De Legibus et consuetudinibus Interreticuli

そろそろ真面目に「法」について考えよう

白田 秀彰とロージナ茶会

えらく大仰なラテン語(正確には law French と呼ばれる宮廷で用いられたラテン交じりの古いフランス語)のタイトルをつけた連載をはじめてみることにしました。ちゃんと連載できるかどうかはちょっと不安なところがあるのですが。あと、タイトルのラテン語が間違ってないか不安です。間違ってたら次回からタイトルの訂正ということで。Inter-reticuli の reticuli は「網 net」を指すラテン語「reticulum」の単数属格のつもり。要するにインターネットのこと。

国王も騎士も所領争いに精を出し、修道士が神秘的なキリスト教を説いていた13世紀初のイングランド。法律家ブラクトン (Henry de Bracton) は、まともに整備されておらず曖昧だったイングランド法をなんとか記述しようとして、膨大な判例(事例)を含む『イングランドの法と慣習法 De Legibus et Consuetudinibus Angliae』を編纂した。この本がまとめられたことで、イングランドの法 (ここで用いている「法」という言葉の指すものとしては、「法と法則」 を参照してほしい) は、体系としての成長をはじめた。

インターネットにおける法について考えるとき、「ネットワーク」とか「サイバースペース」と言っても現実社会の一部なのだから、当然に現実社会の法が適用されるべきであると考えるのが普通。もし、サイバースペースには現実社会と違った法が適用されるのだ、なんていうことになったら、社会は混乱してしまうかもしれない。また、法律家なんかは、判断基準を失ってしまって、生じているさまざまな紛争を解決する手がかりを失ってしまうかもしれない。

その一方で、どこかで成立している法を、別の環境にそのまま持ってくることにも強い批判があったし、現在でもあるだろう。たとえば上記のイングランド法の時代にしても、すでにその当時 1000年以上の歴史をもっていたローマ法を基礎に成立したユス・コムーネ (jus commune)というものがあった。もちろん、ユス・コムーネはイングランドの法に影響を与えたけど、イングランドは自分たちの伝統を基礎にしたコモン・ロー (common law)をずっと守って、現在でも英米法という独特の法の領域を作っている。

溯ってすでに2世紀には、ローマ人法律家たちが現代と比較しても遜色のない精緻な法律論議をしていた。でも、ローマ市民法 (jus civile) は基本的にローマ市民に限定して適用され、他民族には適用されなかった。その理由は、文化が違うから。ローマの学者たちは、ローマ市民法がローマの伝統に根ざしているため、その伝統を共有しない他民族には使えないと考えた。で、別の伝統をもつ多民族には、理性と衡平を基本とした「万民法 (jus gentium)」と呼ばれる別の法を適用した。

19世紀のドイツでも、事実上通用していたローマ法に対して、ゲルマン民族のもともと持っていた法を探求・整理して法典に反映させようとした学派が勢力を持った時期もあった。19世紀末の明治日本でも、文化の違いを理由とした法の論争が起こってる。個人主義的志向の強いフランス民法典を基礎に作成された民法典が提案された。しかし、家父長制的な日本の伝統的家族制度に適合しないという激しい反対派の批判を浴びた。結局この民法典は施行されないままに、現在の民法につながる別の民法典に置き換えられた。

法は、それが適用される人々の共通合意や文化を背景にして正当性を保つ。ローマ帝国が滅んで、ラテン語が死語となってしまった後にもローマ法は命を保った。かつてローマ帝国を構成した民族ばかりではないヨーロッパにおいて、ローマ法は法律学の基礎として採用された。それは、ローマ法がさまざまな法的問題について妥当な解答を含んでいたからばかりではない。ローマ法の手続や考え方が、教会が用いる「教会法 (jus canonicum)」 に組み込まれたからという理由も大きい。すなわち、キリスト教の教義を「正しさの源泉」として承認するキリスト教文化圏があったからこそ、ローマ法はヨーロッパ法の基礎として正当性を保ちつづけられたんだ。

共通合意の例としては、「ローマ帝国の後継」という観念が興味深い。西ローマ帝国が亡びた後、直接の連続性が無いにもかかわらず、ゲルマン系民族の国々から構成される帝国は「神聖ローマ帝国」を標榜した。自分たちがローマ帝国の後継者であるという一種のフィクションのもと、ローマ法はドイツの諸国に浸透していった。

モンテスキューは『法の精神』のなかで、法が一般的に事物の本性から生じる必然的な諸関係であり、人間の法は理性の適用の結果としての経験的知識であるとしながらも、理性を適用すべき事物の本性が社会によって異なることを指摘した。彼は、個々の社会の気候、経済、伝統、風習、宗教などが法のあり方(法の精神)に影響しており、これらの違いを立法者が無視するの危険であるとしている。今は国家の時代だから、国家が法も共通合意も文化も規定することになってる。さらに今のアメリカは、グローバリズムの名の下、他の国の人々の共通合意や文化もお構いなしにアメリカ型の論理を押し付けてくるので、「帝国」とか呼ばれて嫌われたりしている。私はそんなに嫌いじゃないけど。

コンピュータ・ネットワークには、30年以上にわたって形成されてきた、独特の共通合意や文化があると私は思う。そしてレッシグ先生が『CODE』や『コモンズ』で繰り返し指摘したように、ネットワークでの"事物の本性"には、現実社会のそれと異なる部分が多分にある。私は、そうした共通合意や文化から導かれるネットワークに独特の規範やルールが、法的な拘束力を持つべきだと考えているわけではない。でも、誰かがまとめてみるのも悪くないと思うし、誰かがまとめないと、それらの規範やルールがいかに妥当で、衡平で、望ましいものであっても法的規範へと昇格することはありえない。

だから、せっかく Hotwired Japan というメディアを貸してもらったのを機会に、長く考えていた試みを実行してみようと思ったわけ。その試みとは、私と私の友人たちの集まりであるロージナ茶会とで、現実世界の法とネットワークにおける慣習についての議論のたたき台を出しながら、読者の皆さんから規範やルールの事例を募集しようというもの。

私が13世紀のイングランドの話を持ち出してきたのも、読者の皆さんに参加してもらいたいから。すでにインターネットには「帝国の法」がずいぶん浸透している。そして、それらはそんなに無茶な法だとは思わない。いや、それなりに合理的だと思う。でも、インターネットは、法的にまだ荒野だと言える部分をずいぶん含んでいる。そして、ネットワーク全体を掌握する絶対権力がない以上、そこは分散した権力のモザイクである中世的世界だ。もし、ネットワークに生息する「部族」である皆さんに「道理」があるなら、まだ声をあげても構わないと思うし、法は皆さんの共通合意と文化に親和的なものであるべきだと思う。法は、もう出来あがってるものでなくて、誰かが決めるものでもなくて、自分たちが発見して発展させていくものでもあるんだ、ということを皆さんにわかってもらいたい。それがこの連載企画がえらく古めかしい装いをとってる理由。

もちろん、私が自分自身を偉大なブラクトンに並び立つような法律家だと思ってるわけじゃない。たぶん、ブラクトンの前に100人(てきとーな推定)くらいの平凡な修道士やら哲学者あたりが自分の知る限りの法をチョコチョコとノートしてたりしたに違いない。そして、そうした人たちのバラバラの仕事を、その卓越した学識でまとめたあげたのがブラクトンなんだと思う。だから、私はそのチョコチョコとノートをつけ始めた一人になりたいと思う。もし、もっと偉い人がそうした仕事に本当に着手してくれるなら、連載を譲ってしまってもいい。

ただ、この連載が成功裏に終わって、ネットワークにおける共通合意や文化に基礎をおいた「法」らしきものが見えてきたとしても、それが拘束力を持つ法になることについては、残念ながら諦めてもらっていたほうがいい。ここでやろうとしていることは、法律学の世界で絶対の「禁じ手」である立法論、すなわち法律を作ったり改正したりしましょうという提案どころか、さらに立法論からも相手にされないような「法ですらない慣習」に関する法的な、あくまでも「的」な考察でしかないから。

さて、最初の事例検討として、皆さんご存知のファイル共有ソフトウェア Winny に関する事例を取り上げるつもり。私の聞いた話では、Winny は近々 Ver. 2になるらしい。そして、追加機能の目玉が「暗号化され分散化してネットワーク上に仮想的に構築される掲示板」らしい。これが仮に実現すると「2ちゃんねる」よりも徹底した匿名性を備えた言論空間を生み出すことになるという。Winnyが及ぼしている著作権への影響に関する議論は、また後の回で行うこととして、次回は「ネットワークにおける発言にまつわるルール」を検討してみたい。

読者の皆さんがネットワークにおいて経験した発言上のルールの中で「ネットワーク独特だなぁ」と思った事例があれば、shirata1992@mercury.ne.jp 宛てに投稿してほしい。可能であれば、そうした発言上のルールの存在を証明してくれるような文章や書き込みへのURLも示してもらえるとありがたい。私は、それほど倫理的に卓越した人物ではないので、生徒会っぽいルールについての事例よりもむしろ、ヤンキーの仲間内のルールのような事例のほうを歓迎する。

事例を挙げよう。聞いた話によると、WinMXでワレズ等をダウソするときのルールは、「1つウプしてから3つまでダウソ」ということらしい。(1) いつごろ、(2) 誰あたりがそういうことを言い出したのか。(3) そのルールの理由や根拠は? (4) その強制力は? すなわち、それが厳格に遵守されていたのか、それとも呼びかけはあるけど誰も守ってなかったか、というようなことを、皆さんの主観で構わないので教えてもらえると嬉しい。こんな感じだ。

Hotwired Japan を読んでいるような皆さんは、ネットワーク利用者としては、それなりに意識の高い人たちなんだろうと私は期待する。でも、そうした人たちは、えてして斜に構えることを一つのスタイルにしているように思う。ネットワークの自由であるとか、未来であるとか、そういうことについて十分考えるだけの能力を持っていながら、マジに語ることを小馬鹿にするような雰囲気があるんじゃないかと思う。それは、かっこいいかもしれないし、あらゆることから逃避することは、現代においては一つの「力」の表現であるのかもしれない。でも、このまま「帝国」の法がネットワークを支配するのを黙って見ていたら、インターネットは単なる商売の道具になってしまう。

そろそろ真面目に「法」を考えてもいい頃だ。

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告知

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この文章は、2003年5月20日にHotWired Japanに連載された記事の再掲です。連載当時は毎回ここに「告知」と題して、読者へのちょっとした連絡を書いていたのですが、その部分がなくなってしまいました。お持ちの方は連絡くださると助かります。(2008/4/11)

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Return 白田 秀彰 (Shirata Hideaki)
法政大学 社会学部 准教授
(Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences)
法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450)
e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp