究会に参加したんだけど、いま GLOCOM は愉快な若手たちがどんどん登用されて、昔のようなエラソーで取り澄ました感じがなくなって、まるで大学のサークルみたいになってる。それがいいことのなのか、うまくいくのか わからない。でも、ものすごく楽しいところになってる。こんなに フランクに議論ができて、知的なギャグが通用する集団を私は他に知らない (もちろん私の世界が狭いことは認めます)。そして、そこの若手たちは、きっと次世代の論客として立派な人たちになっていくんだと私は確信する。だから、池田先生と原告の先生たちは、もう若手に GLOCOM を譲るときなんだと思う。

私も もうすぐそうなるんだけど、... いや、もうなってるのかな ... オッサンやジイサンの仕事は、若手のために席を作って、その席を譲ることなんだ。 それでいて、その若手がポカしたときに、頭を下げて腹を切るのも仕事。だから、オッサンやジイサンは「偉い」んだ。

次のレッシグ先生の作品への注釈は、誰か元気のある若い人にやってもらいたいな。

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1 はじめに

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p. 8 「ここで論じた伝統はアメリカの歴史のほとんどを通じて存在していたけれど、 でもそれはアメリカ以外の文化で実に生き生きと息づいているからだ。 日本を含むそうした文化から、 アメリカは何かを学べるはずだと思う。 そして課題となっているものの重要性を考えたとき、 それはなるべく早急に学ばれる必要があるのだ。 」

これ、 わかってて書いてるウソだと思うんだけど。 じゃなければ、 日本をネタにしたポリシー・ロンダリング。 「アメリカ以外の国では、 自由な文化が息づいていて、 アメリカを規制だらけの文化にしたら、 国際競争で負けるぞ」という主張が言外にあるように思われるんだけど、 日本の文化が決してレッシグが言うような「自由文化」でないことは明らか。 でなければ、 才能のあるクリエータがアメリカに逃げてくはずがないじゃない。

日本のクリエータ界には「法律、 法律、 権利、 権利」と迫ってくる弁護士は まだ少ないけど、 業界とか仲間内とかにボスがいたり、 シキタリがあったりして、 それが法律とは別の方法でさまざまな制限や規制をかけてくる。 そのヘンテコな規範の力は、 法律と同じくらい強い。 法律に基づいて圧力をかけてくるアメリカのほうがフェアなのかもしれない。

p. 10 「自由な文化は、 クリエータや革新者たちを支持して保護する。 直接的にはね、 これは知的財産権を与えることで行われる。 でも間接的には、 相違した権利の範囲を制限して、 後続のクリエータや革新者たちが、 過去のコントロールからできるだけ自由でいられるようにすることでも保護を行う。 ... フリーな文化の反対は「許認可の文化」となる --- これはクリエータたちが、 強い権限を持った人々や過去のクリエータたちの許認可がないと創造できない文化だ。 」

「許認可の文化」について、 レッシグ先生は後の部分で、 「封建制」という表現をつかう。 これ、 私も同じように書いたことがあるんで、 ちょっとビックリした。 私が書いた「知的財産権と封建制について」 というHotWiredの記事を読んでみて。

p. 11 「これは反保守派じみているだろうか? 私にはそう思えない。 権力の集中 --- それが政治的であれ、 企業であれ、 メディアであれ、 文化であれ、 --- は保守派の忌避すべきものだ。 局所的なコントロールを通じた権力の分散と、 それによる個人参加の奨励は、 連邦主義の本質だし、 民主主義の最高の表現でもある。 」

自分たちの都合で伝統や歴史を曲解して、 自分たちの都合の良い主張をするのは、 保守派でも革新派でもない。 たんなる利己主義者だ。 真の保守派には、 まず伝統や歴史への深い理解と真摯な敬意が必要だ。 いまの保守派政治家のうち、 どの程度が伝統や歴史についてしっかり学んでいるだろうか。 どうも日本の保守派というと、 江戸の武士文化と、 明治から戦前までを覆った武断的な文化のみを日本の伝統だと誤解しているフシがある。 どこかのオヤジ向け雑誌じゃないんだから、 ちゃんと勉強してほしい。

p. 14 「もし、 ブラックストーンやケントやコークが述べたように、 彼らの土地が「果てしない距離だけ上方まで」のびているなら、 政府はその土地を無断通行しているわけで、 ... 法廷は、 「古代の思想においては、 土地のコモン・ロー上の所有権は宇宙の果てまで続く」ということは認めた。 でもダグラス判事は、 古代の思想なんかに興味は示さなかった。 ...判決文で、 かれはこう書いた: ...

「そんな発想は常識的におかしい (Common sense revolts at the idea)」

p. 15 「...少なくとも変化に反対する側に強力な存在が誰もいないときには、 物事はこんな具合に起こる。 ... でも結局は、 他のみんなに「自明」と思われるものの力 --- 「常識」の力 --- が勝つ。 」

これについては、 私がHotWiredで書いた、 「法律の重みについてI」「II」 を読んでみて。 英米法の一番の基礎に「常識 common sense」がしっかりと存在することが理解できるだろうから。

pp. 16 -- 19 「エドウィン・ハワード・アームストロング ... は、 1954年に妻への短い遺書を書いてから、 13階の窓から踏み出して自殺した。 」

この人は、 真空管時代の無線とかラジオとかが好きな人には、 忘れられないヒーロー。 私も真空管マニアなところがあるから、 当然知ってた。 でも、 彼がFM技術でこんなひどい扱いを受けて死んだとは知らなかった。 デヴィッド・サーノフの名前も知ってた。 彼は、 無線技術を商業的に成立するラジオ*産業*にした功労者だけど、 権力を握るとこんなひどい事をする。 人間、 権力など持たないほうがいいということか。 権力の集中は常に悪だ。

著作権者に比較して、 発明者の知的努力が低く評価される理由が私にはわからない。 ネットワーク技術や複製技術を開発した人たちの努力、 その努力がもたらした可能性を、 著作権を握ってると自称する人たちの主張で、 いとも簡単に制限してしまえるのはなぜだろう。

p. 21 「アメリカ史の初め、 そしてアメリカの伝統のほぼ全期間を通じて、 非商業文化は基本的に無規制だった。 ... 通常の個人が自分たちの文化を共有し変化させる通常の方法 --- お話を語ったり、 お芝居やテレビの場面を再現したり、 ファンクラブに参加したり、 音楽を共有したり、 テープを作ったり --- は法には放っておかれた。 ... 法の焦点は商業活動だった。 最初はわずかに、 その後はかなり広範に、 法はクリエイティブな作品に独占権を与えることで、 クリエータのインセンティブを保護した。 」

これは私の著書を読んだ人なら、 すぐに理解できるはず。 しかも、 合衆国憲法は「言論への政府規制」を可能な限り避けようとする。 個人が事業者と同じような、 コンテンツ配布能力を持つ中で、 個人利用をまったくの自由にして良いとは言えないかもしれない。 とはいえ、 事業者の利益を守るため、 個人の自由利用を根絶やしにしようと狙うことは、 民主主義の前提から見て完全に誤ってる。

p. 22 「これはアーティストを保護するための保護主義ではないのだ。 商業文化と非商業文化の両方が作られ、 共有される方法を変えるインターネットの潜在力に脅かされた企業が、 手を組んで立法者たちに働きかけ、 自分たちの保護に法を使おうとしている。 」

p. 23 「この20世紀初期のラジオや19世紀鉄道の現代版たちは、 その力を使って、 このもっとも新しい高効率の活発な技術構築文化から身を守ろうとしている。 そしてかれらは、 インターネットがかれらを作り替える前にインターネットのほうを作り替えてやろうと計画して成功しているのだ。 」

レッシグ先生は既存産業の妨害を口を極めて批判している。 でも、 まだアメリカの産業側は、 インターネットがもたらす新しい世界についてちゃんと理解した上で、 その自律的な発展を抑制し、 自分たちの都合の良い世界を作るべく誘導しようとしているだけ、 まだマシかもしれない。 その行動は合理的だから、 彼らに一定の利益を提示できれば、 彼らは新しいシステムに妥協するだろう。 でも、 日本の既存産業側は、 次の時代がどのように変化するのかについて検討もせず、 見通しも持たず、 ただ自分たちの昔ながらのやり方を守ろうとしているだけに思える。 だから、 彼らの行動はアメリカのマネばかりだし、 頑なで妥協することができない。

日本の既存産業側は、 いっそのこと40歳以上のオジサンたちを取締役から一掃したらどうだろう。 そうすれば、 もう少し目端の利いた人が主導権を握って、 インターネットに対してマシなアプローチを取れるようになるだろう。

p. 24 「インターネットに対する法の反応は、 ... アメリカにおける創造性の実質的な規制をすさまじく強化した。 身の回りの文化を発展させたり、 批判したりするには、 まずオリヴァー・ツイストのように許可を求めなくてはならない。 許可はもちろん、 しばしば与えられる。 --- でも批判的な人や独立系の人には与えられないこともおおい。 われわれは一種の文化貴族を創ってしまった。 貴族階級内の人々は安楽に生きられる。 外の人は違う。 」

オリヴァー・ツイストってどこかで聞いたことがあるが、 誰だかわからなかった。 人名辞典で調べても出てこなかったけど、 こういう人だった。 平安時代の日本における貴族の数は150人くらいだったらしい。 文化人類学的にみても、 人間が自然に顔見知りとしての共同体を形成するのは150人くらいまでらしい。 ということは、 この「文化貴族」もきっと150人くらいになるんだろう。

p. 25 「わたしは、 この知的財産権という発想の力にますます驚かされてきたし、 そしてもっと重要なこととして、 それが政策立案者や市民の批判的な考え方をこれほどまでに疎外することにもますます驚かされてきた。 」

私は大学院生時代に、 知的財産権という概念自体が「なんだかオカシイ」と思ったので、 その歴史を追った。 その結果が『コピーライトの史的展開』になったわけだが、 その私もレッシグ先生のこの感慨に同意する。

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2 海賊行為

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p. 31 「分散知性」

いろいろと批判があるみたいだけど、 私は山形さんの訳が好きだ。 でも、 本書にはときどき謎の訳がある。 たとえば、 distributed intelligence を「分散知性」と訳されると、 日本語として「なんじゃそりゃ」と思ってしまう。 他にもぽちぽちそういう「なんじゃそりゃ」が見つかる。 でさ、 これを批判するんじゃなくて、 ネットの力で助け合うのがスジってもんでしょ。 ネットユーザーで、 「なんじゃそりゃ」と「誤字 / 誤変換」の訂正表をつくろうよ。 だれか場所(システム)提供して。 私の手元の本には、 かなりの数のチェックが入ってる。

p. 32創造的な作品には価値がある : 私が他人の創造的な仕事を使ったり転用したり材料にしたりするのは、 何か価値のあるものを取っていることになる。 誰かから価値のあるものを取るときには、 相手の許可がいる。 許可なしに誰かから価値あるものを取るのはまちがっている。 それは海賊行為の一種だ。 ... (この) 「価値あるところに権利あり」理論がアメリカにおける創造的財産の理論であったことは一度もない。 アメリカの法律には決して根付かなかった考え方だ。

むしろアメリカの伝統では、 知的財産は道具でしかない。 それは豊かな創造性を持つ社会の基盤をつくるけど、 創造性の価値に対しては従属的な立場でしかない。 現在の議論はこれをひっくり返してしまっている。 我々は道具の保護にばかり気を取られて、 価値のほうを見失っている。 」

「価値あるところに権利あり」理論は、 自然からの採集・収奪や無主物の先占によって財産権が発生するとする理論と組み合わさるとズルい結果になる。 だって天然資源や無主の財産は、 莫大な価値を持ちうるにも関わらず、 誰にも支払いをせずに最初に手に入れた人間の権利になってしまうから。

道具のことばかりに気を取られて、 価値のほうを見失う、 ってのはよくあることで、 金にばかり気を取られて幸せを見失うとか、 ハイヒールにばかり気を取られて女性には興味がないとか... 良くない例だ... 手段のためなら目的を選ばないというか、 そういうことだね。

p. 33 「著作権は、 その誕生時には刊行のことしか扱わなかった。 今日の著作権法はその両方を規制する。

... 刊行技術は高価だった。 ということは、 刊行のほとんどは商議用目的だということだ。 商業組織は法の重荷を負担できる。 ... でも、 インターネットの誕生と共に、 この法の範疇に関する自然な限界は消えた。 法は商業クリエータの創造性だけでなく、 実質的に万人の想像力をも規制する。 」

このあたりの議論は、 同書の後の部分でも詳しく展開される。 ずいぶん以前から、 私がいちばん懸念して批判しているのが、 この「著作権がある知識や情報の使い方を万人に強制するための道具として機能してしまう」という点。 なぜだか著作権法の専門家は「そんなことはありえない」と一蹴するんだけど、 少なくともレッシグ先生は私と同じ意見だと知ると、 私もすこし自信がついてくる。

こういう著作権の否定的な作用が生じないようにするためには、 本当の意味で「表現」の部分のみを法で保護するように運用すべきなんだが、 今の傾向としては、 著作物であればできる限り強く保護すべきだという方向になってる。

国が推し進めている「知的財産戦略」というのが、 単に「知財、 知財」と騒いで金を互いにムシり取り合うことなら、 戦略の名にも値しない。 情報の流通を円滑化させて、 国民全体の創造性を高めるために法の設計をどうするかを考えるのが「戦略」だろう。 なんだか、 「知財弁護士を増やせばいい」みたいな単細胞な論議をしているというような話を聞くんだけど本気なんだろうか。

2.1 クリエータ

p. 40--42 「法律家の視点からするとずいぶん奇妙なマンガの変種について語ることだ。 ... それは同人誌という現象だ。

... 同人誌市場の一番不思議な特徴は、 それがそもそも少しでも存在を許されているということだ。

... 日本の法律でもアメリカの法律でも、 原著作権保持者の許可なしに「拝借する」のは違法だ。 原著作権保持者の許可なしに、 複製したら派生作品を作ったりするのは、 もとの著作権の侵害になる。

... この自由放任反応を生み出しているメカニズムがはっきりしない ... 結局のところ一番いい説明をしてくれたのは、 日本の大手法律事務所に勤める友人だった。 ある午後、 彼はこう語った。 「日本には弁護士が十分にいないんですよ。 こんな事件を訴追するだけの余裕がないんです」」

同人誌にものすごく関心のある皆さんが、 一番関心を持つだろう部分は、 同書のこのあたり。 もし、 レッシグ先生のお友達の意見が正しいとすれば、 知財弁護士の大量投入と同時に、 同人誌市場での大量の訴訟が発生し、 そして同人誌文化は消え、 日本のマンガ文化も素敵なアメリカン・コミック文化と融合し、 めでたくグローバル化を達成するということになるんだろう。 ... 私はアメ・コミを読まないんだが、 おもしろいんですか?

p. 45 「フリーな文化は、 他の人が足がかりにできるようにかなりのものをオープンにしておいてくれる文化だ。 不自由文化、 あるいは許可文化は、 オープンにする部分がずっと少ない。 われわれの文化は、 昔はフリー文化だった。 いま、 それがだんだんそうでなくなりつつある。 」

2.2 ただの猿まね屋

p. 47 「実は全米ダゲール協会なんてものさえあって、 それがこの手の協会の常として業界の規制に荷担し、 競争を抑えて価格を吊り上げていた。 」

そうか。 だいたい○○協会ってのは、 そういうものなのか。 人間は群れになると恥を忘れてしまいがちだね。

p. 49 「コダックカメラやフィルムは、 表現の技術だった。 鉛筆や絵筆もまた表現の技術には違いない。 でも、 アマチュアが、 使い物になる有効な形でそれを活用するには何年もの訓練が必要だ。 コダックだと、 表現はずっと手早く簡単にできる。 ... 民主的なツールは、 それまでのどんな技術よりも、 普通の人たちがずっと容易に自分を表現する手段を与えた。 」

「民主的なツールは... 普通の人たち ... 手段を与えた」と言うところにピンときた。 ツールは工学的なものばかりじゃない。 世の中には、 複雑で難しくて専門家でなければできないと思われていることがいっぱいある。 でも、 それはダゲール協会みたいなものなのかもしれないよ。 簡単なことを難しく偉そうにやって生活している人たちは、 けっこうたくさんいる。 普通の人たちが大抵のことをできるようにすることが民主的ということであり、 また、 そういう人たちに支えられる民主政体がもっとも強固だということ。

私たちが普通にしている「文字の読み書き」というツールも、 何百年か昔だったら、 神官だけが独占していた特殊技能だった。 ちゃんとした教育と技術の助けがあれば、 私たちはもっとマシな存在に成長できる。 それを妨害しようとするのは、 「協会」的アプローチだ。

p. 50 「後に最高裁判事となるルイス・ブランダイスは、 私的空間の画像については別の規則が適用されるべきだと考えた。 ... (1) 法はやがて、 有名人については例外規定を盛り込む。 商業目的で有名人の写真を撮る商業写真家たちは、 他のみんなよりも制限がきつい。 でも一般的な場合には、 画像は権利をクリアしなくても撮影できる。 ... (2)」

(1)については、 「もう一つのプライバシーの話」の「メディアとプライバシー」のあたりを読んでみて。 ようするにプライバシーの話。 (2)については、 いわゆる「パブリシティの権利」の話。 自ら望んで有名であろうとする人、 たとえば芸能人やスポーツ選手には、 その肖像や名声から発生する経済的利益を維持するための権利があるんだ、 というのが「パブリシティの権利」。 でも、 日本では、 そういう権利に関する法律があったり、 そうした権利が確定しているわけではない。 主張はされていて、 ある程度認められているけど。

アメリカの考え方では、 プライバシーとパブリシティはシーソーのような関係にあるようにみえる。 私人として「人に知られない生活」を選んだ人には、 幅広いプライバシーの保護が与えられる。 でも、 本人の明示あるいは黙示の行動によって、 「人に知られる生活」を選ぶと、 だんだんとパブリシティの権利が認められる余地がでてくる。 それと反比例して、 プライバシーの権利は認められなくなっていく。 どんなに有名人であっても、 私的生活の核としてのプライバシーはなくなってしまうことはないけど、 その範囲はものすごく狭い。

ところが、 プライバシーの歴史をみると、 どうも最初のプライバシーは、 今で言う、 パブリシティの権利に近い考え方だったらしい様子もある。 この点については、 新保先生の『プライバシーの権利の生成と展開』とか、 それに依拠して書かれた私の HotWiredの記事でも参照してみて。 プライバシーの権利ってのは、 ずいぶんあやふやなんですよ。

pp. 50 -- 51 「 ... コダックも写真家たちによる「肖像権」侵害で儲けていることになる。 そうなったら、 ある会社が写真を現像する前に何らかの許可が示されることが必要だという法律ができることも考えられる。 その許可を明示するためのシステムが発達したかもしれない。 ... でも一般人に写真が広がることはなかっただろう。 今のような成長はありえなかっただろう。 」

このあたりもおもしろい。 法律の理屈というのは、 弄くればどうにでもなる。 「理屈と膏薬はどこにでもつく」という、 もはや死語に近づいたような格言があるけど、 まさにそんな感じ。

法律の理屈だけで考えれば、 たとえば、 刃物で人が死ぬ可能性があるし、 実際に年間何万にもの人が怪我をしたり死んだりしているわけ。 だから、 その法的責任をまっとうさせるため、 包丁やカッターの販売所持を警察による許可制にするとか、 第一種刃物使用従事者資格試験とかつくって試験で儲けるとか、 社団法人日本刃物協会とかつくって、 天下り先を確保するとか、 できる。 でも、 それを「アホらしいからほっとけ」とするのが法の英知というもの。 この「法の英知」、 すなわち「健全な常識」を備えない弁護士やら法律家を大量生産することが法律教育の目的であるなら、 21世紀後半の日本は、 とても滑稽で愉快な国になってると思うよ。 ... もうなってるか。

p. 54私の観点からすると、 一番重要なデジタルデバイドは、 箱へのアクセスじゃないんです。 それはその箱が機能するときに使われている言語の力を掌握する能力です。 さもないと、 この言語で何か表現できるのはごく少数の人になって、 その他全員は一方的に読むだけの存在に成り下がってしまいます。 「読むだけ」。 よそで作られた文化を受動的に受けるだけの存在。 カウチポテト。 消費者。 これは20世紀のメディアの世界だ。 」

だから、 この受動的な人間を変えることが、 よりマシな21世紀のあり方の基礎になる。 私たちが消費者から脱して、 自分の表現ツールで考え、 表現する能力を *爆発的* に拡大しなければ、 私たちは先に進むことできない。 法は、 それを促進する力になるのか? それともそれを邪魔するだけのものになるのか?

p. 58 「アメリカでは、 ブログはまったく別の意味を持つに至った。 単に私生活について語るためにこの空間を使う人もいる。 でも多くの人は、 この空間を公開対話のために使っている。 公共的に重要な話題を議論し、 見方のまちがっている人々を批判し、 政治家の意思決定を批判し、 みんなの見ている問題に解決策を提案する。 」

p. 59 「アメリカの民主主義が衰退してしまった... もちろん選挙はあるし、 ほとんどの場合、 法廷はその投票が有効だと認める。 こうした選挙で投票する人の数は相対的に少ない。 こうした選挙のサイクルは、 完全に専門化され、 ルーチン化してしまった。 われわれのほとんどは、 それが民主主義だと思ってる。

でも、 民主主義は、 もともと選挙だけの話じゃなかったのだ。 民主主義は人々による支配という意味だけれど、 でも支配というのはタダの選挙以上のものを意味する。 アメリカの伝統では、 それはまた理性的な対話を通じたコントロールということでもある。 」

私たち日本人は、 戦後にアメリカから民主主義の仕組みを移植された。 自分たちで選択したのか、 押し付けられたのか、 については議論があるだろう。 でも、 少なくとも確実にいえることは、 日本国憲法は、 アメリカ型民主主義のシステムを採用しているということだ。 でも、 システムだけを移植しても機能しない。 事実、 戦後ずっと紙に書かれた「システムとしての民主主義」と、 実態としての「民主主義のようなもの」にはズレがあった。 そこに一番欠けていたのが、 「理性的な対話を通じたコントロール」だと思う。

問題は、 「知的財産」か「自由利用」かではなくて、 まっとうな政治プロセスを進めるためにどのような法制度が必要なのか、 まっとうな政治プロセスを支えられる国民を維持するためにどのような情報流通環境が望ましいのか、 という大きな話のなかで「知的財産」なる概念をどのように位置付けられるかを考えること。 目先の利益のために、 商売のために、 もっと大事な社会基盤を損なってしまったら、 商売すらできない状態に陥ってしまう。

pp. 60 -- 61 「ブログ空間では、 政治の話をするなという規範は(まだ)ない。 むしろブログ空間は右寄りも左寄りも含め政治談義だらけだ。 ... ブログには他の方式のような商業的圧力が存在しないからだ。 テレビや新聞は商業組織だ。 関心を維持する努力が不可欠になる。 ... でもブロガーたちにはそんな制約はない。 粘着し、 集中して、 真剣になれる ... アマチュアジャーナリストには、 なんといっても利害衝突がないか、 あるいはその利害衝突が実に簡単に開示でき ... この衝突は、 メディアがますます集中化するにつれて重要性を増す。 集中したメディアは、 分散したメディアよりも人々からいろんなものを隠せる。 」

知的財産の文脈において、 あらゆる商業的メディアとジャーナリストは利害関係者だ。 だから、 彼らが、 真剣に知的財産という概念の暴走がもたらす衝撃について検討し、 これを国民に伝えることには、 ものすごい勇気がいるはず。 ときたま、 これをやる人たちがいる。 だから、 まだジャーナリズムは死んではいない。 でも、 商業的メディアの利害に関係する話題をちゃんと取り上げられるのは、 アマチュア・メディアなんだ。

だから、 知的財産の問題について道を切り開くのはアマチュアたちの仕事だ。 話は単に同人誌を作れるか作れないかとか、 MP3をばら撒けるかばら撒けないかというセセコマシイ問題じゃない。 問われているのは「自由主義」とか「民主主義」の問題なんだ。 もし、 この部分で、 やっぱりアマチュアたちが何もできないのなら、 民主主義という看板を下ろすことを考える時期だ。

p. 65 「 ... でも子供たちが身の回り至る所で見つかる画像をいじくる権利をもてるかどうかは大いに疑わしい。 法と、 そしてますますテクノロジーが、 テクノロジーや好奇心が確保したはずの自由を妨害するようになっている。

... 「われわれは今日のデジタルキッズの自然な性向を完全に抑圧する法体系を作っている。 (中略) われわれは、 脳の60パーセントを解放するアーキテクチャを作っていて、 そしてまさに脳のその部分を潰す法体系を作っている」」

テクノロジーを含む、 広い意味での「環境」が切り開いた可能性を十分に活用できなければ、 我々は「環境」の中で淘汰されるだろう。

2.3 カタログ

p. 71 「ジェシーはRIAAと戦うことはできる。 勝つことだってできるかもしれない。 でもこんな裁判を戦う費用は、 最低でも25万ドルはかかるぞ、 とジェシーは言われた。 勝っても、 そのお金は戻ってこない。 勝ったら、 買ったと書いた紙切れが手に入り、 同時にジェシーの一家が破産したことを告げる紙切れが手に入る。

だから、 ジェシーはマフィアじみた選択に直面した。 25万ドル払って勝ち目に賭けるか、 1万2千ドル払って和解するか。

レコード業界は、 これは法と道徳の問題なんだ、 と主張しつづける。 法はとりあえずおいといて、 道徳のほうを考えてみよう。 こんな訴訟のどこに道徳がある? スケープゴート作りに何の美徳がある? RIAAはきわめて強力なロビー活動ができる。 RIAA会長の給料は、 年百万ドル以上だという。 一方アーティストはろくな支払いを受けていない。 平均的なレコードアーティストは、 年に4万5900ドル稼ぐ。 RIAAが政策に影響を与えて方向付けるやり方はいくらでもある。 ならば、 検索エンジンを走らせた学生の金をむしり取るようなな真似の、 どこに道徳性があるというのだろう。 」

ロージナ茶会のメンバーには司法職を目指している人、 目指した人がいる。 彼らの話を聞けば、 そもそも訴訟に至る前の段階で、 経済的理由での勝敗がつくことがとても多いことがわかる。 法律事務所の格、 弁護士の格、 当事者の法曹界までの人的距離の近さ。

法学部生に言いたい。 いいかい? コマゴマとした法律の運用も大事かもしれないけど、 根本的なことを忘れてはいけない。 「金で買える状態を正義と強弁することを恥じる気持ち」だ。 これを全ての法曹がもたない限り、 「法の下の平等」なんて世迷いごとに過ぎない。 こういう心がけをどうやってカリキュラムで伝授するんだろう。 私も来年からやることになってるんだけど。

2.4 「海賊たち」

p. 73 「「海賊行為」というのが他人の創造財産を許可なしにつかうことなら --- そして「価値があるなら権利もある」というのが正しければ --- コンテンツ産業の歴史は海賊行為の歴史だ。 今日の「巨大メディア」のあらゆる重要部門 --- 映画、 レコード、 ラジオ、 ケーブルテレビ --- は、 こうした定義からすれば海賊行為の一種から生まれてきた。 歴史はずっと、 前世代(※本文では「全世代」だったけど、 これは誤変換だと思う。 原文では、 "The consistent story is how last generation's pirates join this generations's country club." )の海賊たちが次世代のカントリークラブに加わるようになる、 という物語の連続だった --- それが今変わろうとしている。 」

このセクションは、 この段落で語り尽くされている。

2.5 「海賊行為」

p. 84 「アメリカ共和国の最初の百年にわたり、 アメリカは外国の著作権を尊重しなかった、 ということを思い出してみよう。 この意味で、 アメリカは生まれつき海賊国家だった。 だから自分たちが最初の百年には正当なこととしていた行為を、 他の発展途上国は間違ったこととして扱うように、 とあまり強くこだわるのも偽善的かもしれない。 ... 厳密にいえば、 当時のアメリカの法律は外国の作品利用を禁止していなかった。 ... かれら(アジアの発展途上国)のやっている海賊行為は、 道徳的にいけないというだけじゃなくて法的にもいけないことで、 それも国際法的にいけないことにとどまらず、 現地法でもいけないことなのだ。

確かにこれらの現地法は、 実際にはこれらの諸国に押し付けられたものだ。 世界経済に参加するにあたり、 国際的に著作権を保護しない道は選べない。 アメリカは海賊国家として生まれたかもしれないけど、 他の国にはそんな子供時代を送ることは許さないのだ。 」

知的財に限らず、 財産権制度というのは、 ある状態での勝ち組みを維持しようとする。 その制度の公平性というのは、 負け組みからでも十分に勝ちあがれる戦略が残っているかどうかにかかっている。 でも、 勝ち組みの席が限られている場合、 負け組みから這い上がる方法を残しておく選択肢を勝ち組みが採用する動機がない。 物質的な財を奪い合う世界で、 財産制度が不公平であるという批判は、 根本的にはこうした理由から十分に説得的だ。

でも、 知的財については、 その財を金銭価値に変換することを考えなければ、 全員の知的財の保有状態を改善しつづけることができる。 みんなが少しずつ賢くなることは、 たぶん、 物質的な財の配分状態を現在よりもマシにしうるし、 財の効率的な利用にも貢献すると思う。 物質的な財の配分において、 負け組みが勝ち上がる可能性を提供してくれる、 もっとも可能性の高い道を開くものでもある。

でも、 知的財について、 それを通常の財産権と同じように把握して、 現在の偏った知識の状態を維持しようとすることは、 知識の状態において劣位に置かれている国、 あるいは人が絶対に勝ち上がれないことを意味するように思う。

だからレッシグ先生も、

p. 87 「この種の海賊行為(商業海賊行為)は横行しているし、 ひたすらまちがっている。 それは盗むコンテンツを変換もしない。 それが競合する市場も変えない。 単に法で禁止されているようなアクセスを誰かに提供しているだけだ。 その法を疑問視するような変化はまったくおきていない。 この種の海賊行為は、 どうみてもいけないのだ。 」

と、 たんなるデッドコピーを売り捌くような「頭の悪い」やり方を厳しく批判している。 デッドコピーでは、 決して発展途上国が先進諸国を凌駕することはできない。 それは、 かえって発展途上国の先進国への依存の度合いを高め、 国家間の知識の配分を悪化させるだろう。 レッシグ先生が問題にしているのは、 発展途上国が先進国の知識を勉強し、 自分たちの努力でこれを凌駕しようとするとき、 その知識の獲得や勉強や改良それ自体を禁じることが正当でないということ。 負け組みが勝ち上がる道を封じる制度は、 正当なものではない。

p. 94 「考えてみれば、 この取引(中古取引)から著作権保持者がなにがしか受け取ったほうがいいのかもしれない。 でも、 いいかもしれないというだけで、 古本屋を禁止することがいいことだとは言えない。 あるいは別の言い方をするなら、 もしC分類の共有が禁止されるべきだと思うなら、 図書館や古本屋も同じく禁止されるべきだと思うだろうか?」

どうも、 知的財産強化の昨今の傾向からすると、 図書館や古本屋を禁止しようとまでは言わないまでも、 著作権保持者に何がしかの支払いをする方向に進んでいるようだ。 少なくともいえることは、 公共図書館をいくらかでも有料にするとき、 経済的に極度に劣位にある人が、 知識の力で勝ち上がる道が完全に閉ざされるだろう、 ということ。 だから、 支払いをすることが決定しても、 公共図書館が無料で市民に開放されていることは、 必要だと私は思う。

p. 96 「地方裁判所はナップスターの弁護人に、 99.4パーセントじゃ不十分だと告げた。 ナップスターは侵害を「ゼロに」抑えなくてはならないと述べた。

99.4パーセントで不足だというんなら、 これは著作権侵害に対する戦争ではなく、 ファイル共有技術そのものに対する戦争だ。 」

本文にも書いてあるけど、 この「神のみぞ知る」世界において、 100%を達成しろというのは常識的に考えも無理です。

p. 97, 101 「あらゆる著作権法制における二つの中心的な目標でもある。 まず、 法は新しい技術革新者がコンテンツの新しい配信方法を開発する自由を持つよう保証した。 第二に、 法は著作権保持者が配信されるコンテンツについて支払いを得られるように保証した。

... 最高裁が述べたように、 著作権は「著作権保持者に自分の作品のあらゆる可能な用途すべてについて完全なコントロールを認めたことはない」。 」

私は先の部分で、 発明者の知的努力が低く見られていると指摘した。 でも、 均衡のある知的財産権の原理は、 ちゃんと発明者の知的努力についても配慮していたわけだ。 その均衡が壊れ始めている。

p. 102 「誰かが「バランス」と口にした途端に、 著作権の戦士たちは別の議論を持ち出す。 ...「われわれのコンテンツは、 我々の財産だ。 なぜ議会がわれわれの財産権の『バランスを変える』のを待つ必要がある? ... 「われわれの財産なんだ」と戦士たちは頑固に言う。 「だから他の財産がすべて保護されるように、 これだって保護されるべきなんだ」」

そう。 財産。 でも、 知的財以外の財産だって、 一定の法的・社会的制約の下にある。 土地なんていうもっとも根本的な財産権ですら、 いまや自由に使っていい、 という状態にはない。 ものすごい規制によって、 用途はがんじがらめになってる。 だから、 この論法でいれば、 知的財について制約があるのはあたりまえ、 ということにもなりそうなんだが... でも、 まあいい。 知的財産権は、 一般的な財産権と同じじゃなければいけない、 という主張というか神話を確認するため、 私は『コピーライトの史的展開』を書いた。 で、 やっぱりたんなる神話だということを確認できた。 次の「財産」という部では、 それを簡単に概観することになる。

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3 財産

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3.1 創設者たち

この章について、 より詳しく知りたかったり、 興味を持ったりしたなら、 私が書いた学術雑誌版「コピーライトの史的展開」を読んでもらえればありがたい。 また、 この部分で出てくる、 日本人には馴染みの薄い、 制定法とコモン・ローの関係については、 ほんとならちゃんとした教科書で勉強してもらいたいんだけど、 さしあたり、 私がHotWiredで書いた記事「法律の重みについて I」「そのII」を参照してもらえれば雰囲気はつかめると思う。

p. 119自由というのはつまり、 文化とその成長が出版社の小集団にコントロールされないということだ。 」

3.2 記録者たち

p. 125 「3. 実はスタンフォードのロー・スクールにいるあなたの同僚の一人に相談したんだよ (中略) そしたらフェアユースだと言われた。 でも一方で、 私の主張がどんなに正当だろうとフォックスが「死ぬ寸前まで追いかけてきて法的な措置を行使しようとするだろう」とも請け負ってくれた。 結局のところ問題は、 どっちがでかい法務部と予算を持っているかというだけの話なんだ、 ということをその人がはっきり教えてくれたんだ。 」

前にも同趣旨の事を書いた。 法は正義を宣明してくれるかもしれない。 でも、 法の宣明にたどり着くまでに、 弱い個人は経済的に殺されてしまう。 私たちのような一般人にとって、 裁判所からの召喚状は地獄への招待状だ。 日本で司法制度改革が進んでいるか、 あるいはこれから進むらしい。 せめて法の世界くらいは、 他の要素とは独立して正義を確認できる場所であってほしいものだ。

p. 126 「法は出版社の利益を海賊の不公平な競争から守るための盾として生まれた。 それが成熟して、 いまや変換製の有無などと無関係に、 あらゆる用途を妨害する剣となってしまっている。 」

3.3 変換者たち

p. 130 「でもアルベンを問い詰めて、 単に権利をクリアするだけで一年も作業が要るというのはずいぶん変だと思わないか聞いてみた。 アルベンがそれを効率よくこなしたのは確かだ。 でもピーター・ドラッカーの有名なせりふにもあるように「そもそもやるべきでないことを効率的に行うほど無駄なことはない」。 新しい作品を作るのにこんなやり方をしなきゃいけないというのは、 筋が通っていると思うだろうか?」

p. 132 「アルベンは大企業で働いていた。 その会社は世界で一番金持ちな投資家の支援を受けていた。 だから、 そこらのウェブデザイナーにはない権威とアクセスが得られた。 そのかれでさえ一年かかったなら、 他の人なら何年かかったことか。 そして権利をクリアするコストが高いというだけで作られずに終わった創造性がどれほどあるだろう。 」

「そもそもやるべきでないことを効率的に行うほど無駄なことはない」

いい言葉だ。 覚えておこう。

p. 135, 136 「マイヤースによる映画サンプリングはすばらしいものだろう。 でもうっかりすると、 この発表の真に驚異的な部分を見逃すことになるかもしれない。 われわれの映画遺産の大部分はまだ著作権下にあるので、 ドリームワークスの発表の本当の意味はこういうことだ : サンプルを自由にできるのはマイク・マイヤースたった一人だ、 ということだ。 われわれの文化の映画アーカイブを元に新しいものを構築する一般的な自由、 他の文脈ではわれわれ全員に許されている自由は、 いまやおもしろおかしい有名人 --- そしておそらくは金持ち --- にのみ許された特権なのだ、 ということだ。

創造プロセスは弁護士のお金を払うプロセスだ --- そしてこれは、 ごく少数の人にしか手に入らない特権、 というか呪いなのだ。 」

この知的財産権が生み出す「特権」効果は、 知的財産権は封建制と同じようなものになってる、 という指摘へつながっていく。 これは、 私も「知的財産権制度と封建制について」で指摘してる。 一般的な財産権の性質に近づいた知的財産権は、 一般的な財産権よりも、 むしろ封建制に近い状態を生み出してしまうと私も考える。

3.4 コレクターたち

p. 138 「歴史を忘れる者はそれを繰り返す運命にある、 と言われる。 でもこれはあまり正しくない。 われわれみんな歴史を忘れる。 大事なのは、 忘れたものを戻って再発見する手段があるかということだ。 もっと直接的には、 客観的な過去がわれわれを正直に保てるかということだ。 図書館は、 コンテンツを集めて、 学童や研究者やおばあちゃん向けにそれを保管してくれることでその助けをしてくれる。 自由な社会はこの知識を前提とする。 」

「自由な社会はこの知識を前提とする」。 「自由」はもちろん、 薬物を濫用したり、 夜中に首都高をトバしたり、 湾岸でズンドコズンドコ騒音をまき散らしたり、 渋谷の路上で犬猫のように交わることではない。 でも、 学校の教員のように「自由には責任が伴うのです!」 とかいいながら、 命令と制約だらけの世界を「自由」だと強弁するつもりもない。 自由とは、 自ら以外による支配から脱して、 自らの理性的目標を実現することだ。

欲望や認識は相対的で、 他者による支配に容易に屈する。 しかし、 哲学的公理から出発して発見される論理的な思考である「理性」は、 ある事柄に対応する合理的な反応を指し示す。 論理以外の他者がこれを操作することはできない。 こうして発見される合理的目標を達成することが、 近代における「自由」。 だから、 ほんとは哲学というのは、 自由を求める世代である若者にもっとウケていいはずなんだが。

というか、 自由 freedom という用語それ自体が、 「特権 privilege」でなく「状態 status」を示すものとして使われだしたのが、 こうした理性の時代に入ってからなんだから、 すくなくとも法・政治・経済という近代のしくみを前提としている文脈で語るときの「自由」は「理性的自由」に他ならない。

こうした理性的自由を正しく応用して、 ある事象Aからある事象Bへ間違いなく推移させるためには、 正しい知識・認識が必要になる。 だから自由であるためには私たちは、 哲学・論理学をマスターした上で、 あらゆる事象を正しく知らなければならない。 はず。 公共図書館は、 本貸し業ではない。 根本的かつ絶対的に 貸本業とまったく異なった機能を果たしているし、 果たすべきだ。 これは、 自由主義社会、 民主政治のための装置なんだ。 これすらわからないような議員がいたとしたら、 間違いなくアホなので落選させたほうが国のため。

図書館の重要な役割に関連する記述としては、 『Free Culture』の 266 ページも参照してほしい。

p. 143 「デジタル革命の唯一最大の特徴は、 アレクサンドリアの大図書館以来初めて、 生産公開された文化すべてを保持するアーカイブの構築が現実的になったということかもしれない。 技術的に、 出版されたすべての本のアーカイブを考えることが可能となったし、 すべての動画やサウンドのアーカイブを想像することも、 だんだん不可能ではなくなりつつある。

「アレクサンドリアの大図書館」という表現がよくでてくる。 これ、 現在もほんとにあるなんて考えてたりしないよね。 ここを参照してみて。 あ、 なんと。 再建されてたのか。 でも、 ここで言及されているのは、 世界の知恵を集めた *古代の図書館* だよ。

3.5 財産

p. 146 -- 147 「「まっとうな男女」が戻るべき「中心的なテーマ」とはこれだ:「創造的な財産の所有者は、 我が国の他のあらゆる財産所有者が宿しているのと同じ権利と保護を与えられるべき」。 ... この主張は明確で強力な直感的魅力を持っている。 それは実に明快に述べられていて、 大統領を選ぶのに選挙で選びますという発想と同じくらいこの発想を自明なものにしようとしている。 でも実際には、 この論争をまじめにやっている人々のだれも、 このヴァレンティによるものほど極端な主張をした試しはない。 ジャック・ヴァレンティは、 いかに親切そうでいかに賢くても、 「創造的財産」の性質と範囲という点ではアメリカきっての極論主義者かもしれない。 かれの見方はアメリカの実際の法的伝統とまったくまともな関係を持っていない」

レッシグ先生は、 「3秒間ルール」ということをよくいう。 一般的な知性を持った人が理解できるのは、 3秒間のうちに表現できる内容に限定される、 ということ。 ずいぶんバカにしている、 と思った人がいるかもしれないが、 日々大学生と触れ合っている私も同じ意見だ。 かなり高度な教育を受けた人は、 単純な構造をもった短文で表現できる内容を理解することができる。 ヴァレンティ氏の主張として掲げられているものがこれに該当する。 そして、 レッシグ先生が主張するように、

pp. 147 -- 148 「本章の目的は二つある。 まずは歴史的に見て、 ヴァレンティの主張はまるっきりまちがっているということを納得してもらう。 第二に、 われわれの歴史を却下するのはひどいまちがいだということを説得しよう。 われわれはずっと、 創造的財産の権利については、 他の財産所有者が持っている権利とはちがった扱いをしてきた。 同じであったことはない。 そして同じじゃいけないのだ。 というのも、 いかに直感に反していようとも、 それを同じにすることは、 新しいクリエータの創造機会を根本的に弱めることになるからだ。 創造性は、 創造性の持ち主が完璧ではないコントロールしか持たないことに依存している。 」

というような複雑な内容を理解できるのは、 全人口の1パーセント程度だろうと推測する。 そして、 私たちには多数決主義に依存する民主政体が与えられている。 レッシグ先生の主張が勝利することはものすごく難しい。 たぶん絶望的に。 でも、 レッシグ先生は学者としての誠実さからそのように主張しているのだし、 私もまた自分自身の研究への誠実さから、 その正しさを補強しようとしている。 研究仲間やパトロンへの社交的誠実さは、 学者の態度として倫理的ではない。 自分が時間をかけて確認した仕事への誠実さが要求されるんだ。 全人口の1パーセントにしか理解してもらえないとしても、 確認した事柄を主張しつづけなければ学者ではない。

p. 148 「ヴァレンティの議論に何か根本的にまちがったものがあるという片鱗を理解するには、 アメリカ合衆国憲法を見ればすむ。 」

ここがレッシグ先生の議論が日本で通用しない最大の欠陥。 日本の著作権法は、 アメリカ合衆国憲法と関係がない。 レッシグ先生が憲法学者として合衆国憲法を中心に立論すればするほど、 アメリカでの論拠は強固になるけど、 日本での論拠は薄弱になる。

だから私は、 著作権制度の歴史を研究することで、 著作権制度がその誕生時から経済合理性、 とくに情報の流通コストを小さくするように、 そのときどきの技術水準を勘案しながら、 均衡をもって調整されてきたことを示そうとした。 こうすれば、 日本の著作権制度についても適用可能な「均衡」の視点を導入できるかもしれないと思ったからだ。

でも、 やっぱり日本の主流は法律の条文解釈から立論するアプローチ。 このアプローチでは、 条文が設定した枠組みから決して外に出ることはありえない。 そういう意味で、 条文の有効性は常に担保されつづける。 でも、 だからそれでいいんだ、 正しいんだ、 という主張は何かがおかしいと考えるのが「常識」ではないだろうか。 レッシグ先生は、 ある信条を維持するために現実のほうを変えていくアプローチを「ブレジネフ政権下のソ連」と表現する。

pp. 151 -- 162

このあたりのページで説明されていることは、 『CODE』で説明されていた四つの規制する力の話の説明を著作権に応用したもの。

p. 163 「ちょうどイングランドにおいてアン成文法が、 すべてのイギリス作品の著作権がいずれは切れることを意味したように、 この連邦法は、 すべての州の著作権だっていずれ切れるのだということを意味した。 」

p. 164 「アメリカ建国最初の10年に作られた作品はたくさんあったけれど、 実際に連邦著作権制度のもとで登録された作品はたった5パーセントだった。 1790年以前に作られた作品と1790年から1800年にかけての作品の95パーセントは、 すぐにパブリック・ドメインに入った ... この更新システムは、 アメリカの著作権法の重要な部分だった。 それは著作権の最大期間が、 求められている作品にのみ与えられるよう保証されていた。 最初の14年間がすぎたら、 著者として著作権を更新する価値がないと判断されたものについては、 社会としても著作権にこだわる価値はないと判断された。 」

p. 165 「憲法起草者たちが、 二部構成の著作権制度を作ったと言ったのをご記憶だろう。 最初の期間が終わったら、 著作権保持者はそれを更新する必要がある。 更新を必要とすることで、 必要とされていない著作権保護は、 もっとはやくパブリック・ドメインに移行する。 保護下に残る作品は、 何らかの商業価値を持った作品だけとなる。

アメリカはこの賢明な方式を1978年以降に廃止した。 」

「無方式主義」をその美点として誇るベルヌ条約に拘束される日本の著作権法。 その著作権の領域に片足でも突っ込んでる私が、 こういうことを言うのはタブーなのかもしれない。 けど、 やっぱり私も著作物の登録制度は合理的だし、 短期の権利保護と長期の権利保護を組み合わせるやり方は賢明だと思う。 レッシグ先生もどこかで指摘していたように、 土地ですら登記制度があるというのに、 知的財というようなふわふわしてあやふやになりがちな財産に登記制度がないのは奇妙だ。

これについては、 『Free Culture』の 259 -- 261 ページや、 294ページにも関連する具体的な記述がある。

p. 167 「登録が必要とされたのは、 ほとんどの作品には著作権なんか必要ないというまっとうな理解からだった。 」

私の目から見れば、 こういうものが「法の英知」であり「健全な常識」であると思う。 もちろん、 それは私の目から見たものであり、 誰か別の人の視点からは違って見えるのだと思う。

p. 169 「著作権の仕組みはすべて、 競合する出版はコントロールする。 でも今日の著作権には、 まるでわかりにくい第二の部分がある。 これは「派生権」の保護だ。 ... 派生利用のすべては著作権保持者にコントロールされる。 つまり著作権は、 いまやあなたの書いたものに対する独占権にとどまらない。 あなたの書いたものに加え、 それに触発された著作の相当部分についても独占権がもらえる。

この派生作品への権利は、 われわれには当たり前に思えるけれど、 憲法起草者たちには実に珍妙に思えるだろう。 最初、 この拡大はもっと狭い著作権に対する露骨な回避行為に対処するためのものだった。 わたしが書いた本を、 たった一語だけ変えて、 新しいちがう本だと称して著作権を主張したらどうだろう。 それは著作権を愚弄する行為なので、 法は適切に拡大されて、 元通りの原作に加えて、 こうしたちょっとした変更物も含まれるようになった。 」

派生権 derivative rights (=二次的著作権)は、 ここで述べられているように、 オリジナルにほんのちょっとオマケをつけて、 「新しい作品だ!」と主張して商業的利益を貪ろうとする目を覆わんばかりに倫理感と常識に欠けた連中に対応するために作られた。 ところが、 そのおかげでいつの間にか、 オリジナル作品から派生してくる他の種類の作品にまでオリジナル作品の権利者が支配権を持つことになった。 これが、 現在生じている知著作権制度の非効率な部分のほとんどを生み出している。

もちろん、 一語だけ変えて「新しい作品だ!」と主張することは極端な例だ。 でも類似した例で、 出版業の仁義からは問題があったかもしれないけど、 学問という点からは有益な形態がかつて存在した。 それは、 抄本 abridgment とか、 注釈本 annotation と呼ばれた物で、 学術的に価値の高いオリジナル・テキストについて、 重要性の低い部分を省いてしまったり、 あるいは、 学習に役立つよう 重要な個所にコメントや関連書籍の関連部分の抜粋を印刷したもの。

古い洋書を読んだことのある人なら知ってると思うけど、 それら洋書の1ページの印刷には、 ものすごく広く欄外(マージン)が取ってある。 これは空白部分を多く取ることでページ数を増やして儲けてやろう、 という嫌らしい商売根性があったわけではない。 読者が欄外に注釈を書き込むことを想定して空けてあるわけ。 実際、 大学の古い本には、 先輩たちの注釈やら書き込みがある本がけっこうあった。 そうした書き込みがされた本は、 それ自体が貴重な知的な財として大学の図書館の価値になっていた。 あと、 イスラム教の聖典コーランの印刷されたものも、 この形式をとっているのを見たことがある。 オリジナルのコーラン本文のまわりをぐるぐる巻きに取り囲むように、 後の僧侶や注釈者たちのコメントが印刷してある。 だから、 こうした知のあり方というのは、 伝統的なものだと言っていいと思う。 考えてみれば、 難解なオリジナルの周りに学識あるコメントがついてるというのは実にありがたいものだ。

でも、 今では、 図書館の本に利用者がコメントを書き込むことは禁止される。 当然、 いまや抄本や注釈本はほとんど出版されていない。 昔むかし、 オリジナルの印刷許可(ライセンス)をもらって使用料を払うことをイヤがった貧乏くさい一部の出版社が、 抄本や注釈本だと主張して実質的にオリジナルのテキストを出版する、 といった仁義にもとる行為をした結果、 そうした形態での出版そのものができないように著作権が変えられてしまったからだ。

抄本や注釈本は実に有益なものだ。 でも、 そうした有益なものを濫用し、 悪用しようとする人たちがいるとき、 有益なもの自体が禁止されてしまう。

悪いことずるいことが好きな人たちに告ぐ。 貴方たちが制度の隙間を悪用するたびに、 制度の隙間は埋められていき、 そして、 まともで有益な使い方をする人たちの自由のための「ゆとり」は殺されていく。 貴方たちこそが、 ごくあたりまえの市民的自由の敵であり、 許すべからざる自由の寄生虫だ。

立法者たちに告ぐ。 貴方たちが一部の市民的自由の敵、 自由の寄生虫を根絶やしにするために、 一心不乱に制度の隙間を埋めていくたびに、 市民的自由の「ゆとり」もまた殺されていく。 ある特殊な場面において必要かもしれないけど、 ほとんどの日常的な場面において滑稽で非常識な法が作られていく。 どうか、 ノミやシラミを退治するために、 致死性の毒ガスを使うような愚かなことをされませんよう。

p. 174 「そこへインターネットがやってきた――分散型のデジタルネットワークで、 著作権作品のあらゆる利用は複製を作り出す。 そしてデジタルネットワークの設計上採用された、 このたった一つの偶然の特徴のおかげで、 上の分類1の範囲はすさまじく変わる。 それまでは本来規制されないはずだった利用が、 いまや本来的に規制される利用になってしまった。 著作権作品に伴う自由を定義づける、 本来的に無規制の利用群はもうなくなってしまった。 すべての利用はいまや著作権の対象となる。 なぜかというと、 どの利用も複製を作るからだ――上の分類1は分類2に吸い込まれてしまう。 そして著作権作品の無規制な利用を擁護しようという人は、 この変化の負担を担う先として、 分類3のフェアユースに頼るしかなくなってしまった。 」

ある状況(A)に対応するために作られた法律(a)が、 ある言語(α)によって示される行為を禁止する。 もちろん、 それは自然言語で記述されているために、 α には意味の幅がある。 αの意味の大部分は A が目的とする状況に適合しているのだけれど、 それを超える意味範囲(α')があるとする。 ある新しい状況(B)が生じたとき、 B に関連する行為が α' を含む場合、 a によって禁止されてしまうということは、 法律の歴史のなかでしばしばみられる現象だ。

状況 B にまったく違法性がないどころか、 社会的に B を推進することが望ましいとしても、 法律 a が α' を経由して、 B の状況を禁止する。 法律の解釈を担当するものは、 こうした不合理が生じないように、 α の定義内容を明確にすべきなわけだが、 B の状況の評価について推進派と規制派が対立する場合、 規制派は α の語義を α'に拡張しようとする。 もちろん、 立法者の意図や、 立法の経緯(歴史)を学べば、 法律 a におけるαが意図していた意味範囲は明確にわかるわけで、 推進派はこうしたアプローチでαを限定的に解釈しようとする。

でね、 日本の法律の解釈学においては、 いろんな解釈の方法が採用できる。 だから、 最終的には、 学者なり法曹なりの全人格的良心と判断に依存することになる。 なるんだが、 なぜだか、 「文理解釈」すなわち杓子定規に α の指す意味の全範囲である α' まで拡張して解釈するほうが、 「立法者意思」すなわち もともと α が何のためになぜ採用されたのか調査した上で、 本来の用法に限定的に解釈するよりもエライということになってる。 その方が法が発展するんだと。 たしかに、 α をできる限り広げて(α')使用した方が法律の出番が増える。 でも、 世の中において、 法律の出番が増えたほうが望ましいかどうかなんて、 法律でゴハンを食べている人以外には自明でない。

p. 176 「もし今の著作権保持者がオンラインで何回本を読めるかコントロールしようとしたら、 それはフェアユース権の侵害だ、 というのが自然な反応だ。 でも読むのにフェアユース権があるかなんてことで法的争いがこれまで起きたことはなかった。 インターネット以前には、 読むことは著作権法の適用を引きおこさず、 したがって、 フェアユースによる弁護も必要なかったからだ。 読む権利は、 読むということが規制されていなかったからこそ実質的に保護されていた。

フェアユースに関するこの論点は、 フリー文化支持者にさえ完全に見逃されてきた。 われわれは、 自分たちの権利がフェアユースに基づくものだと議論するまでに追いつめられている ... 。 」

「自分たちの権利がフェアユースに基づくものだと議論するまでに追いつめられている 」

私たちは、 追い詰められている。 たとえば、 日本の著作権法にも似たような状況がある。

第30条(私的使用のための複製) 著作権の目的となつている著作物(以下この款において単に「著作物」という。 )は、 個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用すること(以下「私的使用」という。 )を目的とするときは、 次に掲げる場合を除き、 その使用する者が複製することができる。

<中略> 二 技術的保護手段の回避(技術的保護手段に用いられている信号の除去又は改変(記録又は送信の方式の変換に伴う技術的な制約による除去又は改変を除く。 )を行うことにより、 当該技術的保護手段によつて防止される行為を可能とし、 又は当該技術的保護手段によつて抑止される行為の結果に障害を生じないようにすることをいう。 第百二十条の二第一号及び第二号において同じ。 )により可能となり、 又はその結果に障害が生じないようになつた複製を、 その事実を知りながら行う場合

著作権法第30条は、 日本における著作物の自由利用のための一般的な枠組みだ。 ところが、 「次に掲げる場合を除き」として、 1項2号で、 技術的保護手段が掛けられた著作物については、 これを解除して私的複製することはできないことになっている。 これは、 ゲームやプログラムのコピープロテクトを解除して悪いことをする人たちを取り締まるために導入されたわけ。 でも、 考えてみて。 技術的保護手段が適用される著作物については限定がない。 だから、 本だろうが、 レコードだろうが、 写真だろうが、 現在 技術的保護手段が掛けられていないアナログなメディアについても、 技術者の皆さんががんばった結果、 技術的に複製を禁止できるような技術が開発された場合、 それを回避して私的複製することができなくなる。 この結果、 第30条1項2号は、 技術的保護手段の開発がすすむとともに、 第30条が設けられた趣旨に反する結果をもたらす。 最終的には、 私的複製の領域は存在しなくなるだろう。

仮にアナログへの技術的保護手段の開発が進まなかったとしても、 これからのメディアは、 ますますデジタルなメディアに移行していく。 それらの全てにはアーキテクチャの段階から技術的保護手段が組み込まれていることは当然予想される。 これまた実質的に私的複製の領域が存在しなくなることを意味する。

「私的複製してもいいですよ。 ただしカセットテープだけ」と法が言うとき、 もし市場にカセットテープもデッキも存在しなければ、 私的複製の領域は存在しない。

[山根] 技術者がさらに頑張って独自に再生装置を復元しても、その検証実験装置を所持しただけで著作権法百二十条二で処罰されるおそれがある。
でね、 アメリカなら「私的な領域における複製は、 伝統的にフェアユースだった!」とがんばる絶望的ではあるけど最終手段が残されている。 でも、 日本にはフェアユースの概念それ自体がない。 文理解釈すれば、 誰がどう見ても、 技術的保護手段がメディアに掛けられている以上、 私的複製は認められないことになる。

これには論争の余地がない。 問答無用だ。

これを覆すためには、 法を変える力、 すなわち政治の力が必要になる。 もう、 法学者の出番はない。 ユーザーである皆さんがどのように考えるかにかかっている。

p. 178 「インターネット上での利用はいちいち複製を作るので、 インターネット上での利用は著作権保持者のコントロール対象となる。 この技術は実質的コントロールの範囲を拡大する。 この技術がすべてのやりとりで複製を作るからだ。 」

ここがキモ。 全ては「複製 copy」というマジック・ワードの意味が果てしなく拡大していく中で、 著作権法の禁止領域が拡大していくわけだ。 私の研究では、 著作権法における copy という言葉の16-17世紀における本来の意味は、 「原版」という意味しかなかった。 しかも、 動詞ですらなかった。

p. 179 「デジタル技術以前には、 著作権法でだれかが規制されるか、 そしてどういう方法で規制されるかをコントロールするのは、 普通は法だった。 法、 つまり法廷、 つまりは裁判官だ。 最終的には、 人間が判断を下し、 その人間は法の伝統の中で訓練を受け、 法の伝統が掲げているバランスを理解していた。 そしてその人物が、 法があなたの自由を規制するか、 そしてそどうやって規制するかを決めた。 」

p. 180 「インターネット上では、 ばかげた規則を抑えるものはない。 というのもインターネット上では、 規則を施行するのは人間ではなく機械である場合がますます増えているからだ。 著作権法の規則(の著作権保持者による解釈)は、 ますます著作権材料を頒布するテクノロジーに組み込まれるようになってきている。 規制するのは法ではなくコードだ。 そしてコードによる規制の困ったところは、 コードは恥を知らないということだ。 」

レッシグ先生は、 コモン・ローの国の人だから、 最終的には法曹の「常識 common sense」を信頼している。 だから、 コードだけが「恥を知らない」と考えている。 でも、 法曹だって恥知らずになることができる。 とくにその法曹が「法律」の文脈における理屈しか備えていない場合。 だから、 法曹がまともな常識をもった人たちであることは、 私たちにとってものすごく重要なことなんだ。 でも、 今の法曹養成のやりかたは、 ある意味非人間的な技術訓練を要求する。 司法試験に合格した後に、 ようやく人生経験を積むことが可能になるようなシステムは根本的におかしい。

私だって、 大学やら大学院に10年以上も篭って、 世間的常識や経験から隔絶された、 苦しいけど楽しい時間を過ごした。 それは、 浦島太郎みたいに私の精神年齢の発達(精神的老化?)を10年以上遅らせただろう。 そして大学の教員になると、 その停止状態のまま生きていくことすらできる。 大学の教員が、 それ以外の人に比べて異常に若々しいのはそれが理由だと私は思う。 いったん「教授」という肩書きをいただけば、 さまざまな場面で、 とくに重要な場面で、 特別待遇が受けられる。 それ以外の人たちとは違った対処をしてもらえる。 これでは、 普通の人たちがもっている常識の世界と違った世界を見ていてもおかしくない。 これは「弁護士」「裁判官」という肩書きだって同じだ。

... はい、 エラそうな事を書きました。 私は、 肩書きから生じる一種の特権を享受するのが大好きです♪ 馘首(クビ)になるまで、 大学の教員をやりたいです。 でも、 自分が世間の明るいところしか見ていないという自覚くらいは持っています。 ... と、 批判を受ける前に認めてしまおう(苦笑)。

p. 187 「でもプログラマ、 あるいはわたしがコーダーと呼ぶ人々にとって、 ハックというのはずっといい意味をもった言葉だ。 ハックというのは単に、 プログラムにもともとの意図や本来可能だったこと以外のことをさせるようなコードという意味でしかない。 」

もういいかげんに、 Hack という言葉の意味を理解してもらいたいのものなんだけど、 まだ誤用が通用している。 「もう Hack の悪い用法が一般化してるんだから、 それに従え!」 という主張もある。 でも、 どんなに Hack の悪い用法が一般化したとても、 文脈における語義を維持しようとする努力がなければ、 言葉はいくらでも誤用・転用されていく。 そのうち、 Hack という言葉が、 「強盗殺人」を意味するようになることだって考えられる。 そしたら、 ハッカーは「強盗殺人犯」と混同されてしまう危険すらある。 ... って考えすぎですかね。

[山根] バラバラ殺人の犯人をハッカーと呼ぶ用例は、コンピュータ発明以前にあります。また、窓を叩き割るのを hacking と呼ぶ用例もあります。したがって、そういう用例を集めれば、すでにハッカーを強盗殺人犯だと説明できます。だからここでは、強盗殺人犯よりも突拍子のない例をあげたほうがよいでしょう。下着ドロとかオレオレ詐欺とか。

ここで唐突にハッカーの説明が入っているのは、おそらくレッシグが現役ハッカーに草稿をチェックしてもらっているからでしょうね。

p. 188 「SDMI 連合は、 目標としてコンテンツ保有者が本来のインターネットよりもずっと強いコントロールを行使できるような技術を目指していた。 暗号を使ってSDMIは、 コンテンツ保有者が「この音楽はコピーできません」と言ったらコンピュータがその通りにするような規格を開発したがっていた。 この技術はコンテンツ保持者がインターネットのシステムをずっと深く信頼できるようにする「信頼システム」の一部になるはずだった。 」

「信頼システム」。 trusted system として、 1996年くらいに論文を読んだことがある。 ここのポイントは、 コンテンツ保有者の言うことを聞くコンピュータということだ。 コンピュータという私有財産を保有している私たちの支配下に、 そのコンピュータはない。 財産権の対象として自分が所有している道具が自分の言うことを聞かない。 誰か別の人間の言うことを聞く。 これ、 財産権の基本的ルールに合致しているのだろうか。

p. 203 「わたしだって、 ネットワークの権利を喜んで擁護したい ――もし本当に多様なメディア市場に住んでいるのであれば。 でもメディアの集中は、 その条件を疑わしいものにする。 もし一握りの企業がメディアへのアクセスを牛耳り、 その一握りの企業が自分のチャンネルでどんな政治的立場を後押しするか決めていいなら、 明らかで重要な意味において、 集中は重要なのだ。 あなたはこの一握りの企業が選ぶ立場を気に入るかもしれない。 でも、 われわれみんなが知ることの中身を、 ほんの少数の人物が決めるような世界は、 気に入るべきじゃないのだ。

そう。 そのとおりなんだけど、 どうもみんなが自分の知ることを選ぶ世界では、 政治的判断に関係するような「真面目だけど、 つまんない」情報はあまり人気がないようです。 どっちかと言えば、 エンターテイメントのほうがみんな好きみたい。 機能する民主主義を維持するためには、 強制的にでも「真面目だけど、 つまんない」情報をみんなに叩き込まなければならない。 で、 それが普通教育っていうものなんだと私は思います。 放っておけば自動的に動作するほど民主政体は自明のものじゃない。

p. 204 「(1) 法のコントロールを補うテクノロジーの力と (2) 集中した市場の力が異論を述べる機会を弱めることとを考えると、 著作権の与えるすさまじく拡大した「財産」権を厳しく適用することが過去の成果を使ってそれを下に新しく文化を築く自由を根本的に変化させてしまうのであれば、 この財産を見直すべきじゃないかと考えてみる必要がある。 ... ... 著作権の力を増すような調整じゃない。 その期間をのばす調整でもない。 むしろ伝統的に著作権規制を定義づけてきたバランスを回復させるような調整だ――規制を弱めて、 創造性を強化するような調整。 」

p. 205 「法の変化と市場の集中、 技術変化の影響を足しあわせると、 それらはまとめてすさまじい結論を生み出す: 歴史上、 文化の発展をこれほど少数の人々がここまでコントロールする法的権利を持っていたことは未だかつてないのだ。

ね。 レッシグ先生がとっても保守的で伝統的な議論をしている、 ということがわかるでしょ。 だから、 まともな自由主義者 / 保守主義者なら、 レッシグ先生の議論を理解して、 それを支持しなければおかしい。 少数の人々が文化の発展と情報の流通をコントロールすることを歓迎する人たちというのは、 狂信的な全体主義者か、 カルトの信奉者くらいだろう。 それも、 あくまでも「自分たちの信条がみんなに強制される限り」だけどね。

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4 謎

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4.1 キメラ

p. 217 「だが情状酌量なしというのがますます政府の方針になりつつある。 インターネットが招いたカオスの中では、 すさまじい陣取り合戦が起こっている。 法やテクノロジーはコンテンツ所有者に、 今までにないほどの文化コントロール権を持たせる方向で変更されようとしている。 この過激主義の中では、 技術革新や創造の機会がいくつも失われてしまうだろう。 」

特区流行の昨今、 「知的財産制度実験特区」 って作ってみたらどうかな。 その特区のなかでは、 現在のテクノロジーで可能な ありとあらゆる知識の流通形態が実験される。 保護技術をつかってもいいし、 自由利用と何かの決済システムの組み合わせも考えられる。 で、 それを数年後パフォーマンス評価して、 どのシステムがもっとも社会的コストが小さいかを検討するんだ。

そうすれば既得権側のヘンテコなバイアスから離れて、 今のテクノロジーの恩恵を最大限に獲得することのできる制度を発見することができるんじゃないかと思う。 そして、 その制度を維持するために必要な最小限の法的規制を考えるんだ。 こういう仕事こそ公共性のある仕事だ。 こういう仕事こそ国家の仕事だ。

で、 これを国ぐるみで半ば意識的にやってるのが、 東南アジアの知的財産後進国と非難されている諸国なんじゃないかと穿った見方をしてしまう。

4.2 害

pp. 221 -- 222 「このような基本的想定は、 これからますます創造性に冷や水を浴びせるだろう。 あいまいな違反に対して極端な罰金を科する例が増え続けることで、 それに拍車がかかる。 ... インターネットで音楽を2曲ダウンロードした場合の最高賠償金額が、 過失で患者を切り刻む医者の賠償金額を上回る世界のばからしさは、 常識的に理解できるだろうか? 法の不透明さが極端に高い罰金に結びついた結果、 はかりしれないほどの創造性がまったく発揮されないか、 発揮されても表には出なくなる。 ... パブリック・ドメインを頼りに商売はできない。 パブリック・ドメインの境界が不明確なように設計されているからだ。 創造する権利を得るために金を払わなければ何もできない。 したがってそれをまかなえる者だけが創造することを認められる。 」

p. 223 「アメリカにおけるフェアユースは、 創造する権利を守るのに弁護士を雇う権利があるというだけの話だ。

... 判事や弁護士は、 フェアユースは法による規制と法が許すべきアクセスとの間に適切な「ゆとり」をもたらしてくれると自分たちに言い聞かせている。 だがそんなことをまともに信じている人がいるということ自体、 アメリカの司法制度がいかに現実との接点を失っているかをよく示している。 出版社が作家に課す規制、 映画配給会社が映画製作者に課す規制、 新聞社がジャーナリストに課す規制――創造性を抑制している本当の法律はそっちだ。 そしてこの規制は、 判事たちが自分で納得して見せている「法」とはほとんど関係がない。 」

創造するのに金がかかる世界。 資本主義の論理からすれば基本的には問題がない。 でも、 創造の良し悪しが、 投資額の多寡ではなく、 ある個人の着想と努力に依存しているとするならば、 創造の入り口に、 資金集めという一手間を設定することはまったくナンセンスだといえるだろう。

現実に機能する法と、 紙に書かれた法。 アメリカの司法制度を「現実との接点を失っている」と評されるのなら、 レッシグ先生は、 日本の司法制度をなんと表現するだろう。

p. 224 「だがこの話には、 まったく左翼らしくない面もある。 むしろ極端な市場主義信奉者が書きそうな側面があるのだ。 ... 文化の規制に対するわたしの非難は、 自由市場支持者の市場規制に対する非難と同じなのだ。 もちろん、 市場にある程度の規制が必要なのはだれもが認めるところだ――最低限でも所有権と契約についてのルール、 それを施行する法廷は必要だ。 同様にこの文化論争においても、 著作権の骨組みぐらいは必要なのはみんな認める。 でもフリー文化支持者も自由市場支持者も、 ある規制が望ましいからといって、 規制を増やすほどいいことにはならない、 と強硬に主張する。 そしてどちらも、 規制を盾に今日の強力な産業が明日のライバルから身を守るやり口にはきわめて敏感だ。 」

私は、 市場主義信奉者にかなり近いので、 ここで記述されているような理由で、 自由の価値を高く評価している。 規制は必要最小限にとどめるべきだ。 市場が人為的にコントロールされる要素は可能な限り少ないほうがよい。 同様に、 文化の発展の方向が、 文化それ自体がもつダイナミクスとは別の要素によって歪められ誘導されることに反対だ。 文化の歪みや誘導が、 商業主義の力によって引き起こされることは可能な限り避けなければならない。

pp. 227 -- 228 「これはマフィアの世界だ」

長くなるので引用はしないけど、 ぜひこのあたりを読んでみてほしい。 力の強いものが弱いものを脅すことは、 昔からそして未来にもあるだろう。 でも、 法はそれを後押ししてはいけない。 法の生命は均衡だからだ。 そして、 暴力や経済力で勝てない人の最後の剣として法が存在しないなら、 法などあってもなくても同じことだ。

p. 229 「自由な文化ではなく許認可文化の構築――これはいままで述べてきた変化がイノベーションを拘束する最大の道筋だ。 許認可文化とはつまり弁護士文化だ――創造性の中には弁護士を呼べるだけの力も含まれるという文化だ。 」

pp. 229 -- 230 「インターネットはコンテンツを効率的に広める。 その効率の良さはインターネットの設計上の特徴だ。 だがコンテンツ産業の側からすると、 この特性は「バグ」だった。 コンテンツが効率的に広まると、 コンテンツ事業者がコンテンツ配布をコントロールするのは困難になる。 この効率の良さに対するだれにでもわかる対策は、 インターネットを非効率的にすることだ。 インターネットのせいで「海賊行為」が可能になるのなら、 インターネットの足をへし折れ、 とこの勢力は考えているのだ。 」

知財弁護士もインターネット技術の規制も、 インターネットにおける情報流通への障害として機能する。 インターネットは、 技術的なレイヤでは、 障害を自動的に回避するように動作する。 インターネットのアーキテクチャを変えない限りこの特性は変わらない。 だから、 インターネットの効率性に困る人たちは、 社会的レイヤにおいて、 対策しようとしたんだろう。

p. 237 「過剰な規制は創造性をそこない、 イノベーションをつぶす。 未来を拒む権利を恐竜に与えてしまうのだ。 デジタルテクノロジーがもたらす民主主義的創造性をはぐくむ絶好の機会をふいにしてしまう。

これらの大きな損害のほか、 もうひとつわたしたちの先祖にとっては重要だったのに今日では忘れ去られているらしいことがある。 過剰な規制は人々を堕落させ、 法の支配を弱めてしまうのだ。 」

p. 238 「われわれの法は権利を守ることにかけてはひどいシステムだ。 われわれの伝統の恥だ。 現在のような法律のありかたの結果、 力ある者が法を行使して自分の気にくわない権利をすべて押しつぶせることになってしまっている。 」

p. 239 「多くのアメリカ人は――地域によって程度差はあるけれど、 でもアメリカ全土で――普通に合法的な生活を営むことは不可能だ。 「普通」であることが多少なりとも違法性を伴うのだから。 」

誰も守れないことを法が強制するとき、 法の権威が減少していく。 すぐに破ることのできる瑣末なことを法が強制するとき、 法の権威が減少していく。 「法、 法、 法、 法!」と叫ばれるとき、 私たちの法への敬意が失われていく。 道徳が失われていくなかで、 法の出番がどんどん増える。 そして、 法の威厳がどんどん低下していく。 瑣末な法が増えていく中で、 根本的な法の精神はなんだかわからなくなっていく。

pp. 240 -- 241 「すくなくとも4300万人の市民がインターネットでコンテンツをダウンロードし、 著作権保有者が許可していないやり方でそのコンテンツを加工している現在、 まず考えるべきことはFBIにどういう形でお出まし願うかではない。 著作権法が奉仕する正しい目的の実現にとって、 この禁止事項が本当に必要かどうかを考えるべきだ。 4300万人のアメリカ人を犯罪者にすることなくアーティストが支払いを受けられるようにする方法は他にないのだろうか? アメリカを犯罪者の巣窟にすることなくアーティストが支払いを受けられる方法があるのなら、 現在のようなやり口は筋が通っているだろうか?」

pp. 242 -- 243 「既存の著作権システムが実現するのと同じ正当な目的を実現するような別のシステムがあって、 それがしかも消費者やクリエーターの自由をずっと高めてくれるなら、 そっちを検討してみるのがきわめて望ましい ... 4300万人のアメリカ人を犯罪者にすることなしにアーティストへの支払いを確保する方法は存在するはずだ。 だがこの選択肢の重大な特徴は、 創造性の生産と供給のまったく異なる市場を構築することにある。 今の世界のコンテンツ供給の大部分をコントロールしている主要数社が、 極端なコントロールを行使することはなくなる。 かれらはかつての馬車と同じ運命をたどることになるだろう。

ただしこの馬車メーカー世代はすでに議会に鞍を置き、 法を乗りこなしてこの新しい形態の競争から身を守っている。 かれらにとっては4300万人のアメリカ人を犯罪者にするか、 自分自身が生き残るかの選択なのだ。 」

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5 バランス

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5.1 エルドレッド

p. 253 「これが元ミュージシャンで議員でもあったソニー・ボノを記念して成立された著作権延長法(Sonny Bono Copyright Term Extension Act, CTEA)だ。 かれの妻メアリー・ボノによればかれは「著作権は永遠であるべき」だと信じていたそうだ。 」

著作権が永遠だと信じるのは勝手だけど、 かつて著作権の保護期間が永遠だったとき、 著作権が学問や芸術の発展をどれだけ阻害したか、 とか、 今の技術環境において永遠の保護期間がいったいどういった効果を発揮するのか、 とか、 それくらいを判断できる程度の勉強を議員さんにはしてもらいたい。 その程度の知性がある人が議員の地位についてもらいたい。

p. 254 「議会が現行の期間を延長することに異議をとなえた者はだれひとりいなかった。 この怠慢も、 期間延長の習慣に議会が何のためらいも見せない原因の一部だろう。 それにこの延長が議会としても非常に儲かるということもある。 著作権保持者は著作権期間の延長に莫大な金を払うことを議会は知っている。 だから議会としては、 このボロもうけが続けば大喜びだ。

というのもこれこそが現在の政府制度の腐敗の中心にあるのだ。 「腐敗」といっても、 議員が収賄をしているという意味じゃない。 議会の行動によって利益を受ける人々が、 資金を集めてそれを議会に渡すことで、 議会の行動を促すような制度になっているということだ。 」

p. 256 「ロバート・フロストの財産管理財団のような立場にある受益者たちは同じ選択を迫られる:著作権を延長する法律の通過に一役買えば、 その延長によって大きな利益を得られる。 だから著作権が失効しそうになるたび、 著作権期間を延長させようと大規模なロビー活動が起こるのだ。 」

このあたりの理屈など、 イギリスでのエリザベス朝の勅許乱発の時の理屈とまったく同じ。 政府は、ほんのちょっと条文の一部を書き換えればいい。 「保護期間 14年」を改正して、 「保護期間 28年」とするだけでいい。 それだけで、 国民の富のかなりの量が、 少数の権利者の側に流れ込む。 政府のフトコロは少しも痛まない。 国民一人一人はごくわずかな額が負担増になるだけ。 だから何らかの歯止めがなければ、 いくらでもこの手の独占権は乱発される傾向にある。 私が前回書いた「勝手につける『コモンズ』への解説」にこのあたりの経緯を書いたから、 読んでみて。

こうした歯止めのない独占を制限するのが、 そもそもの特許法と著作権法の目的だったのだけど、 さすがに300年ほど経つうちに趣旨が変わってきてしまうんだね。 だから、 本質論のない解釈論ってのは、 不毛なんだと思う。

p. 269 「もちろんわたしは、 著作権延長法は言論の自由と自由な文化をすさまじくむしばむものだと考えていた。 いまもその考えに変わりはない。 だが最高裁判所がその申し立ての重要性に基づいて裁決を下すとの見解は、 ひたすら間違っている。 それは「その通りだ」という意味では「正しい」かもしれないが、 「そうあるべきではない」という意味で「間違い」なのだ。 わたしは憲法起草者たちの意図に忠実に解釈すればCTEAは絶対に違憲との結論が出るし、 憲法修正第1項の意味するところを忠実に解釈すれば、 現行の著作権期間を延長する権限は違憲との結論が当然出ると考えていた。 」

別に阿諛追従するつもりはないけど、 私も同じ意見だ。 「著作権は言論表現の自由を制約することはない」というドグマを信奉し、 実際に生じてる著作権の拡大に伴う言論の自由や創造力に対する抑圧的な効果を「存在しないもの」と思い込もうとするのは、 まともな学者の態度ではない。 それは、 カルトに対する信仰だ。 まだ、 自分たちの経済的利益のために、 信仰しているフリをしてるなら救いようがあるけど、 中には本気で著作権真理教を信じている人がいるようなのが怖い。

p. 270 「フィリス・シュラッフリー率いる団体イーグルフォーラムは最初からCTEAに反対していた。 シュラッフリー女史は、 CTEAは議会の身売りだと考えていた。 1998年11月に彼女はこの法律を通過させた共和党議会に対する辛辣な論説を執筆した。 「一般人に利益となる法案が足踏みばかりなのに、 一方で狭い一部の利益団体に濡れ手に粟の大もうけを生み出す法案が、 複雑な立法過程をさっさと通過するのが不思議だと思わないだろうか」と彼女は書いている。 そのこたえは金の力にあるとその論説はまとめていた。 シュラッフリーは委員会の立役者に対するディズニーの援助の数々を列挙し、 ディズニーにさらに20年にわたりミッキーマウスをコントロールする権利を与えたのは金であって、 正義ではないと論じている。 」

「フィリス・シュラッフリー率いる団体イーグルフォーラム」ってのがどういう団体かはよく知らないけど、 「強力な保守派」と記述されているところからすると、 メチャ保守派なんだろうと思う。

[山根] これは強硬な保守派じゃなくて、 影響力の強い(アメリカで比較的受け入れられやすい)保守派の団体という意味です(^^)。同性結婚反対とか、専業主婦はすばらしいとか、 国連のいうことを聞く筋合いはないとか。 問題の議会リポートは、 A Candid Report on the 105th Congress http://www.eagleforum.org/psr/1998/dec98/psrdec98.html でしょう。 ロビイストがどの議員を落としていったかが書いてある。くわしくは次の段落で。
で、 こういうマトモな保守派がいるだけでもアメリカはうらやましい。 なんで日本で保守派というと、 再軍備が好きだったり、 土建業が好きだったりするわけ? 謎すぎ。

[山根] アメリカの保守は、軍備拡張や国土防衛は好きですよ(^^)。 ただしアメリカの保守は、 アメリカの理念に基づいて利権団体を叩くということができるのが日本との違いです。 上記レポートの最後で、The new book Disney: The Mouse Betrayed by Peter & Rochelle Schweizer proves conclusively that Eisner's Disney Company is the enemy of all the family values which Republicans cherish. という下りがあるけど、日本の保守はこういう保守すべき価値観をそもそももっていない。 ただの利権分配集団です。

p. 271 「最高裁では、 こちらの意見書はこれ以上はないほどに多様なものとなった。 フリーソフトウェア財団(GNU/Linuxを可能にしたGNUプロジェクトの本拠地)による、 史実に基づくみごとな意見書があった。 不確実性のコストについてのインテル社による強力な意見書もあった。 著作権法学者ら、 憲法修正第一条を研究する法学者らによる意見書も二種類あった。 進歩条項の歴史に詳しい世界の専門家たちによる包括的で有無をいわせぬ意見書もあった。 」

p. 271 「この経済学者らによる意見書はノーベル賞受賞者五人――ロナルド・コース、 ジェームズ・ブキャナン、 ミルトン・フリードマン、 ケネス・アロー、 ジョージ・アカロフ――をはじめ十七人の経済学者によって署名されたものだ。 ノーベル賞受賞者の名前を見てもわかるように、 この経済学者たちはあらゆる政治的立場の広がりにわたる人々だった。 かれらの結論は強力だった:現行の著作権の期間延長が創造性の増幅につながるとの主張に説得力はない。 このような延長は、 「レント・シーキング」――野放しになった利益団体向け法制を指すのに経済学者が用いるかっこいい用語――以外のなにものでもない。 」

わたしの研究は、 図らずも、 自分の研究がそれらの意見書と同じ歴史と領域をカバーしていた。 だから、 それら意見書の主張がまったく正当であることを私は保証できる。

p. 272 「政府のほうも、 法を擁護するにあたり、 それなりの友人たちを擁していた。 注目すべきなのは、 この、 「友人たち」に歴史学者や経済学者は含まれていなかったことだ。 相手方の意見書は大手メディア会社、 議員、 著作権保有者らのみによって書かれていた。 」

ここの「友人たち」というのは、 amicus curiae 法廷助言者 のこと。 係属する事件について裁判所に情報または意見を提出する第三者のこと。 日本でも意見書とか、 鑑定書というものが提出される。 で、 著作権延長法を支持する側に、 歴史学者や経済学者がいなかった、 というのは当然なことで、 マトモに研究してたら、 こんな恥知らずな法律や主張を支持するわけには行かないからだ。

とはいえ、 日本の法律は理屈が違うからなぁ。 日本の著作権法延長法案がでてきたとき、 私が何か言っても、 「白田の議論はアレでしょ、 ホラ、 英米法に依拠したタワごとですから、 関係ないんですよ。 所詮、 社会学部に流れ出ていった『はぐれ学者純情派』ですからな! ワハハハ!」 でおしまいになること請け合い。 でも、 私の研究は、 ドイツやフランスの学説が、 イギリスでの歴史的経緯にかなり影響を受けていたことも指摘してるんですが... 276 ページから 283ページにかけて、 レッシグ先生のアメリカ連邦最高裁判所での絶望的な戦いの記録が展開する。 284ページからは、 最高裁判所の多数派への批判だ。 私がエルドレッド事件判決が出た当時書いた短いコメントがある。 そこでの印象は妥当なものだったようだ。

5.2 エルドレッド II

p. 292 「この法案は「パブリック・ドメイン拡大法」でもあり「著作権期間規制緩和法」でもあるからだ。 どっちにしても、 発想の要点は簡単明瞭:アクセスを妨害して知識拡大を阻害するだけの著作権については、 それをなくすようにしよう、 ということだ。 ... この提案に対する反応は驚くほど大きかった。 スティーブ・フォーブスがそれを社説で支持した。 賛意を表明するメールや手紙が怒濤のようになだれこんだ。 失われた創造性に問題をしぼれば、 著作権システムの筋が通らないことはだれにでもわかる。 よい共和党員なら、 ここでは政府規制はイノベーションと創造性の邪魔をしているだけだ、 と言うだろう。 そしてよい民主党員なら、 ここでは政府は知識へのアクセスとその伝搬をまともな理由無しに阻害しているだけだ、 と言うだろう。 実はこの問題については、 民主党と共和党の間に何のちがいもない。 現行システムのバカげた害はだれが見てもわかるのだ。 」

というような、 合理的な法案が、 297ページ以降に説明されているような理由でツブされていく様子は、 まことに情けない。 でも、 日本の場合は、 こうした提案自体が「なにをバカな!」で終わらせられてしまう。 だって、 主流の考え方は、 著作権は「純粋な形態の財産権」で、 「人格権から導かれるもの」で、 ある(極端な)人に言わせれば、 国際条約で認められた「基本的人権」であり、 超憲法的価値なんだから。 ね、 合理的に考える、 っていう選択肢はないんでしょうか。 ね、 私たちの国の法律は、 法律のなかの論理的整合性だけで存在しているんでしょうか。

p. 298 -- 299 「問題が海賊行為なら、 法が著作権保持者の側に立つのは正しいことだ。 わたしが述べた商業的海賊行為はまちがっているし有害だし、 法はそれを排除するよう機能すべきだ。 問題がP2P共有なら、 法がまだ著作権保有者の側につくのはわかりやすい。 共有の大部分は、 無害ではあるけれどまちがっているから。 世界のミッキーマウスの著作権期間についての話であっても、 まだ法律がハリウッドの味方をするのはわかる。 ほとんどの人は著作権期間を制限すべき理由を理解できていない。 だからその抵抗が心からの信念に基づくものだと見ることは十分に可能だ。

でも著作権保持者たちがエルドレッド法案のような提案にさえ反対するとなると、 やっとここでこの戦争を動かしているむきだしの利己心の見本が出てくる。 この法案は、 このままでは使われないすさまじく広範なコンテンツを解放してくれる。 自分のコンテンツを引き続きコントロールしたいと思う著作権保持者には、 何の邪魔にもならない。 世界中のアーカイブに死蔵されている、 ケヴィン・ケリーの言う「ダーク・コンテンツ」をあっさり解放するだけだ。 戦士たちがこんな変化にも反対するというのなら、 次の簡単な質問を考えてみるべきだろう: この業界が本当に求めているものは何なんだろう? この戦士たちはごくわずかな作業で自分たちのコンテンツを保護できる。 だからかれらがエルドレッド法みたいなものさえ妨害しようとするなら、 それは実は自分のコンテンツを保護しようというのが狙いじゃないのだ。 エルドレッド法を妨害しようとするのは、 これ以上何もパブリック・ドメインに入らないようにしようという努力なのだ。 それはパブリック・ドメインが決して競合しないようにするための手段であり、 商業的にコントロールされないコンテンツの利用が絶対ないようにするためであり、 自分たちの許可無しに使えるようなコンテンツの商業利用が絶対ないようにするための手段だ。

p. 299 -- 300 「戦士たちがなぜこういう味方をしたがるかは、 決してわからなくはない。 パブリック・ドメインとインターネットが結びついた競合がつぶれればなぜ連中の利益になるかも、 理解はできる。 RCAがFMの競合を恐れたように、 かれらはパブリック・ドメインが大衆と結びついて、 その大衆がそれを使って創造し、 その創造物を共有する手段を持っていることから生じる競争を怖がっている。

ここでの引用は、 たぶんどう考えても長すぎる。 だからレッシグ先生や山形さんが私を著作権法違反で訴えても、 私は怒らない。 でも、 彼らは この部分をこそ、 世の中に広めてもらいたいんだろうと私は信じる。

文化と情報の完全コントロール。 全ての情報と知識の利用が誰かの許可の下にある世界。 その世界は、 たんにいくつかの私企業の「利益」という目的のために、 情報技術を応用しながら、 否応なしに形成されていく。 こうした「構造的」な悲劇をくつがえして、 創造性のある、 まともな人間を維持することが賢明な政治の役割だ。

私たちにはまだ自由なネットワークがある。 まだそれなりに豊富なパブリック・ドメインがある。 だから今、 クリエイティヴ・コモンズに参加してパブリック・ドメインやコモンズを拡大することは重大な価値をもつ。 私が、 クリエイティヴ・コモンズが新しい形態の政府だと考えたのも、 彼らが、 商業主義に目が眩んだ政府が失敗している重大な仕事を推進しているからだ。

いいかい。 クリエイティヴ・コモンズは、 カッコいいバナーをブログに張ることでも、 ロゴ入りTシャツを買うことでもない。 まして、 ライセンスの内容を、 どうたらこうたら議論して分析することでもない。 とても3秒間では伝えられない、 とても短文では書き表すことのできない、 知的財産という言葉・概念をめぐって起きている根本的問題を理解する努力をすることなんだと私は思う。 理解できれば、 何をすればいいのかはまともな人間ならわかる。 CCロゴは確かにわかりやすい。 クリエイティヴ・コモンズのシステムは合理的だ。 でも、 システムだけで事は片付かない。 この問題の核心を理解しなければ、 それはたんなる流行・スタイルで終わってしまう。

だから、 レッシグ先生はプロパガンダだと言われることを承知で、 『CODE』や『コモンズ』の焼き直しになる『Free Culture』を書いたんだよ。 で、 彼の学者としてのリテラシーでは、 これ以上簡単にわかりやすく書くことはできないと思う。 これ以上簡単にしようとすると、 あとは、 たんなる扇動文書か信仰箇条になってしまう。 だから、 レッシグ先生を「狂信的なカルトの首領」にしたくないんだったら、 読む私たちがレッシグ先生に近づかなきゃいけない。 クリエイティヴ・コモンズはそれから先の話だ。

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6 結論

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p. 306 「かれらは「海賊行為」と戦うための狂信的な戦争をしかけ、 創造性の文化をぼろぼろにする。 「創造的財産」という概念を用語しつつ、 真のクリエーターたちを現代版のおこぼれもらいの水飲み百姓にしてしまう。 かれらは、 権利がバランスのとれたものであるべきだという発想に怒り狂う。 このコンテンツ戦争の主要参加者たちすべてが、 このもっとバランスのとれた理想の受益者だったにもかかわらずだ。 偽善ぶりがぷんぷんする。 強力なロビー、 複雑な問題、 そしてMTV並の短い関心持続期間が、 自由な文化にとっての「完璧な嵐」を作り出す。 」

p. 311 「ボーランド女史が、 「権利を免除したり放棄したりすることを目的にした」会合はおかしい、 と言うとき、 彼女はWIPOが知的財産権を持つ個人の選択に介入することに関心があるんだと言っているわけだ。 WIPOの目的が、 個人が知的財産権を「免除」したり「放棄」したりするのを止めさせることであるべきだ、 と。 WIPOの関心は単に知的財産権を最大化することのみならず、 それが最も極端で制約の多い形で行使されるようにすることなのだ、 と言っているに等しい。

英米法の伝統では、 まさにそうした財産システムとしてとても有名なものがある。 それは「封建制」というものだ。 封建制のもとでは、 財産は比較的少数の個人や団体に所有されていただけじゃない。 そしてその財産に伴う権利も強力で広範なものだっただけじゃない。 封建制は、 その制度内の財産所有者が、 配下の人々や土地を自由市場に開放して封建制を弱めないように保証することに強い利害を持っていた。 封建制は、 最大限のコントロールと集中にかかっていた。 それはそのコントロールを阻害しかねないあらゆる自由と戦った。 」

前に出てきた、 許可制の世界が「封建制」というのは、 この部分の話だ。 くどいけど私が書いた「知的財産権と封建制について」 というHotWiredの記事を読んでみて。

封建制にも美点があったかもしれない。 成長を抑制し、 持続可能な社会のシステムとして合理的だったかもしれない。 階級社会にもそれなりに美しい文化の花が咲いていたかもしれない。 でも、 近代法を採用した私たちは、 封建制に反対し、 自由主義を選択したはずだ。 それで、 かなり社会はマシになった。 ただ、 マシになった結果について、 いろいろと批判もあるだろう。 でも、 もう一度封建制に戻りたいと思っている人は、 多くないと思う。 ... 多いんですか? ご意見募集。

で、 知的財について封建制を採用することは、 情報の支配を経由して人を支配することを容認することになる。 人が情報の面から支配されるとき、 もはやそれは民主主義を支えることはできない。 すなわち、 茶番劇である民主主義の皮をかぶった、なにかもっとヤバい統治形態が完成することになるだろう。 そしたら、 たぶん「利益」を求めてこの制度を推進していた人たちですら、 その悲劇から逃れることができないだろう。

ドイツのナチズムは、 ある面、 資本家たちの利益追求目的から支持され支援された。 で、 いつのまにか、 ヒトラーという怪物をだれも止められなくなった。 そしてドイツは灰燼に帰した。

p. 313 「でも、 政府の役割が「バランスを追求する」ことであるべきだというのがバカげていると言うのであれば、 わたしはバカの側に分類してほしい。 というのも、 そうなったらこれがかなり深刻な問題になってきたということだからだ。 もし政府がバランスを追求しようとせず、 政府が単に最強のロビイストたちの道具でしかないということが誰の目にも明らかになっていて、 政府に別の基準を要求するのがバカげていて、 政府がウソではなく真実を語るよう求めるという発想がおめでたいのであれば、 世界最強の民主主義だったはずのアメリカは、 いったいどうなっちゃったというのだ。

政府高官が真実をしゃべると期待するのは頭がおかしいのかもしれない。 政府の政策が、 強力な利益団体のお手盛り以上の何かだと信じるのは頭がおかしいのかもしれない。 歴史を通じてずっとアメリカの伝統であったもの――自由な文化――を守ろうと論じるのは頭がおかしいのかもしれない。

それが頭がおかしいのなら、 キチガイをもっと増やさなきゃいけない。 それもすぐに。 」

このあたりの記述は笑えない。 私が民主主義を支える市民社会を維持しなきゃというと、冷笑される。 バカな人たちをもう少しマシにするために啓蒙しなきゃというと、 無駄だと諭される。 コンピュータ・ネットワーク技術で人間は新しい段階に進むんだというと、 SFの読みすぎ?と言われる。

でも、 私がレッシグ先生と違うのは、 やっぱりキチガイを増やすのは良くないんだと思ってること。 私のタワごとに引っかかって人生を踏み外す人は、 もうすでに踏み外してしまった物好きたちだけでいい。

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7 あとがき

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あとがきは、 いいだろう。 私たちが悲劇から逃れるためのいくつかの提案がされている。 レッシグ先生の答えをそのまま鵜呑みにするより、 自分たちで何ができるか考えてみたほうがいい。

私たち日本人は、 自分たちの自由な文化のために何ができるだろうか。

Note

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 助教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp