果てしなく長かった走り梅雨も終わりを告げ、ようやく晴ればっかりの天気になった、1989年6月4日、この日はレーサー班にとって大変重要なレースである「ツール・ド・ジャパン」の第一ステージであった。場所は昭和記念公園、全長約4kmのフラットなコースを何週もしてくれという大変恵まれたコースであったのだ。白田はジョイナスをやめてしまったので、ミーティングのことは知らなかったが、この日はCF会議と同日であったので、応援者は清水先輩、柴田先輩、みすずちゃんそして、「トライアスロンのコースとおんなじだしー、ひまだからなー、その上からだもやきたいしー」などと大変ふざけた動機で参加してきた白田であった。もちろん出場するのはレーサー班の誇る天才森原先輩、めんどうみの良さをもって評判の走る関西弁、林先輩、そしてレーサー班の期待の星そして初出場の走る貴公子、永島君なのである。何故白田が出場していないのかというとエントリーする金がなかったからであった。 この日はまるで馬鹿のようなドピーカンの日であって、360度どこを見回しても雲ひとつなかった。白田が前日の電話で指定されたように昭和記念公園にやってくると、ああいるわ、いるわこの日のために集まってきた自転車野郎たちが強烈な太陽の日差しの下でハデハデなウエアーを嬉しそうに着ているではないか!もうレースは始まっていて、白田はコースのすぐそばまでやってきて「うちの連中はいないのかな」と捜していた。するとすぐ前にいるおっちゃんが「なるしま」の親父だと気が付いた。いつもいつも元気な親父である。 その時まさに天の巡り合わせであろう。林先輩がいた。オレンジと黄色の縞模様に黒字で何か書いてあるこれまたハデなジャージである。 白田 「林先輩お早うございます。みんなどこにいますか?」 林 「おう、白田か。みんなこの向こうの表彰台の前あたりにおるわぁ」 白田 「永島はもう走ってるんでしょう?」 林 「うーん、もうすぐなんとちゃう?」 白田はしばらくそこにいて永島君がくるのをじっと待っていたが、どれが永島で、どれが沖の島なのか全く分からなかった。そこで残念ながら橋を渡ってコースの向う側へいった 昭和記念公園は大変だだっぴろい公園で東京内でも1,2位を争う規模であるらしい。遥か彼方まで続く芝生のなだらかな曲線や、良く手入れされた木々、その木の下にはヘビイチゴ(野いちごの一種)が小さな赤い実を付けると言ったような此の世の楽園のようなところなのだ。 表彰台のそばにいくとみすずちゃんがいた。なんでもままちゃりに魔法瓶を積んで応援にきたのだそうだ。彼女の心遣いには全く頭が下がる。 みすず 「白田くん元気だった?」 白田 「うん、大変元気だよ」 なんてことを言っているが、白田ほど太陽の下において元気な奴もいない。すぐさまタンクトップをぬいで上半身裸になってしまった。恐れ多くもレディの前でである。白田の倫理観にはなにか間違ったものがあるに違いない。 裸の大将がレースを良く見ようとコースに近付くと清水先輩と柴田先輩がいた。清水先輩はこのレースの後どっかの峠へいくつもりだとおっしゃっていた。まあ、とにかくレースに集中しよう。 柴田 「永島君結構いい位置に付けてたわよ」 清水 「大体24,5位ってとこかな」 ところがところがレースも3週目にはいると永島君がやってこないとみんなが言い出した「何々、これは大変」と白田もよく良く見てみたが、永島君はやってこない。そのうちレースは終わってしまった。 「こけたのでは」と言う予想通り、永島君は肘と膝にすりむききずをつくって前輪をパンクさせ、ディレーラーを壊してやってきた。 永島 「いやー、花壇ていうか、みぞっていうかそんなところにはさまっちゃって。」 と、にこにこしながら帰ってきたのでまずは一安心。 永島 「結構いい位置に付けてたんで、もうちょっと前に出ようとして無理してインに突っ込んだら、こけちゃった」「ちょっとこの自転車ひどいよねー この次の三宅島大丈夫かなー?」「すっごいざんねんだよー」 などといつも笑顔を絶やさない永島は偉い奴だ。この次は勝利だ! 表彰台の回りには、このレースのスポンサーであるパールイズミやママーパスタやクレメンやナントかというスポーツ飲料の店が並んでいて、結構お祭り気分を盛り上げているしかしレーサー班が一番大好きなドールバナナ(果物たべほうだい)がなかったのは残念であった。みすずちゃんが冷えた麦茶をもってきてくれた。振り向くと永島君やその他の先輩方もおいしそうに飲んでいる。みすずちゃんはたいへんやさしい子であるので偉い人だ。この次は勝利だ!(なんのこっちゃ) さて、そんなことをしているうちにも3年生の先輩方は、出番になってスタート地点に並んでいらっしゃる。さあ、スタートだ。何でも聞いたところによると清水先輩と森原先輩は、森原先輩が6位以内に入ったら清水先輩がフランス料理を奢る。入れなかったら、森原先輩がテキサスでみんなに御馳走するというカケをしていたのだ! 清水「もーりはらが6位以内に入ることってあるかなー」 白田及びその他のかたがた(口々に)「いいえ、森原先輩ならきっと入るに違いありません」「森原先輩って速いんですよー 」「可能性高いよなー」 清水「・・・・・・・・・・」 ところがところが林先輩もさることながら、絶対に速いはずの森原先輩がなかなか上位に入ってこない。これはいったいどうしたことなのだ?そのうちにもレースは進み、最終回に入ってきた。このレースには区間賞のようなものがあって、これを森原先輩は狙っているのではないかという噂が立った。(これは事実だった。)この時、場内アナウスが途中経過を報告してくれた。 場内アナウス「・・・・305番、森原選手4位・・・・・」 見物しているみんな「今、森原っていったよねー」「4位なんて凄いじゃない」「森原先輩はやってくれるよねー」 清水「・・・・(そ、そんな・・・)・・・・・・」 ところがところが、またまた大番狂わせで、どんどん上位選手がゴールしているのに森原先輩がやってこない。やっとゴールした頃には順位はかなり下のほうになっていた。どうしたのだろう、こけたのかな?と思っていたら、やはりこけていた。 森原氏の証言「最終周の4分の3の辺りで、クランクになっている橋があってねー、この付近てすっごく固まってきて危ないんだわ、この辺では接触事故がおきそうだなーって思っていたら、目の前の奴が右斜め前の奴と接触してこけたんだ。結構離れていたので(ああ、やばいなー)なんて思いながらも自分の回りは他の人がいるでしょ。仕方なく少し減速して突っ込んだんだよね。この間にバーっと追い抜かれてあっというまに 順位が下がっちゃった 」(この間嬉しそうにニコニコ) 森原氏の証言「すっごくざんねん。」(それでもやっぱりニコニコ) 後で結果が出て見ると29位であった。森原先輩は運が悪かった。この次は勝利だ!ところで林先輩はどうなったのであろうか?何だか良く分からなかったが、ゴールしていなかったような気がするな。と、思っていたら何だかきまり悪そうに帰ってきた。 林 「あかん、すっかりおそうなってしもうとるわ。いやー、車がおっかけてきてねーヘルメットカバーとられてしもうた」 (テレ笑いでニコニコ) ここでレースに詳しくない人のために説明を加えれば、ヘルメットカバーをとられるとは「失格」を意味する。車がおっかけてくるとは「あんたは周回遅れだから、そろそろひきあげたほうがいいんとちゃう?」ということなのだ。つまり、林先輩は完走できなかったのだ。残念!何とかしてこの次は勝利だ! ここでレースの結果についてまとめてみると何と!完走一人、事故者一人、失格者一人という惨嘆たるものであった。今までのレースの中で最も情け無い成績であったと言えよう。レーサー班の栄光の時代には幕が降りてしまったのか? しかしこのような危機的状況にあっても、レーサー班はくよくよしない。 清水 「森原、入賞しなかったからオマエのおごりだぞぉ」 白田 「何でもいいからメシ、メシ、メシ、」 森原 「おう、もーしょがねーからおごってやっかぁ」 清水 「おれ、スシくいてえ。菓子いらねぇ」 林 「清水さんスシ食べたいゆーとるけどどないする?テキサスやめる?」 白田 「何でもいいからメシ、メシ、メシ、」 永島 「自転車こわれちゃったよぉーどーしよー」(永島はメシのことはこだわらない) と、すぐさま食欲の人と化して元気良く立川のテキサスへと急ぐのであった。 P.S みすずちゃんと柴田さんはレディだから食べ物のことではとやかく言わないのであった。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |