De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

法律の重みについて II

白田 秀彰とロージナ茶会

さて、前回の記事のつづき。

判例主義と法律主義の違いが理由となって、英米法と大陸法では、法律のもつ重みが違う。英米法では、法律が「正しさ」に向かうための一般的なガイドラインに過ぎないのに対して、大陸法では、「正しさ」とは論理的に法律に合致していることに(ほとんど)等しい。そうすると、法律を作るときの気合の入り方・深刻さと、これを使う側である私たち下々の者たちの意識が変わってくる。

判例主義である英米法諸国において、法律が適当に作られているというつもりはまったくないけど、大陸法である日本とはかなり違った法・法律の運用がされている。

まず、判例法諸国では、法律は議会のみが作るけど、法は裁判所も作ってよいことになっている。だから、法律に規定がない事態が生じたとき、裁判所は、過去の事例を参照しながら、また、法律以外のさまざまな意見や学説を参考にしながら、目の前の問題を解決することになる。英米法諸国のほうが、たとえばインターネットの登場にともなう新しい社会問題に対応しやすいのは、この判例法システムをとっているところにある。これが大陸法諸国だと、法律に規定がないことについては、裁判所は判断してはならないのが原則になる。それゆえ、どうしても立法部の行動を待つという消極的姿勢にならざる得ない。加えて、法律の設計が決定的に重要であるため、立法部も慎重に慎重に法を作ることになる。だから、どうしても動きは遅くなる。

イギリスは「法の支配 rule of law」という言葉で示されるように、王様(行政部&立法部)が法のチェックに従っていたけど、17世紀末の名誉革命のときに議会(立法部)が一番エラい、ということにした。で、現在でもイギリス議会は、法律でどんなことでも決めてしまえる。それがどんなバカげた法律でも、司法部はそれを破ることができないということになってる。だいたい、最高司法機関が貴族院(議会)の一部として設置されているという仕組みが議会が一番エラいことを何よりも示している。怖いよねぇ。

でも、大丈夫。

伝統とか格式とかそういうものでイギリスを特徴付けてしまうのは安直だけど、イギリスの立法は、妥協 compromise と穏健さ moderation と常識 common sense を重視することを基本路線としている(ようにみえる)。それは具体的には、まとまった立法をするときには、かならず判例法を基礎にして、これを整理する形で立法することに現れる。十分に検証済みのコードを整理するのが大規模立法なわけ。ちょっとした立法をするときには、二つの方法がとられるように思う。一つは、バグ・フイックス。判例法が長い年月を経て発展した結果、ヘンな状態になってしまうことがある。で、このヘンになった部分を法律で修正する。もう一つはパッチ。一般的でない事態のときには、その事態に対処するための立法が行われる。基本的に検証済みの判例から法律を作るのだから、バカげた法律ができる危険は低い[*1]。間接的に「法の支配」は効いているわけ。

付け加えて、こうした全ての立法に、「だって、あたりまえじゃん」という常識が背景に存在する。たとえば、どこかのネット上の記事で「イギリスには街頭監視カメラがいっぱいある」「プライバシーの意識はどうなってるんだ」というような記事をみた。確認してないんで断言できないんだけど、推測するに「外を歩いてりゃ、誰もがその人のことを見るだろう」「なにかの間違いで逮捕されたとしても、法は自分を守ってくれるはず」という、彼らなりの「常識」が働いているのではないかと思われる。逆に、伝統的かつ常識的に私的空間である住宅への侵入 intrusion や監視 surveillance については絶対に譲らないのでなはいかな。この常識 common sense への信頼が判例法 common law の核心なんだろうな、と思う。

アメリカでは、イギリスでの「法の支配」の原則がそのまま残った。法もイギリスの法=コモン・ローをほとんどそのまま受け継いだ(ルイジアナ州はフランスから獲得したので大陸法系)。でも、イギリスと違って国が出来上がるときにガッチリと書かれた憲法を作った。一方、イギリスは現在も「これ」と書かれた憲法を持たない不文憲法の国だ。

アメリカは、もともと13のイギリス植民地だったのが、それぞれ実質的に独立国になったあと、まとまって連邦国家 united states になった。現在50の州がアメリカには存在するけど、それぞれ独立して州憲法、州の司法システム、そして独自に発展したコモン・ローを持ってる。イギリスのところで書いたように、コモン・ローは常識とか住民意識とかに大きく依存しているから、自分たちと常識を共有できないほど遠いところの人たちの決定に従うつもりはないわけだ[*2]。

さて、ここからが日本人にとって不可思議に思われるだろうこと。州は、独自の法と司法システムを備えているが、連邦全体で統括したほうがより望ましい事柄がある。たとえば、軍事とか外交とか通商とか。そこで、合衆国を構成 constitute するとき、連邦政府がどのような構造をとって、どのような仕事をするのかを決めた。これが連邦憲法 Constitution 。で、コモン・ローは共同体の常識を基礎にしていることから、コモン・ローに関する事項は州が権限を持つことになっている。また、連邦政府なんていうアヤしい連中に広範な権限を与えることは危険だと考えられたので、連邦政府の権限は、憲法に書かれた範囲に限定された。さらに、連邦政府が侵害してはならない、合衆国の国民としての基本的権利が権利章典 Bill of Rights として追加された。ここが大事。日本だと憲法というと「単に一番エラい法律」という一般的な理解があるけど、これは、「政府を拘束する最強の鎖」と考えるのが正しい。

たとえば、「アメリカでは知的財産権は憲法で保障されてます」とかいう噴飯ものの誤解があるようだ。確かに憲法には「著作権と特許に関する法律を制定する権限は連邦議会がもつ」という規定があるけど、それはそこに書いてあるとおり、連邦議会がそうした権限をもつことにする、という意味でしかない。すなわち、著作権と特許に関して、州議会は法律を制定してはならず、著作権法、特許法に関する裁判権は連邦裁判所に属する、ということだけ。合衆国憲法が知的財産権の至高性を保障しているわけではない。

Section 8. Powers of Congress

The Congress shall have the power ... 8. To promote the progress of science and useful arts, by securing for limited times to authors and inventors the exclusive right to their respective writings and discoveries:

第1条 8項 連邦議会の権限

連邦議会は、... 8. 著作者と発明者に対して、それぞれの著述と発明について、一定期間独占的権利を保障することで、学術と有用な技芸の進歩を奨励する ... 権限をもつ。

なぜだか、"The Congress shall have the power" の部分があまり言及されない。だからしばしば誤解される。憲法全体の流れから見れば、これが「知的財産権」を憲法的に保障したものだとは読めないはずだ。そもそも、「一定期間の排他的権利 limited times .... exclusive right」とはっきり書いてあるし。

逆に、ネットでしばしば問題となる言論・表現の自由については、権利章典の第一条 (合衆国憲法修正第一条)に「言論とプレスの自由 freedom of speech, or of the press」としてはっきり書かれている。で、これも日本国憲法流に「言論・表現の自由があります」と書かれているわけではない。「連邦議会は、... 言論およびプレスの自由を制限する ... 法律を制定することができない」という書き方になっている。これはすごく大事なことだ。日本は明治時代に天皇から憲法を「賜った」という形で制定されたので、現在でも言論・表現の自由が憲法の規定を待って初めて与えられたみたいに考える風があるけど、アメリカの考え方では、それはオカシイ。「俺らが勝手に喋ることが自由だなんてあたりまえに決まってる」わけ。もし仮に連邦政府がなんかの法律でその自由を制限するようなことをすると、憲法で「連邦政府にそうした権限がない」と書かれているのにやったわけだから、越権行為ゆえ無効=憲法違反になるわけだ。一方、憲法が拘束しているのは連邦政府だから、経済的・社会的その他モロモロの連邦政府の行為と関係ない事情で、ある個人の言論・表現の自由が実質的に制限されていたとしても、憲法はそれについては関与しない。

日本の現行憲法を書き換えましょう、という意見が出てきているようだけど、みなさんは、このあたりに注意して提案内容をよくよく見ましょう。もちろん、アメリカの理屈に従わなければいけないわけではないけど、参考にはなるだろう。

脱線してしまった。

話を元に戻すと、イギリスでは「法の支配」の原則を、制度的には議会主権すなわち議会が一番エライ原則で置き換えたけど、アメリカでは法がエライの原則が残存している。さらに、アメリカでの法は多分に自然権思想と結合しており、「人間は自然的な自由・権利を持ってるに決まってる」という感覚が強い。で、これを保障してくれるのは周りの人々、すなわちコミュニティの一般意識 common sense であると考えている。だから、遠いところの組織ほど、その権限の正当性を疑ってかかるし、それらの権限が法に根拠を持つものであるのかにこだわる。とくに、憲法に代表されるように、個人の権利・自由を侵害しかねないような組織を創設・拘束する法律については、それはそれは厳格に解釈・適用しようとする。

日本では、中央政府から役人がきてアレコレ指示を出したりすると「ヘヘーッ」とひれ伏してしまう。また、役人が個人に対してアレコレ指示を出すと、「ハハーッ」と言うことを聞いてしまう。権威主義だ。その役人がそんなことをする権限をもつのかについてほとんど疑問をもたない。むしろ、「自分はこういうことをしていいのか」といつもビクビクしてエラそうな人のお墨付きを欲しがってる。

一方、アメリカの場合は、「個人が自由である」というところを基礎として、社会を構成する目的のために、政府やら役人やらに個人の自由や権利を制限する権限を法によって与えてやっている、と考える。個人主義だ。だから、政府やら役人やらがアレコレ指示してきたときに、常に「あんたら何の根拠でそういうことする権限があるわけ?」というところが問われる。これが個人のレベルから、州と連邦、連邦政府の各機関相互の関係まで広がっている。で、その権限が存在するのか、権限の行使の結果が適正なのであるかを判断するのが司法である、と考えている。アメリカの判例集をみると、個人が州や連邦を相手に起こした裁判がゴマンとある。

(a)自由であったはずなんだが社会を構成したことで政府の支配に服する個人と、(b)社会が構成されたことによって 個人を支配する権限を法律に基づいて与えられた政府 との緊張関係の間に立って、(c)裁判所はまさに審判 judge であるから、その権限は強い。その究極の力が違憲立法審査権だ。議会が作った法律が憲法の規定に違反していると考えられる場合、法律が合憲か否かを判断してもらうことができる。でも、三権分立の原則があるから、いちいち議会の法律を裁判所が判断するのも問題だ。裁判所が法律の適否を決定するのでは、何のために議会があるのかわからないことになってしまう。

ドイツのように憲法裁判所があれば、その法律それ自体として合憲か否かを判断してもらうことができる。でも、日本やアメリカでは、具体的な事件の裁判に付随して、通常の裁判所が、法律の合憲性を判断するということになってる。だから原則的には、まず誰かの利益が法律の効果として侵害されて、それを裁判所が救済する過程でその法律の合憲性が判断されることになる。ところが、おなじ原則で違憲立法審査をやってる日本とアメリカでは、実際には大きく異なった運用がされている。

日本の裁判所では、できる限り憲法判断を避けようとする。先にふれた三権分立の原則を尊重して、裁判所は立法に出しゃばってはいけない、と考えている。だから、損害の救済を申し立てて裁判を起こす側も、ヘタに憲法上の論点なんか掲げたりすると、裁判そのものを拒絶されかねないので、よほどのことがなければ、憲法上の論点なんか掲げたりしない。このため、法律の合憲性を争うような裁判はとても稀だ。一方、アメリカの裁判所では、憲法にかかわる判断をかなり積極的にやっているように思う。日本では、「ある損害が法律の違憲性から生じているか否か」をものすごく厳密に検討するのに対して、アメリカではかなり緩やかに把握しているみたいだ。私の専門としている情報法分野では、かなりの論点が憲法にかかわってしまうので、そのように見えるだけかもしれないけど。

少なくとも私の見ている領域の問題について、アメリカの人たちが「議会がヘンな法律を作っても、裁判所がなんとかしてくれる」と考えていることは間違いない。逆に、司法部が(日本に比べれば)積極的に司法審査をしているので、アメリカの議員さんたちは、日本の法律関係者がみると「マジ?」と思うようなトンデモ法案を議会に提出してくる。

でも、いいんです。

一連の連載のどこかでも書いたように、自分の利益に正当な理由があると信じるならば、それを主張することはまったく構わない。テロリズムへの恐怖を取り除くために必要だと考えれば、ちょっとヤバい手段をとることを「主張」することは構わない。で、もちろん、そういう「主張」に反対の人たちもいるわけで、正々堂々と議会で舌戦を繰り広げればいいのです。大抵の国で、そして日本においても、議会内での発言について責任を問わない原則とか、議員の不逮捕特権とかあるけど、それらは、死闘のリングであるところの議会で、思う存分舌戦を繰り広げてもらいたいという考えから出ているわけ[*3]。

...また話がズレたけど、アメリカでは、違憲立法審査があるという安心感から、(1) 議会ではいろいろと革新的な法案が提出できる、(2) 仮にマズい法律が通ってしまっても、裁判所でそのマズい法律を停止してしまえる、という仕組みが機能している。だから、アメリカで法律になってるからといって、それをすぐそのまま日本に持ってくるようなバカなことをしてはいけない。日本とアメリカでは法律の重みが違うんだ。「アメリカでも法律になってますから、わが国でもゼヒゼヒ」とか言っている人がいたら、すぐに眉にツバをつけたほうがいい。日本は独立国なんだから、自分たちの頭で最善の法律を考えなきゃいけない。

さらに、前回の記事で書いたようにアメリカは判例主義だ。そこでの裁判では、法律の条文だけではなく、幅広い「法」に関する見解、法学者およびその他の領域の学者の説が参考にされる。そうして確定した判決は「法」となり、法律解釈を明確にし、続く裁判を指導することになる。法律の運用にアメリカの法律家の与える影響が、日本のそれよりもはるかに大きいということがわかるだろう。アメリカで法律家の地位が高いのには、こうした理由がある。

もう一つ。アメリカの最高裁判所は、日本の最高裁判所に比較して、ものすごく政治的だという点も重要。日本の裁判所が政治からまったく無縁に法律の適用をしていると言い切れるかどうかは、微妙なところもある。でも、アメリカの裁判所は、はっきりと政権によってコントロールされる。とはいえ、政権が変わったら、最高裁裁判官たちがみんな入れ替わるというのでは、司法の独立性はゼロなわけで、そんなことはない。死亡や辞職などで最高裁判所の定員に空きが出たときに、大統領が(自分の政治的信念に近いと考える)次の裁判官を指名する。だから、長期政権であれば、徐々に裁判官を自分たちの政治的方向性に沿った人たちに入れ替えていくこともできる。こうしてみると、日本の最高裁裁判官たちが法律のエキスパートとして期待されているのに対して、アメリカの最高裁裁判官たちは、非常にゆっくりと変化していく政治的な面における common sense の体現者として機能しているといえる。

これらのアメリカの事情を理解すれば、言論表現の自由をめぐる一連の裁判や、知的財産権をめぐる一連の裁判で、レッシグ先生のような法学者の諸活動がなぜ重要視されているのかわかるよね。つまり、それらは「実際に効力があるから」。法律のエキスパートとして超然としている日本の最高裁裁判官たちと異なって、政治的な志向の強いアメリカの最高裁裁判官たちには世論の影響が期待できる。「法律で決まったら、もうお終い」の日本と異なり、アメリカには訴訟を通じて「法」を変えていくというセカンド・ステージが残されている。ここをぜひぜひ認識してもらいたい。

アメリカでは、市民活動とか訴訟活動を通じて、政治的要求を実現していこうという動きがあるから、日本でもそれが同じように通用すると思っている人が多いかもしれない。でも、そうしたやり方は、日本では基本的に「後の祭り」だと見るほうが妥当。日本において法学が政策に対して積極的な影響を与えうる領域は限られている。だから、レッシグ先生と同じような位置付けで誰か学者を立てたところで、レッシグ先生と同じほど働けるわけではない。日本では、その仕事は、ひとえに"あの"国会議員の皆様に頑張ってもらうしかないのですよ。

日本での法律はズッシリと重い。一度法律になったものを動かすには、その法律を別の法律で乗り越えるしか方法はない。だから、私たちの要求を実現する方法として、アメリカでの戦略をそのまま踏襲しているだけでは効果が薄い。日本ではアメリカ以上に法律を作る場で影響力を発揮しないとダメだということがわかるはず。そのために私たちに与えられている法律上の手段は「投票」しかない[*4]。投票にいこうよ。そして、少しでもマシな国会議員を議会に送り込めるように、私たちが何をできるのか、ネットワークはどうつかえるのか、もう少しだけ考えようよ。国家だって政治だってシステムだ。Good Hack がありうるんじゃないかな。

─────── * ───────

[1] イギリスに不可思議 funny な法律がないかというと、実はたくさんある。それらは昔々に作られた法律がそのまま残ったものだ。これまた面白いことなんだが、どうもイギリスの人たちは、長い間 問題なく動いてきたコードは、ヘンテコでも変える必要がない、と考えるようだ。

[2] 陪審制がとられている理由も、自分たちのまわりに住んでいる人たちの常識に照らして裁判を受けなければコワいという感覚があるから。その背景には、イギリスであれば、裁く側が大抵の場合 貴族あるいは準貴族で、裁かれる側が庶民であったとか、アメリカであれば、裁く側が大抵の場合 イギリス本国から派遣されてきた連中で、裁かれる側がアメリカ生まれの連中だったとか、そういう事情がある。裁く/ 裁かれるという関係に、常識の断絶があるから、たとえばある事件について、それがワザワザ処罰する程度の問題なのかを、自分の近所に住んでいる人たちの常識的判断ではかってもらわないと安心していられない。誰だって自分と対立している集団の法で裁かれたくないでしょ? だから、合衆国憲法では同じ身分集団による陪審は「権利」として掲げられている。一方、大陸法だと、法律は社会集団に対して 論理的に/中立に/一般的に 作成してある。だから、問題が法律の定義に合致すると、ただちに一連の法律が動作しはじめる。あるプログラムが動作し始めるとき、人々の判断に依存するのか、条件に合致したとき自動的に処理が進行していくのか、という違いといえるかな。

[3]よく社会科の教科書にでてくるけど、イギリス議会では本当に剣を抜いて斬りあいになったりした(らしい)ので、剣がとどかない距離に対立政党を分かつ「剣線」sword line という赤い線がいまだに議場に引かれている。

[4] デモとか抗議集会とかは、「祭り」でしかない。政治家も裁判官も「人間」としては、そうした「運動」の圧力を感じるかもしれないけど、制度の一部である「官」としては、そうした「運動」に拘束される理由がない。無視することができる。対して、法律は「官」を拘束する。法律を無視した「官」は処罰される。効くか効かないかわからない方法よりも、効くことがはっきりわかってる方法を採用すべきじゃないのかな。

だから、「デモに1万人来ましたぁ♪ 大成功ですぅ!」とか言って喜んでいるよりも、しっかりした実証データとか具体的な政策案とかを掲げて、議員たちにロビー活動をするほうがはるかに有意義だと思うんだ。

─────── * ───────

告知

─────── * ───────

夏休みまでにはもう少し時間があるけど、なんだか知的財産権に関しての仕事がいろいろとあって、プライバシーとかサイバー犯罪条約ネタの仕込みが進みません。夏休み明けになってしまうかも。期待してた人、ごめんなさい。

次回は、慣習に絡む話になる予定。だけど、法とうまく絡むかは不明。どんなテーマかと言えば、「ネットワークにおける足の引っ張り合い」について。基本的に日本は「出る杭を完膚なきまで叩いて潰す」国なんだけど、リアル世界とネットワーク世界で叩き具合が違うような印象がある。そこで読者の皆さんの意見を伺いたいと思いますです。(1) リアルとネットワークでの叩き具合の差のあるなし、程度に関する見解、(2) 自分が体験した叩きの現場、(3) 私が他人を叩いて潰すとき などなど思うところを 毎度おなじみ shirata1992@mercury.ne.jp に投稿してください。よろしく、よろしく。

─────── * ───────

Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp