De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

やっぱり著作権保護期間延長を批判する

白田 秀彰とロージナ茶会

さて、前回の記事で、現在「創作者の生存期間+50年」となっている保護期間をさらに20年間延長しようという計画が進行中であると紹介した。で、そうした保護の延長をなんとか正当化しようとしてみたわけだが、なんとも説得力がないのでヤメた。そこで、保護の延長によって生じる得失を似非経済学的に考察してみることで、はたしてさらなる20年間の保護の延長で私たちが何を獲得し、何を失うのかをネチネチと検討してみようというのが今回のテーマ。

以下の記述では、「創作者の死後50年後から50+χ年後までのχ年間、創作者の作品に排他的独占権を付与する」ことを「追加延長保護」と記述することにする。

結論から言えば、追加延長保護を与えることを合理的に正当化することは不可能。

なぜ正当化できないのかといえば、(I) 追加延長保護を与えたと仮定して、それによって創作が追加的になされるとは考え難いこと。(II-1) 追加延長保護によって保護期間延長にかかる作品を利用する諸活動にきわめて大きな費用が発生すること。(II-2) 追加延長保護によって利益を獲得する主体の数はきわめて少数である一方、その利益はそれら主体にはなんらの費用も発生させないこと。(II-1)、(II-2)の二つの状況を比較衡量した場合、追加延長保護は、(II) きわめて少数の人のそれほど大きくない利益のために、きわめて多数の人々に大きな費用を発生させる政策である、ということができるから。少数のわずかな利益のために多数の人々を犠牲にすることが法の衡平に反するものであるとするならば、追加延長保護は、誤った政策であるといえるだろう。

もちろん、ある視点から見た場合に誤った政策であったとしても、他の視点から見た場合に望ましい政策である場合もあるし、仮に完全に誤っている政策ですら、それをみんなが「よいのだ」と考えるのであれば、それを選択するのが民主政治だろう。いや、完全に誤っているのが明白な政策であるのに それを選択するならば、それはさすがに衆愚政治というほかないな。

では、上記の項目を一つ一つ説明していきたい。でも、私の経済学はインチキなので、もっと立派な人にキチンと分析としてもらいたい。

(I)について。 そもそも追加延長保護においては、すでに創作者本人が死亡しているという前提であるのに、追加延長保護が「創作活動を奨励する」と主張すること自体が、相当なナンセンスであるわけだが、前回の「著作権保護期間延長を擁護してみる」で展開してみたような論理があるのかもしれない。とはいえ、以下に説明するように、追加延長保護が達成されたの創作者に対しては、いくらかの奨励効果があると言うことも可能だ。

さて、皆さんは原稿用紙一枚400字の原稿を書くように依頼されたとき、いくら積まれたら書く? 人によってさまざまだろうけど、その原稿が発表される場所とか、書いた内容に関して発生する責任とか、いろんな要素が影響するだろう。でもまあ、この値段を「υ円」としておこう。υ以上の金額が提示されたら、私たちは原稿を書くものとする。人によっては、υが零、つまりタダでも書きたい人、あるいは書かせてくれるように支払いをする人、すなわちυがマイナスである人もいるはずだ。

で、今! スグ! υ円をゲットできれば嬉しいよね。では、明日! あるいは そのうち! さらには10年後! υ円をゲットできるとすると、その嬉しさはどうだろうか。同じυ円であるとしても、今すぐ手に入るお金のほうが、そのうち手に入るお金よりも確実で価値があると私たちは考える。だからたとえば、一ヵ月後に500円の利息をつけて返済しなければならないとわかっているにもかかわらず10000円を借りてしまう。見方を変えれば、一ヵ月後の10000円を10500円で今買っているわけ。従って、明日のυ円は、実際には (υ−いくらか)円ということになる。

で、この「いくらか」も人によりけりだろうし、また、将来手に入るお金をどの程度評価するのかについては、人によりけりだろう。じっくり待てる人は、10年後の10000円を比較的高く評価するだろうけど、せっかちな人は、10年後の10000円の価値などチロルチョコ一個よりも小さいと評価するかもしれない。この「いくらか」は時間の関数として表現できる。このとき、υ円から「いくらか」が差し引かれるのではなく、τ年後のυ円が何パーセントに減少して評価されるのか、という見方をすれば、この「いくらか」は、時間(年)割引率と言うことができるだろう。これを

υ円 × κ(τ) ただし 0 < κ(τ) < 1

と表現することにしよう。

ある作品の創作者が、その作品から年間λ円の利益を受け取っている場合、保護期間のχ年延長は、(λ×χ)円を受け取ることができるから利益が増加するよね。ところが、実際には次の二つの理由でそんな美味いことにはならない。まず、一般的にいえることは、知的財として世の中に送り出される情報のうち、1年後にも2年後にも... 50年後にも経済的価値を維持しているものはきわめて少数であるということだ。

「いや! オレの作品は価値がある! 永遠に価値があるんだぁ!!」

と創作者が叫んだとしても、悲しいかな市場がお金を払ってくれなくなる。ある作品が出版されたとしても数年で商店では手に入らなくなる。出版元も出荷しなくなる。従って、著作権の保護はズーッと創作者が死ぬまで、さらには死んだ後も継続しているにも関わらず、作品を出して数年も経てば、創作者にお金が一円も入ってこなくなる場合がほとんどだ。仮に、ある年に市場に出た作品の半分しか翌年に生き残っていないと仮定しよう。実際は半分も残っていないというのが実情ではないだろうか。すると2のτ乗で割っていくことになる。1年後、1/2。二年後、1/4。 ... と来て、50年後では、1/1125899906842624となる。「読み方すらわからん数」分の一だ。自分の作品が50年後もお金を稼いでくれている可能性は、絶望的に小さい。で、今回問題になっているのは、「創作者の死後50年後よりも後」なわけで、もう「想像を絶する数」分の一となることは確実。

このように考えてみるとき、創作者の死後50年後以降の保護期間の延長によってもたらされる利益が、現時点での一般的な創作者に与える創作奨励効果を評価するとき、最大に見積もって

λ円 × κ(50) ÷ 想像を絶する数 × χ年 ただし 0 < κ(50) < 1

ということになる。でさ、この計算式で1円以上を維持できる創作者ってどのくらいいるんだろうか。普通に考えて死後50年後から70年後までの将来の利益ってものが、現時点における創作者への奨励になると考える方がどうかしている。もしかすると、400字詰の原稿用紙のマス目を埋めるよりも、ミニロトのマス目を埋めることに精を出すほうがマシかもしれない。

実際には、50年後の市場で経済的価値を維持できている作品は、全体の2%程度らしい。意外に多い。しかしながら、この数字は「50年前の作品でまだ経済的価値を維持している作品が2%」ということだから、今後、古い作品を尊重する風潮が衰えたりしたら、この数字はもっと小さくなるだろう。また、アメリカの経済学者がアメリカ市場での追加延長保護からもたらされる奨励効果を統計やら計算やらで見積もってくれたらしい。その結果は最大でも7セント。10円未満。

「おい、10円やるからもう少したくさん作品を作るんだ。」

といわれてホイホイ作るほど創作活動ってのは安っぽいものなんだろうか。

というわけで、次は、(II-2)について検討してみよう。これまでの検討から、著作権保護期間延長を主張する人たちのいう、

1. 文化芸術の担い手である創作者の権利を保護し、新たな創造を促進すべきである。

というのは、一般的な創作者への奨励について語ったものではないことが明らか。実は、現在も経済的価値を維持している希少な2%作品の権利を持っている人たちが、そこから上がってくる利益を今後も維持したくて さらなる延長を主張しているに過ぎない。それらの作品の創作者本人はとうに亡くなっていることも忘れてはいけないよ。

その2%作品の権利を持っている人たちの考え方はこうだ。きわめて厳しい時の選択を経てきた珠玉のような作品から今でもλ円の収入が入ってきている。で、もし著作権の保護がなくなったら、そのλ円はなくなってしまう。でも、χ年さらに保護を延長してもらえれば、(λ×χ)円の利益だ。一方、著作権を維持するのに何らの費用もかからない。ならば、

λ円×χ年×追加延長保護で救われる作品の数

という期待される利益と同額まで費やして、論者を動員したり、キャンペーンを張ったり、議会に働きかけたりするだろう。で、そうした利益を持っているのは、ほとんどの場合メディア企業だ。そこで、先ほどの延長の理由を、次のように書き直すと実態に近くなる。

1. 文化芸術の担い手であるメディア企業が現在保有している作品の保護期間を延長することで利益が確保され経営が安定すれば、よりたくさんの創作者の作品を世の中に送り出す事業計画が立てやすくなって、原稿料やら使用料やらも支払われて、創作者の生活も安定するだろうから、新たな創造が促進されるだろうよ。つーか、価値ある創造は我々メディア企業の保護と指導の下にのみ行われうるのだ。

この主張は、現在の創作者とメディア企業の関係で見ればそんなにヘンな理屈ではない。だから、正直にそう言えばイイのに。ところが、こう主張してしまうと、現在の制度では、創作者たちが実質的にメディア企業の従業員のように仕事をしなければならないし、作品を世の中に送り出すか出さないかの決定権力を、メディア企業が持ちつづける構造が維持されることがバレてしまう。

昔から不思議なのが、ロック音楽やらパンク音楽やらラップ音楽を演奏する人たち。その人たちは、反体制で、社会の矛盾を批判し、「俺たちゃ自由だ!」とか言っている割には実に体制迎合的で、自分たちに生活とステイタスを与えてくれている会社に忠実だよなぁ、ということ。ほんとに反体制なら、自分達を商売のネタにしている人たちを批判してみたらどうだろうか。法学者の中のパンクであるレッシグ先生は、こんなヤバいギグをワールド・ツアーで展開しているよ。

君たちは一体何をしてきた? ……
もし君たちが、自分自身の自由のために戦うこともできないというのなら
……君たちはその自由に値しない。

さて、次に(II-1)について検討してみよう。もとより情報は、ローソクの炎のように、誰に分け与えても減少しないものであるから、みんなのもの、すなわち公共財である、という考え方がある。とはいえ、実際に著作権法の保護対象になるような作品は、複雑で長い作品であることが多いので、零の費用で複製したり伝達したりできるようなものではない。で、誤りのない複製や効率的な伝達で 創作者と私たちを結ぶことで貢献してきたのがメディア企業だ。複製や伝達の費用を減少させることで社会に貢献し、減少させた費用の一部を利益として獲得することで成立してきた。これは実にまっとうな商売だ。

かつては、報道は新聞として、文学等は書籍として、音楽は楽譜やレコードとしてしか大量複製できなかった。だから、法やら制度やらでメディア企業の利益を保障して、事業として存続できるようにしてあげないと、情報や文化の流通に大きな支障をきたした。これは、再販売価格維持制度で小さな新聞販売所や書店やレコード店の存続を保障してきたのと同じ事情だ。でも、もうインターネットがある、P2Pネットワークがある。創作者が作品を配布するという目的のためには、もうメディア企業もお店も不要だ。既存の古い流通網をいまさら積極的に保護する理由はない。たとえて言えば、フレッツ光サービス利用者に税を課して、黒電話網の維持経費に充てるようなもの。キツイ言い方だけど理屈からいけばそういうこと。

あとは、創作者が必要とする制作費を調達・回収する仕事やら、創作者のプロモートを担当する仕事だけが必要となっている。それらの仕事は、金融・資金調達業や広告代理業に近いものであり、そうした仕事を法制度的に誘導・支援するほうが積極的な創作への「奨励」だ。だから、(II-2)の分析で推測されるように、追加延長保護の目的がメディア企業の利益確保であるのなら、まったく不要な保護策であるし、再販売価格維持制度とともにいずれ廃止されることになることは間違いないだろう。でも、こういうことを書くとマス・メディアに出られなくなるらしい。残念だね。

さて、話を戻すと、すでに私たちには著作物を流通させるために、既存の流通機構よりもはるかに効率的なネットワークを手に入れている。もし、ネットワークにおいて零の(あるいは零に近い)費用で流通させることが可能であれば、メディア企業の経営判断では「経済的価値なし」と判断された作品でも十分に流通させることができる。具体的に言えば、ある作品のファンが世界に一人でもいれば、彼のWebサイトでその作品を配布することができる。こうしたネットワークが法制度的に禁止されたり制限されたりするということは、私たちには、人工的にいらぬ費用を負荷されていることになるし、そうした私たちが負担する費用は、既存の流通機構を維持するための補助金として利用されることになる。こうした「死にスジ」を保護するような政策は、知的財産戦略上すごくマズいことだと思うのだけど。

それゆえ、保護期間延長を要望する理由の一つである

2.「知的財産戦略の推進」を国策としている我が国は、著作権保護のあり方について国際間の調和を図るべきである。

という部分について、私は大賛成だ。しかしそれは、

情報技術によって可能となっている新しい流通機構を活用し、創造・利用・流通のいずれの面においても世界で最も効率的な国となるという「知的財産戦略」を達成するために、ネットワーク時代に適合するように 過度な知的財産権保護を利用者負担軽減の方向で見直し、再販売価格維持制度も撤廃するという国策を推進する。こうした政策の合理性について国内諸業界および諸外国に訴え、国際的調和を達成するよう努力するべきである。

ということを意味するはずだ。日本国政府代表がWIPOの議場において、この方向でRIAAやハリウッドを説得するならば、エルドレッド事件で意見書を提出した世界的に著名な経済学者たちを筆頭に、世界中のワカっている人たちから

ニッポン!(・∀・) カコイイ!!

                ∩
                ( ⌒)      ∩_ _グッジョブ !!
               /,. ノ      i .,,E)
              ./ /"      / /"
   _n グッジョブ!!  ./ /_、_    / ノ'
  ( l    _、 _   / / ,_ノ` )/ / _、 _    グッジョブ!!
   \ \ ( <_,` )(       /( ,_ノ` )      n
     ヽ___ ̄ ̄ ノ ヽ     |  ̄     \    ( E)
       /    /   \   ヽフ    / ヽ ヽ_//

と言われること請け合いだ。どう?やってみない?

それ以上に、問題になるのが知的財の死蔵だ。先ほど指摘したように、著作者の死後50年後から70年後まで経済的価値を維持する作品の数は、多く見積もっても全体の2%。では、残りの98%の作品は?

経済的価値を持たなくなっているのだから、メディア企業は流通させてくれない。彼らは、慈善団体ではないのだから。でも、著作権が存続しているなら、効率的なネットワークが存在するにもかかわらず、著作権者以外の誰もネットワークで流通させることができない。もし、メディア企業が著作権者であるなら、自分たちのビジネスのライバルであるネットワークに塩を送るようなことはするはずがない。そこでメディア企業側には、(II-2)で指摘したように、追加延長保護によって、現在経済的価値をもつ2%作品を延命させる、という利益のほかに、98%の経済的価値を失った作品を流通させずに塩漬けにすることで、著作権が存在しなければ可能となっただろう利用法を妨害するという動機があることになる。なぜ妨害したがるかといえば、私たちが何らかの作品に費やすことができる時間が最大でρ時間であるとき、著作権の存在しない作品を楽しむ時間μが増大すれば、連動して著作権の存在する作品が消費されるだろう時間 ρ−μ、すなわち購入される可能性が減少するから 。

これは、自らの利益のために創作者と利用者の両方の利益を犠牲にする戦略だ。追加延長保護を主張する人たちがそういうことを意図しているかどうかは別としてね。意図して主張しているのなら「なかなか目端が利いているな」と思うところだが、もしかするとワケもわからず、ただ「保護期間延長! 延長!」と言っているだけではないかと あやしんだりもする。

さらに、先に述べた「著作権が存在しなければ可能となっただろう利用法」とは何か。「廉価版が出て消費者ハッピー」なんていう単純なものではない。というか、98%の作品については、もはや購入者が集団として存在しないわけだから、廉価版が出ることは期待できないし、仮に出たとしてもその影響は微々たるもの。より大きな問題は、情報技術によって現実的になってきた、マス・アーカイヴ mass archive の実現という目標だ。

マス・アーカイヴというのは、要するに記録できるものは何でも記録して、効率的に検索して活用できるようにしようというもの。どんなに利用者が少なくなったとしても、売り物にならなくなったとしても、創作者達の血と汗と涙の結晶であるところの作品には高い文化的価値がある。100年間忘れられていた作品が、ある一人の研究者にとってはダイヤモンドにも代えがたい価値があることもある。というか、研究者が「大事、大事」と思うような書籍というものはたいていそんな感じ。

であるから、国立国会図書館のようにどんな刊行物でも分け隔てなく、たとえそれがエロ本だろうと全部集めて保存しておくというのは、とても大事な仕事だ。ただ、それが今まで収蔵と保存を中心としていたので、活用が難しかった。国立国会図書館での閲覧と複写の手間と制限については、研究者ならみんな知っているはず。

情報技術がアーカイブを変えつつある。でも、収蔵と保存の場面において、それらをスキャナ等を用いてデジタル化するとき、そうしてデジタル化されたデータを利用するとき、ネットワークで提供するとき、いちいち著作権法を気にしなくてはならない。「気にしなくてもいい」とは言いたくないが、次のような話を知れば、みなさんも「なんかヘンだぞ」と思うにちがいない。

国立国会図書館のスンバラシイ仕事の一つとして、「近代デジタルライブラリー」がある。日本の明治期の貴重な和書をデジタル化して公開している。こういう作業こそ「日本がやらずに誰がやる」という仕事だ。実に偉い。で、ここからリンクされている「著作者情報公開調査」のページを見てほしい。国立国会図書館は国の機関だから、法律に違反することは絶対にできない。というわけで、明治時代に刊行された図書をデジタル・アーカイブにするときに、最大の配慮と安全策をとった。

万が一にでも著作権を侵害するわけにはいかないので、すべての文献の著作者について、可能な限り著作者の没年を確認し著作権の存続期間を確定し、遺族を訪ね許諾をいただき、それでもわからないものについては公開調査を行うという徹底したものだ。こうした「徹底した手段を講じました」というのは美談だとは思うが、よくよく考えてみると、それに費やした職員やら手間やヒマやら考えると、そこにかかった費用でよりたくさんの文献を収蔵したり、さらには大正期、昭和期の文献、いやGoogle Printのように あらゆる文献を収蔵し、ネットワークで提供できるようにしたほうが、文化的遺産である過去の作品の活用がすすみ、それらを基礎としてさらに創作が活性化することが期待できる。こうした活性化の価値は、まさにプライスレス。

国立国会図書館では他にも、オンライン文献の収蔵についても検討しているが、ここでも著作権問題がネックになっている。私も委員として参加していたのだから、どの程度困っていたのかはよく知ってる。で、せめて国家的な計画としてのマス・アーカイヴのために、著作権を制限する特別立法くらいのことをしても良いのではと思うのだが、権利団体の皆様は基本的に反対なんですと [アメリカの例]。アーカイヴによって、時代の闇のなかに消えていく作品の文化的生命が延長されるというのにね。創作者本人としては、いま目の前にぶら下がっている100円程度のハシタ金よりも、自分の作品が100年後、200年後にも完全な形で保存されている方に、100年後、200年後にも利用してくれる人がいる方に価値を見出すと思うんですけど、違うんですか > プロ創作者の方。

さらに、もっといい方法がある。著作権法の保護を合理的に整備しなおすならば、国の機関ではなく民間事業としてマス・アーカイヴがおのずと整備されていくだろう。一般に民間企業のほうが国立機関よりも効率が良いのであれば、これは望ましい「知的財産戦略」だ。情報時代において、知的財産戦略を考えるとき、なぜ日本には、Googleに匹敵する情報企業が存在しないんだろう、なぜ日本にはWaybackMachineに匹敵するサービスが成長しないのだろう、と反省する方がマトモな考え方のはずだ。ヒントは、フェアユース。

古い流通機構の延命のために、追加延長保護を与えるのではなく、こうした新興サービスを日本国内で開発・展開しやすいような制度整備を進めるほうがスジなんではないだろうか。私個人としては、できれば日本企業がこうした政策的奨励によって世界の競争の舞台に立てるようになるといいなあ、と思う。そして、過去の知的財産が情報技術の助けによって活発に活用されるなかで、過去の忘れられた創作者の仕事にスポットがあたり、私たちの知識と文化がより深まり活性化するといいなあ、と思う。そうした文化的土壌の果実として、新しい創作が生み出されてくるんだろうな、と思う。

これが、

3. 我が国のコンテンツ創造サイクルの活性化と国際競争力の向上を図るべきである。

の本質的意味だ。であるから、追加延長保護を求める理由付け(1)(2)(3)と、保護期間をさらに20年間延長することは、両立しないどころか矛盾している。よって、著作権保護期間延長を批判するものである。

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告知

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あいかわらず、過激な内容になってごめんなさい。頭にキた人がいたらぜひ連絡ください。実名晒し・公開書簡でお返事させていただきたいと思います。「白田は電波だから言っていることを信用してはイケマセン」という人もいるかもしれないので、私以外の人で同じようなアプローチをしている人を紹介しておきたい。

文中でも紹介したけど、法学界の世界的パンク・スター、ローレンス・レッシグ先生のギグ

名前を挙げられるだけでも迷惑かも知れないけど、アゲさせていただきたくて仕方がない北海道大学法学部の田村善之先生の『機能的知的財産権法の理論』 (信山社)。

「法と経済学」の手法で知財について本格的に分析したもので、絶対に参照しなければいけないものとして、情報セキュリティ大学院大学の林 紘一郎先生の『著作権の法と経済学』 (勁草書房)。

国民の税金すら一円も使わずに、読者の愛と誠心のみで整備されつつある文学アーカイブである青空文庫。その活動の成果の一里塚であり、携わる人々について紹介する 野口英司さんの『インターネット図書館 青空文庫』 (はる書房)。

英語が読める人なら、私がインスパイアさせていただいた(w、Stephan Breyer アメリカ合衆国連邦最高裁判所判事のEric Eldred, et al Petitioners v. John D. Ashcroft事件での反対意見をぜひぜひ読んでみてください。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp