De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

法律とプログラミング

白田 秀彰とロージナ茶会

すでに完了した企画であるised@Glocomにて、私は「情報時代の保守主義と法律家の役割」 と題して、新しい社会に対応した秩序構築について述べた。その内容は、この連載での第17回から第19回までの「ラジカルな保守という態度について」でも繰り返している。とくにそのパートIIIが該当する。そのなかで、アーキテクチャを支配するプログラマと、法を支配する法律家の話をして、これからの情報時代においては、アーキテクチャと法の両方を組み合わせながら秩序を維持することになるだろう、ってなことを書いた。要するに、「東浩紀氏のいう環境管理型権力止む無し。でも、なんとかマシな権力構造にしようよ!」という結論となる。

私は、茶会でのヨタ話のなかでは、その新しい統治の姿についていろいろと妄想を膨らませて喋りまくっていたのだけれど、文書として整理したことはなかった。だから、ここらでその妄想について語らせていただこうと思う。立法論→政策論→妄想と進むとあとは狂人に近づいてくるわけで、なんだか不安になります...

さて、我らが日本国は「IT立国」になるんだそうだ。で、「電子政府」をやるんだそうだ。映画『THE MAXTRIX』や『攻殻機動隊』(なぜか一発変換)等のSFで展開されているようなサイバーでイカした政府になるんだろうな、とワクワクする気持ちが押さえられない。で、その進展具合については、きっとどこかに報告書とか出てるんだろうと思う。えーっと、Googleって... あ、ここ「電子政府の総合窓口」にあるはず。うわあ、ゴメン... ちょっと読む気がうせた。

電子政府の掛け声とともに、役所にたくさんのコンピュータが導入されてネットワークがひかれた。かなりの量の公文書の公開もするようになったし、各種申請書類やら手続に必要な資料をダウンロードさせてくれるようになった。「ワンストップ・サービス」等というように、民間のマネをしてそれなりには便利な窓口を整備してくれた。うん、それだけでも我々の税金を投入する価値があったのかもしれない。

でも、それらの電子化の基本的な手法は、それまで存在していた縦割り行政の仕事の流れをそのままに、コンピュータで置き換えようとするものだった。だから、各省庁各役所で同じような機能をもった別々のシステムが互換性なく作られていった。もともと、日本の役所には、文書管理についての統一的な規定があったわけでもなく、それぞれの現場で自生的に運用ルールを作りだし継承してきた。その証拠に、私が知ってるいくつかの市の住民票交付申請用紙の書式も、交付される住民票の写しも、みんな様式が違う。そんなバラバラの様式に*あわせた*システム作りをするから、役所ごとに業者に発注してカスタム・メイドのソフトウェアを作らせるほかなかった。もしかすると、これが雇用創出策になっていたのかもしれないね。

電子政府への第一歩は、すべての役所の業務フローの定型化と、一貫したデザイン・ポリシーをもった書式・様式の整備だと思う。あの醜悪な公文書やら報告書やらをリ・デザイン (再設計)するほうが先。たとえば、別にこれが特に酷いというわけではないけど、この資料の3ページ以降にある「謎・模式図」は役人の文書にしばしば見られる。もちろん、この手の図が欧米の資料に無いわけではないけど、欧米の資料の図は至ってシンプルで、せいぜい四角や楕円と矢印の簡単な組み合わせ程度でしかない。というか、その程度にまでシンプル化しないと図として役に立たないはず。「見ればわかる」というところにその図の存在意義があるはずだから。ところが、先の例のように、役所へのコンピュータの導入によって、「コンピュータ」や「電話を握ってるお兄さん」の絵が緻密になって、「矢印」に立体的な影がついたり、模式図がやたらと複雑になった。どうもこれが役所的情報化のようだ。

話がズレた。役所は、まず複雑バラバラな書式や様式を整理し、絵画的意味においてやたらと複雑な「謎・模式図」に時間を掛けるようなムダを省くこと。そうすれば、わざわざ高額な費用を払ってカスタム・ソフトウェアを発注する必要もなく、市販の業務パッケージの簡単な手直しで所内の事務の合理化に対応できるのではないだろうか。そのほうが、民間の業務手順と役所の業務手順が揃って、利用者にも使いやすくなったりしないだろうか。

さて、一般的な役所における情報化の「ズレてる感じ」について述べたあとは、もっと専門的な法律におけるプログラミングやコンピュータ導入の意味について考えてみたい。

役所的意味における最悪の文章の代表例が法律文であることは、古今東西しばしば指摘されるところだ。だいたい、どこの国の法律文でも、その国の言葉で書かれているはずなのに、かなりのトレーニングを積まなければ *正しく* 読んだり書いたりできないというのは、かなり不思議なことだ。私たち国民は、その「謎・文書」に従って生きていかなければならないんだよ。法律の勉強をはじめた人は、たいてい「書いてあるとおりに読んではいけない」という事実に愕然とするだろうけど、何年も勉強しているうちにだんだんと気にならなくなる。一種の洗脳だろうと思う。「書いてあるとおりに読んではいけない」なんてウソだ!と思う人は、とりあえず憲法でも読んでみてください。

とはいえ、法律文が多数の謎を秘めていることには理由がある。私たちが通常使用している言語は日常言語とよばれる。実は、日常言語が相当程度曖昧であり、その意味が状況や文脈に依存しており、場合によっては辞書的定義とは逆の意味で用いられたりすることは、言語学ではあたりまえの認識になっている。すなわち、文言の機械的解釈では、まったくコミュニケーションの役にたたないことが明らかになっている。ところが、法律学では、書かれた法律の条文や、当事者がやり取りした言葉や、契約に用いられた言葉の厳密な、ある意味で定型的すなわち機械的な解釈によって判断することになっている。ということは、法律文が日常言語で書かれてはいけないことになる。

そこで、法律文は、法律文であることが読者に明確にわかるような独特の(エラソーな)文体や言い回しを多用し、独特の用語定義に基づいて書かれる。外延が明確でなく、さらに含まれる概念が刻々と変化する日常言語の意味空間と切り離された、可能な限り明確かつ固定化された概念を要素とする閉じた意味空間としての法律言語が現れることになる。だから、法律文は、日本語のようでありながら、日本語とは違う言葉になっているわけだ。こうした法律文の厳密性と固定性[*1]を前提とするならば、法律文は人工言語だといえる。もちろん、言語ってのは人が作り出したものにちがいないけど、自然に任せて自生的に発展する自然言語とは区別されうる、人為的設計のもとにある言語だということだ。

[1] 判例や学説によって法律の意味空間は変更されていくわけだけど、その手続は慎重であり、かつ変化の速度は遅い。

以前にどこかで書いたように、19世紀のドイツ法学界は、この法律の人工言語化を力強く推進した。プロテスタント的禁欲さと、ライカやらベンツやらを作った厳密さで法律言語の人工言語化を推進したので、ガッチリと出来上がった。これがパンデクテン法学というもの。で、イェーリング (Rudolph von Jhering) という学者は、この浮世離れした仮想的意味世界のことを揶揄して「概念の計算」と言った。誉めたんじゃなくて揶揄したってところが大事。

もちろん、19世紀ドイツ的意味で法律を数学に比するような厳密な論理学として把握するようなガチガチの法実証主義の学者は、もういないと思う。でも一応、大陸法の考え方では、法体系は論理的に無矛盾であることで正当性を維持することになっている。ので、法学の世界では、法律の現実世界への適切な適用を心がけながらも、論理的に整合的な解釈を求める解釈法学が主流になるわけだ。

論理学では、ある論理体系において矛盾があることが証明できれば、その体系全体が「偽」であることも同時に証明したことになる。すなわち正しくないわけ。でも、読者の皆さんもなんとなく気がついているように、ワンサカ(印刷物にすると壁一面の書架いっぱいの本くらい)存在する、現在有効な法律が全体として無矛盾なわけがない。というか、誰もそのチェックをしたことが無いはず。だから、きっと矛盾があるにちがいない。でも、矛盾が存在すると「偽」になるので、解釈によって一生懸命糊塗しつづけているというのが実態だろう。こういうことを書くと怒られるかな?

とはいえ、日常言語に比較すれば法律言語はより厳密であることは間違いない。そこで、早くも1970年代くらいから、人工知能言語とよばれたPrologやらLISPやらをつかって、法律の機械的処理をするような研究がポチポチ始まっていたらしい。「らしい」というのは、そのあたりについて、私はほとんど知らないから。その状況を知るようになったのは、私がカケダシの研究者となった。1990年代はじめのこと。そのころ、日本には人工知能によって推論のできるコンピュータを作ろうという大きな計画、すなわち第五世代コンピュータ計画があった。

たくさんの計画が進行していたんだろうけど、あるグループの自然言語解析やら人工知能分野の研究者達は、法解釈過程に注目した。自然言語のコンピュータ処理へ至る道筋として、厳密だ(ということになっている)法律言語のプログラムによる処理は可能ではないか... と考えたわけだ。この領域に関しての法律畑の第一人者は、明治学院大学の法哲学者 吉野一先生だ。たぶん、工学系の先生でやはり第一人者になりそうな方はいるのだろうけど、法律畑ではダントツで吉野先生だろう。

で、吉野先生がかつて(いまでも?)取り組んだ研究として「法律エキスパートシステム」がある。先生のWebページから引用させてもらおう。

法的知識情報は、法律、判例、学説の集積と共に膨大かつ複雑なものとなってきている。これに対し、法分野への科学的方法の応用は、他の分野に比べて、必ずしも進んでいないのが現状である。他方、人工知能研究の進展と共に、法はその格好の応用研究の分野となっている。知識に関する科学及び高額の方法を法の分野に導入し、法的知識の構造を解明し、法学の科学的方法の確立を図ることが可能となった。それとともに法学教育や法律実務に役立つ人工知能としての法律エキスパートシステムを開発する事が可能となった。

法律エキスパートシステムは、法律家の諸知識を塔載していて、相談示談が入力されると、法的推論を行い、現在の法体系の下でいかなる法的判断がなされるべきかを、出力してくれるようなシステムである。法律エキスパートシステムの可能性を現実化していき、法的知識の構造を解明する事が本研究の目的である。

[引用元]

で、私が知る限りでは先の「第五世代コンピュータ計画」と連動して、法的推論システム HELIC-II (ヘリック・ツー) なるものが作られた。で、これは動作したらしい。でも、問題点も浮き彫りになった。それは、法律言語の体系の背後では、やっぱり日常言語の体系がそれを支えており、ある事件への単純な法の適用ですら、膨大な日常的意味における「世界の理解」が必要不可欠であるという事実だった。というか、そんなこと法律畑の先生方はわかっていたのだろうけど、どこまで機械が法的判断のシミュレートができるかを実験してみたかったんだろうと思う。

このHELIC-IIは、法律知識のデータベースと判例データベースを参照しながら、与えられた法的問題の妥当な解釈を示す、というシステムだった。でも、カケダシの私でさえなんだかヘンな気がした。それは、先の「電子政府」の例に似ていると思う。すなわち、いろんな理由で複雑怪奇に錯綜している対象にいっさい手をつけることなく、その矛盾を含み錯綜した対象にコンピュータを対応させようという、ある意味で壮大で挑戦的な、でもたぶん本質的にはナンセンスな着想だ。

コンピュータは、単純なスイッチの莫大な集合体に過ぎない。だから、もしコンピュータに何かさせようというのなら、スイッチにでもできる程度に対象を*単純化*する作業を先にしておかなければいけない。そこで、たまたま私がカケダシの頃に出会った先生の話をしたい。その先生は、Robert A. Kowalskiという魔法使いっぽい風貌のイギリスの先生だった。その先生が1990年代初めの学会で紹介した、Prologを使った学生寮の規則の単純化の例がとても印象に残っている。私が覚えている限りではこうだ。

(1) 古くから続く学生寮には複雑な規則集がある。たくさんの条件分岐や例外規則が含まれていてとてもわかりにくい。

(2) そこで、その複雑な規則集をPrologのホーン節(真偽判定のみが記述された単純な文)に置き換えて表現する。

(3) 実行させれば、当然のように矛盾が存在するのでエラーが出る。

(4) Prolog化された規則集をデバッグし、さらに実行が効率的になるようにソース・コードの整理を進める。

(5) Prolog的観点からみてキレイに整理された規則集を、Prologのソース・コードから再び自然言語に翻訳しなおす。

(6) すっきりキレイにわかりやすくなった規則集のできあがり。

とても、素晴らしい。このKowalski先生の手法の素晴らしいところは、人間が、複雑な一般常識やら暗黙知を駆使することでツジツマを合わせて解釈している法律を、とてもバカなコンピュータに処理できる程度に単純化する作業をすることで、論理学的にスッキリとしたプログラムとして表現させ、それをさらに人間の読める自然言語としての法律に反映させているところ。法的問題の法律への当てはめや、法律解釈の現実への応用については、人間の英知や判断に任せてしまい、論理的に矛盾があってはならないはずの法律の*推論*の部分についてはスイッチの集合体にでも実行可能なくらい単純にするという、人間と機械の役割分担が実現しているわけだ。

法律はわかりやすくなくてはいけない。矛盾があってはいけない。機械が処理できないほど複雑で矛盾のある法律そのものが問題だと考えるのがスジなのではないかと思ったりする。

まず、自然言語で書かれている法律文では、「あるいは」「また」「もしくは」の使い分けとか、その係り方とか、法律言語としての独特なルールがある。「また」が、or なのか and なのか and/or なのかよくわからなかったり、ある条件文が、続く文のどの部分までにかかっているかが解釈上の議論のポイントになったりする。こうした曖昧な自然言語文を、それまでの法律運営すなわち判例体系と整合的に理解するために、法解釈学があるわけだ。でも、そこで論争や議論があるのなら、はっきりと書いてしまったほうがいいはず。曖昧な法律文は、本来許されないものだから。そこで、法律や規則をいったんすべてProlog等の論理プログラミング言語に置きなおしてしまう。すると、まず法律文がどういう論理で書かれているかがハッキリ明確になる。論理プログラミングでは、原理的に曖昧に書くことができないから。

法律がプログラムになると、それを実行してみれば、どことどこの文が矛盾しているのかが、たちどころにバグとして報告されることになる。これで法律を改正すべき点が明確になる。法律の条文で重複しているところや、すでに意味を失っている条文も簡単に探し出すことができる。こうして、現在の複雑な法律を、機械でも処理できるほど単純なものに改良していく作業こそが、正しいコンピュータの法律への応用なのではないか。繰り返しになるけど、それでコンピュータに法律判断をさせようというのではない。裁判において拘束力のある法律の正文は自然言語バージョンであり、その解釈・適用は、専門能力をもった人間が行うべきだ。これらの手法は、コンピュータを法律の開発環境&コンパイラとして使おうという提案だといえば、プログラマの人たちには理解が早いだろう。

さらに、以前から考えていることがある。法律の規定には「懲役χ年以下」とか、「罰金χ万円以下」とか数字を含むものがある。これらの数字は、社会の状況に応じて改正されていく。この数字の妥当性が法律の改正において議論になったりするわけなんだけど、これをたとえば 懲役「犯罪実行時の日本人の平均寿命のχ%」年以下とか、罰金「被告人の昨年度の年収のχ%」円以下とかいったように変数として記述することはダメなんだろうか。しばしば言われるところなんだけど、ある金額の罰金刑のインパクトは、富豪と貧乏人では違う。もちろん、裁判では被告人の経済状態を考慮して刑量を決めるのだけど、現在のシステムでは、富豪はたいていの罰金刑に対してほとんどインパクトを感じないだろう。でも、そうした富豪に合わせて罰金刑の上限をドンドン上げていくと、貧乏人に対する刑量の均衡が失われる欠点があるかもしれない。

法律をプログラムとして記述できれば、さらにいいことがある。法律の改廃は、とても頻繁かつ複雑で、毎年のように改正される商法や税法等の現行法へのパッチ当ては、とても大変だ。でも、もしそれがソース・コードのように記述されていれば、バージョン管理システム CVS (Concurrent Versions System) で履歴管理することができる。Windowsでは、5000万行以上とも言われるような大規模なソフトウェアの開発において、膨大な数のプログラマがシステムの開発・デバッグに携わるわけだけど、とりあえず問題なく動作する程度までは、整合性が維持されている(はずだよね)。だから、現在のように法律の数と改廃作業が膨大になっている状況において、CVSのようなシステムを使わない理由が私にはわからない。もしかすると、内閣法制局ではそういったシステムを使っているのかもしれないね。

こうして作られた、プログラム版「日本法律体系」は、当然オープン・ソースとして公開されることになる。だって、「法律の公開」は近代国家の原則だから。すると、現在のオープン・ソース・ソフトウェア開発のように、プログラムを読める人ならだれでも、法律の動作についてコメントをつけ、議論し、改良の提案ができるようになるだろう。Linuxの開発に使われたオープン・ソース的なコミュニティ運営手法が、そのまま応用できる。もちろん、実際の正式バージョンとしての「法律」がバージョンアップされるときには、権威をもつ管理主体である政府が正式版として公表するものとしても、ソースのどこを具体的にどのように書き換えるべきかの議論は、国民すべてが参加して検討すべき事項のはずだ。

こういうことを書くと、「すべての人間がプログラムを読めるようにはならない」という脊髄反射的批判がくるわけだけど、何度でも反論しよう。200年ほど前までは、自国語を自由に読み書きできる人間は、ごく限られていた。でも、いま日本人のほとんどは日本語が自由に読み書きできる(はず)。やればできる。さらに、文科省は強制的に英語を日本の若者達に教え込んでいるわけだが、なかなか使い物にならないみたいだ。私が思うに、英語よりもプログラミング言語は簡単だ。だったら、国政に参与すべき国民の義務として、法律記述言語を学ばせてもいいはずだ。論理的思考の訓練としても有益だと思う。

もちろん、法律記述言語を身につける程度は人それぞれだろう。「できる人とできない人の差はどうなるのだ」とか難癖をつけたがる(悪)平等主義者がいるだろう。でも、司法試験という最も難しい試験にパスした「法曹」というエリート階級に法律解釈を全面的に委ねている現状からすれば、すべての国民に、日本国で動作している法律を「読める」ように教育するのは、とても平等指向であり民主的なことだと思う。

私は、上記が法律分野における本質的なコンピュータの貢献のあり方だと妄想する。明治時代の日本に近代国家システムが導入されたときに、政府の中枢を担ったのはヨーロッパ留学経験のある開明的な若者達だった。法律にプログラミングの技法が導入されるならば、「日本」というシステムの改良にプログラマたちの能力と勤勉さが大きく貢献できるだろう。日本が「IT立国」「電子政府」へと飛躍したいのなら、コンピュータとネットワークの技法と可能性をそのまま生かせるような、政府の機構改革あるいは革命が先だ、と私は思う。そうすれば、新しい統治が必要とするような道具や手法は、もう揃っている。

...けど、無理なんだろうな。だって、こういう妄想を語ると、茶会のメンバーですら「そんなのダメですよぉ」「プログラマ達にとって、法律なんて興味の対象ではないですよ」と私に憐れみの視線を投げかけたりする。でも、なぜ「ダメなのか」の理由はちゃんと聞いたことがない。読者のなかで私を説得してくれる人がいたら、ぜひお便りください。

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告知

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えー、突然ですが、次回でこの「インターネットの法と慣習」は最終回とさせていただきます。さすがにネタが切れてしまったことやら、いろいろとありまして。2003年の春から、ずいぶん長いこと、毎回長い文章を書きつづけてきたものだなぁ、と感慨ひとしおです。読者の皆さん、そして茶会のみなさんありがとうございました。

次回は、これまでの連載をふりかえって、まとめのようなものが出せればいいなぁ、と思っておりますが、どうなることやら。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp