Rage Against Intellectual Monopoly

白田 秀彰

※ 本研究は科学研究費補助金基盤研究(A)
「コンテンツの創作・流通・利用主体の利害と著作権法の役割」
(課題番号23243017)の助成を受けたものである。

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1 はじめにの前に

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昨年(2010)の終わり頃のことだ。 『〈反〉知的独占』 という魅力的な表題の本が刊行されたことを知った。翻訳者を見たら、 またもや 山形浩生さんだった。ありがたや。ところが、 そのころ私は自分の講義でつかう『情報法テキスト』の改定作業の真っ最中であり、 なかなか読むことができず、2011年の夏休みまで、 こうして書評というか解題というか、そういうものを公開することができなかった。 が、なんとしても夏休み中には、終わらせようと思って取り組んだ。 こうして読者の皆さまにお目にかけることができて、嬉しく思う。そして、 この解題をきっかけにして、 比較的分厚いこの本を読んでいただければありがたく思う。

『〈反〉知的独占』というタイトルをみて、「パクリ容認乙」 などと脊髄反射するタイプの人は、この解題を読んでも書籍を読んでも、 たぶん理解できないから、この解題も書籍も縁がないものと思う。とはいえ、 「独占権がなければ、 たとえば中国による新幹線技術へのフリーライド問題に似たような事件が、 次々に起きるんじゃないか」という、 かなりまともな反応は当然出てくるものと思う。

でも、考えてほしい。日本が技術供与までしたのに、 その技術をパクったとされている中国の新幹線が致命的な欠陥を持っていることは、 たぶん中国人ですら認めるだろう。 特許の対象となるようなアイデアを含む最新の技術は、技術文書を読んだり、 製品を分解したりして、その抽象的な水準でのアイデアをコピーすることだけでは、 実施できない。特許は技術のなかでも「アイデア」だけを保護し、著作権は特定の 「表現」だけを保護する。アイデアをパクることができることと、 その技術を実施しうるかは、必ずしも同じではない。仮に特許制度があっても、 旧ソ連は、超音速旅客機「コンコルド」の技術や、「スペースシャトル」 の技術をスパイして盗んだ。その結果、現在の中国の新幹線と同じように、ソ連製の 「ちょっとだけ違う そっくりさん」 が作られて、見事に墜落し失敗した。

その一方で、 最近(2011年8月) Googleは、たいへんな高額で Motorola を買収した。 これは、Googleに対抗する企業からの特許訴訟攻撃に対抗するため、 クロスライセンスの対象となるような特許を多数保有する必要があったというのも、 理由の一つだと報道されている。自分のビジネスを行う自由を、 他社が特許を理由として妨害してくる ── もちろん、 特許をそのように使うことは合法なのだけど、 もともと特許が産業の発展を目的としていることに思いを致せば、「何か変だな」 という気分にならないだろうか。そして、そうした 「特許を理由とした妨害を無効化するために、 相手を妨害しうる特許で対抗せざる得ない状況」を素直に眺めれば、 「この特許の戦争で一番利益を得るのが、 法律や制度に関係している人たちなんじゃないか」と気がつかないだろうか。 まるで武器商人のように。

本書は、こうした「あたりまえ」「当然だ」とされている考え方に潜んでいる、 「なんだか変だぞ」という違和感にはっきりとした形を与えるために書かれている。 そしてその「形をもった違和感」は、思い過ごしではなく、 制度そのものの根本的な仕組み自体に由来することを説明してくれる。

この『〈反〉知的独占』での著者たちの主張には、いろいろと批判があるようだが、 最も大雑把な批判は、 「知的財産権がさまざまな害悪をもたらしているとしても、それが無くなったら、 創作者が利益を得られなくなるだろう」というものだ。そこで、 よくよく書名を見てもらいたい。筆者たちは、知的財産制度のなかで、 それが市場にもたらす「独占的」効果を批判しており、 「独占的仕組みを用いなくても創作者が利益を得ることが十分に可能であり、 さらには社会的な利益も大幅に増大する」と主張しているのだ。 ここを混同した批判は当たらない。彼らは、特許制度や著作権制度を、 より独占的でない仕組みに変更すべきだと主張しているのだ。

特許制度や著作権制度は、歴史的発展過程を見ても、経済学的効果をみても、 「法的に許された独占」を基幹としているのだから、 もし独占部分を廃止するような制度変更をすれば、 現行特許制度や著作権制度の廃止となって現れるだろう。だが、 彼らは本書のなかでさまざまな代替的仕組みの手掛かりを提示してくれている。 本書で示されているのは、 「新しく構築されるだろう発明者や創作者を守る制度は、 もはや知的財産といった概念とは無関係なのだ」 という主張として理解するべきだろう。

「知的財産制度を批判していながら、本として出版して印税を得ているのは矛盾」 といった、まるで小学生のような批判をしている人もいるようだが、 原文 も、 翻訳原稿もネットで全文公開されていた。にもかかわらず、 それが書籍として市場取引される理由について考えるくらいのことはしてもよいだろ う。事実、山形さんも、私も、ネットで全文を参照できるよう公開していた文書を、 書籍として刊行したことがある。その刊行によって、私は、 ちょっとした額の著作権使用料(いわゆる印税)を頂くことができた。

ある評者が指摘しているように、本書は、 その仕組みが異なる特許制度と著作権制度を同じ枠組みで論破しようとしているため、 批判の焦点がぶれているように私も考える。私は著作権制度にもっぱら関心があるが、 本書は、どちらかというと特許制度に重点をおいて取り上げている。 この点については、読者も意識的に読む必要がある。

さて、本文で重要だと思った部分を引用し、そして私のコメントをつけていこう。

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2 はじめに

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[8] 競争を抑制して特権を得ようとする浪費的な取り組みを、 経済学ではレントシーキングという。歴史と常識が示すように、 これは合法的独占の毒入り果実だ。ワットが試みた1769年の特許の期間延長は、 レントシーキングのきわめて悪質な例である: すでに特許のもととなる発明は終わっていたのだから、 特許期間を延長してもそれを刺激することにはならず、明らかに不必要だった。 しかもワットは特許を使ってホーンブロワー、 ワズボローなど競争相手のイノベーションを抑制していた。
本書の要点を要約すると、この一節になると思う。知的財産権は、 単なるレントシーキングの手段に過ぎないということだ。 言い換えると次のような表現になる。

[12] 思いはさまざまだが、 知的財産法は創造のために充分なインセンティブの提供と、 既存のアイデアを利用する自由の提供をうまく両立させる必要があるという点では双 方とも同意しているように見受けられる。別の表現をすると、 双方とも知的財産権はイノベーションを育てる「必要悪」であると合意していて、 意見の相違があるのはどこに境界線を引くべきかという点だけだ。 知的財産の支持者に言わせれば、現行の独占利益はかつかつのものでしかないし、 知的財産の敵に言わせれば、現行の独占利益は大きすぎるのだ。
強調部分についていえば、現行の知的財産制度は、 権利者と呼ばれる人たちにそれほど大きな利益を与えないばかりか、 利用者と呼ばれる人たちにたいへんな不便と不利益を与える結果になっていると、 私は考えている。複雑な仕組みは、知的財産制度を運営している人たちには、 比較的大きな利益をもたらしている。しかし、それは権利者(生産者)と利用者 (消費者)が形成する知的財産の市場として考えたとき、不要な「取引コスト」 に過ぎない。

自由市場経済を基礎とする政府であれば、この「取引コスト」 を最小化する制度設計を目指すはずなのだが、(1) 権利者と呼ばれる人たちが、 現在のささやかな利益が制度変更によって失われるのではないかと恐怖していること、 また新しい制度においてより大きな利益が得られると考えないこと、(2) 政府が、 もっぱら権利者と呼ばれる人たちと制度を運営している人たちと近しい関係にあるの で、制度変更の動機を持たないこと、 によって不効率な現行制度が維持されたままになっている。

むしろ、アップル社やアマゾン社のような民間企業が、 現行制度と折り合いをつけながら、積極的に「取引コスト」 を最小化するサービスを提供している状況を見ると、この分野においては、 法の縛りや政府の関与がない方が、 全体の利益を最大化できるのではないかとすら思う。

私は、 大学院時代にイギリスの書籍取引制度史の研究をもとにして著作権制度発達史を研究 した。そして現在、日本の書籍取引制度史の研究を進めている。 制度変更を怖がっているみなさんに、 知的財産についても市場の仕組みがきちんと働いていたことを示すことで、 彼らの恐怖感を軽減できればよいなあ、と思っている。

[12] 本書の分析から出てくる結論はどちらとも異なる。 論理は大筋でつぎのようなものである。だれだって独占状態を望むし、 顧客や模倣者たちと争いたくはない。最近、特許や著作権は、 一部のアイデアの作り手に独占を認めている。 確かに見返りなしで何かをする人間はほとんどいない: 人は努力には対価を望むものだ。しかし、 イノベーターにはその取り組みに応じた対価が与えられるべきだという主張から、 特許と著作権、 つまり独占が報酬をもたらす最良かつ唯一の方法だという結論に飛びつくのは、 あまりに飛躍が大きくて危険だ。「特許こそ、 価値ある商業的アイデアを思いついた人に報いる唯一無二の方法」といった主張は、 ビジネス、法、経済関係の論評でよく見られる。これから見ていくように、 イノベーターに (それも大いに) 報いる方法は他にもたくさんあるし、 ほとんどは特許や著作権が現在与えている独占力よりも社会にとって良いものだ。 特許や著作権がなくともイノベーターたちが対価を得られるなら、 こんな疑問が生まれる: 知的財産権はイノベーションと創造のインセンティブを生むという本来の目的を果た しており、かなりの不都合があっても充分に相殺されているというのは本当か? 本書では証拠と理論の両方を見る。われわれの結論はこうだ。 作り手の財産権は「知的財産」がなくても充分に保護されるし、 知的財産はイノベーションも創造性も伸ばさない。これらは不必要悪なのだ。
私も、上記の結論に同意する。知的財産制度は、 生み出された知的財と呼ばれるものから生じる経済的利益を、 関係者だと主張する人々によって分配するためのいくつかの仕組みの一つに過ぎない。 最も強力な分配の仕組みは経済的な取引であり、知的財産権は、 その経済的取引の初期状態を設定するための仕組みにすぎない。 取引の初期状態の設計は、つづく経済的な取引に影響を与えるため、 それなりに重要だ。しかし、作品を生み出すための動機には直接結びつかない。

[18─19] 要するに、知的独占を唯一正当化するのは、それが ── 現実に、 しかも大幅に ── イノベーションと創造性を促進するから、という理由だ。 過去219年間で、これについて何が学べるだろう? 本書の最後のテーマは、 知的独占とイノベーションが残した証拠を見ることだ。 知的独占がさらなる創造性とイノベーションにつながるというのは事実か? データを見たところ、そのような証拠はない。 そしてこの結論に至った経済学者はわれわれが初めて、というわけでもない。 1958年に、もっと古いデータを振り返って、有名な経済学者フリッツ・ マハラップはこう書いている。

その経済的帰結についての現在の知識に基づくなら、 いま (特許制度の)実施を奨励するのは、無責任というものだ。
イノベーションと創造性を伸ばす、 という期待通りの目的を知的独占が果たすという証拠はないのだから、 知的独占には便益がない。だから社会としても、 その費用と便益とのバランスなど考えるまでも。こうして最終結論が導き出される: 知的独占は不必要悪なのだ。
大事なことは二回繰り返すように教わった。本書でも二回繰り返されている。 「知的独占は不必要悪」だと。

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3 競争下での創造

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[26] ソフトウェア業界は、本書のサブテーマの一つの好例だ。 知的独占はイノベーションの要因ではなく、むしろその望ましくない結果だといえる。 アイデアと創造性に富んだ活発な新興産業では、知的独占は有益な役割を果たさない。 アイデアが枯渇してしまったところに新たな競争相手たちが新しいアイデアをもって 参入してきたときこそ、持たざるものたちは政府の介入 ── および知的「財産」 ── に頼って、昔からの儲かる商売を守るのだ。

ある新しい技術体系の端緒が開かれ、その体系が爆発的に拡大していく場面において、 知的財産権なるものが貢献した例を私も思いつかない。というのは、 本書でも紹介されているように、新しい技術体系はえてして、 著作権法や特許法などが予定している「著作物」なり「発明」 なりの定義から外れていることが多いからだ。

この法の欠缺は、むしろ新しい技術体系の発展を阻害しないという意味で、 利点だとすらいえる。そして、その技術体系が十分に成熟して産業化し、何らかの 「秩序の枠」に収められなければならない段階に至って、初めて、拡大した知的 「領土」の「法的支配権」を巡っての争いが始まる。それは、 領土を拡大するための動機ではなくて、確定のためのルールにすぎない。

そして法は本質的に現状を維持しようとする駆動力をもつ。すると、 確定された法的支配権を既得権として主張することで、ここに書かれているように、 新規参入者を妨害する道具として使うことになる。しかもそれは「正義」 なのだから、(ここ大事) 政府の費用で実現してもらえるという、 とても効率のよい戦略なのだ。

[29] オープンソースはインターネットを牛耳っている。 インターネットで何を閲覧しているにせよ ── 何を見ているかは敢えて聞かずにお こう ── それを提供しているのはウェブサーバだ。 ネットクラフトは定期的にウェブサイトを調査して、 ウェブサーバに何が使われているか調べている。 2004年12月にはネット上の5819万4836のウェブサイトすべてを調べ上げた。その結果、 オープンソース・ウェブサーバのApache が市場の68.43%、 マイクロソフトが20.86%、サンはわずか3.14%を占めることがわかった。 Apache の占める割合は増加しつつあり、その他は低下しつつある。だからこそ、 今日ウェブサイトを見たのなら、 そのときオープンソースソフトウェアを利用したことはほぼまちがいないのだ。

こちらは、 オープンソース ── ソフトウェアのソースコードをだれでも参照し応用することが できる環境に置くことで改良を容易にする ── を選択した場合に生じた、 著しい技術展開についての具体例として挙げられている。 オープンソースの著しい成功は、「知的独占が必要である」 とする主張の反証になっている。

この文章を読んでいる人物なら、 GPLやOSDについて十分な知識を既に持っていると思うが、そうでない人のために、 オープンソースに関する説明を以下に。

[30] なぜソフトウェア市場は競争のもとで、 知的独占なしに実にうまく機能したのか? フリーソフトウェアライセンスの普及によって、 競争において協働することの大きなメリットが発揮された。 オープンソースソフトウェアは、 コンピュータプログラムをコンパイルするためのソースコードを入手させてくれる。 ここで特に重要なのは、リチャード・ ストールマンたちが先駆けとなったフリーソフトウェア運動だ。 フリーソフトウェアはオープンソースであるだけでなく、GNU 一般公有許諾 (GPL) などのライセンスのもとにリリースされており、改変や配布は、 改変後のソースコードが同じライセンスのもとで入手できる状態でのみ許可されてい る。当然ながら、ここでの「フリー」とは (GNU プロジェクトのモットーによると) 「自由 (フリーダム) のフリーであって、ビールが無料 (フリー) のフリーではない」。フリーソフトウェアはしばしば無料で配布されているが、 フリーソフトを特徴付けているのは売価ではなく、 ソフトウェアをユーザが自由に活用できるという点だ。 フリーソフトウェアライセンスは、 自分の貢献もフリーに入手できるようにしたいと考える人々の誓約であり、 またその後もユーザが望むならソースコードにアクセスできるという保証でもある。

知的財産権、とくに著作権は、ある作品が「誰かのもの」であることが確定すると、 直ちに権利が発生し、独占的権利を行使できることになっている。 GPLやOSDにおいても、著作権それ自体は確かに発生する。が、権利を獲得した人物が、 自分の著作物から派生する著作物への自由なアクセスを条件として、 自分の独占的権利行使を行わないと宣言することで、 市場において独占的効果が発揮されない環境を作り出しているのだ。

[31] アレクシス・ド・トクヴィル研究所のケン・ブラウン所長のような、 ワシントンの保守系シンクタンクに所属する人物が、 自由企業制度の大きな利点についてはきわめて声高に支持しているのに、 GPL などのパブリックライセンスに反対しているというのは、 われわれとしては驚いてしまう。ブラウンは、 こうした民間の制度が何やら政府社会主義だと考えているようだ。 著作権や特許といった知的独占の排除や緩和 ── これは自由企業制度と資本主義に 反する ── には大きな根拠があるが、 その一方で企業と競争市場制度を強める GPL などの「コピーレフト」 を守るべきだという主張も、強い根拠があるのだ。

ケン・ブラウン氏のような立場は、 資本主義すなわち資本が市場の中でさらに資本を生む仕組みについては賛成だが、 資本に属していない参加者の参入よって市場がより競争的になることを嫌っているの だから、自由主義者ではないことになる。

[34─35] まず、19世紀にイギリスの作家がアメリカで本を売っていた例について。 「19世紀のアメリカでは」合法的に売られている本の写しを購入する代金以外は、 著者にまったく支払いせずに「だれでも海外出版物を自由に再版できた」。 これにチャールズ・ディケンズはひどく腹を立てた。 かれの作品はその他多くのイギリス人小説家と同じく、 アメリカで広く流通していたのだ。だがそれでもアメリカの出版社は、 イギリスの作家たちと取り決めを結べば利益になると気づいた。 1876-8年の委員会文書によると、「イギリスの作家たちは、 (著作権のない) アメリカの出版社から本の売り上げについて (イギリスでの) 印税を上回る金額を受け取ることがしばしばあった」。 つまり著作権がなくても作家たちは利益を得られたし、 ときには著作権があった場合より大金を手にしたのだ。

どうしてそうなったか? 当時も今も、本、 とりわけ良書に対する需要は大いにせっかちなものだ。 イギリスの作家たちは新作がイギリスで出版される前に、 原稿をアメリカの出版社に売ったのだ。原稿を買ったアメリカの出版社としては、 できるかぎり早くその小説の市場を飽和させて、 安っぽい模倣者がすぐに現れるのを防ぐインセンティブが充分に生じる。 これでかなり低価格による大量出版が行われるようになった。 イギリスの作家たちがアメリカの出版社から前払いで受けた収入は、 イギリスで何年もかけて稼ぐ印税を上回ることがしばしばあった。 当時アメリカ市場はイギリス市場と同程度の規模だったことに注目。

この部分は、「市場先占」という戦略で、 知的財産権がなくても利益を挙げられる場合についての具体例だ。

私の研究では、この事態は次のように展開する。 イギリス作品に著作権を認めなかったため、アメリカ書籍市場が飽和してしまい、 出版業が危機に陥ってしまった。すると、アメリカ出版者たちは、 むしろ積極的にイギリス作品の著作権を認め、 自分たちの間で尊重する仕組みを作った。こうすることで、(A)「ある書籍を (アメリカ)市場に供給する主体を一つに限定し供給量を制御可能にすることで、 ある書籍の市場価格を一定水準に維持することで、事業を安定させる」ことになった。 私は、知的財産権の本質的機能は、(A) 以外の何物でもないと考えている。

[36─37] この報告書が公表されたのは2004年7月22日の正午である。 同文書はこのとき政府のウェブサイトから自由に入手できた。W・W・ ノートン社が出版した印刷版も同時に書店の棚に並んだ。 ノートンは興味深い契約に署名している。

この81歳の出版者が 9/11 委員会と異例の出版契約を結んだのは5月のことだ: 報告書発表の日にそのペーパーバック版を出版することに合意した。 (中略) 出版権のために費用を払う必要はないが、 特急印刷と輸送の費用は負担しなければならなかったし、 委員会は流出を避けるために、ぎりぎりまで原稿を渡さなかった。 ノートン側はその費用や、報告を入手した正確な時期については情報を開示しない。 だが急ぎの印刷は必ず追加費用がかかるため、 ノートンが利益を上げるのはことさら難しくなる。

また、委員会とノートンは5月に、 568頁のこの報告書を定価10ドルというかなり安い価格で販売することに合意してい たため、費用の回収はさらに困難だ (Amazon.com は現在、 報告書を1冊8ドル (送料別) で販売しているし、 ワシントンDC の政府印刷局を訪れれば同局出版の報告書が8.5ドルで買える) 。 競争はこれだけではない。 委員会のウェブサイトでは報告書が無料でダウンロードできる。なお、 ノートンは 9/11 の犠牲者の遺族には一部ずつ無料で提供することに同意している。

これではノートンがかなり不利な契約を結んだように思える ── 他の出版社は政府 の辣腕交渉者につけ込まれなくてよかったと胸をなで下ろしていると考える人もいる だろう。しかし実は、ノートンの商売敵たちはこの契約をうらやんだ。 とりわけ競争相手の一つは ── ニューヨーク・タイムズ紙 ── この契約を 「印税フリーの棚ぼた」と評した。 なんだかずいぶんありがたい物のような言い方ではないか。
そして、上記が「市場先占」による時間差による利益が、 ある種の著作物を出版する事業の動機付けとして十分に大きいことの一つの例だ。 もちろん、「市場先占」以外にもさまざまな方法で、 知的財産権などなくても著作物から利益を挙げることができる。

[41] それでもだれだって独占状態を望むものだし、 報道界が欲に左右されないわけではない。革新的な技術と創造的な競争相手の登場で、 既存の著作権法を用いて独占力を保持あるいは手にすることへの誘惑はとりわけ抗い がたいものになった。現に、国際比較してみると、 国の報道界が不振で競争がゆるい国ほど、 新規参入者からの独占的な保護が強く求められるという印象を受ける。 スペインの例を考えてみよう。ごく少数の出版社、 5社ほどが国内市場を支配しており、なかでもグルッポ・プリサは、 1982年以来すべての社会主義政権に寵愛され、揺るぎない業界リーダーとなっている。 2002年にスペインの大手出版社4社が、 ニュース配信業界の完全独占を可能にするカルテルの設置を求めてロビー活動を始め た。国家機関ゲデプレンサが設立され、これらの出版社がその所有と経営にあたり、 あらゆるメディアにおけるニュース配信を監督する権利と義務を委託されるという仕 組みだ。ニュースは使用許諾を受けて、「使用」に応じて「使用者料金」 が徴収される。 音楽を公共の場で演奏するとき音楽独占企業が徴収する使用料に似たものである。 ロビイスト集団によると、 この料金徴収活動はインターネットから紙媒体の切り抜きのコピー、 大組織の内部で配布されるニュース記事にも及ぶという。

単純に、「すごいな」と思ったので抜粋した。 ニュースに対してカルテルを与えるよう要求するという発想がすごい。もちろん、 この計画は頓挫したわけだが、似たような話は、日本国内でもないわけではない。 「記者クラブ制度」というキーワードで調べてみよう。

[45─46] 著作権が創造性に及ぼした影響を理解するために、 まずは歴史を見てみよう。著作権がヨーロッパ諸国で生まれたのは、 印刷機が発明された後のことである。著作権が生まれたのは、 模倣者から作家の利益を守るためではなく、創造性を助長するためでもない。 むしろ政府検閲の道具として生まれたのだ。王室や宗教勢力は、 印刷していいものといけないものを決める権利を勝手に自分のものにした。 したがって「コピーする権利」は権力者が、 印刷して読むのにふさわしいと考えたものを市民に印刷して読ませる利権だった。 ガリレオの裁判は、ローマ法王による著作権の行使だったのだ。

後に (おもに18世紀後半) 、やはり検閲目的の王室特許の普及と並行して、 著作権利権が徴税道具として利用されるようになった。 著作権の販売は特許の販売とまったく同じで、 王室に賄賂を送る見返りに独占力を与えるということだ。 イギリスにおいては印刷と出版を事実上独占している書籍出版業組合の設立が、 おそらく最も有名な例である。イギリスからも、 似たような法を導入したヴェネツィア共和国など他のヨーロッパの国家からも、 これらが文学の創造やリテラシーの広がりを特に後押ししたという証拠は得られてい ない。

正確には、著作権が生まれたのは、同業者間での市場分割カルテルのため。 後にそれが国家の制度として法律によって強制されるようになったのは、検閲のため。 「コピー」とは、動詞としての「複製する」ではなく、名詞としての「版」であった。 以上が私の研究から言える訂正点。だから、「ガリレオの裁判が、 ローマ法王による著作権の行使」というのは適切な表現ではない。しかしながら、 著作権制度が「文学の創造やリテラシーの広がりを特に後押し」 していないという点についてはまったく同意。私の研究した期間において、 著作権制度は、 その時代の優れた研究者たちから出版業者たちが行使する邪魔な特権として非難され ていた。そして、 ごく小数の作家たちから収入を生み出すありがたい制度と認識されていた。

[46] アン法は1710年までにイギリスで導入されたもので、 近代的精神にのっとって検閲機能を文学作品の個人所有権から分離して、 14年間にわたって独占的な出版権を著作者あるいは原稿の合法的購入者に持たせた最 初の法と見なされている。この期間に注目:14年間。 現行のように著作者の死後75年間ではない。ウィリアム・ シェイクスピアはこの14年間の保護さえなくても、 著作を書き上げるインセンティブを見つけていた。だが1710年以降、 シェイクスピアは現れていない。

この著作権法については議論が紛糾し、イギリスで完全に受け入れられて、 ヨーロッパ全土に広がるまでにはおよそ1世紀を要した。 フランス革命の頃にはpropriéte littéraire (著作権) として、 芸術、文学、 音楽作品はその著作者に帰属し、 国王の認可なしに任意で販売や複製をおこなえるという考え方が一般的になった。 著作権のための戦いは独占を求める戦いではなく、 むしろ思想や表現に対するとてもおそろしい王室独占の廃止を求めるものだった。 著作権のない18世紀のフランス出版界を取り巻いていた制度もいささか興味深い。 本は頻繁かつ迅速に複製されていた。印税はなくて、 著作者は前もって支払いを受けていた。 たった1冊の本を出版するために小さな会社がいくつも組織された。 つまり本は出版され、著作者は支払いを受けていて、 それらはすべて著作権の恩恵なしにおこなわれていたのだ。

この部分で一番大切なのは、「著作権のための戦いは独占を求める戦いではなく、 むしろ思想や表現に対するとてもおそろしい王室独占の廃止を求めるものだった」 という部分。かつて、 国王大権から派生した独占権の付与に依存していた知的財産権制度が、 国王大権から分離して、 制度として独立する過程が知的財産権の歴史だと言ってもいい。だから、 知的財産権の根拠がなんと述べられようと、どのように正当化されようと、 それが独占権であるという性質は明らかなのだ。

[47] 1790年のアメリカに導入された著作権の形態と、 外国の著作家たちに著作権の保護がなかったことがこの国のリテラシーの普及に貢献 したことは、この章ですでに言及した。ドイツでは独占の味方であるビスマルクが、 1870年にイギリスのやり方をモデルに、統一的な著作権法を導入した。ゲーテ、 シラー、カント、ヘーゲルはその恩恵を受けられなかった。 ベルヌ会議が開かれて初の万国著作権条約が調印され、 西洋社会の著作権にある程度の統一性が持ち込まれたのは1886年になってからだった。

文学と文学作品市場は著作権がまったくなくても台頭し、 何世紀にもわたって成長した。「すぐれた文学」と見なされて、 世界中の大学で教えられ、研究されている作品は、 著作権料を1ペニーも受け取っていない著作家たちが書いたものだ。 著作権なしに生み出された多くの作品の商業的品質は充分にすぐれていたらしく、 知的独占の最大の支持者であるディズニーは、 パブリックドメインを大いに活用している。「白雪姫」「眠れる森の美女」 「ピノキオ」「小さなハイアワサ」などのすばらしいディズニー作品は、 もちろんどれもパブリックドメインから取られている。 独占重視の立場を取るディズニーは、きわめて当然ながら、 パブリックドメインに何一つお返しなどしたがらない。しかし、 知的独占なしにはこれらのすばらしい作品は生まれなかったはずだ、 という経済的議論は、実際にそういう作品が生まれているという事実の前に、 大いに弱まる。

そう。私の研究の範囲でも、後発国は、先進国の知識を大いに「盗んで」 先進国の仲間入りをした。ドイツもそう。アメリカもそう。そして、十分に「盗んで」 自国の中に新しい発明・創作が産業として成立するようになると、 自国内に知的財産権制度が整えられた。現在、知的財産権制度は、国際条約や、 国際貿易に参加する条件として、事実上すべての国に対して強制されている。これは、 後発国が先進国へ昇格することを著しく困難にする。こうした国際枠組みはは当然、 先進国には正当なものであり、後発国には不当なものにみえるだろう。

かつて自然資源をふんだんに用いて産業化した先進国が、 環境保護を理由に後発国の産業化へ制約を設けている事態に、構造的には似ている。

[48] 当然ながら「公認出版社」は海賊行為から独占状態を守り抜くのに苦労した。 対処にコストがかかるし、安い楽譜の需要は大きく、監視が困難だったからだ。 音楽出版者たちは海賊版を強奪して破棄するために、 海賊行為の根城を強制捜査するという手段に出た。こうして組織的な不法「奇襲破壊」 抗争が始まった。このことから1902年に、新しい著作権法が認可された。 これで著作権侵害は刑法適用の対象になり、それまでは民法でのみ守られていたが、 警察が取り締まりにあたることになった。

著作権法に認められた権利の実現について、 かつては自力救済の権原を与えるものにすぎなかった。だから、 権利者は自分の費用で自分の権利を守らなければならなかった。 これにはかなりの費用がかかる。そこで、財産権に関する侵害であるということで、 窃盗犯等と同じように、 国家権力すなわち国家の費用で取り締まってもらうことになってきている。書籍では、 結局警察の摘発は諦められたとされているが、 相変わらず自分たちの権利を守ってほしい、という権利者たちからの要望は強い。

権利というものはありがたい。自分の財産の保全のための費用を、 国家が肩代わりしてくれるのだからね。

[52─53] 書籍業界に、この疑問に答えてくれるかなりの証拠がある。 なぜならほとんどの出版者は電子版を暗号化した形態のみで発表しているが、 ごく少数ながら暗号化していない電子版を販売するところもあるからだ。また、 現在では多くの本がピアツーピアネットワークで入手可能で、 これを阻止しようと多数の著作者たちが訴訟を起こしてきた。だから、 ピアツーピアネットワークに登場する非暗号化電子書籍の売り上げは比較的少ないは ずで、「海賊行為」 の対象にならない暗号化書籍は逆によく売れるとすぐに推測できる。だが、 驚いたことにデータを見ると、まったくその逆の結果を示している。

fictionswise.com の例は、とりわけ有用な自然の実験となっている。この会社は、 出版者と著作者に応じて一部の本は暗号化し、 それ以外は暗号化しない形式で販売しているからだ。 暗号化されているのはたいてい最も有名な著作者の本である。 たとえば2002年9月1日にデータを集めた時点では、最も (購入者の) 評価が高い本が暗号化されていた。 どちらの形式の本も価格は同じ ── 小説1冊あたりおよそ5ドルである。 一方でfictionswise.com は、売り上げデータもいくらか提供してくれている: 直近のベストセラー上位25位と、 過去6ヶ月のベストセラー上位25位を記載しているのだ。任意で選んだ日付、 2002年9月1日の時点では、暗号化書籍はいずれのリストにも登場していない。 そのほぼ3年後の2005 年8月10日 ── 笑わないでほしい、 本書の改訂にはかなり時間がかかったのだ ── 状況はいくらか暗号化書籍寄りに変 化したが、それほど劇的な変化はなかった。同じカテゴリーを見てみたところ、 暗号化書籍と非暗号化書籍が市場に占める割合はほぼ半々のようだ。 興味深いことに価格は同じと見受けられ、 非暗号化書籍が体系的に暗号化書籍よりもはるかにすぐれているか、「海賊行為」 が正規製品の需要に与える影響がまったく取るに足りないかのどちらかであることを 示している。

私は最近、いわゆるコンテンツというのもは、 本質的にすべて広告なのではないかと考えるようになった。かつて、コンテンツ (内容)とメディア(媒体)が一体であったとき、コンテンツを再生できるメディアを 「物」として購入してもらうために、 コンテンツが存在するのではないかということだ。だから、音楽は、 すべて物理的なディスクを購入してもらうためのCMソングということになる。 そしてその物理的ディスクは、コンテンツを再生することを保証するわけだ。小説は、 すべて紙の束を購入してもらうための物語で、その物理的な文字列は、 物語を再生し想起することを保証するわけだ。

したがって、市場においてコンテンツが勝利するためには、 そのコンテンツそのものが広く知られることが必要だ。そのためには 「メディアを購入しないと見せない」という戦略はまったく失敗だ。 これから購入する財の効用について不明であれば、 人はそれを購入することを躊躇するだろう。コンテンツはすべて明らかにされ、 その価値を需要者が判断した上で、さらに需要者に対して、 そのコンテンツを後に任意に再生したいと思わせなければならない。すると、 そのコンテンツが正確に記録されたメディアを「物」として売ることができる。

ところがデジタル時代には、コンテンツとメディアが分離し、 コンテンツそのものを取引しなければならなくなってしまった。 本質的に広告であるもので対価を得なければならないのだから、 従来のような市場における売買では上手くいかないはずだ。

しかし、上記のように考えれば、解決方が見出せる。 コンテンツをすべて体験させてしまう。そして、 そのコンテンツを後に再生する保証を販売するのだ。紙の束やディスクは、 ある作品を数年後、場合によっては数十年後に再び見る「可能性」 に備えて購入している。ならば、 その可能性を保証して対価をとることは可能だと考える。

たとえば、現在ニコニコ動画で、公式配信されるアニメ作品は、 一週間は見ることができる。その間にコンテンツは体験され、 その価値は正しく理解される。そしてその上で、 一週間を過ぎて再び見たいと考えたり、 何らかの理由で途中を見逃してしまった利用者は、納得して対価を支払い、 オンラインでの閲覧権を購入したり、ディスクを購入したりするだろう。

[54─55] 著作権なしの娯楽産業とはどんなものだろう? モデルケースとして著作権があまり重要でない産業部門を見てみよう。ポルノ産業は、 名目的には著作権保護を受けるが、他の産業より社会的認知度が低い。結果として、 この産業は知的独占状態を守るにあたり法制度を利用しようとはしないことが多い。 FBI が香港で違法DVD を押収する場面を読んでみると、押収されているのは 「サウンド・オブ・ミュージック」の違法コピーで「デビーのダラスでパコパコ」 の違法コピーではないように見受けられる。 後者の海賊版も広く販売されているはずなのだが。

社会的に認められていなくとも、本書に関連する大部分の点で、ポルノ産業は 「まっとうな」映画や録音と似ている。ポルノ映画や雑誌の制作および配布は、 技術的にも経済的にも「まっとうな」 映画や雑誌の制作や配布と変わらない ── だからポルノ産業をよく見れば、 著作権がない状態で「まっとうな」産業がどうはたらくかについて、 かなりの知見を得ることができる。かつてポルノ産業は、 映画や高級雑誌の制作に莫大な制作費をかけて「まっとうな」 産業と同じように機能していた。しかし法的保護が薄いせいで、 ポルノ産業が著作権法を使って競争を抑制するのは困難になってしまった。 そして技術が変化したため、 ポルノは多数の小規模制作者がひしめく家内産業になった。著作権がなければ、 まっとうな産業が同じモデルを選ばざるを得ないことはおそらく想像に難くないので、 ポルノ産業の現状を「まっとうな」 産業に著作権がない状態のモデルとして見なして良いだろう。

ポルノを著作権保護が重要ではないコンテンツ産業の例として挙げるのは、 興味深いが、妥当なのだろうか。「まっとうな」コンテンツに比較して、ポルノは、 作品それぞれの個性があまり重要視されない代替性の高いコンテンツだといえる ─ ─ だろうか。また、繰り返して参照する用途ではなく、 性的刺激が主たる目的であることから、ポルノ・コンテンツは、 そのコンテンツの抽象的水準での内容はともかく、モデルや表現方法においては、 常に読者にとって新奇なものでなければならない。すると、 著作権保護など考えるよりも次々に新? 商品を投入した方が合理的な戦略ということになる。

[56-57] ポルノ映画や娯楽産業を、それに対応する「まっとうな」産業と比べると、 ポルノのほうがイノベーションに富み、新製品を生みだし、 新技術をもっと迅速に採り入れる産業となっていて、 そこでは配布コストの減少がもっと低価格でのもっと大量の生産と、 もっと多様な製品につながってきた。また、多数の小規模制作者がいて、 国内市場を操る支配的大企業は全国的にも世界的にも存在しない。 アメリカの映画や音楽の定着をしきりに恐れてきたヨーロッパの知識人や政治家たち は、この点に留意するべきだ。 かれらはアメリカ文化阻止のために著作権保護の強化をそろって支持しているが、 それでは数ユーロ裕福になるだけで、 知的植民地化がもっと進行してしまう可能性すらある。

だから、ポルノ・コンテンツにおいてイノベーションが早く、 新商品が大量に投入されているのは、 著作権が存在しないことが理由になっているのではなく、 そうした早いイノベーションと常に新商品が必要な市場だから、 著作権が存在しなくても成立しているのだと見た方が正しいだろう。とはいえ、 ポルノ・コンテンツが特殊な事例だというわけでもない。 新商品が大量に投入されることが重要な市場としては、ニュース、新聞、 雑誌が考えられる。実際、これらの領域のコンテンツについては、 そもそも著作権法の例外規定によって著作権保護が与えられないか、 よほど組織的継続的に侵害行為がされない限り、 著作権侵害による訴訟が起きることはない。

同様に日陰の扱いとされているものに、 著作権のある動画を勝手に組み替えて作られたMAD動画がある。これらは、 動画共有サービスに多数提供されている。こらちも、イノベーションが早く、 新商品が大量に投入される市場を形成している。ただし、 こちらはほとんどの人がその市場からお金を稼ぎ出していない。にもかかわらず、 多数の動画が投稿されつづけている。それは、 その材料となった作品が費用ゼロで無断利用されているからだとはいえない。 無断利用したうえに、さらに複雑で費用のかかる編集加工がされているから、 費用はかかっている。

著作権保護がないのにもかかわらず、これほどの動機付けがされている理由は、 どのように説明されるのだろうか。イノベーションそのものが動機となり、 イノベーションを成し遂げたという評判が最も大きな報酬として機能しているのだと 私は考える。ここでは、イノベーションそれ自体が目的となっているのだから、 当然イノベーションはきわめて活発になる。

知的財産制度がイノベーションを目的としているのであれば 「独占権を与えて市場で商品を販売させ、その経済的報酬を還元する」 という回りくどい仕組みではなく、 「イノベーションを報酬として見るような集団の状況を生み出す仕組み」 について工夫した方が効果的かもしれない。

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4 競争下のイノベーション

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[62] これから見るように、このソフトウェアの話は決して例外ではない。 最も成功している産業は同じパターンをたどってきた:知的財産権は、 新しいイノベーションやすぐれた安価な物品が流入してくる開拓段階では、 ほとんど何の役割も果たさないのだ。そして創造性の蓄えが枯渇すると、「知的財産」 がもたらす余録を求めて必死の奪い合いが起こる。 これは自動車から電力に至るまで、そして化学や薬学から繊維やコンピュータまで、 確立されたあらゆる分野に当てはまることだし、 こういった産業のまともな歴史すべてにおいて広く確認されていることなので、 こういった経済的に重要ながらきわめて伝統的な分野をあげつらって読者を退屈させ るのはやめておく。

上記の認識は、本書の一貫したもので、繰り返し繰り返し示される。

[63] 1623年に現代版の特許法を「専売条例」 といううまい呼び名をつけて生みだしたのはイギリス議会だった。当時「知的財産権」 という婉曲表現はまだ導入されていなかった ── 疑問の余地のないイノベーターた ちには財産権ではなく独占権が与えられていた。また、議会による条例の導入は、 新たな独占を作り出すものでもなかった。 独占権を付与する権限を君主 (当時はジェームズ一世) から取りあげて、 議会に与えただけだ。この基本的な事実は、 イギリスの経済発展に特許が果たした役割をめぐる議論では見過ごされがちだ。 条例が制定される前は、王権による独占状態の販売 (製品が新しかろうと古かろうと関係なかった。塩の専売を考えて欲しい) が完全に野放しで、その目的は王家の利益の最大化だった。イノベーターや、 もっと一般的に起業家の経済的インセンティブなど、 特許状を発行するにあたってだれも気にかけなかった。

したがってこの条例は、 それまで王の手にあった独占権没収および独断的供与の超独占的権限を、 発明者が議会から受けるもっと穏やかな一時的独占権に代えたのだ。 これは私的財産権と私的経済イニシアチブに対するインセンティブについての進歩だ。 また、特許保護が可能で、その対象となる製品の幅は 「家庭の日用品の価格をつり上げたり、概して不都合であることで、 貿易に打撃を与えたり、法に反したり、国家に害を及ぼしたりしないもの」 という厳しい条件を満たす本当の発明 (つまり塩の独占はなし) に限定されて、 大きく減った。そして最後に重要なこととして

この領域のものを売買や製造や労働や利用 (中略) もしくはその他の独占や権力や権限や権利 (中略) を有する、 いかなる個人や複数の人間、政府組織や企業に対して過去に作成あるいは認可された、 もしくは今後作成あるいは認可される、あらゆる独占および委託、認可、許諾、特権、 特許状はすべて同領域の法に反しており、ゆえにまったく無効であり、効力を持たず、 決して実用も実行もされない。

この話は、私が特許について語るときに必ず強調する点だ。 「世界最初の特許法」と呼ばれているものは、「最初の独占禁止法」だったのだと。 発明を賞賛し、労うために権利を与えたのではない。 やみくもに何でもかんでも特権を乱発して、国民を苦しめる政府を抑制するため、 すなわち独占権の乱発を抑えるために、 既存の市場に影響を与えない物にのみ独占の特権を与えてもよい、とされたのだ。 既存の市場に影響を与えない物とは、存在しなかった品。 第一に国外から輸入されてくる商品を国産する場合の特権。 第二に新奇な商品を発明し生産する場合の特権。 現在の特許制度へとつながるのは第二の発想だ。

あくまでも独占の付与は、産業の振興にあるのだから、 単なるアイデアには特許など与えられなかった。 あくまでも実際に産業化することへの特権だったのだ。しかも、 発明だから直ちに特権が与えられたわけでもない。政府の視点からみて、 国益に沿うものにのみ特権が与えられた。詳しくは別のところでも書いたので、 そちらを参照してほしい。

[64] 最近の用語では、専売条例はイギリス経済における大規模な 「自由化/規制緩和」に相当し、これは私的財産権の強化、王権の縮小、 制約的 ── 現在の基準では極端に制約的な ── 特許取得基準の確立と並行して起 こったものだ。17世紀のイギリスにおける特許特権の導入が、 その後の産業革命に刺激を与える重要な役割を果たしたというありがちな主張を見る ときには、こうした史実に留意しておくべきだろう。 この条例は、 通説とはまったくちがい、知的競争を知的独占に替えたのではなかった。 むしろ無限で広範な政府独占を限定的で制約された私的独占に替えたのだった。 後者は前者に比べればずっと小さな悪だ。 こちらはイノベーターに保護と経済的インセンティブの両方をもたらすのに、 それ以前のものは王の意のままの幅広い独占しかなかったのだから。

いずれにせよ専売条例は特許の基本概念を定義し、 14年間にわたる独占の可能性を認めたが、そこに以下の条件をつけた。 「家庭の日用品の価格をつり上げたり、概して不都合であることで、 貿易に打撃を与えたり、法に反したり、国家に害を及ぼしたりしないもの」。 1710年のアン法は、この法を拡大修正すると同時に著作権も盛り込んだ。 これらの成文法が導入されるまで、特許や著作権は存在しないか、 経済特権の売りつけによる政府の財物強要の一形態として用いられる幻か、 もしくはガリレオその他のヨーロッパの学者たちの多くが思い知らされたように、 科学者や哲学者に嫌がらせするための道具であった。 イギリスの特許制度が産業革命の発生に役立ったというのは、 それがイノベーションを阻害して独占する政府の独断的な権力に制限をつけたという のが最大の貢献だったのだ。

特許制度の発端は、「自由化 / 規制緩和」であったということを忘れないでほしい。

[73] コーニッシュ蒸気機関の改良におけるこの協働の成功は、 競争市場のすばらしさを物語っている。石炭鉱業の不安定さから、 そこそこの人数の投資家がそれぞれ多数の炭鉱を広く横断的に共同所有することで、 互助保険とした。株式公開会社の株主と同じように、 改良を施したのがどこの会社あるいは技師であろうと、 どの投資家もイノベーションの恩恵を受けられるわけだ。そして技師の雇用契約も、 これらのインセンティブを反映したものだった。技師たちは蒸気機関を改良するため、 結果が公表されることを理解したうえで個々の炭鉱と契約を結んで雇われた。 投資家たちはそれぞれのイノベーションについてすべての炭鉱から利益を得られたし、 技師たちは発明を独占する権利を放棄したかわりに給料と、 公開したイノベーションの宣伝効果から利益を得た。実のところ多くの点において、 19世紀初めのこの競争 ── 協働鉱山機器の改良システムは現代のオープンソースソ フトウェアシステムと似ている。

産業革命の時代は、偏見にとらわれずに見ると、 特許が経済発展を妨げる一方でめったに特許権者を豊かにしない例と、 特許なしに自由競争のおかげで莫大な富やさらに大きな経済発展が築かれた例の宝庫 である。

こちらは、逆に、特許が排他的に用いられなかった場合の、 著しい技術進化の状況について語っている部分だ。競争は必要だ。だが、 それは他人の業績の上に何かを付け加えるという、積極的な競争であるべきで、 互いに足を引っ張り合うという競争では、全員が沈んでいってしまう。

[81─82] 「判例法」と聞いておそらく思い浮かぶのは、 中絶やプライバシーなど議論の的になる領域だろう。 だが立法的見地による検討も承認もなしに、 判事が法体制において最大の変化を起こしたのは特許法の領域である。 コンピュータソフトウェアへの特許保護の拡大がその一例だ。 別の例には金融証券の特許がある。1998年までは、 投資銀行家や金融証券を販売するその他の企業は、「知的財産」の「恩恵」 なしに機能していた。 1998年以前の金融証券のイノベーションの急速な進展については、 トゥファノなどが詳しくまとめている。トゥファノは、 新たな証券発行のおよそ20%に「革新的組成」が関わっていると見なしている。 かれは20年間に発行された1836 種の新証券の発達を示して、 つぎのように指摘している。

ここに含まれるのは法人証券のみであるため、 金融関係のイノベーションはひどく過小に示されている。上場デリバティブ、 株式店頭デリバティブ (クレジット・デリバティブ、エクイティー・スワップ、 天候デリバティブ、非標準型店頭オプションなど) 、 新型保険契約 (代替的リスク移転契約や条件付エクイティ契約など) 、 新型資産運用商品 (FOLIOfn や上場投資信託など) における莫大なイノベーションは除外されている。

この市場の三つの特性は特に注目すべきだ。第一に、 金融証券業界のイノベーションは非常にコストがかかる。 新たな証券を生み出している人々は経済学、数学、 理論物理学で博士号を取得した高給取りだ。第ニに、金融関係のイノベーションは、 たちまち競争相手たちに模倣される。第三に、 先駆者であることには著しい利点があり、 イノベーターは長期的にみても50-60%の市場シェアを保有している。 1980年代の投資銀行活動についての有名な出版物、 たとえばルイスの鮮やかな描写を見ると、 知的独占状態がまったくなかったのにイノベーションが普及していたことがわかる。 善かれ悪しかれ、だがたいていは善い意味で、 投資銀行業は1970年代後半から1990年代後半までに著しく成長して、 国中に経済成長をもたらし、多数の消費者の福祉を増進したことは周知の通り。 このすべてがいかなる形態の知的独占もない状態で起こったのだ。

[83] 残念なことにこれはもはや過去の話だ。1998年7月23日に「ステート・ ストリート銀行対シグネチャー・ファイナンシャル・グループ訴訟」において、 連邦巡回控訴裁判所は、シグネチャーの「ハブ・アンド・ スポーク金融サービスのためのデータ処理システム」 は特許取得が可能だと判断したのである。この判決まで、 ビジネス手法や数学的アルゴリズムには特許が認められなかった。だがこのときから、 少なくともコンピュータコードの形をとっていれば、 ビジネスモデルもアルゴリズムも特許が取得できるようになり、 今では金融証券についても特許が取得できる:現在では何万という「金融発明」 特許が存在する。司法積極主義に則ったこの異例の行動によって、 法廷は政府公認の独占状態を金融証券など、 イノベーションと競争が手を携えてやってきた好況市場へと拡大したのだ。 この傾向が覆されなければ、 金融証券業を研究しているアメリカ経済学者たちは10年かそこらで生じた 「生産性の低下」に首をかしげ、いったい何が原因だったのか訝るはめになるだろう。

法廷が解釈を変えるだけで、ある種のアイデアが特許を受けたり、 受けられなかったりするという状況がある。そして、アメリカの法廷は、 次第に特許取得可能な対象を拡大してきている。

ここでの事例は、常にイノベーションの先端を走ることが、 優秀さのシグナルとして機能している市場の例といえるだろう。ただ、 ソフトウェア業界と同じように、 現在では金融商品にも特許が取得できるようになった。これが、 競争的に運用されれば活況は維持されるだろうが、競争阻害的に使用された場合には、 業界の停滞に結びつくに違いない。

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5 知的独占の害

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[99] エイズ対処薬の例では、製薬会社がアフリカに対して大幅値下げをしないのは、 安価なアフリカの製品を欧米市場へ再販する並行市場が利益を損なうのを恐れている からだ。製薬会社の嘆きに惑わされてはいけない。 アフリカ市場に低価格で販売すると損失が出て、 その埋め合わせにアメリカとEU 諸国での利益がどうしても必要だというわけではな い。エイズ治療薬をもっと大量に製造するコストはごく小さいため、 アフリカ市場に安価で販売しても、製薬会社は利益を出せる。 問題はアフリカ以外の市場での独占利益の損失だ。この例は実際きわめてよくある: 知的独占者たちがしばしば価格差別に失敗するのは、 そうすることで自分の消費者たちが競争相手になってしまうからだ。

効率的な価格差別は実施にコストがかかるし、このコストはまったくの無駄だ。 たとえば音楽制作者がデジタル著作権管理 (DRM) を好むのは、 価格差別を可能にしてくれるからだ。たとえばDVD にリージョンコードがあるのは、 ある国で販売されている安価な DVD が、 高値販売の別の国で再販されるのを防ぐためである。 だがデジタル著作権管理の影響とは、製品の利便性の低下だ。 MP3 の闇市場が合法的なオンライン販売に脅かされていない理由は、 プロテクトなしのMP3 がDRM 保護の施された合法的な製品よりもすぐれた製品だから だ。同じように、コンピュータソフトウェアの制作者たちは、 価格差別をして実入りの良い法人市場を守ろうと、 欠陥つきの製品を消費者に売っている。独占者、 とりわけ知的独占者たちによる価格差別の結果の一つが、 一部の市場で製品の質を人為的に低下させることだ。 他のもっと利益が多い市場と争わないようにするためだ。

価格差別戦略は、ある分離された市場で、最大の利益を生み出せるように、 それぞれ価格を設定することだ。で、市場が分離できていないと、 安価に販売している市場から、高価に販売している市場に商品が移動して、 結果的に価格は同一になってしまう。だから、権利者は、 商品の流通まで支配下に置きたがる。 一般的に市場に置いた商品の販売方法や価格について拘束することは独占禁止法に違 反する。が、知的財産権を理由とすると、 そうした行為が許されるということになっている。

知的財産権というものは、権利者が市場から「最大」 の利益を獲得することを制度的に保証したものなのだろうか?

[100] 特許が繁栄とイノベーションを生むのなら、 特許の激増は圧倒的な技術の向上と同時に起こるものと考えられる。 当然ながらそうなってはいない。 技術向上のめやすによく使われるのが全要素生産性 (TFP) の増加だ ── 前の章で述べたように、 これはある投入の組み合わせをうまく使うことで、 どれだけの産出が追加で得られるか測るものだ。TFP が高くなるとは、 たとえば同じ労働やその他の要素 (金属とプラスチックなど) から、 もっとすぐれた自動車がたくさん生産されるということだ。 TFP の伸びを大雑把に総計したところでは、 過去50年間に顕著な傾向は見受けられない。1950年代と1960年代前半は増加した後、 1960年代から1980年代後半あるいは1990年代前半まで減少し、 その後1995年から2000年にかけてわずかに回復している。2001年の不況の後は、 長期平均値は伸び続けている。もっと精度の高い測定を見ると、 1960年代から1980年代後半の「生産性低下」は測定がまずかっただけのようで、 1990年代のTFP の回復は生じなかったか、 ほぼ完全にIT 技術が広範に導入されたせいらしい。後者は、第二章、 第3章で記述したように、特許とまったく関係ないか、あってもきわめてわずかだ。

これについては、特許の影響を評価するには、意地悪だと思う。 ある技術革新が導入されて生産性が向上しても、 いずれその技術は一般化し生産性の向上は停滞せざるえない。「特許があったなら、 絶え間ない技術革新が現れるはず ── しかし、それが観測できていない以上、 特許は無意味だ」というのは、乱暴な推論だと思う。

とはいえ、知的財産権擁護派が「知的財産権は革新を進める」 と主張していることへの反証にはなっている。

私の見解は、「発明も創作も確率の問題で、 知的財産権はそれ自体を促進する効果はない。が、 いったん生み出された発明や創作を事業化する段階において、一定の促進効果がある」 というものだ。

[101] 特許数の大きな増加の理由の一部は、既存の特許に対して防御するために、 特許がさらに他の特許を生むという事実にもある。 これはオラクル社の上級副社長ジェリー・ベイカーの発言だ。 わが社のエンジニアたちと弁護団は、 数々の幅広い既存の特許を侵害することなく複雑なソフトウェア製品を開発するのは、 いまでは不可能に等しいと助言してくれた。 (中略) 防御戦略として、 オラクル社は相当額の資金をつぎこみ、自社を守るべくかなりの努力をして、 特許侵害を申し立てかねない他社とクロスライセンスを結ぶ絶好の機会となる特許を 選択的に申請してきた。 そんな申し立てをするのが弊社と同じソフトウェア開発販売業者なら、 われわれは申請中の特許をクロスライセンスして、 事業に支障が出ないようにしたいと考えている。

これは、特許が技術革新を前に進めるのではなく、 他の特許によって妨害されるだろう技術革新を進めるための取引材料として、 特許が求められていることを示している。もちろん、単なる取引材料として、 様々な特許を集めておくことが、 技術革新への投資や努力を促していることは否定しない。しかし、 他者を牽制するために特許を揃えておくことは、 何らかの意味で資源の浪費なのではないかと考えもする。

資源の浪費という点でいけば、著作権についてもいえる。著作権によって、 ある一つの作品の期待収益は、それがない場合よりも増加する。 この制度によって増加した期待収益を目指して、 本来なら他の職業についた方が適切な人材が、 著作権を獲得できる種類の職業に移動することが考えられる。これはもちろん、 著作権が文化の振興を目的としており、 より多くの人が著作権によって保護される種類の職業につくことが文化の振興である のなら、その目的通りなのだが、 「ある人がその人の能力から生み出す効用を最大化する職業を得る」 という観点からは、浪費と見ることもできる。

[103] また、マイクロソフトはいかにして特許取得ゲームに加わったか? その説明はこうだ。2003年にビル・ゲイツは知的財産をめぐる数々の問題に直面した。 第一に、特許侵害でマイクロソフト社がますます頻繁に訴えられるようになり、 損害賠償として数億ドルを支払うはめになった。第二に、 他のシステムを一緒に利用できるように、 反トラスト規制者たちがマイクロソフト社に対して、 競合他社への技術開示を迫っていた。第三に、マイクロソフト社は、 オープンソースソフトウェアのせいもあってOS とPC ソフトウェアの独占がやがて衰 えてしまうことに気づいたが、そのプロセスを遅らせたいと考えた。そして最後に、 マイクロソフト社は1年あたりおよそ50億ドルを研究開発に投じており、 出費を埋め合わせる収入を必要としていた。

これまた、企業が特許による防衛をせざる得ない事情を説明した部分だ。第一に、 大企業になると、特許訴訟の対象に狙われやすい。支払い能力があるからだ。第二に、 当然独占禁止法による攻撃の対象になりやすい。 そして知財はある独占状態が合法であると主張するために実に使いやすい。第三に、 企業が大きくなれば株主もまた投資に相応する報酬を求める。 研究開発費が大きくなれば、 投資するための見通しとして収益を計算可能にしなければならないし、 大きな研究開発費そのものが、 それら研究からの収益を確実なものとしなければならない状況を作り出す。 知財は収益を獲得するために必須の道具だ。

研究開発といった部分を除く、事務的な部分で知的財産を獲得・運用・ 維持するために投入されている費用といったものはどのくらいに上るのだろう。 この部分の費用は、特許の牽制合戦には必要な費用だったかもしれないが、 生産性やイノベーションの観点からは、まったく無駄な費用なのではないだろうか。

[105] 第二に、特許は小企業にとってはいいと主張する人々は、 これらの部門のほとんどの小企業が特許制度のせいで、 一つのアイデアだけを抱えて大企業に買収されることのみを目標にせざるを得ないこ とをわかっていないのだ。言い換えれば、特許の藪の存在が生み出すのは、 独占者と争うインセンティブではなくて、 単に独占者に食わせる価値あるものを見つけて、 それを新特許でなるべく高値で売りつけて退場するインセンティブだ。 独占者にいい値段でうまく買われるごく少数の幸運な起業者にとってはきわめて好都 合かもしれないが、これはわれわれの社会が望むべき経済システムではない。 独占された世界に住んで、良くない製品に高値を支払う消費者にとっても、 とにかく参入と競争ができない通常の潜在的起業者にとっても有益ではない。 IP非効率がはたらいているのだ。

上記の「IP非効率」とは、「知的財産非効率」という意味。このあとも、本文には 「IP」という略語がでてくるけど、すべて「知的財産」の略だ。

小さな発明家や企業が、大企業と対抗するために特許が必要だとする主張への反論。 大企業による特許の藪や、大企業連合による特許プールがあると、 仮に小さな発明家が何か発明を得たとしても、すでに自分自身では事業化できない。 だから彼は特許を、 その特許を事業化できる大企業に売り払う以外の選択肢がない。 すなわち知財=知的資本が蓄積されていると、 さらにそこに知的資本を支える権利が吸い寄せられるわけで、 資本主義の仕組みが知識の分野でも同様に機能する。

すなわち、小さな発明家が行使しうる取引の手段は、「金を出さなければ、 特許でおまえの事業を妨害してやる」というものだ。これは、 特許がその主たる機能としている産業促進の観点からみたら逆効果だろう。

[109] ビジネス課程や経営の教科書で広く宣伝されている考え方 ── クロスライセンス、 特許プール、特許は一般に参入を阻止して結託を強めるという考え方は、 企業も充分に承知している。第二次世界大戦後の反トラスト法施行の強化を受けて、 化学・石油化学工業は、 特許法を結託と参入阻止の法的手段として利用する先駆けとなった。 その実例は多いし、一般的な論点は明解なので、簡潔にいこう。これが一例だ。

AT&T もゼネラル・エレクトリック (GE) も、 おもな特許の期間切れに伴う競争の激化を受けて、社内研究所を拡張した。 (中略) 特許は一部企業に対し、 反トラスト法に抵触することなく市場支配力を保持させるのにも役に立った。 合衆国政府のGE に対する反トラスト訴訟に1911年の同意判決で終止符が打たれた後 も、こうした特許使用許諾方式はほとんど変わらず、 被許諾者の製造する電灯の販売に関わる諸条件の決定について、 かなりの裁量を同社に与えた。 (中略) 特許使用許諾はGE とデュポンに、 両大戦間に化学工業と電気機器工業の国際カルテルに参加するための基盤をもたらし た。これらの国際市場協定に関わっていたアメリカの企業は、 苦心して協定を特許使用許諾方式にして、 特許の商業利用についての排他的な使用許諾協定および制約はアメリカの反トラスト 法には抵触しないと主張したのだ。

まさに、参入阻止のために特許が合法なカルテルとして活用された事例だ。

[112-113] 経済発展の問題に戻ろう。アメリカでもEU 諸国でも、 農業部門が国民所得に占める割合はごくわずかで、国にもよるが3%から10%だ。 前の章ですでに見たように、 この特許保護の激増がアメリカの農業部門の全要素生産性成長率の目に見える増加に つながるという証拠はない。だが IP非効率の触手は国境のはるか外まで届く。 貧しい発展途上国では、 農業が国民所得に占める割合はアメリカよりも桁違いに大きく、 将来的な発展に向けて農業が負う戦略的役割はきわめて重要だ。 このような国々にとって、農業特許は一度に二つの害をなして、 大打撃を与えてしまう。その一方で、 農業特許は新品種の種子や動物種を法外な価格にして、 貧困国の農家には世界の農業市場で争えなくしてしまう。 なぜこれが富農より貧農に影響するか疑問に思うかもしれないが、答は単純だ: 信用制約である。新品種の種子は一般的に従来の種子よりも効率的だが、 購入するにははるかに大きな先行投資も必要だ。 貧農には最初に効率的な種子を買いつける資金繰りがつかないため、 効率に劣る種子を用いる。そのため生産物を販売できる採算価格は高くなり、 競争力をなくしてしまうのだ。一方で、 何世紀も前からずっとパブリックドメインにあった種子や種の独占によって、 農業特許はこれらの貧農から資本を奪ってしまう。
知的財産制度が、農民の生産手段を奪うことで、 搾取を構造化してしまうことが説明されている。 それまで自由に利用できていたものが、法の効果で誰かの独占物になってしまう、 というのは、1623年の独占条例 Statute of Monopolyで排除しようとしていた、 最悪の形態の独占に他ならない。ある種類のものに対して独占権を与える場合、 その他の選択肢が十分に残されることには、ジョン・ ロック的留保ということで必須の条件だと考える。市場競争において 「その他の選択肢」が実質的に意味を失う場合については、 検討する必要があるだろう。

これは、 財産権制度が一般的にそうした搾取構造を生み出す機能をもっていることから当然に 導かれる結果なのかもしれない。

[114-115] もう一つの例は ── 驚くべきことではないが ── イラクにある。 アメリカのポール・ブレマー (イラク担当) 行政官は、イラクの知的財産法を 「現在の国際的に認められる保護水準に合う」ように改正した。改正法では、 翌年のために種子を保存しておくという一般的な農業習慣が、新たに違法とされた。 人類が何千年もおこなってきて、 2002年当時はイラクの農家の97%が実施していた習慣だ。これでイラクの農家は、 アメリカ企業から遺伝子操作を施した種子を用いる年間ライセンスを取得しなければ ならなくなる。これらのGM 製種子は、 一般にイラクなど現地の農家が何千世代もかけて発展させ、農業の「オープンソース」 のようにフリーに共有された知的財産をもとに操作されたものだ。 技術に関するこの他の法的な知的財産規定が、 さらにイラクをアメリカの知的財産経済に組み入れていくのだ。

これも上記と同じ。法的論理が発展し、法的利益を守るために、展開した結果、 常識に反する制度が導入されてしまう異常さの例だ。「法律論的な整合性が、 正義論的に整合しないという事態に、法学者はどう対応するのか」という問いは、 かなり深刻に再検討されなければならないだろう。

[121] ジェローム・レメルソンは紛れもない天才で、 生涯を通じて熱心な発明家だった。 レメルソンの生涯を描いた何百ものサイトを閲覧し、 かれの才をほめたたえる文章を読めば、 かれがおもしろい装置やアイデアを数十点発明して特許を得たことがわかるだろう。 問題は、かれがそれらを「強いていえば」発明したにすぎない点だ。 だから特許申請書は数百頁に及んでも、有用な情報はきわめて一般的で、 そこに含まれているアイデアが実用的な装置につながったという証拠はほとんどない。 かれが発明したアイデアや装置の大部分は市場で日の目を見ることはなかったし、 市場に出たものも、 開発は他の人物が ── おそらく特許を取ったもとのアイデアの恩恵を受けることな く ── 手がけたものだった。 レメルソン氏は特許をその筋のビジネスに関心のあるメーカーに売るか、 どこかのだれかが (ほとんどの場合はかれの発見も特許も知らずに) レメルソンの特許と大なり小なり関係のある実用的な道具を製造したら、 それを訴えていれば満足だったのだ。 問題はレメルソンが誠実に申し立てをおこなっていたか否か、 という頻繁に論議の的になる点ではない。問題は、 社会厚生にとって意味があるのはアイデアの複製物、 つまり物品やサービスになって生産され、利用されるアイデアだということだ。 したがってレメルソンの社会福祉への貢献は小さいか、 独自に発明して消費者にとって役立つ物品やサービスを生みだしていた企業に少なく とも15億ドルを負担させた点で、むしろ負の貢献であるといえる。

これは、他人の事業を妨害する効果をもつ、 新規性や事業可能性の乏しい抽象的特許の害を具体的に批判した部分だ。通常の場合、 そうした妨害的かつ一般的な特許申請は、 特許審査官の判断によって特許申請は拒絶される。が、 最終的に人間の判断によって行われる判断なのだから、 時として不適切な特許付与がされることもあるし、近年、 アメリカでは事前審査を簡略化し、具体的な特許訴訟で事後的に調整を行う、 という方針に転換した。すると、訴訟という費用の大きな、 言葉を代えると潤沢な資金を投入できる主体が、ある発明がだれによるものなのか、 という事実問題を勝ち取ることができてしまう。そして、現在のみならず、 特許審査が厳密であった過去においても、そうした事例が多く見られることがわかる。

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6 著作権延長問題

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[136] 重要な面で、著作権法は特許よりも脅威が少ないように思える。 著作権期間は過度に長いが、歴史的にみると、その対象範囲は狭かった: 対象になるのは、原則的にアイデアの表現のみで、アイデアそのものではない。 原則的にいえばやはり、 その方が新しいアイデアやアイデア表現の下流部門の生産にとっても、 特許による広範な保護より害は少ない。実際問題として、 子どもの魔法使いが主人公の「ハリー・ポッター」的な本を書きたければ、 たしかに自由に書くことができる。一方で、著作権はだんだんその範囲を拡げてきた: ハリー・ポッターの続編を自由に書くことはできない。ある意味では、著作権は 「似て非なる」作品の生産を促して競争に拍車をかける。 しかし社会的観点からみると、 似た作品を余分につくるより既存の作品を改良する方が良いのかもしれない。

著作権に経済的重要性はないように見受けられるが、まさに主客転倒の典型例で、 著作権産業は見事に自由と文化を脅かしている。 著作権は少なくとも特許と同じくらい非効率的で、侮辱的で、不公平だ。 著作権が特許と同じくらい非効率的なのは、 理論や歴史的事実や最近のデータから痛いほどわかりきっているし、 著作権が今すぐすっかり廃止されても、芸術的・ 文化的生産はみじんも失われないだろう。著作権が特許より侮辱的なのは、 ディズニーの力で繰り返された著作権期間の遡及的延長が、合衆国憲法が容認した 「限られた期間」を踏みにじって ── あるいはお望みならミッキー・ マウスじみた戯画にして ── いるからだ。 そして著作権は特許と同じくらい不公平だ。 著作権で保護されたメディアスターたちの富は、かれらの製品の恥ずかしい品質や、 エイズ治療薬をめぐる薬事関係の独占との闘いなどを支持するかれらの取り組みを、 まっこうから否定するものとなっているからだ。

著作権の歴史をみると、あらゆる意味でのフリーライドを排除するために、 法の保護範囲を拡大してきた歴史だと言ってもよい。その結果として、当初、 具体的な特定の表現のみを保護するという枠であったのに、 ある作品から想定されうる経済的利益 ── いや、 利益とすらいえないような優位な状況までもが保護されるように、 枠が拡大されてきた。その結果、何らかの意味で関連があれば、 「それは著作権を侵害したのだ」といわれかねない状況になってしまった。これが、 単に「ある作品を無断使用しているのだ」という段階を超えて、 過度に競争抑制的に機能しているのが実態だ。

こうした認識を受けて、後半の著作権制度に対する罵倒につながる。実際のところ、 著作権保護期間の延長に関する「ミッキーマウス事件」 における理論付けの不可思議さ加減は、倫理的な研究者であれば、 非難するべき水準にあると私は思う。

[137] 政治的バランスに重大な変化が起こったのは1880年代である。 アメリカ東海岸に古くからある出版社は、 新世代の安価な大衆紙出版社がコストを切り下げてさらに広い市場に届き、 とりわけ中西部で拡大しつつあることに気づき始めた。この挑戦を前にして、 古くからの出版社はビジネス戦略と、知的財産権についての考え方を練り直した。 国内で行使できる排他的な著作権協定を海外の作家たちと結べば、 独占的な新世代の出版社たちよりも有利な立場につけると気づいたのだ。 1886年にヨーロッパでベルヌ条約が結ばれ、 ハーパースやスクリブナーといった有名な出版社の意見の転向がさらに勢いづいた。 これらの出版社は、 少なくともイギリスとは何らかの国際協定を結んで順守することが益だと認めたのだ。 アイザック・ファンク牧師などアメリカの神学者たちは、第七戒に背く行為として 「文学への海賊行為という国家的犯罪」(そのおかげでかれは海賊版の『ライフ・ オブ・ジーザス』を出し、財を成したのだが) を糾弾し、 その声を議会にとどろかせた。議会は、 合衆国法では著作者の自然権が認められていないという理由から、 ベルヌ条約批准を拒んだが、1891年には著作権の相互保護について、 イギリスとの国際協定に調印した。

そう。まさに上記のとおり。それまでイギリス作品を、 合法的に無断使用してきたアメリカの東部の出版社たちは、 さらに西部に発生してきた出版者たちが、「自分たち」 の作品を無断で出版していることに気がついた。しかし、 ここに著作権がないのだから、 西部市場を安価な西部の出版社に先占されてしまう不利に加えて、 西部から東部へ安価な出版物が流れ込んで市場を混乱させることが発生していた。 これを防止するためには、「アメリカ市場に作品を投入する主体」 をひとつに絞らなければならない。業界の調整に服さないのであれば、 著作権を承認するしかない。著作権は、 むしろアメリカ出版市場を安定化させるために必要とされたのだ。

[140] 著作権延長法 (CTEA) で追加された20年分の著作権期間が追加利益をもたらすのははるか未来であるため、 現在価値にするとごくわずかである。たとえばある作家が1冊の本を書き、 その後30年間生きると仮定する。この場合、 CTEA 以前の著作権制度では作家もしくはその代理人が80年間印税を受け取る。 印税率が7%とすると、 80年目に受け取る印税の1ドルは現在価値にして0.0045 ドルである。CTEA 施行後は、 この作家が100年間にわたって印税を受け取ることになる。 100年目に受け取る印税の1ドルは現在価値にして0.0012 ドル。この例では、 CTEA のもとで受け取る追加印税の総額の現在価値は、 81年目から100年目までの収入の現在価値の集計で求められる。 印税はやはり7%として、この作品が一定の収入をもたらすと仮定する。この場合、 81年目から100年目までの総収入の現在価値は、 1年目から80年目までの総収入の現在価値の0.33%。つまりこれらの仮定のもとでは、 CTEA でもたらされる追加報酬は、20年間延長なしの報酬と比べると、 現在価値の支払いで0.33%の増加となる。

[141] 追加された年数がはるか先のことなのは、 存命中の芸術家やクリエイターにとっての話だ。だがあなたが巨大メディア企業で、 大昔にいまは亡き偉大な芸術家が生みだした、 莫大な利益を生むキャラクターか歌か映画の著作権を有していたと仮定してみよう。 その作品は10年間も莫大な印税をもたらしてきて、 そのギフトの存在は当たり前になってしまった。 だが著作権が切れてしまえば資金の流れは止まり ── 幹部たちは、 企業が有能で利益を出しており、自分たちは創造性に富んだプロで、 株主たちが認め慣れたスーパースター級の給料やボーナスを手にする価値があるとい うふりをするのは困難になる。 著作権が切れてしまえばこういったスーパースター幹部も、新しい音楽、映画、 漫画キャラクターを生み出そうと、仕事なんかをしなくてはならないかもしれない。 だから莫大な資金の流れの一部を投じて合衆国議会に働きかけるのは、 すばらしい投資なのだ。

これは、私が 2005年に発表した、『インターネットの法と慣習』 「著作権保護期間延長を擁護してみる」および 「やっぱり著作権保護期間延長を批判する」 でも詳しく論じて批判している。 著作権の保護機関を延長する合理的な理由は、ほとんどない。ただ、 ごく一部の作品を救うためだけに、 多くの著作物が巻き添えになり塩漬けにされてしまう結果となる。

ここは、かなり重要な指摘をしていて、 著作権がそこから利益をえる主体を集約化し、 さらにそこに政治的に働きかけるだけの資金を集中させてしまう場合、 その利益主体は、創作活動ではなくて、現在の収益の根拠となっている権利を延長・ 強化する動機を持ってしまう。そして、それに成功すると、ますます権利の延長・ 強化に投入することのできる資金が獲得できてしまうのだ。これは無限ループになる。

[143] 議会公聴会における遡及的な著作権延長についての議論のほとんどは、 偉大な芸術家 (ガーシュウィンなど) の子孫は、 偉大な先祖の作品を売買するしか生計を立てる道がないといったものばかりだった。 唯一の知的な議論といえば、 著作権つきの作品はそうでないものより広く入手できるだろうというものだった。 これは理論的には変な主張だ。 独占が利益を得るのは財を広く入手可能にすることによってではないのだから。

上記の「著作権つきの作品はそうでない物より広く入手できる」という主張が、 著作権制度の本質に関る部分だ。 著作物の受け手である私たちに複製や伝達の能力がない場合、 商業的な事業者による複製や伝達が必要であり、かつ効率的になる。商業的事業者は、 利益を求める経済主体だから、 著作権の保護による経済的利益が保証されていなければ、 事業を行わないだろうことは、先に説明した通り。この前提において、 著作権つきの作品が、そうでない物よりも「商店」 で広く入手できるということは正しい。

ところが、目下の問題では、 著作物の受け手である私たちがコンピュータ等により極めて効率的な複製の技術をも ち、インターネットにより極めて効率的に伝達する能力を持っているわけだ。 こうしたとき、著作権つきの作品が、 私たちの新しい複製能力や伝達能力を許可しないのであれば、 それは作品を入手するという目的のためには不効率な障害ということになる。 そしてその独占力によって保護される「産業」が商業的な複製・ 伝達事業者ということになる。そして、 この商業的な事業者には資金が集中することで、 上記のように政治的に自分達の利益の源泉を保護しようとする動機をもつ。 そして権利強化の、受け手の自由の制約の強化のループが開始されるわけだ。

[144─145] 過去50年間に生み出された何万部もの書籍や映画や楽譜の再販が利益にならないのは 明らかだった。どれも当時は成功したが、トップセラーリストから姿を消して、 いまでは絶版になって購入できない。 こういった創造性の産物の多くは価値ある芸術作品で、 それぞれに需要はあるがごくわずかだ。 あまりにわずかなので巨大メディアには利益にならない。 小さな出版社や音楽会社には魅力的な製品かもしれないし、 新進芸術家やクリエイターには価値ある情報で、 インスピレーションを得てさらなる作品が生まれるかもしれないが、 ディズニーのような企業がわざわざ骨折ったり、再販したりする価値はない。 それどころか、こういった作品を大量に再販すると、 この巨大メディアが現在重点的に売りこんでいる最近の製品が「押し出されて」 しまう。だから著作権延長法のおかげでこういった数万点の作品の著作権は、 もともとの持ち主であった企業が引き続き所有することになるが、 世には出されないのだ。輪をかけてこの結果をひどいものにするのが「みなしご作品」 だ。著作権所有者と連絡をとるのは困難か不可能なのに、 期間延長のせいでいまだに法的には「著作権つき」とされる作品である。 初歩の経済学で教わるように、独占者たちは需要制限で利益を最大化する。 芸術作品の需要を制限する単純な方法は「同等の」西部劇映画、冒険小説、 娯楽小説などが、いっときにあまり多く購入可能な状態にならないようにすることだ。

そう。過去の作品が大量に市場に滞留すると、新作の市場が圧迫される。 もちろんコンテンツには流行があるから、 多くのひとが100年前の小説を楽しめるわけではないが、小説が好きな人が、 今年発表された小説の代わりに100年前の小説を読むことは、十分に考えられる。 そして、100年前の小説を読んでいる間には、 他のコンテンツを消費することができない。コンテンツは、互いに競合的なのだ。

だから、コンテンツ産業は、過去の作品を市場から排除したいと考える動機がある。 このためにも著作権が使える。著作権が存続することになっていれば、 邪魔な古い作品を市場から排除するためにも使える。しかし、 これは様々な作品が私たちの手に届くよう作られたはずの、 著作権法の目的からすると逆の結果になっている。

すると、著作権がこれほどまでに強く求められている本質的な理由が、 ますます明らかになる。 コントロールだ。 市場の状態を最適に保ち、 自分たちの持っている知的財産をもっとも高い価格で消費者に買ってもらえるための コントロールだ。すると、何人かの経済学者や法学者が、著作権を自由に使わせて、 ただ代金を徴収する権利へと切り替える「報酬請求権化」や、一括定額で課金して、 あとは著作物を自由利用させようとする「税(課徴金)方式」による処理を提案しても、 いわゆる権利者の皆さんが拒絶し、かたくなに個別契約やDRMを好む理由がわかる。

適切な時期に過去の作品を市場から排除するための能力を維持、強化したいからだ。 おそらくそうした権利者の皆さんにとっての理想は、 市場に提供したコンテンツを収めたメディアが、 定期的に使用不能になるような市場だ。ほら、たとえばLPレコードとか、LDとか。 または、壊れやすい造本の書籍とか。

[149─150] そう、読みまちがいじゃない。 映画に用いた短いビデオクリップの著作権料を支払わなくて済めば、 カウエットの映画は数千分の一の費用で済んだのだ。

これでアメリカレコード協会と「知的財産」をめぐる議論の正体がわかった。 それは本人の労力の成果に対する権利に関するものではない。 創造やイノベーションや改良のインセンティブでもない。 既存のビジネスのやり方を維持する「権利」に関するものだ。この点については、 ロバート・ハインラインの作品中の架空の裁判官に同意する ──

この国の特定のある集団は、 個人か企業が何年も大衆から利益を得たなら、環境の変化に直面し、 公共の利益に反しても、 政府と法廷にはその利益を将来も守る義務があると考えていて、 その考えはしっかり根付いてしまったようだ。 この奇妙な信条は成文法にも慣習法にも裏付けられていない。そして個人も企業も、 法廷を訪れて歴史の針を止めたり戻したりすることを求める権利をまったく持ってい ないのだ。
そう。ここまでの話をみていて、創作者本人のインセンティヴに関るような話は、 ほとんど出てこなかった。理由は簡単だ。無関係だからだ。著作権は、常に、 業界の秩序を維持し、業界にとって「適切な利益」 を維持するための制度としてのみ機能してきた。 現在のコンピュータとインターネットの時代における「法的問題」とされるものも、 単純化してみることができる。それ以前の古い複製・伝達産業が、 台頭してきた電気通信事業者との競争関係にあり、 その電気通信事業者の勢いを削ぐために、 伝統的な権利なるもので牽制しているだけと見ることができる。

どんな形態になるのか、まったく予測できないが、 電気通信に置き換わるような新しい産業、 たとえばテレパシー能力を人間に備え付けるような産業が登場してきたとき、 おそらく電気通信事業は、自らを規制してきた法律や、それこそ知的財産権を盾に、 テレパシー産業を抑制しようとするだろう。

[156]
2003年4月、ロサンゼルス連邦裁判所判事のスティーブン・ウィルソンは、 グロクスター社とStreamCast 社に有利な判決 (そしてアメリカ音楽協会とアメリカ 映画業協会に不利な判決) を下し、 ファイル共有ソフトウェアは違法ではないと裁定した。 2003年8月20日にRIAA とアメリカ映画業協会 (MPAA) は控訴した。 2004年8月17日に第9巡回裁判所はグロクスターを支持する部分判決を下し、 「本抗告はピアツーピアファイル共有ネットワークソフトウェアの配布者が、 そのユーザーの著作権侵害について、 寄与侵害責任や代位責任を問われることになるか否かという問題を提起している。 本法廷は本件の状況において、 被告が寄与侵害責任および代位責任を問われないものと結論し、 地方裁判所が下した部分的略式判決を認める」。

2004年12月に、最高裁判所がこの訴訟の審理にあたることを承諾した。 MGM 対グロクスター社の口頭弁論は2005年3月29日に開かれた。そして2005年6月、 最高裁判所は、この判決日までにグロクスター社がおこなった活動について、 同社が侵害行為で訴えられ得る立場にあるとの判決を全員一致で下した。

注目すべき大事なことは、最高裁判所が下した判断というのは、 グロクスター社を訴えることが可能だというものでしかなく、 同社がソフトウェアの利用法に関して責任を負うとはしていない点だ。

(中略)

MGM 側は、 P2P アプリケーションにはソニーベータマックス訴訟における判例は適用されないと 最高裁判所が述べることを願っていた。一方、 グロクスター社その他のP2P ソフトウェアメーカーが求めていた略式判決はこうだ。 合法的に共有できるファイルが世に存在するのだから、 合法的な流通製品の違法利用についてソフトウェアメーカーが責任を負うべきはずが ない。おそらくご想像の通り、 われわれから見ると理にかなっているのは後者のみだが、それはまた別の話だ。 最高裁判所はどちらの要望もかなえず、こう裁定した。

明白な表現もしくは侵害行為を助長する積極的手段によって、 著作権を侵害する利用法を促進する目的があることが示されている装置を配布する者 は、その結果起こる第三者による侵害行為について責任を負うと見なす。

つまり、 下級裁判所でグロクスター社その他のメーカーが意図的に違法行為を助長させるため に製品を流通させていると証明できれば、これらの会社に責任があることになるのだ。 そう考えると、最高裁判所の判決は合理的でバランスがとれているように聞こえる。 残念ながら、法は絶対にそんな具合には機能しない。

このあたりの話は、ソニーベータマックス事件について知らないと、意味が掴み難い。 昔々、磁気テープに画像を記録する、家庭用ビデオデッキというものが存在していた。 このデッキには、テレビ番組放送が録画される。そのテレビ番組の中には当然、 映画会社が製作し権利をもつ作品が含まれている。そこで、映画会社は、 テレビ番組を録画している主体である消費者ではなく、 家庭用ビデオデッキを販売していたソニーを訴えた。

このソニーベータマックス事件では、 「違法でない用途すなわち著作権を侵害せずに用いることのできる機器については、 それを製造販売すること自体では、著作権侵害にあたらない」とする判例ができた。

さて、ここで、グロクスター社のオンラインサービスが、 このソニーベータマックス事件のビデオデッキと同じものと見ることができるのか、 それともそうではないのかが問題となったわけだ。そして連邦最高裁判所の結論は、 仮に著作権を侵害しない用途があったとしても、 「グロクスター社その他のメーカーが意図的に違法行為を助長させるために製品を流 通させていると証明できれば」著作権侵害となるとした。これは、 ソニーベータマックス事件判決より侵害を容易に認める立場に移ったことを示す。

単に、侵害以外の用途があることを示せば合法であったものが、 侵害されたと訴える側が、「意図的に違法行為を助長していた」 と立証すれば違法となるという転換はかなり大きなものだ。なぜなら 「意図的に違法行為を助長した」という条件が曖昧だからだ。そしてこの曖昧さが、 著作物を扱う機器の製造販売に対して、抑止効果を発揮するのだと指摘されている。

[167] 暗号化が法的保護なしでうまくいくにもかかわらず、 独占者たちは当然ながらそれが法的に義務づけられることを望む。そうでないと、 その装置にかかる費用のせいで利益が減ってしまうからだ。 しかしながら ── この装置の費用は、 音楽や映画の生産にかかる社会的費用に含まれる。 この装置なしでは音楽は生まれないだろう。したがって、 この装置の購入を義務づけることで、消費者に負担をかけて、 実質的には独占者たちに補助金を与えているのだ。消費者はこの装置の費用を負担し、 そのうえで楽曲の代金をまるごと独占者たちに支払わなければならないのだ。 装置の義務づけは、消費者から独占者への移転を招く。これが再分配効果だ。 この再分配は、独占者が楽曲を販売できる、価格を変えることで、 経済的非効率も引き起こす ── いまや音楽は過剰価格をつけられているし、 独占者にはそれを過剰生産するインセンティブがあるのだ。

ここで言う「暗号」は、厳密な意味での暗号まで含むものではない。簡単に言えば、 素人にとって容易な方法では、 その意味を理解したり活用したり楽しんだりできない状態にある情報を暗号と呼んで いるようだ。そして、暗号化された情報を享受するためには、 暗号を解除しなければならない。ここで問題になるのは、 暗号を解除するためのコストを誰が負担するか、というものだ。 そのコストは大抵の場合受け手が負担することになる。 ある有用な情報を享受するためには、 私たちは解読に必要な技能の獲得や解読のための費用を負担しなければならない。

言い方を変える。情報の送り手の財産権を守る、 すなわち利用者が情報を自由に使えなくする技術として暗号が採用された場合 について考えてみよう。 受益者は、情報の送り手すなわち産業側だ。受け手すなわち消費者は、 本来享受できたはずの利便性を失っている。通常であれば、 そのような不利益が加えられた情報の商品価値は下がる。 受け手が暗号解読のために必要な技能や機器を購入する費用増のため、 想定される受け手の数は減少する。

ここで、 国家が暗号解読のための機器を ── 送り手の財産権を守るための機器を ── 法的 に情報の受け手が用いる再生機械に義務付けたらどうだろう。 何も対処しなければそのような機器の費用は再生機器に上乗せされ、 利用者が負担することになる。 しかも法的義務付けですべての再生機器が自動的に暗号解読のための機器を内蔵する なれば、送り手側は自分の側の支配能力を増加させつつ、 市場が縮小することを避けることができ、 しかもその解読機器の費用は受け手の側に転嫁させることができる。

こんな(送り手側にとって)いい話はない。

[174] 自動車やじゃがいもの所有が有効なら、マイケル・ ノヴァクが主張しているように、アイデアにもそれは当てはまらないのだろうか? ノヴァクのような知的独占権支持者たちは、 著作権および特許法に記されている「知的財産権」と、通常の意味での財産権には、 つながりがあると主張するほうが便利だと判断している。 一般的な意味での財産はいいものだ ── これは自動車やじゃがいもと同じように、 アイデアについても当てはまる。一画の土地という通常財産は、 その持ち主に土地を改良し、売却して利益を得ることを可能にしてくれる。 一画の土地を所有することと、あらゆる土地を支配することは、 同等ではない ── ほかにもたくさんの人が土地を所有しているし、 許可を求めることなく自分の土地を改良する権利をそれぞれ持っている。 通常財産権をアイデアのコピーに適用した場合も、 同じ権利がついてくる ── 自分が手にしたあるアイデアのコピーは好きに使えるし、 他人が手にした同じアイデアのコピーや派生物を他人が好きなように扱うのを妨げる ことはない。一般的な意味での財産権とは、 これと同じことを土地区画に対してもアイデアのコピーに対しても認めるということ だ。知的財産権がアイデアのコピーの扱いにおいて認めることは、 それとはかなりちがう。「知的財産権」とは、 他人が手にしたあるアイデアのコピーについて、使っていいとか、 もっとありがちなこととして使ってはいけないとか伝えて、そのアイデアを独占する 「権利」である。ここまでの章で見てきたどの革新的産業においても、 イノベーションと繁栄につながるのはアイデアの売買と改良をおこなう権利で、 利用を禁じる権利ではなかった。

「ノヴァクのような知的独占権支持者たちは、著作権および特許法に記されている 「知的財産権」と、通常の意味での財産権には、 つながりがあると主張するほうが便利だと判断している」。 そう、 こここそが知的財産権という概念の神秘的な鍵だ。 その存在形態からしても、 社会的機能からしても、経済学的にみても、「物」に対する所有権と、「知的財産権」 と呼ばれているものは、まったく異なっている。ただ一つ「知的財産権」 という言葉が、「財産権」という言葉を含んでいることだけが関連をもつ。

しかし、このただ一つの概念上の関連から、「知的財産権」と「所有権」 の神秘的な関連を説く莫大な量の神学文書が作られて、配布され、 またその神学を信奉する人々を生み出してきた。そして、いわゆる「知的財産権」 というルールが、実態的な社会関係に基礎付けられた「所有権」 ルールと並列的に存在しなければならないと主張され、「所有権」ルールがもつ、 有益な特性とともに離れ難いその欠点 ── 「物」 の利用時における競合からやむを得ず生じる権利の排他性 ── を人工的に 「知的財産権」に受け継がせることになっている。

「知的財産権」は、市場取引において、他に競合する仕組みもなく「所有権」 ルールが強力に支持されていた時代に、その隠喩として組み立てられた人工的権利だ。 より洗練された現代の市場において、それがもっとも効率的な、 生産と分配のルールとなるように再設計されるべきだと思うし、 少なくともそのような検討を行うことを「「所有権」と類似した存在である」 という臆見で妨害することは、反社会的だ。

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7 競争のしくみ

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[178] 「知的財産権」のない世界の3つの望ましい特徴に注目したい:

1. 消費者が入手できるコピーの数が多く、価格が低いことで消費者が裕福になる。

2. 最初のイノベーターも相当な額を稼ぐことができる。

3. イノベーターが一人でも多数でも市場は機能し ── 社会的に有益な同時性のイノベ ーションが可能である。

1はほとんど自明で、3は容易に理解し得る。問題は2の点だ。本書の筆者たちは、 あるアイデアなり作品が市場から回収できた額が、 そのアイデアなり作品の市場価格だったのだ、と考える。 それは経済学者としては妥当な考え方だと思う。ところが、法学者たちは、 あるアイデアなり作品を生み出した人は、 そのアイデアなり作品を完全に支配するべきだと考える。 したがって市場おける均衡価格というようなことは考えず、 その作品に関連して発生する、経済的・ 精神的すべてを権利者に付与すべきだと考える。すると、法学者たちの立場からは、 2の主張は到底受け入れ難い。「相当な額」では「不当」なのだ。

私は法学者であるが、2の主張について同意する。 ということは法学者失格なのかもしれない。

[179] アイデアの最初のコピーを所有するのはイノベーターたちであり、 これらのコピーは木の根のようなものだ。 ここからほかのあらゆるコピーが木の枝のように生えていく。 したがって私的所有が有効で「知的独占」がない場合、 競争はアイデアのコピーの現在と将来における価格を下げる。 しかしながら競争相手すべてがイノベーターから直接的あるいは間接的にアイデアを 獲得するにあたって支払いをしなければならないので、 オリジナルの原稿のみが唯一の不可欠な投入財である場合、 イノベーターがアイデアのコピーの再生産から得られるすべての利益を手にする。 当然ながらよくあるのは後者のケースなので、特にこれを注意深くみて、 このような利益の分け前が大きいがために競争力あるイノベーターがアイデアを追求 する場合と、そうでない場合について理解しよう。

ここで説明されてるのが、上記の2が成立する理由だ。簡単に言えば、 ある技術から派生的に技術を発展させようとしている競争者も、 基礎技術に対する知的貢献を独占できない場合、最初に技術を開発した人物もまた、 その派生技術の恩恵を獲得できることになる。知的財産権が存在しないことで、 ある技術を市場において販売する場合の期待される利益は減少するが、 ある技術から派生する諸技術の市場の幾許かを、 自然的に最初の技術開発者は獲得できるわけだ。そして、著者たちは、 技術開発競争で爆発的に拡大する市場を生み出す後者の利益が、 競争制限的に小さな市場を独占して獲得する前者の利益と拮抗するかそれ以上である、 と主張しているわけだ。

たぶん、この主張が成立するためには、次の仮定を置く必要があると思われる。

最初に技術を開発した人物も、 その競争者も開発能力や資本規模において大きな差が存在しない。

[180] 経済効率化のゴールは独占者をできる限り裕福にすることではなくて、 まさにその正反対だ。あらゆる人の暮らし向きをできる限り良くすることなのだ。 これを実現するには、作り手の費用は補償されねばならない。 いちばん得意なことをする経済的インセンティブを与える必要はあるのだ。 だがそれ以上の補償は必要ない。オリジナルのアイデアを競争市場で売って、 コピーのもととなる木の根をつくったら、 イノベーターは機会費用を稼いだことになる。 つまり ── ニ番目に得意なことをして稼げた額以上を手にすることができる。 そうしたら効果的なイノベーションが実現できたということなので、 みんな満足すべきだ。

知的財産権は、ある作品から期待されるすべての収益を、創作者に保障すべきか、 という問いに対して、ここでは明確に「否」と答えられている。 創作者が回収できない、ある創作から発生する利益は、 社会のための利益として用いられるからだ。

ここでは、社会的効用を最大化することが目的であり、そのための手段として、 創作者に利益を保証するということが明確に語られている。ならば、 創作者の利益を保証することで、社会的効用の最大化に失敗しているのであれば、 目的と手段が転倒していることになる。そして著者は、一貫して、 その転倒が生じていることを論証しようとしている。

[181] アイデアのコピーはつねに限られていて、 再生産にはつねに費用がかかるからこそこれらは価値あるものであり、 あらゆる所有物に認められるのと同じ保護を受けるべきである。 許可なしに取りあげられるべきでないし、 持ち主にはそれらを売却する法的権利があるべきだ。著作権と特許が、 この通常レベルの保護を与える必要はない。著作権と特許は、 合法的にコピーを購入した人々に対して、 そのコピーについてやってはいけないことを伝える追加的 ── そして不必要 ── な権利だ。アイデアに与えられるのが「知的財産権」の尋常でない保護ではなく、 通常の財産権による保護だとしても、人々は貴重なアイデアを思いつき、 そのコピーをつくって他人に売るだろうか? 当然だ! 先に述べたように ── それ以上に第二章と第三章の果てしない例が示すように ─ ─ この競争力ある財産権制度のもとでアイデアのコピーを売って大もうけできるの だ。実際、ほとんどの市場は過去も現在もそうして機能してきたし、 これらの市場の人々は何世紀にもわたってすさまじい勢いで新しいアイデアを生みだ しては、それを売って利益を出してきた。

著者たちは、ある創作物を、市場取引することについて法的に支援し、 権利を与えることには賛成しているが、 いったん市場で売却された創作物のコピーに対して、 いつまでも創作者の支配が及ぶという状況を非難している。 それは創作物の買手の自由を阻害するし、 買手が創作物から十分に利益を獲得することを阻害するからだ。複製可能な創作物が、 創作者以外の人物の手によって、市場に投入される状況があったとしても、 それでも最初に創作物を市場に投入することには、 十分に経済的なうまみがあると主張している。

[190] 製靴工場と比較すると、最小限の生産可能量でも、 本のコピーはごく短期間に数多く作れる。そしてまさに市場を埋めつくし、 ほぼ即座に価格を限界費用に近いところまで下げてしまうこともあるかもしれない (ただし証拠を見ると、実際にはそんなことは起きないことも指摘しておく) 。 結果として価格と限界費用の差はとても小さくなる場合があり、 それにコピーの数を乗じると「レント不足」となる。レント不足なのは、 たとえばその本が非常に難解で、書き上げるのに非常に時間がかかったからである。 完全な本の良い代替品となるような、もっと小さな本を作ることで、 過剰生産と多額の固定費という組み合わせを変えることはできない。 これはわれわれが経験からはっきりと言える。 イノベーションプロセスにこのような分割不可能性が存在すること、 そして初期生産量が市場規模に比べて大きい可能性があるという事実は、 競争下のイノベーションに関する重要なポイントだ。

ここは、 排他的独占権が存在しなくても市場先占で利益を獲得できることを説明している。 とはいえ、最初の作品を生み出すのにたいへんな初期費用がかかった場合、 販売価格が限界費用に近くなってしまうと、 初期費用を回収できなくなることも指摘している。また、市場の大きさを読み誤って、 需要よりも多数の商品を市場に投入してしまう問題についても言及している。

[192] イノベーションが早く激しく起こる産業の初期段階では、 情報共有へのインセンティブが特に強い。 こういった初期段階では生産能力の制約が効くので、 競争者たちがコスト削減しても業界価格が下がらない。 新しく稀少な財に支払おうとする消費者の意志のみで価格が決まるからだ。 イノベーターは、イノベーションの共有すれば、失うものは何もなく、 しかも競争相手の一人が技術を飛躍させてコストを下げてくれる可能性の恩恵を受け られるのだと正しく計算する。生産能力の制約が効いているときには、 コスト削減や製品の改良による経済利益は非常に大きく、 独占価格形成による利得など問題にならないほどだ。産業が成熟していて、 コストを削減したり品質を改善したりするイノベーションが生まれにくく、 生産力がもはや需要への制約でなくなると、独占利益が意味を持ち始める。 一言でいうと、 だからこそ若く創造的で活力に満ちた産業の企業が特許や著作権に頼るのは稀で、 非効率的ですたれた活気のない産業に属する企業が、 各種の知的財産保護を求めて必死に働きかけるのだ。

簡単に言うと、想定されている市場が十分に広く、 その市場を満たすだけの生産能力が存在しない段階、または、 技術革新のたびに想定される市場がどんどん拡大しているので、 潜在的に競争関係にある企業たちも、相互に競争するよりも、 技術革新を加速して市場を拡大させた方が有利な段階では、 知的財産権は必要ないということ。

逆に市場の成長がとまり、 あとはその市場を競争関係にある企業によって分割せざる得なくなって初めて、 何らかの方法での独占利益の追求が始まるということ。

さらに、自らの独占利益を獲得するための戦略の副作用として、 成長の止っている市場をさらに縮小させるような効果があると、目も当てられない。 市場は縮小していく。 自らの利益を守るためにますます利用者にとって不利益となる独占を追及する。 さらに市場は縮小する ── 悪循環だ。 そしてこの悪循環は音楽CD市場において顕著に観測された。

少なくとも成長の止った市場において事業者は、 利用者を競争者として扱うべきでなかった。利用者を競争者として制約する戦略は、 上記の副作用を最大化するのだから。

[197] だが地下室で作業している貧乏な発明家が利益を求めて大企業とわたりあうには? 大企業がかれの資金不足を利用してアイデアを盗み、生産に持ち込まないだろうか? 発明家がそれを防ぐための賢いやり方が『アメリカン・エコノミック・レビュー』 掲載のアントン&ヤオの論文で説明されているので、援用しよう。 ジンジャー/セグウェイの例に戻ると、 カーメン氏は自動車会社の一つ (フォードとか) を訪れて、 無料で青写真を見せてやればよかったのだ。 そして競合他社には秘密にしておくとの約束を、 フォード自動車の有力株主になることを条件として結ぶわけだ。 これで経済学者のいう誘因両立メカニズム、専門家のいうウィン・ ウィンの状況の出来上がりである。フォード社は先行優位性を享受できるため、 この秘密には相当な価値がある。 カーメン氏が求めるものが発明の価値を下回るかぎり、 フォード社は喜んで支払うだろう。カーメン氏が秘密を競合他社に明かせば、 独占利益が失われるからだ。一方でフォード社は、 株式を保有するカーメン氏なら他社に秘密を漏らさないとわかる ── 株の価値が下 がるからだ。ちなみにこの議論でわかるように、 競争が社会にとっても発明家にとっても得になることに注目。第一には、 上記の理由から。第二に、 フォード社にとってカーメン氏の脅威が確実なものになるのは、 自動車の生産においてフォード社に少なくとも競争相手が1社はあるとき、 かつそのときにかぎられるからだ。自動車の生産において競争がなければ、 このやさしいイノベーターが唯1の自動車生産会社に対して持つ交渉力は、 はるかに小さくなる。したがって教訓はこうだ:必ず競争を促すこと。 イノベーターの間だけでなく、 車や靴といったそれほど革新的でないおなじみの財の作り手の間においても。

これは、「排他的権利が特許に存在しなければ、 小さな発明家が大きな企業と対等に渡り合うことができない」 という主張に対する反証となっている。 大企業が求めるのが技術的な独占であるのなら、 その独占状態によって利益を得る企業の利益の一部を得られるようにしておけばいい、 という発想だ。小さな発明家は十分な利益を大企業から得られる限り、 競合他社に情報を提供して、大企業の利益を損なおうとする動機はなくなる。 すなわち、大企業は、独占利益を維持するために、 十分満足な額を小さな発明に与えつづける動機が出来上がるという戦略だ。

[201] 最大の補完売り上げは、当然ながら広告の売り上げだ。 製品を無料で提供して利益を上げられるなんて信じられないという人たちは、 ラジオおよびテレビ業界の歴史を調べるといい。 登場以来40年間は製品を無料で提供せざるを得なかったこの産業のおかげで、 どれだけの人々がすばらしく裕福になっただろうか? もちろん著作権がなければ、 製品から広告を取り除いて再配布されてしまうという議論もある。 暗号化などの技術手段がなければ可能かもしれない。だが、 当然ながら制作者が物語に欠かせない部分に広告を埋め込むのを防ぐ手だてはない。 プロダクト・プレースメントは、映画やテレビではすっかりおなじみだ。 他の広告の可能性が弱れば、それに対応してさらに価値は上がるだろう。 これが他の作品、たとえば本などにも及ばないわけがない。 昔は文芸作品のとても多くが何らかの広告を体現していたことが、ルドヴィコ・ アリオストの『狂えるオルランド』の例で裏付けられている。

これは、 広告によって実質的に創作物が無料で市場に投入されるモデルについて語っている。 もちろん、広告を取り除いてしまう可能性についても言及している。そこで、 広告を創作物から分離できなくしてしまうという戦略についても説明されている。

私も昔似たようなことを考えた。 四国の松山に現在でもたくさんの観光客が訪れる理由は、 もちろん松山という土地自体の魅力があるのだろうけど、文豪夏目漱石の『坊ちゃん』 が教科書などで紹介・言及されることによって、 ほとんどの国民が親しむものとなっていることが大きい。もちろん『坊ちゃん』 は広告のために書かれたものではないけど、 あの楽しい物語を読んでイメージが膨らむと、松山に出かけたくなるのも良くわかる。 優れた創作物には、そうした物語の舞台を実際に訪れてみたくなる魅力がある。

ならば、ある土地を魅力的に描いた創作物を、その土地の観光協会が買い上げて、 無料で配布するという戦略には十分な合理性がある。または、 ある特定の商品を魅力的に描いた創作物を、 その商品を提供している業界なり企業が買い上げて、 無料で作品を配布すると言う戦略もいい。

[204] 本書ですでに述べてきた ── 映画や本が大当たりか失敗作か、 確実に判断する方法は一つだけで、それはいつも後になってからしかわからない。 ある作品が「大当たり」と呼ばれていたら、 それはすでにたくさんのコピーが売られていて、 もとのクリエイターに大もうけさせているということだ。 だから模倣者が後からやってきて、おこぼれをいくらか横取りしていったところで、 たいしたちがいにはならない。

これは、海賊版が不当な利益を莫大に獲得する、という主張に対する、 逆説的な反論だ。

海賊版が競争上有利なのは、「はずれ」作品に資源を投入するというリスクを回避し、 儲けのある「あたり」作品のみに資源を投入することができるからだ、 という説明がある。ところが、ここで述べられているように、「あたり」 作品であるという事実が判明するときには、 すでに潜在市場のかなりの部分は正規品によって占められているということを意味す る。だから、更なる追加的な市場を海賊業者が獲得することの是非はともかく、 ある作品から獲得できる収益が創作者の投資を埋合せなければならない、 という点については、すでに達成済みであるのだから、インセンティヴの観点からは、 海賊版が存在することはあまり関係がないことになる。

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8 知的独占の擁護論

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[211] 知的独占支持論は、しばしばこれと似た趣がある。理屈の上では正しくても、 常識的に納得しがたいのだ。エド・フェルテンはいわゆる「ピザ権」 テストの適用を提案している。ピザ権とはピザ販売の独占権であり、 ピザ権所有者によるライセンスなしにピザを作ったり提供したりするのが違法になる。 当然ながら、これがむちゃな政策で、 ピザを作って売る人は市場に決めさせるべきであるということは、 だれもが理解している。ピザ権テストが伝えようとしているのは、 知的独占肯定論を評価するにあたって、 その議論がピザ権支持論としても使えるようなら、 その議論には不備があるということだ ── あまりに多くのことが言えてしまう議論 なのだ。何を論じるにしても、ピザには当てはまってはいけない。

この発想が面白かったので紹介。真である命題Aと偽である命題Bがあるとき、 AもBも真であると論証できてしまう命題Cがあるなら、 そのCはAやBの真偽判定の論拠としては使えない。これはわかるよね。で、 知的財産権を肯定する説を証明する論拠が、誰がどう考えてもナンセンスな上記の 「ピザ権」を肯定する論拠としても使えるなら、その論拠は、 知的財産権を肯定する論拠としては無意味ということになる。

もし、貴方が「ピザ権」について考え、これが「ピザ技術の発達と、 ピザ創作者の利益、ひいては社会の利益の増大になる」と考えてしまうタイプなら、 この部分の説得はまったく役に立たないことも、申しそえておく。

[220─221] カップに入ったコーヒーに法的保護が必要なのは事実だ ── あなたがわたしのコー ヒーを許可なく飲んでしまったら、それは窃盗行為だし、 民事上および刑事上のさまざまな罰則の対象になる。 経済学では普通のこういう良い所有権は、労働の成果を守って、 価値ある資産を大事にするインセンティブをもたらすと見なしている。 だがアイデアのコピーに必要な法的保護は、 コーヒーに必要な法的保護よりも少ないことに注目 ── 脅してコーヒーを強奪した り、隙を見て盗んだりするのは比較的簡単だが、 相手の積極的な手助けなしにその人のアイデアを手に入れるのはかなり困難だ。 実のところ、必要とされる法的保護は、 拷問や強要を受けない法的権利だけでいいようだ ── そういう権利であれば、 著作権・特許法の現状と関係なく享受できる (最近のアメリカでの法的展開をみると、 そうでもないのかもしれないが)。いずれにせよ、 アイデアのコピーを伝える相手と条件と価格を決める権利に関しては、 知的財産を深刻におびやかすものはない。

これらを考えると、知的財産法が実はどういうものか見えてくる ── その実情は、 ほかの財産にたとえることで、かえってわかりにくくなっていることが多いのだ。 知的財産法はあなたが手にしているあなたのアイデアのコピーをあなたが管理する権 利ではない。いま指摘したように、その権利にたいした保護は必要ない。 知的財産法とは、自分の手にある他人のアイデアのコピーを、 その他人が管理する権利なのだ。

特許の対象となるような新奇で複雑なアイデアが、容易には「盗まれない」 ことを前提として、その保護は手厚いものでなくてもかまわない、と主張している。 だから、知的財産権は、アイデアを盗まれることを防止する権利なのではない。

そして後半の主張につながる。すなわち、 正当かつ合法に手に入れたアイデアが組み込まれた何物かを私たちが使用するときに、 権利者なる人物がその使用について干渉し制限する権利なのだということが主張され る。私もそのとおりだと思う。そしてそうした他人の自由を制約する権利に 「財産権 property」なる言葉が用いられているところが、 この問題の最大のトリックなのだ。

それゆえ、私は自分の「情報法」の講義のなかで、「知的財産権」を 「言論表現の自由」を制約する表現規制の一つとして構成している。 そしてその正当化理論について説明するようにしている。

[222] ジャン・ティロールによればこれはシュンペーターの台詞だそうだが 「企業に研究開発をおこなわせたいなら、 独占の発生を必要悪として受け入れなければならない」。この見方は、 昔と同様に現在も経済学者たちに広く共有されている。バローとサラ・イ・ マーティンは、最近著した教科書の中でこう主張している。研究を促すには、 成功しているイノベーターたちに何らかの補償を与える必要がある。根本的な問題は、 新しいアイデアやデザインの創造には (中略) 費用がかかることだ。 (中略) 既存の発見をあらゆる作り手が遡及的にフリーで入手できるようにすれば効率的だが、 これではさらなる発明へのインセンティブを事前に与えられない。 (中略) 既存のアイデアの利用に対する制約と、 発明に対する報賞とのトレードオフが発生するのだ。

ここで言われているのは、(a) 過去のアイデアに自由にアクセスできることによる利便と、(b) 自ら生み出したアイデアによって独占利益を獲得できる期待、の両方が相反するとき、 前者では、積極的なアイデアの開発が行われない、という主張だ。

この主張の前提には、積極的に行われるアイデアの開発の方が、 そうでない場合よりもより効率的にアイデアを生み出すことができる、 という仮定がある。

ところが、私の(とくに根拠があるわけでもない)見解では、「アイデアそれ自体」は、 確率的に発生する。この確率的なアイデアが、たまたまその人の課題と結びつくとき 「具体的なアイデア」となる。 さらにその人がそれを権利化するだけの意欲を持つときに「具体的なアイデアの記述」 がされる。そうして「具体的なアイデアの記述」が特許を審査する人に理解され、 特許を付与されると「特許を受けた発明」となる。さらに、その発明には 「それは私のアイデアを盗んだものだ」とか、「それは特許に値しない」とか、 「その発明は私の特許を侵害している」などといった、訴訟攻撃が加えられ、 それらの訴訟攻撃に耐え抜いて「特許権の確定した発明」となる。

とすれば、エジソンが「発明に必要なものは、1%の閃きと、99%の努力だ」 と言ったのはまったく正しい。それゆえ、私は、 アイデアを生み出すこと自体には特許は無関係だが、 そのアイデアを具体化し権利化する部分については、貢献しているといえると考える。 アイデアを具体化し権利化するプロセスを思えば、 そこには膨大な費用が必要なはずで、そうであるならば、 その費用を埋合せるだけの期待報酬がなければ、 合理的な主体は費用を負担しようとしないだろう。

ただ、アイデアを権利化することが、 他者の権利化されたアイデアを牽制するためのものだとしたら、特許による誘引は、 存在しなくてもよい緊張関係をますます緊張させるために費やされている費用だとい える。そうであるならば、権利化させる意味はない。もともと「アイデアそれ自体」 がゼロの費用で確率的に発生するのであれば、 そのアイデアを基本としたさまざまな商品で市場競争をすればよいだけの話となる。 そう考えると、特許についていえば、 それは市場競争のルールを歪めるだけの存在となるだろう。

この話は、「表現」を権利化する著作権には当てはまらない。というのは、 著作権は表現という具体的に費用の発生する行為への誘引だからだ。

[223─224] 固定費+限界費用一定の議論は、もっと実質的な点で二つ不備がある。 まず、理論上、完全競争で財の価格が限界費用と等しくなってしまうのは、 生産力制約がない場合のみだ ── そしてさっき充分に議論したように、 生産力制約はその他の先行優位性と共にレントを生み出すし、 それがイノベーションを成長させることはできるし、現に成長させているのだ。 限界費用が価格になるというのは長期の見通しであり、 生産力制約による拘束がなくなった場合にのみ当てはまる話だ。 生産力は常に費用をかけずすぐに増やせるといういい加減な前提に基づいて経済成長 理論をうち立てるのは、危険な判断だろう。少なくとも、 この世界では希少性がいまだに幅を利かせているのだから。第二に、実際問題として、 ほとんどの産業やイノベーションにおいて、儲けに重要なのは短期なのだ。 長期がくる頃には、もっと新しいイノベーションに取って代わられているだろう。 理論の焦点を長期均衡に合わせ、 生産力抑制に拘束力がある場合の短期動学の研究を無視すると、 形式的には美しいモデルが得られるが、残念なことに現実的な妥当性は皆無となる。 われわれはケインズの金融経済学は好きではないが、J・M・ケインズの格言 「長期的には、われわれみんな死んでいる」は、新成長理論には当てはまるようだ。

経済学の用語になれている人には、わかりやすい文章なんだろうけど、 そうでない私たちにもわかりやすいように書き換えておこう。

(独占権がないことで) 商品の値段が、「これ以上下がらない、誰も儲からない」 という水準まで落ち込むためには、 商品を幾らでも生産できるという前提がなければいけない。実際には、 「これは売れる!」と気がついたところで、 その商品を製造することのできるすべての事業者が全力で生産したところで、 その後の短い時間内に無限に商品をそろえるということは不可能。ということは、 「売れる商品」については、短期的には需要の方が大きいわけで、 市場価格には儲けを得られる余地があるということだ。 「瞬間的に無限に商品をそろえられる」なんていうありもしない話を前提として、 政策を決めてはダメだ。

また、商品が売れる時期は短い。 その商品をほしがる人みんなに商品が行き渡るころには、 もう別の商品が発売されているのが普通だ。だから 「長期的には商品がみんなに行き渡って、 商品の価格が限界まで安くなってしまうんですよ!」 というのは考える必要のない想定だ。

と言っている。この主張は、何らかの物理的実体のある商品の場合は、 現在でも当てはまる。が、純粋に情報として流通するコンテンツについては、 もしかすると瞬間的に需要をみたすだけの商品を販売することが可能かもしれないし、 そうなると商品が売れる時期というものは、 ほぼ瞬間的な期間ということになってしまう。このような状況では、 現在の収益構造のままではコンテンツ産業は成立しえないかもしれない。

[228] ひとたび発見されたアイデアはだれでもフリーに模倣できるという見解は蔓延してい るが、事実とかけ離れている。 アイデアが費用なしで獲得できる例もたまにあるが ── 概してアイデアは伝達が困 難で、伝達するリソースには限界がある。経済学者は大学教授を兼任して、 古いアイデアを教えて (伝達するのが容易でも安価でもないので) かなりの稼ぎを手にしている人も多いが、 そういう人の一部が研究論文ではこれを否定しているのは皮肉な話だ。 ほとんどの場合、模倣には努力が必要であり、さらに重要なことには、 もとのイノベーターから製品もしくは教育サービスを購入する必要がある。つまり、 ほとんどのスピルオーバーには価格がついているのだ。

これも、経済学になれていない人にわかりやすく書き換えておこう。

アイデアがすぐに真似されてしまうという思い込みがあるけど、実際には違う。 簡単に真似できるアイデアの例もたまにあるけど、 普通簡単に真似できるような単純なアイデアには特許が付与されないので、 そもそも特許とは無関係だ。ほとんどの場合、 特許となるような新しくて複雑なアイデアは、理解し応用することが難しい。だから、 このアイデアを使えるようにするためには、 最初にアイデアを実現した人物から製品を買った方が早かったり、 技術内容の詳細や関連するノウハウを教えてもらうために、 代金を払ったりする必要があることになる。だから、 特許がなくても最初にアイデアを実現した人はお金を稼げるのだ。

[235] 個々のイノベーションの秘密は一定期間保たれると仮定しよう、 その期間の長さはイノベーションごとに異なる。特許の法的保護期間は20年間だ。 そうすると、イノベーターは秘密を20年以上保てる場合は秘密を選ぶし、 秘密が20年未満しか保てない場合は特許保護を選ぶだろう。この場合、 特許保護は社会に悪影響を及ぼす。20年以上保てる秘密は、 可能な限り長く守られる一方で、特許がなければ独占期間がもっと短かった秘密は、 20年間独占されてしまうのだ。 規制制度が事実上開示を迫る製薬業界をのぞく世界では、 企業秘密の保護は特許よりもかなり重要である。 研究開発施設と企業管理職の調査で何度も示されているように、 特許が収益回収の手段として効果的だと回答するのは 23%-35% のみである。 ちなみに、企業秘密の保護が効果的だという回答は51% である。

上記のように、アイデアが実はなかなか真似され応用されえない、という場合、 特許の保護期間よりも長く秘密を維持できるか、できないか、という判断が、 特許を利用するかしないかに影響してくるという話。忘れられがちだけど、 特許を得るためには発明の内容を公開しなければならない。 この公開との引き換えで法的な独占が付与されるのだ。

すると、特許がなくても秘密を守れるほど高度で複雑なアイデアについては、 むしろ特許をとらず秘密を維持した方が有利になる。 するとこのアイデアは長期にわたって秘密となる。逆に、 特許の保護期間よりも短い期間で内容が真似されてしまう場合には、 積極的に特許が取得されるだろう。するとそのアイデアは、 特許がない場合よりも長く保護される。いずれにしても、 産業に応用可能な有益なアイデアは、特許がないよりも長い期間独占状態になる。 これは社会的効用の観点からみると損失となる。

[245] 知的独占が可能な創造物の場合、 技術的変化 ── コンピュータおよびインターネット ── は再生産のコストを大い に削減するため、 アイデアが即座にゼロ価格でやりとりされる従来のモデルがあてはまるのだ、 という議論はあり得る。しかし重要なのは競争レントの量に対するコストである。 実際にインターネットが競争レントを削減しているにしても、 その同じコンピュータ技術が、 著作権保護が可能な創造物を生産するコストも削減していることには留意しよう。 たとえば音楽は10年前なら音楽編集には数百万ドルの機材が必要だったが、 いまではコンピュータ機器に数千ドル投資すればいい。また、 インターネットが音楽と映画を市場にあふれかえらせるよりずっと前に、 家庭のコンピュータでも、本を1冊書く程度の手間で、 映画がつくれるようになるだろう ── 映画製作の高額費用に寄与している俳優や撮 影監督やその他の人々の手をまったく借りずに。

先に、「商品が短期間に無限に製造できない」という場合について説明した。しかし、 反論として、プログラムや各種コンテンツのように、 コンピュータやインターネットで容易に無限に複製可能な場合には、 瞬間的に無限の需要を満たしてしまえる商品が想定しうる。ならば、 その商品の市場価格は、これ以上ない安い価格、すなわち零に近くなってしまう。

ところが、この売手の不利な状況は、買手には有利に働くはずで、 アイデアが誰かの作品に触発されて生み出されるのだとすれば、 コンピュータやインターネットを使って、 より安価に作品を作り出せるようになっているし、 より安価に配布することができるようになっている。ということは、 「売上−費用=儲け」であるのなら、制作・製造費用が十分に小さくなる方向で、 利益を確保することも不可能ではないのだ。

別の言い方をしよう。創作という行為が、「過去の作品を利用して、 新しい創作物を生み出し、その創作物がまた誰かの創作に利用される」 というサイクルで成立するものだとする。創作活動を活発化させるという観点からは、 このサイクルが可能な限り早く回転したほうが望ましい。これまで、 「物理媒体に固定された作品を市場で取引する」という、 経済的利益を燃料とする補助動力Aを用いないとサイクルが回転しなかった。 ところが、インターネットの時代になると、 補助動力Aよりも効率的にサイクルを回転させられる、 評判と賞賛を燃料とする補助動力Bが誕生したわけだ。そうであるならば、 補助動力Bを効率よく運用できる制度を新たに設計し、 補助動力Aに関連する制度は止めてしまうほうが効率的だと考える。

補助動力Aを温存するために、古い法制度を維持するのは本末転倒だろう。 産業を守るために、「エンジン車は人の走る速度より早く走行してはならない」 「エンジン車の前には接近を知らせ危険を呼びかける人物が先行しなければならない」 という制限規定をもつ法律をイギリス議会に作らせた馬車産業のようなことを現代も するのだろうか。

[248-249] もっと専門的な分析に基づいて主張すると、 追加的なささいなアイデアを生み出させながら一般的な独占のゆがみを減じる大ざっ ぱな方法は、特許や著作権の期間を市場規模に応じて短縮することだ。 単純なめやすでいうと、市場が4% 成長するごとに保護期間を1% 削減するといい。 世界貿易機関 (WTO) を例にとろう。G7 諸国は世界の国内総生産 (GDP) の3 分の2 を占めている。その他の国々が占める3 分の1 を加えると、 市場規模はおよそ50%増になる。WTO における知的財産の変化というのが、 G7 ですでに用いられている保護をその他の国々にも拡大するものとした場合、 保護期間は12 分の1 だけ短縮される。同じように、世界経済の成長に伴って著作権・ 特許期間も短縮するべきだ。世界経済の成長が年間2% だとすると、 われわれの単純なめやすでは、保護期間を年間0.5% 短縮することになる。 世界経済はこのところおよそ年間4-5% の成長をとげているので、 保護期間は年間 1% 短縮されているべきだ。残念なことに、 著作権の保護期間については事態がまちがった方向へ進みつつある。 約4 倍に延びているし、一方で世界のGDP はおよそ2桁の成長を示しているのだ。 したがって、20世紀初めの時点で、 著作権保護期間を28 年間としたのが社会的に最善だったとしたら、 現在の保護期間はおよそ1 年間であるべきで、現行の約100 年間などではない!
このあたり、経済学者の合理性を賞賛したい。市場規模が拡大していれば、 同じ時間で獲得できるだろう経済的利益が大きいと考えられるのだから、 市場規模の拡大に応じて、保護期間を短縮してしかるべきだ、ということになる。 反論として、「市場規模が増加したところで、 獲得できる経済的利益が拡大するとは限らない」というものがありそうだが、 それならば、「保護期間が増加したところで、 獲得できる経済的利益が拡大するとは限らない」 という考え方も同時に受け入れてしまうことになる。 保護期間の延長を要求する人たちは、市場規模が拡大したことで、 期待される収益も増大しているのだと考えることを受け入れてくれるはずだ。

すると、ここで表現されているように、 かつての著作権の保護期間で十分な誘因が存在していたのだとするならば、 保護期間は短縮されるべきだということになる。

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9 知的独占はイノベーションを増加させるか?

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[261] 知的独占は、長期的にはイノベーターたちの収入の増加をもたらすが、 一方でイノベーションの費用をもっと高くしてしまう。 イノベーションはたいてい既存のイノベーションの上に築かれる。 イノベーターが知的独占を得ていれば、 イノベーションから得る収入は多くなる可能性があるが、 イノベーション自体の費用も高くなるのだ ── 既存のイノベーションの権利をもつ 他の独占者たち全員に、支払いしなければならないからだ。実際、 新しいイノベーションのために既存のアイデアを多数用いなければならない極端な例 では、 知的独占が存在するせいでイノベーションがまったく止まってしまう可能性もある。

[262] 短期的には ── たとえば特許を認める法が初めて導入された直後 ── イノベーシ ョンの増加が見込まれる。イノベーションによる収入は増加するが、 その費用は将来的に多くのアイデアが特許を取得するまで増加しないからだ。 特筆すべきことに ── 理論的観点からいうと ── 短期的には、 特許の導入は施行後しばらくの間は、さらなるイノベーションにつながり、 しばらくたってから特許権を廃止すれば、イノベーションの費用は削減され、 これまたイノベーションは増えるのだ。

先ほど、創作活動の「補助動力付きサイクル」と表現した。これに倣って、 この知的独占によって生じる創作サイクルへの妨害的作用を、「摩擦」と表現すれば、 先に表現した経済的利益を補助動力とするサイクルでは、 サイクルを駆動する摩擦が大きく、 無駄な摩擦熱が生じて効率が悪いということになる。ここでいう摩擦熱とは、 発明なり創作活動を行うために必要な費用を指す。たとえば、小説を書くために、 これまでのさまざまな古典や名作を読む必要があると思うが、 それらの古典や名作が極めて高価な上製本ばかりであったら、 小説を書くための費用が大きくなるだろう。その費用を負担できない人物は、 小説を書くことを諦めてしまうだろう。また、たとえば、 権利処理に掛かる法律事務の費用などを指す。前にも指摘されたように、 複雑で強力な知的財産権の網からもっとも多くの利益を獲得できるのは、法律家だ。

[264─265] この例でも、やはりほかと同じように、 草分け的存在になったのはイギリスだった。印刷楽譜がアン法の対象になったのは、 ヨハン・クリスチャン・バッハ (有名なヨハン・セバスチャン・バッハの末子) が訴訟を起こし、特許期間延長を認める裁定を1777年に獲得してからだ。 それまで比較的長きにわたって、他の作曲家たちの起こした訴訟は、 ことごとく失敗に終わっていた。 それからさらに何十年もかかって著作権の論理はヨーロッパ全域に広がっており、 これが興味深い自然実験になっている。 1780年から1850年までのヨーロッパの音楽史について少しばかり考えてみよう。 1850年には、すでにヨーロッパ全域で音楽の著作権保護が可能になっていた。

・ この期間の音楽の作り手「トップ3」にとしてどの国を挙げますか?

・ イギリスはその中に入りますか?

・「1780年以降、イギリスで生まれる音楽の質と量は大幅に増加した」と言われたら、 賛成しますか反対しますか?

・ この期間の作曲家上位十人を挙げてみましょう。

そのうちイギリス人もしくはイギリスで活動していた人数は?

[266] また、 シェラー教授は音楽に関するヨーロッパ各国での著作権法のちがいを利用して第3の 自然実験をおこなっている。ヨーロッパ各国で、 10年間当たり人口百万人につき平均何人の作曲家が生まれたか比較したのだ。 まずイギリスでは、著作権登場以前の 1700-1752 年と、 著作権以降の1767-1849 年について調べた。対照比較するために、 この時期に著作権に変化がなかったドイツ、オーストリア、 イタリアについても調べた。結果をまとめたのが表8.1 だ。 百万人当たりの作曲家数は各地で減少しているのがわかるが、 イギリスでは著作権の導入後、ドイツやオーストリアと較べるとかなり急激に、 イタリアと同じくらいの割合で減少しているのがわかる。 しかしこの証拠は決定的ではない。フランスについての同じ実験をすると、 もっと著作権に有利な結果が出る。フランスの場合、 著作権以前の期間は1700-1768 年で、著作権以後の期間が1783-1849 年である。 シェラーのデータは表8.2 に示す。

私は、音楽史にそれほど詳しくないので上記の質問に的確に答えられない。しかし、 私の知る限り、上記の期間でのイギリス音楽は低調だったと記憶している。 書籍の中でも、この音楽著作権の事例は、むしろ著作権の存在が、 作曲家という職業のインセンティヴを大して高めていない一方で、 楽曲の自由かつ連鎖的な改変による展開や応用を禁止または制限することで、 音楽家という職業を縮小させてしまったことを指摘している。

[268─269] 19世紀と20世紀初めのイノベーションの研究として、 この調査は非常に興味深い。しかし発明者や模倣者の財産権が確立されていて、 任意で売却する権利が行使される競争的システムと較べて、 特許制度がイノベーションを促進したという証拠はあまり出ていない。 この調査の目的は、1830年代以降にアメリカに導入された特許制度が、 それまでなかった特許および技術の市場をはっきりと作りあげたと示すこと、そして、 このような市場の創設が、承認・ 取引される特許の数の増加につながったと示すことである。注目すべきは、 特許取得や特許権の売却の急増につながった制度変化は、 特許取得をさらに困難にすること ── 現代の制度変化の正反対 ── だったという 点だ。加えてこの調査では、 弁理士やそのサービスを利用する発明者の数が急増したことを明らかにする一方で、 弁理士のサービスの多くを占めるのは、発明者が特許を取得したり、 既存特許の藪をこぎ渡ったりするのを助けることも実証している ── 特許制度がな ければ不必要な、社会的にむだな活動だ。

特許取得を困難にすれば、特許そのものの価値が増加する。 ゆえに売却したいと考える動機を増すだろう。また、 他人が保有する特許の数が減少するので、ここで言う「特許の薮」 にかかる可能性が減少する。また、特許の重要性が増加すれば、 確実を期すために専門家が必要とされるようになる。先に私が、 摩擦と摩擦熱と表現したものがこれだ。

[271] 特許法に、その国の産業やイノベーションの状態が反映されることも興味深い。 19世紀および20世紀の事例証拠は、国の技術の性質が、 その国の採用する特許法にしばしば影響を及ぼすことを示している。 たとえば1880年代にはスイスの最重要産業の二つ、 化学製品と繊維が特許制度の導入に強く反対している。 海外で開発されたプロセスの利用が制限されるからである。

19世紀型のイノベーション ── 小規模プロセスイノベーション ── は、 特許が最も社会的利益になり得る型のイノベーションだ。それでも、 そして経済史学者たちの入念な研究にもかかわらず、 特許が19世紀と20世紀初めのイノベーションを増やすのに重要な役割を果たしたと結 論づけるのは困難だ。 モーザーはもっと最近の論文で同じデータを二通りの角度から見て、 この結果 ── すなわち、 特許はイノベーションの水準を高めなかった ── にさらに重みを与えている。

彼女はこう述べている:「イギリスとアメリカの比較は、 特許法に関する最も根本的なちがいにも、 特許取得したイノベーションの割合は高められなかったと示唆している。」 彼女の論文は、 本書でたびたび繰り返してきた定型化された事実二つを裏付けているように見受けら れる。第一に、ソコロフ、ラモロー、カーンの論文についての議論で言及したように、 特許を取ったイノベーションは、 そうでないものよりも取り引きされる傾向があるため、 最初に発明された地域から地理的に遠くへ広まりやすい。 1841年〜1901年のデータによると、 特許が広く利用されている産業におけるイノベーションは、 特許がまったくあるいはほとんど利用されていない産業よりも多くはないが、 地理的にもっと広まっている。第二に、1851年のように「防衛特許」 取得の動機がないとき、収入を最大化して知的財産を守る方法として特許を選ぶのは、 発明者のほんの一握り (5人に1人以下) だ。

特許は「独占の可」 というような意味で把握しておくのが私の考え方。 昔は独占勅許 a royal prerogative of monopoly とも呼ばれていて、 これは君主の大権の一つだった。だから、臣民は、君主から「開封(独占)勅許状」 a letter patent of monopoly を頂いていたわけだ。それゆえ、 君主が誰にどのような独占特権を与えるかは、もちろん君主の個人的利益や、 もう少しマシな君主であれば国益がもっとも大きな理由だった。だから、 本質的に特許は国家の産業政策の手段のひとつであり、それゆえ、 特許は各国ごとに付与されていた。

「発明者の権利」として認識されるようになるのは19世紀に入ってから。 発明者の権利という考え方が定着すると、 その権利は当然国際的に保全されなければならないから、 国際特許制度が整備されていくことになる。市場が国際化していく中で、 そういう駆動力があることは当然のことなんだけど、私は気になってしかたがない。

で、19世紀は発明の世紀であり、すなわち特許の世紀でもある。 この時期に現代につながるさまざまな基礎的な技術が開発された。 その時期に特許がイノベーションに貢献したかを研究したところ、 効果がなかったのだとのこと。私はこの研究を検証する時間も能力もたぶんないので、 そのようなものとして受け入れる。一方、「特許が広く利用されている産業は、 地理的に拡大する」という主張については、興味を感じる。

というのは、私は、著作権にしても特許にしても、 それらの法的保護すなわち独占権が創作活動や発明活動に与える影響はほとんど無く、 それら独占権は、「表現」なり「発明」 なりを市場取引するために必要であるのに過ぎない考えているからだ。「発明」 の市場取引が安定的に活発に行われれば、当然、発明は地理的により拡大するだろう。

[272] 特許保護の導入や強化がさらなるイノベーションをもたらすかどうか、 第二次世界大戦後の先進国のデータを用いて多数の科学的研究で検証が試みられてき た。この問題を実証的に調べた経済研究は、23件確認されている。要旨: これらの研究では、 特許制度の強化がイノベーションを増加させるという根拠は乏しいか、 存在しなかった。実証された事実もある。特許制度の強化で増えるのは ── 特許だ! また、当初IP 制度が弱かった国々では、IP の強化によって、 特許が頻繁に用いられる部門への海外投資の流れが増えることも実証された。

ここで注意すべきなのは、「イノベーション=特許」ではないこと。この部分もまた、 著者たちが、特許がイノベーションを増大したか否か、 その証拠を求めたが発見できなかったとしている。そして著者たちが確認したのは、 特許制度の強化によって特許が増えることが証明されたという。 特許はあるアイデアを独占し、他者の使用を排除するものであるから、 あるアイデアを使用する費用が増大したことを意味している。

[276─277] これは重要な点なので、改めてコメントしておこう。 強力な特許保護がある一部の国々と、保護が弱い国々が共存している世界では、 ある国が特許保護を強めたら、とりわけ特許を取得した技術が用いられる部門に、 海外投資の流入が見られるはずだ。利益を最大化する起業者たちは、 つねに最も強い権利が得られる法的環境ではたらこうとする。たとえばアメリカには、 企業が州内で移転したり州境をまたいで移転したりする際に、 税制上の優遇措置や補助金を与える政策がある。 これはアメリカ全体にとっては良い政策ではないと、 経済学者や常識的な人々は昔からこぞって主張している。 企業に充分な補助金と税制上の優遇措置を与えれば、 少なくとも一時的には任意の州へ移転させられる。それはだれの目にも明らかだ。 問題はそうした後に、他の州がそれと張り合おうとするという点だ。つぎの均衡では、 投資総額はどこからも補助金が出ていないのとほぼ変わらないが、 だれもがその補助金のために経済をゆがめる税金をはらうはめになっている。 資本が国境をまたいで自由に動く場合、 これとまったく同じ論理がIP 権の国際的決定にも当てはまる。 このゲームの経済学でいう「ナッシュ均衡」において、 特許保持者がIP 法の強い国に移りたいと思うのは明らかだ。 こうして受け入れる国の資本ストックは増加し、それ以外の国、 特にIP 保護の弱い国では資本ストックが減少する。したがって国際協力がなければ、 知的独占者たちのロビイ活動や賄賂がなくても、 ほとんどの国が特許保護を強化し続ける強いインセンティブを持つのだ。

この話は、アメリカでそれぞれの州が、 自分の州に大企業を誘致しようとして認めているさまざまな特典がもたらしている悲 劇的な状況について、ある程度の知識がないと何のことやらわからないだろう。

州政府は、自分の州に大企業や大工場がやってきてくれたら、税収も増えるし、 雇用も増えるから、大喜びだ。でも、なかなかそうした企業はやってきてくれない。 すると州政府は、最初の段階では税金の割引などを「特典」 としながら誘致に努力する。ところが、そうした手段を使う州は、 幾らでもあるのだから、それらの州の間で大企業・大工場の誘致合戦になる。 そのうち、税金の免除はおろか、土地の無償提供、公共施設の公費による建設、 公害の黙認、補助金の付与までする羽目になる。その利益供与の額は、 その企業が撤退することで州に発生する損失と同額まで上昇することになる。

で、質問。この段階で州には何らかの利益が発生しているだろうか。 企業が来なかったときと結果はあまり変わらないのではないだろうか。もちろん、 企業が活動することで、周辺産業が活性化するという波及効果はあるだろう。でも、 どうなんだろう。

このような状況で、大企業は、どんどん州から有利な条件を絞り取ることができる。 「工場をたたんで隣の州に移転するぞ」と言えばよいからだ。 これは脅しではなく当然の企業の経営判断だ。これが、大企業に有利で、 公共の利益にとって致命的な問題であることは、誰にでもわかる。 これと同じことが特許の強化でも起きている、と著者たちは言っている。

強力な特許や著作権を付与する国に研究機関や本社が移動していくと仮定すると、 知的財産権がもたらす反社会的効果がどんなに酷くなっても、 国家は知的財産権をますます強化していく絶望的なレースに取り組むことになる。 「ああ、大企業の幹部になりたいなあ」とつくづく思わせられる話だ。で、 この過程には何らかの正義があるだろうか。

[295] ニコラ・テスラに対する不当行為は悲喜こもごもの結末を迎えた: 1943年に連邦最高裁判所はアメリカ特許局が過去に下した決定を覆して、 テスラの無線特許を支持した。当然ながら、 テスラはすでに世を去っていた ── 実際には、だからこそ特許が与えられたのだ。 アメリカ政府は、 第一次世界大戦中にマルコーニ社の特許を利用したとして同社から訴えられていた。 テスラに特許を与えることで、 政府はマルコーニの申し立てを排除し ── すでに世を去って告訴できないテスラか らは、似たような申し立てを受けることなく済ませたのだ。

これは、「特許が政策的に付与されている」という主張を支える一つの例だ。

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10 医薬品産業

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[330] この高価な重複を生み出したことで、 最後の議論に関連した二つの意味合いが出てくる。コンピュータソフト産業と同じく、 これも分割不可能性は、 イノベーションにおいてはあまり大した要因ではないことがうかがわれる。 言い換えると、 独占利益によって回収される真の固定費はおそらく小さいということだ。第二に、 これは特許制度自体によって人工的に作り出された、 相当量の社会的に非効率なレントシーキングがあることを示唆している。 ヘルスケアの費用の上昇をめぐる公開論争でよく見かけるのは、 大製薬会社が巨額の利益を得ていることに、 まちがったこだわりを示してしまうことだ。はい確かに、 そうした利益は異常に大きく、しかもそれがずっと続いている。 それがきわめて独占的な産業のしるしだというのは合意しよう。だがそれは、 ヘルスケア費用上昇の主要な原因ではない。というのも最終的には、 それはパイ全体のたった10%でしかないからだ。まねっこ薬商売と、その広告費、 および弁護士費用を通じて、 特許制度が無駄使いを強いている遙かに大きなリソースこそが、 パイ全体の相当な比率を占める。研究費、弁護士費用、広告宣伝費を合計すると、 パイ全体の50%以上に達しかねない!
ここも分かりにくいところだと思うので、もうすこし簡単に書いてみよう。

要するにここで言っているのは、特許による独占から、発明者が回収できる利益は、 期待されているほどには大きくなく、むしろ、「多くの特許が存在し、 相互に牽制し合う状況のなかでは、 特許を運用するために必要な費用の方がはるかに多い」ということを指摘している。 一言で言えば、特許による独占は、 それがもたらす利益よりもはるかに大きな費用を社会に強いている と主張している。

[344─345] いますでに特許制度がなかったら、 特許の経済的帰結に関するわれわれの現在の知識に基づく限り、 こんな制度を作るよう提言するのは無責任だろう。 しかし特許制度はすでにずっと昔からあるので、われわれの現在の知識に基づいて、 その廃止を提言するのも無責任であろう。ほぼ50年後のいま、 この含蓄ある一節の前半は、以前にも増して有効だ。悲しいかな、 その提言は採用されていない。現状を維持するどころか、 特許制度はすさまじく拡大され、知的独占が経済制度のあらゆる隅々に浸透するのは、 もはや止めようがないかのようだ。さらに、この50年にわたり、 特許がイノベーションを促進するという証拠はまったく出てきていない。 だから後半部分の提言を見直す時期がきている。知的独占の擁護者たちは、 知的財産を強力で有益な薬として描きたがる。薬に深刻な副作用があって、 科学的な研究結果を見ても、 その効果は最高でも一時的なものでしかないという結論しかなく、 しかもその結論ですら弱いものしかないとなれば、 そんな薬を他には特に悪いところもない患者に与えるだろうか? たぶん、 その病気が命に関わるものでない限り、与えないだろう。 だがこれまで記述してきたように、 イノベーションは知的独占がなくても開花する (患者は健康だ) し、 知的独占は深刻な副作用があるし (知的独占の邪悪) 、 それがイノベーションを増やすという証拠は、 弱いか全く存在しないとする科学的な研究がたくさんある (その薬の効果とされるも のはたぶん存在しない) 。知的独占に反対する議論ははっきりしており、 したがってマハラップの政策提言の後半は、 もはや古びてしまったと結論せざるを得ない。

「われわれの現在の知識に基づく限り」、唯一の社会的に責任ある行動とは、 知的財産保護を徐々に、だが効果的に廃止することだ。 過去50年に積み上がった証拠を見れば、 現在の知的財産法の持つ有害な影響については、ほとんど疑問の余地がない。同時に、 法的、経済的、ビジネス的なノウハウも蓄積されて、 イノベーション市場が知的独占なしでも機能する仕組みがわかってきた。 知的独占の廃止を考慮外にしてしまうのは、 50年前に開始されて繁栄とグローバリゼーションをもたらしてくれた貿易自由化プロ セスにより、関税や貿易障壁の廃止検討を考慮外としてしまうに等しいばかげた話だ。 長いこと、貿易障壁で利益を得てきた故人や企業は、それが国富を高め、 自国の企業や職を守るのだと論じており、 それを廃止したら経済の多くのセクターが壊滅すると主張していた。 これがウソだと気がつくにはしばらくかかったし、 貿易障壁がレントシーキングのための装置にすぎず、少数の人々にだけ得をもたらし、 その他の人々や経済全体に大幅な損害を与えて、 しかも低所得消費者がいちばんの被害者だということも、すぐには理解されなかった。 いまや特許と著作権についても同じことが言える。

この部分が、結論となる。論旨は明快なので、説明の必要はないだろう。

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11 悪しきもの、良きもの、醜きもの

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[346] 知的独占についての現実的な見方は、それが薬ではなく、病気だというものだ。 それはイノベーションを増すためのしっかりした努力から生じるものではなく、 中世的な制度 ── ギルド、王室免許、貿易規制、宗教や政治的な検閲 ── と、 公共の繁栄を犠牲にして自分の財布を太らせようとする、 独占者候補たちのレントシーキング行動の有毒な組み合わせから生じている。 たとえば社会保障制度なら、 現在の人口構造と金融市場の発達を考えたときに維持すべきかどうか、 という議論はあり得ても、それがもともとは、 過去の金融市場が必ずしも提供できなかった高齢者向けの保険を提供するために設計 されたということは、だれも否定できない。それに引き替え、 特許と著作権は、 イノベーションを効率よく育むよう設計されたことは一度もなかった。
ここは、筆が走っているようにも思う。特許も著作権も、 知識の流通技術や流通機構が未熟な段階において、 より効率的に知識を広めるためには悪くない仕組みだったと私は評価している。事実、 著作権制度のおかげで、出版業は安定した事業が可能となり繁栄し、 文藝の活況をもたらしたのだ。また、特許制度のおかげで、 著者たちが認めているように、 特許保有者は発明をより利益を獲得できるよう戦略的に行使し、その結果、 発明はより広く普及し、社会に貢献した。

だから、ある段階において制度そのものはかなりの合理性を持っていたのだ。が、 残念なことに、 それらの制度は400年ほど以前の技術状況や経済状況に合わせて設計されている。 根本的に制度を見直すくらいのことを考えてもよいだろう。

[347] 最後に、そして最も重要な点として、 1950 年代や60年代の平均的な世界市民は、 自由貿易によって30年後にもたらされるすさまじい生活水準の向上をほとんど予想で きなかった。それならいまの人たちが、段階的に知的独占を廃止することで、 徐々に実現される10年後の技術的な進歩を理解するのは、なおさらむずかしいだろう。

この部分については、「私達が10年後の技術的進歩について理解する」 ことが困難であることには、一般的な意味で合意するものの、 「自由貿易が生活水準の向上を果たした」ことを、 「知的独占の緩和または廃止で創作活動が活性化する」 という主張の土台として引き合いに出すのにはちょっと抵抗がある。というのは、 自由貿易で私達の消費生活の水準が向上したことは合意するものの、 自由貿易によって衰退し破壊されたモノの価値についても思い至ってしまうからだ。 そうすると「知的独占の緩和または廃止」によって、 一部の作家たちが強く主張するように、 その土壌において花開いていたある種の伝統や価値が失われることもまた、 考えなければならないことに思い至るからだ。

[348] まとめると、知的財産制度を解体するのは、集団行動についての研究が、 改革の大障壁として指摘した、いくつかの状況に出くわすことになる。 少数の、組織のしっかりした協調性のある独占者たちが一方にいて、 かれらは保護障壁がなくなったら大損することになる。その反対には、 きわめて多数の協調していない消費者たちがいて、競争をもっと自由にしても、 それぞれの人が個人的に手にする利得はとても小さい。 すると、 長期的な戦場は競合するアイデアや理論をめぐるものとなり、 知的独占の廃止により大幅な利得が可能なのだと世論に納得させることが主眼となる。 その間は、有益な改革として知的財産を大幅に拡大しろというアイデアと、 その正反対のものとが大量に存在する。この最後の章では、こうした提案を、 悪しきもの、良きもの、そしてひたすら醜悪なものとに分類してみよう。

上記の強調部分の問題が、この問題に常に横たわっている。 私達の薄い損失または支出が、誰かに集中して莫大な利益となるとき、 あるいは私達の小さな利益が、誰かの莫大な利益と結びついているとき、その「誰か」 は自分が得ている利益と同額まで費やして、 自分の利益を正当化し支えている仕組みを維持しようとする動機がある。

だから、私達が根本的に留意すべきなのは、ある制度から莫大な利益を得る「誰か」 が、その制度に関する決定や変更について影響を及ぼせないような、 補助的な制度設計だ。ところが現実の「政治」なるものは、 そうした利益団体が政治家にアプローチすることで動作することになっている。 それゆえ、 むしろ小さな利益や小さな損失を蒙る私達の側で利益団体を作らなければならない。 ということで、消費生活組合運動なんかが発生した。

しかしながら、利益を得られる比較的少人数から構成される集団と、 その利益に対抗する非常に多くの人々を糾合せねばならない集団では、 組織体としての活動力に雲泥の差がでる。ネットが、 分散したたくさんの小さな利害関係者を結ぶ仕組みとして期待されてきたが、 単に連絡が容易にできるというだけでは、組織体は活動的に機能しないようだ。 まだ模索は続いている。

[355─356] 特許期間の短縮を裏口から実現し、 昔からあるが無意味な特許にうっかり抵触したりしにくくする手法としては、 特許更新を再導入することだ ── たとえば、特許の有効期間はそのままにするが、 20年の有効期間をもっと小さく区切って、それぞれの段階で更新が必要とするのだ。 これはコーネリ、シャンクマン、スコッチマーが論じている。著作権では、 もっとも火急の問題は、議会と最高裁がどちらも「買収され続けている」ことにある。 DMCA の議会公聴会記録と、エルドレッド裁判での最高裁判決を読んで、 われわれはこれを確信している。登録しようがしまいが、 自動的にあらゆる作品に著作権を与え、更新の必要もなくし、 そして著作権の期限を実質的に無限にするというのは、時間がたつにつれて、 基本的に書かれたものすべてが利用不可能になるということだ。 レッシグなどは、こうした「醜悪な改革」がもたらす問題を詳細に記述している。 かれは、一部の悪影響はごく少額の更新料を導入すれば解決できると提案している。 ランデスとポズナーは、 自分の著作権を積極的に維持していることを能動的に示さない著作権保持者に対して は、法学で言う放棄の原則が適用できると示唆している。 これらの提案のどちらか、 または両方は ── 政治的にいかに無邪気だろうと ── 現状に比べれば大幅な改善 となる。

著作権については、多くの論者が指摘しているように、現在の通信環境においては、 権利者は容易に作品を登録することのできるシステムを構築できるのだから、 著作権の発生に何らかの登録制度があったところで、 19世紀のような大きな不都合は生じないだろう。

また、レッシグは何年かに一度、 1ドル程度の更新料を支払わないと権利が失効する仕組みを提唱していた。 たった1ドルだ。たった1ドルと更新の手間も惜しい作品というものは、 すなわち権利者本人が「それほどの価値も無い」と判断していることを示している。 ならば、その知的財産をパブリックドメインに移行し、権利者から 「1ドルの価値もない」と判断された作品から、 何らかの価値を見出す利用者の自由利用に供したところでかまわないのではないか。

ランデスとポズナーのように、 誰も権利行使しなくなっていることが証明できる作品については、 「権利放棄の法理 waiver」を適用してもかまわないのではないか、 というのは英米法の法律家の発想としては自然なものだと私も思う。 日常的な感覚では、そんなに異常な提案ではないだろう。

ところが、こうした改善案それ自体どころか、 その改善案について検討することそれ自体が、 まともな主張なり研究なりとして相手にされない現実がある。 この特定の主張に対する包括的な無視という対応は、それ自体が、 知的財産権に関する討議のアリーナが何者かによって歪められていることを示してい ると私は考えている。

[369] 知的財産法というのは、政府が私的な独占を強制するということだ。 有効な徴税機構のない国では、いまも昔も、 政府が独占権を与えるのはよくあることだ。紅茶やチョコレートのブランドで、 古いラベルを見ると「女王陛下のご指名により」 と書いてあるのを見たことがあるだろう。国が発達すると、 もっと有効な徴税インフラが、塩の専売や、 大統領の義弟に独占輸入権を与えるといった歳入の仕組みにとってかわる。 したがって、あれやこれやの商業活動を行う独占権を政府役人が売り出したり、 特定の財やサービスの生産や商業化の独占権を売ったりというのは、 ほとんどあらゆる先進市場経済では、だんだん消えていった。知的財産は、 現代的な徴税の前史から残っている、ごく少数のアナクロニズムの一つだ。 いやもっとひどい。それはゆがめられたアナクロニズムで、 いまや当初の設立の狙いとは正反対の、レントシーキング目的で利用されているのだ。 答は ── もし追加インセンティブの必要性が本当にあるなら ── それは補助金で 行うべきで、政府が独占権を与えてはいけない。
ここでも、本書の主張が繰り返される。「独占は廃止すべきだ。 インセンティヴは他の方法でより効果的に作り出すことができる」。 ここを読み取れていれば、本書が『〈反〉知的財産』ではなく『〈反〉知的独占』 と題していることが分かるはず。どうしてかなり多くの読者や評者が、 この部分を読み飛ばして、「著者は、知的財産制度の廃止を主張している、 だから極端過激で思慮の浅い提案だ」と断言しているのが不思議でならない。

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12 おわりに

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毎度のことながら、かなり長大な本の中から抜粋を作りつつ、 これにコメントを付けていく作業には時間がかかった。そして、本書が 「極端過激な思慮の浅い提案」と評されるのが適切でないこと、 むしろなぜだか議論のテーブルに載せられることが憚られている知的財産制度が抱え ている本質的な問題を、ネチネチと検討し、 そしてバッサリと結論したものであることを読者の皆さんに示すことができれば幸い だ。

読者の皆さんが、ダイジェストである『〈怒〉知的独占』を読んで、本編である 『〈反〉知的独占』のネチネチとした検討に、 ネッチリと付き合おうというインセンティヴを獲得できますように。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp