De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

プライバシーに関する私論 I

白田 秀彰とロージナ茶会

企業や官庁からの個人情報の漏洩があるたびに、プライバシーが!!とか、個人情報保護が!!とか、500円!!とか、そういう話題がいっときマスコミを賑わせる。いちおう、情報法なんていう学問をやってる私は、そういうマスコミに言いたくなるときがある。

おい! お前ら、プライバシーと個人情報保護ってなんだかわかって言ってますか? それら二つの違いについてわかって記事書いてますか?

現在私の知る限りで、もっとも徹底的にプライバシーについて書いてある本は、新保史生『プライバシーの権利の生成と展開』という本。コピーライトに関する私の本(『コピーライトの史的展開』まだまだ大量在庫中!...たぶん...)もかなり粘着質に徹底して書こうとしたものだけど、新保先生の本もスゴイ。私の歳より若い学者さんは、コンピュータとデータベースのおかげで、かなり大部な本を書く傾向にあるらしいんだけど、これも分量すごいよ。プライバシーに関する百科事典的に使える。

だから、マスコミは新保先生の本をとりあえず買って読め! というか読まずに適当なことを書くな!と言いたい。さらに学生も、買わなくてもいいから図書館で借りて読め! ちょっと高価いから! と言いたい。とはいえ、先生の本は、プライバシー概念の前史から歴史的展開・理論的展開を英米法に沿って説明した上で、日本におけるプライバシー / 個人情報保護理論の整理と紹介、さらに欧州におけるプライバシー / 個人情報保護理論の整理と紹介、おまけにネットワーク時代におけるプライバシー / 個人情報保護のあり方についてまで論ずるという盛りだくさん具合。普通の生活をしている人が読み通すのはかなり困難でしょう。

この本は新保先生の博士論文として書かれたものであるため、プライバシーがどのように把握されて運用されているのかについて客観的・中立的に書こうとされていて、先生自身の考えについては、謙抑的に書かれている。だから、これから先、この本の内容を批判しても、私が先生を批判しているわけではないのだ(と予防線...)。 で、この本に書いてある個別のことについて何か言及しようというのではなく、この本に示されている「世界的潮流」を批判したいわけ。ひゃあ。すげえ。全世界の「常識」を敵に回そうというわけだから。「世界の中心で俺バンザイ!と叫ぶ」 みたいなもんだ。だから、こんな怖いことHotWiredでしか書けない。

では、まず世界的潮流について大雑把にまとめよう。細かいことは新保先生の本を読んでちょうだい。

19世紀末のアメリカで突然現れたプライバシーという概念。発端は、この当時爆発的に強力になった新聞というメディアの力が、個人の私的領域への暴力として機能するようになったため。古くからの「安寧な私的生活」をメディアや企業の力から防衛するために提唱されるようになった。提唱者である二人の法律家ウォーレンとブランダイスは、英米法の定石的論証方法として、イギリスやアメリカの古くからの判例を発掘する作業から開始した。すると、当然のことながら、私生活や私信(私的な手紙)やそうした私的な領域への他者による干渉を排除することがコモン・ロー上の正義だとするような判例がいくつも見つかる。彼らは、これらの判例が、コモン・ローにおいてプライバシーと呼ばれる権利が認められてきた証拠だとした。この段階では、プライバシーは「一人にしておいてもらう権利」という純然たる私権であり、人と人との紛争を解決する法理である不法行為領域の話として理解されていた。

ウォーレンとブランダイスは、「プライバシー」という枠組みを作り出すことに成功した。で、これが彼らが想定していた範囲に納まっていたなら良かったんだが、これから概念の暴走が始まる。私の著作権の歴史に関する研究でも「コピー」という言葉がもともと持っていた意味が転用に次ぐ転用によって拡大された様子が確認された。その結果、レッシグ先生が罵倒してやまない、変形してしまったコピーライト理論とその正当化にまで拡大したことを考えれば、「プライバシー」という言葉が転用に次ぐ転用によってとんでもない奇妙な状態に至ることはありえない話ではない。というか、この記事では、もうそうなってしまってるんだ、ということを指摘しようとしているわけ。

まず古典的なプライバシーがどんなものかを紹介。古典的なプライバシーとは、ごく限定的に、社会(public)に対する個人の私的領域(private)の保障のことを指していた。だから、光があれば影があるように、人間と社会が存在するところには、すべてプライバシーの問題があるということができる。そういう意味で、社会を形成して以来、潜在的にはずーっと、人間はプライバシーの問題と関わってきたわけだ。それは、おそらく欧米的な「私的領域」の概念が存在しなかったといわれるアジア圏においても同様だと思う。

19世紀の末に「プライバシー」という名前を与えられるまで、プライバシーに関する法は、個別の法として存在していた。(1) 自分の住居への理由のない侵入や捜査を排除する権利すなわち「住居の不可侵」、(2) 理由もなく逮捕されない権利すなわち「身体の自由」、 (3) 自らの意思に反して発言を強制されない権利すなわち「内心の自由」、そして、 (4) 自分の手紙や日記などを勝手に公表されない権利や、他人の作品に勝手に自分の名前を使われない権利としての「著作権」などのそれぞれの権利にもとづいて、いま「プライバシー」と呼ばれている諸利益が保護されてきた。また、(5) 私的な事柄を公表されたことで社会的な評判が低下した場合は、そうした事柄を公表した人を「名誉毀損」で訴えることもできた。だから、今でもプライバシーといわれる包括的な権利を、個別の権利に還元して考えることも十分にできる。その例としてイギリスの態度が挙げられる。

EUからの圧力で現在はどうなっているかは知らないけれど、少なくとも私が調べた範囲では、同じ英米法を採用しているイギリスにおいては、法的権利としてのプライバシーを認めていなかった。理由は、プライバシーとして主張されている個々の法的利益は、伝統的にさまざまな権利や法理によって保護されてきていて、それらの伝統的法で保護されている以上、プライバシーなる不確定な概念を採用し 法を安易に拡張することは望ましくない、とイギリスの法曹が考えたからだ。私もこの立場に近い。だから、プライバシーについては消極論者です。

20世紀のはじめころのアメリカの法廷も、プライバシーなる法的利益をなかなか認めようとはしなかった。が、いくつかの裁判においてプライバシーを認めるような判決が出た。それらは、現在では「肖像権」として知られる、個人の肖像を無断で商業利用することを禁ずる法的利益として認められた。だから、プライバシーは、現在では知的財産権の枠組みに入っているところからスタートしているわけだ。で、それから約50年。プライバシーを根拠にした財産的・精神的損害に対する救済はいくつも裁判所で認められてきたが、その中核であるプライバシーとは何なのかは、あまり明確にされなかった。いくつかの学説が、これを整理あるいは定義しようとした。でも、なんだか曖昧だった。それに乗じて、いろんな「プライバシー」の主張がされた。英米法においては、法文に基づかずとも、自らの法的利益を主張しうることが裏目にでたわけだ。

プライバシーの拡張は、公法的分野、すなわち政府と個人との関係にも展開する。個人が個人の私的領域に干渉することを禁ずる法理がプライバシーだとするならば、政府が個人の私的領域に干渉することもプライバシーだ、という類推が働いたわけ。で、合衆国憲法をみたら、まさにそうした規定があった。政府による身体、住居、書類および所有物に対する不合理な捜査・押収を禁ずる修正第四条と、自分に不利な自白を強制されないとする修正第五条。こちらでは、個人の手紙を政府が押収することの可否がプライバシーの議論と結びついた。だから、プライバシーは憲法上の問題とも関連があるということだ。でも、関連があるだけで必然的に憲法がプライバシーを承認していたわけではない。あくまでも憲法は、そこに書いてあるとおりであって、そこにはプライバシーの「プ」の字もないからだ。

でも、いつの間にやら憲法はプライバシーを保障しているのだ、という議論に結びついていく。何人かの法律家は、憲法の修正条項の解釈や組み合わせで、合衆国憲法はプライバシーを保障していると主張した。でね、その憲法的プライバシーを導かなければならなくなったのが、「女性が子供を生む生まないを決定する自己決定権」の問題なんだ。女性の身体、性的な問題、家族構成の問題は間違いなく私的領域には違いない。一方、アメリカには避妊・堕胎を一種の殺人として認識する人たちがいて、いくつかの州では避妊・堕胎を禁ずるような法律が成立していた。これが政府による私的な領域への干渉であるというわけ。だから、これもプライバシー。で、こうした考え方が拡張され、憲法の修正条項が政府に対して干渉を禁じている国民の自由領域は すなわち「憲法上のプライバシー」である、ということになった。これを「自律権としてのプライバシー」と呼ぶ。

アメリカのたくさんの法律家や学者がその理屈の通り方をチェックしてきたわけだから、ここまで説明してきた理屈ってのは通ってるんだと思う。でも、もともとのプライバシーの提唱から「思えば遠くに来たもんだ」という気がしませんか? (1)プライバシーという概念の存在を認めたこと、(2) それが曖昧さを含んでいて法的対話の中で発展させなければならなかったこと、が組み合わさって、「プライバシー」というマジック・ワードを足がかりにいろんな法的利益が「プライバシー」に放り込まれていってるように見える。賢明なるイギリスの法曹界が予期していたことは、まさにこの「概念の暴走」だったんだと思う。

さて、このようにプライバシーという概念は、英米法の中でもアメリカにのみ存在する特殊な考え方であったわけだが、これが憲法上の権利なんだ、という主張が現れてくるとアメリカの外へも拡張を開始する。なぜなら、プライバシーが私法分野における不法行為の問題であれば、それはアメリカ国内の法の問題であって、日本とか欧州は関係ない話なわけ。ところが、それが憲法上の問題であれば、「人類普遍の権利」と強く接近してくる。憲法はそれぞれの国民が作るものだから国ごとに違っていて当然なわけだが、憲法上の人権については、それが人類普遍の権利を承認したものという主張がなされ、それによって重要な人権の要素が(だれか悪い人たちに)意図的に排除されないようにした、という歴史的背景がある。ということは、「政府による個人の私的領域への干渉を禁ずる利益がプライバシーという概念として説明される」とアメリカで認められるようになったならば、基本的人権を承認しているすべての国において、同じ理屈が使えることになる。

でね、ある領域(A)に存在するある概念(α)が、その概念が存在しない領域(B)に伝播するときに発生するパターンがある。それは、α を受け取った B は、すでに B に存在する類似の概念との類推でそれを受容しようとする傾向だ。日本では、それを「好ましくない世間の目からの遮断 (世間体のわるい状況から体面を守る)」として把握したように思われる。だから、日本国憲法13条の「幸福追求権」を根拠とした。中国からの留学生でプライバシーを研究している知人の見解では、プライバシーは「生存権」に基礎をおく「自らを社会の干渉から隔離する権利」として把握すべきだという。中国の発想では、生存権がもっとも普遍的で、なによりも重要な価値だかららしい。大雑把ながら欧州(EU)では、「個人の私的領域の話? そんなの人格の問題に決まってるジャン!」という勢いで超憲法的な「人格権」の一領域としてプライバシーを把握したように思われる。

注意しなければならないのは、プライバシーというマジック・ワードが世界に広まってるにもかかわらず、米・英・日・欧 (ごめんね。何ヶ国もあるのにまとめちゃって) で、同じものを指してると考えるのは大混乱の元だということ。でね、マスコミとか普通の人たちは、アメリカや欧州の言ってる「プライバシー」と、日本人が想定している「プライバシー」がえらく違っていることに気がついてない場合がおおい。だから、それを理解するために、新保先生の本を読め! と言ってるわけ。

...というわけで、以下次号。

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... えー、調子が出てきたあたりですが、あと同じくらいの長さ続くのでここでいったん区切らせてもらいます。後半にも驚きの展開が! ...となってるといいんですけど。ところでこういう話って、読者の皆さんにとっておもしろいのかな。

最近、新聞を見てると「個人情報が漏れました♥ あはっ♪」というような、個人情報漏洩の記事が小さくでてるのに気が付く。最初のうちは「情報時代の生命線! 個人情報が漏れました! これは放射能漏れくらい危険なのです! 大問題なのです!」と騒いでいたマスコミの人たちも、あまり頻繁に個人情報漏れのニュースが続くと、だんだん扱いを小さくしてしまう。ニュースも商品だからオモシロイ記事じゃないと扱いを大きくできないからね。でね、個人情報保護法 (平成15年5月30日 公布&施行) のうちでも民間事業者に関係する第4章から第6章にかけては、平成17年5月つまり来年の5月には施行されることになってる。この施行の前に、駆け込み漏洩告白が増えているんじゃないか? 法律施行後にバレると具体的に法的責任が生じる。だから法律の施行前に、そして、みんながポチポチと告白しているスキに「じゃ、わが社も漏れてたことを告白しちゃえ♪」 とやってるんじゃないかと。だから今後もドンドコ「漏れてました」という告白&発覚が相次ぐと思う。

で、最初のうちは一件 1万円ちょいだった個人情報の評価も、某通信事業者の漏洩事件以来、一件500円という相場が定着しつつある。なんじゃそりゃ。そんな対処じゃ、漏洩した個人情報の件数のみが負担するコストを評価する基準になってしまう。そうじゃないだろ。

まず漏洩した原因を発見し、それに対する具体的かつ合理的な対処をすることが第一。そのときに、設備面からの対処をするのはもちろんのこと、「個人情報保護に関するコンプライアンス・プログラムの要求事項」なんかを参考にして、さらに徹底して運用上の対策してもらわなければ困る。これが個人情報の取り扱いに対する責任というものだろう。一方、漏洩した個人情報の本人に対して、漏洩した個人情報を理由として私的領域への具体的な侵害があった、という事例が報告されたなら、漏洩してしまった側は、応分の補償を負担すべきだと思う。これは、個人情報保護に対する責任とは別枠で考慮するべきなんじゃないかと考えてる。

なにかご意見があれば、ぜひぜひ聞かせてください。

それじゃ、また来月。

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp