>> なぜ、「言論の自由」が人類普遍の権利だと断言できるの?誰が決めたの。まぁ、 >> 私は個人的には言論の自由を支持して、そんなもののない所には行かないけど、 >> それは、私の勝手な思い込み。人類普遍の権利なんてものを振りかざして良か >> れと思って余計なお世話をする人が多すぎる。もちろん、ポルノ規制にしても >> 公共の福祉なんてものを振りかざしてるわけだ。 一つの司法管轄内においては、そこの最高司法機関が権利について断言し、決定できることになっているはずです。世界全体について司法管轄を持っている司法機関はありませんから、人類普遍の権利について断言できる機関も個人もありません。 しかし、そのようにして断言できないという点では、身体の自由の権利も同様に人類普遍の権利ということはできません。誰か他人がある人物の身体を支配し、場合によっては生命を奪ってもよいというのは、誰が考えても危険で恐ろしい考え方だと分かると思います。身体の自由は人類普遍の権利ではないのでしょうか?仮に身体の自由を人類に普遍的な権利だということができるならば、同じ意味で言論の自由も人類普遍の権利だということができるでしょう。こうした「直感的」レベルで「人類普遍の権利」ということがいわれているのだと思います。これらの自由に反対することは可能ですが、反対したところで、私達が幸せになれるかといえば、そうでないことはこれまた「直感的」に分かると思います。 さらに、言論の自由は、「内心・精神の自由」の外界への発露であり、ある人物の精神が誰のものでもなく、彼個人のものであるというところに根差しています。精神を支配することは宣伝・教育によって可能ですが、この自由まで支配することを正当とするならば、もはやいかなる自由をも制限することを正当化することができるでしょう。そうした精神の自由を比較的容易に制限して良いという考え方は、50 年ほど前までの日本や、ドイツや、イタリアなどのファシスト国家に限らず、世界のさまざまな地域において、見られますから、それほど奇妙なものでもないといえます。文化や国風というようなものも、もしかすると「精神操作」の結果なのかもしれません。 そうした観点からみれば、「言論の自由」は本質的に社会制度や文化と対立的な性質を持っています。「公共の福祉」が社会制度や文化と結び付いていることを考え、また、公共の福祉が個人の自由よりも優越すると考えるならば、言論の自由は甚だ「けしからん」自由だともいえるでしょう。 一方、「言論の自由」について、そうした「直感」や、「内心・精神の自由」とは別の正当化が可能です。それは、私達が「知らないことについては判断できない」という前提から導けます。たとえば組織全体がある考え方に従って、良くない結果をもたらす方向に動いている時に、それを指摘し、公にすることができなければ、もはや、組織は、その考え方について同意することも拒絶することもできません。そうした組織は、いずれ誤りに落ちこむことになります。 すなわち、良く機能し、長期的にみて誤りや破滅を避けることができる組織にするためには、あらゆる考え方が提示され、それが組織内部で公正に判断され選択される必要があるわけです。最初の「考え方の提示」、すなわち「言論の自由」さえ制限されているような組織では、こうした運営は望むことができないことは論を待たないでしょう。 アメリカの法では、こうした考え方を「思想の自由市場」という比喩によって支持しており(当然支持していない論者がいることもまた事実です)、それ故、「言論の自由」が「公共の福祉」に対してある程度の害悪をもたらすことを承知の上で、あらゆる言論に対して保護をあたえ、国全体がより大きな破滅に到らないように配慮しているのです。 この配慮が現在のところよい結果を生み出しているかどうかは、判断の割れるところだろうと思います。しかし、論理的に、「言論の自由」を支持することは長期的な組織の維持において必要条件であると言えますし、歴史的にみても、「言論の自由」が維持されなかった国家や組織はろくな結果に到らなかったといえるとおもいます。 アメリカの「言論の自由」が私達から見て過激にみえる背景には、以上のような考え方があると私は考えています。
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白田 秀彰 (Shirata Hideaki) 法政大学 社会学部 助教授 (Assistant Professor of Hosei Univ. Faculty of Social Sciences) 法政大学 多摩キャンパス 社会学部棟 917号室 (内線 2450) e-mail: shirata1992@mercury.ne.jp |